ゆめにっき

 部屋の中、一人でピアノを弾いていた。
 ぼんやりともやがかかったような意識の中、時間の概念すらろくにないまま、ただただピアノを弾いていた。
 勝手に動く指で、突き動かされるように何度も、同じ展開を繰り返す。
 おそらく私のものではないそのメロディを、人ごとのように聞いていた。
 曖昧な自我、曖昧な世界、夢現の狭間で音符を並べる。同じフレーズを執拗に繰り返す。そこには私とピアノしかいなかった。
 そんな世界にある時、一人の少女が現れた。
「先生……? どうしてここに」
 少女の声が聞こえた瞬間、途切れ途切れの映像が目の前に蘇る。
 夕暮れの音楽室、少女の後ろ姿、おさげを揺らして振り返る彼女が微笑む。
 誰の物ともつかないノイズまみれの映像。記憶の中で私を呼ぶ声。「先生」
 目の前の少女の声と記憶の中の声が一致する。
 私は「先生」なのか。
 自覚すると同時にぼんやりした意識が明確になり、視覚が、聴覚が、全ての感覚が一気に開けた。
 世界はクリアになった。
『こんにちは、窓付きさん』
 ごく自然に、私はそう返していた。
「私」がしっかりと定義されたのはそのときらしい。
 考えることはいくらでもあった。
 聞きたいこともたくさんあった。
 しかし、彼女に私の言葉は通じなかった。私がどんなに伝えようとしても、彼女はそれを言葉として認識できないようだった。

 彼女は私に色々な話をした。外の世界での出来事、夢の世界での出来事、私は自分に与えられた「何者かの記憶」を参照しながら話を聞いた。
「それで友達はこう言ったの……あなたのそういうところが好きだから、私はあなたを笑ったりしないって。
ありがとう、私もあなたが好きよって私は言ったの」
『仲がいいんですね』
「それから二人で帰ったの。道に咲いているタンポポの綿毛を吹きながら。先生はタンポポ、好き?」
『残念ながら、見たことがないのです』
「そう、私も好きよ。それでね……」
 噛み合わない話を続けて彼女が帰ったあと、私は話から得た情報を自分の情報と統合しながらピアノを弾いた。
 情報が修正されながら接続していく。作り出すメロディの中に新たな音がカチカチとはまる。答え合わせをしているようで、私はその作業が好きだった。



 「先生」は彼女の話にもよく登場した。その様子と私の持っている情報とを照らし合わせてみたのだが、それによると、どう考えても私は完全な「先生」ではないようだった。ここではないどこか外の世界に完全なオリジナルの「先生」がいるのだ。つまり私はオリジナルではない。
 外の世界の『先生』に関する彼女の、記憶が変質した存在。私はどうもそういうものらしかった。
 オリジナルの「先生」は背が高くてピアノをよく弾き、情緒的な人だったらしい。話の中でも彼はよく笑ったり悲しんだりしている。
 感情を表に出す人だったのだろう。
 彼女はオリジナルの「先生」を慕っており、「先生」の方でも彼女のことを気にかけていたようだ。
 模倣品である私にはまだ感情というものがはっきりわからない。自分の感じるぼんやりとしたエラーのようなものを曖昧にわだかまらせたまま、言葉にできない。
「先生はいつも私にピアノを弾いてくれたよね」
『そうなんですか』
「今日も私に曲を教えてくれた。最後まで弾いてはくれなかったけど。弾いている途中で突然音が止まって、先生は悲しそうな顔をした。私が表現できるのはここまでです、と言った先生の声は震えていたわ」
『……そうなんですか』
 ピアノで表現できないという事態を私は体験したことがない。相手に伝わるかどうかは別として、ピアノはいつも、私の感じているよくわからない感情を代弁してくれる物だった。
 これ以上は表現できない、と言った「先生」の気持ちが私にはわからないのだった。
 その話を聞いてから、私は彼女の前でピアノを弾かなくなった。



 自分とオリジナルの違いを認識できている点で、私は他の登場人物とは違うようだった。といっても、自ら確認したわけではなく、彼女の話からの推測でしかない。
 私はこの宇宙船から外に出られない。
 一度外に出ようと覗いてみたこともあるのだが、そこには何もない真っ暗な空間が広がっているだけだった。空間に手を伸ばすと、伸ばした分の腕の感覚が無くなる。実際に無くなっているのかどうか確認するために後ろに下がると、何もない空間から手がすっと引き出される。足でも試したが、同じことだった。
 彼女がいつも部屋の外から来ることから考えると、部屋の外は無ではなく、何らかの空間が確かにあるらしい。しかし、私には部屋の外が認識できず、また、私が部屋の外に存在するということもできないようだった。
 真実は正しく闇の中のため、これらの推測がどこまであっているのかは判断しかねる。彼女の話には時々、私に与えられている記憶と矛盾する点が散見された。
 所々、誤りのようなものがあったのだ。登場人物の態度、思惑、ときには行動そのものが誤っていた。私はそれに気づいていたが、何も言わなかった。言っても伝わらないし、指摘したところで何かが起こるとも思えなかったからだ。
 そのまま彼女が話を続けられたなら、それでもよかったかもしれない。

 ある日、誤りだらけの彼女の話が前の話と矛盾した。
 私が初めて彼女に刺されたのはこのときだ。
 話している内に矛盾に気づいた彼女は説明もなしに黙って私を刺したのだった。

 刺された私は瞬きを一つした。



 申し訳なさそうな顔をした彼女が目の前に立っている。
「先生、この前は刺しちゃってごめんね」
 「この前」? 言い間違いか? それとも彼女の時間認識が誤っている?
 違う。認識を誤っているのは私だ。
 窓の外に見える景色が違っている。一日、いや二日ほど経っているのか。私は推測した。
 刺された瞬間に私の存在は途切れ、再び彼女が訪れるまで消失していたのだろう。
 彼女はこの部屋にくれば必ず私がいると思いこんでいるようだ。
 強固な信じ込みが私を強引に再生させているのだろう。私はそう判断した。
「それでね、先生。この前の話の続きなんだけど……」
 彼女は前回出来てしまった矛盾点のところを改変して話を続けた。前の話が記憶に新しいので、私には相違点がはっきりとわかってしまう。
 彼女が嘘をつこうが矛盾した話をしようが私には関係ないのだが、いかんせん私は彼女の記憶からなる。彼女の話は私の構成要素に言及するものであり、私は興味を持たざるを得ない。
「あんたのそういうところ、おかしいよねって言って、友達が私を笑ったの」
 同じ話をしているはずなのに、好意的だった友達の態度が攻撃的なものへと変わっている。
 二つ目の矛盾をどう処理するのかと私は少し期待していたが、彼女はそれを処理しなかった。
 そして、彼女は再び私を刺した。

◆◆◆

 慣れてくると、記憶が途切れていることをぼんやり自覚できるようになった。
「この前は刺しちゃってごめんね」
 私を刺すたびに彼女はそう言った。そのため、記憶の切れ目には必ずその言葉が挿入されている。
 彼女のその台詞を記憶から探せば、記憶の断絶を認識できる。刺されるごとに彼女の話は脈絡がなくなっていき、現実の話よりも夢の話をしていることの方が多くなった。
『逃避ですか、窓付きさん』
 彼女に問いかけてみる。当然、通じない。
「鳥人間が追いかけてくるの……刺してないのに。あんなやつら消えちゃえばいいのに」
『彼らには彼らなりの理由があるのでしょう』
「赤い世界に飛ばされて出られなくなるの、走っても走っても出られないの」
 話しながら思い出しているのか、彼女は不安そうに辺りを見回した。
『ここは私の部屋です、赤い世界ではない。大丈夫ですよ、窓付きさん』
 私は彼女に手を伸ばす。その手が届く前に私の存在は途切れたようだった。



「先生、この前は刺しちゃってごめんね。ちょっと取り乱しちゃって」
 ああ、私はまた刺されて消えていたのだな。
 私にとっては瞬き一つの間だが、彼女にとってはそうでない。
 彼女はずいぶん痩せたように見えた。
 そろそろ潮時かもしれない、私はそう考えた。
 これまで事実を偽ってまで耐えてきた現実に、彼女はいよいよ耐えきれなくなっているのかもしれない。
 彼女の夢への逃避もいつまでもつかわからない。世界自体を拒否する日も遠くはないだろう。そのとき彼女は自らを葬るだろう。そして、この世界に消失がやってくる。
「学校に行ったらみんな私がそこにいない振りをするの。私はそこにいるはずなのに、誰も私を見てくれないの。だから私は息を潜めて小さくなるの」
『息を潜めて?』
 彼女は自分の手で自分の口を塞いでみせた。ぎゅっと目をつぶって首を横に振る。
「みんないなくなっちゃえばいいのに」
『我々の消失を望むのですか、窓付きさん』
 私は自らの手に目を落とした。彼女に比べて長い指は、私がピアノを弾くためのもの。
 真の消失への恐怖はなかった。一時的な消失ならば何度も経験している。
 消失した瞬間は、全くそのことに気づいていない。後になってからあのとき消失したのだなという推測をしているだけで、消失自体をはっきり認識しているわけではない。
 それなら、真の消失、二度と存在できなくなる最後の消失の瞬間も同様に、認識できないのではないだろうか。
 私は最後に気づくことなく、ただいつもと同じように無になるのではないだろうか。
 いつもと同じ現象を怖がる道理などない。
「私はみんなのことを考えているのに、みんなは私のことを考えてなんかくれない。私にはみんなが見えているのに、みんなには私が見えない。こんなのおかしいわ。どうしてみんなには私が見えないの」
『あなたはどう思うんですか、窓付きさん』
 疑問を提出するだけで考えず、思考停止する彼女は確実に逃避を続けている。
 それについて思考するのは彼女の一部である私だけなのだろうか。
 だとすれば、私は孤独なのだろう。
 どのみち私はこの部屋から出られないのだが。
「私はみんなと仲良くなりたいの、仲間に入りたいの、優しくしてもらいたいの。一度だって優しくしてもらったことがないの、私だって甘えたい、一度でいいから甘えてみたいのにみんなは冷えた目で私を見るから」
 死ぬまでにやり残したことがあるために死を怖がるヒトもいるそうだ。
 私にはやりたいことがない。私は漫然と存在している。この存在がいつ終わろうと支障はなく、消える理由もないが存在し続ける理由もない。くるくる思考を回してピアノを弾いて、時々彼女と交流する、そんな生活の中で消えていくのだと思っていた。
 最近はピアノもろくに弾けていない。思考はところどころで断絶し、繋がらない曖昧な感情がもやもやとわだかまっている。
 消える前に一度、ピアノは弾いておきたかったかもしれない。
 彼女の話をBGMにして、私はピアノの方を見る。
 埃がたまってしまっているかもしれない。まあ、弾くことができるなら問題はない。
「先生」
 彼女が私に呼びかける。
『なんでしょう、窓付きさん』
「どうして私の話を聞いてくれるの?」
『さあ。私があなたの一部だからではないでしょうか』
 通じないのはわかっているのに私は言葉を返す。やめておけばよいのに言葉を紡ぐ。
 彼女は首を傾げた。
「先生、私はあなたを刺すわ。いつも刺すわ。なのにどうしていなくならないの」
『それはあなたが私を必要としているから、この部屋には私がいると認識しているからですよ、窓付きさん。あなたが私を認識し続ける限り、私はいなくならないし、いなくなれない。天国、地獄、いずれでもない。ここは夢の中だ』
 少し、抽象的な表現になってしまっただろうか。どうもピアノを弾かないと「情緒的」になっていけない。
「先生、あなたはいつも何かしら答えてくれるのね。でも、私にはその言葉がわからない。いつも話すのは私ばかり。本当はわかってるの、私は逃げてるだけだって」
『窓付きさん?』
 今回の彼女はいつもの彼女と少し違うのか。いや、同じはずだ。いつもの自己否定。客観視しているようでその実逃避しているいつものパターンではないのか。
「先生、私もうやめようかと思う」
『何をです』
「生きるのを」
 その瞬間は思ったより早く来そうで、私は思わず息を呑んだ。
『生きるのをやめようかと思うのですか。どうして』
「このまま刺し続けたら先生、本当に死んじゃうかもしれない。怖いの。最近怖い。……現実の先生は嫌い。話を聞いてはくれるけど、わかったふりをしてるだけ。ほんとは全然わかってない。あんな人消えちゃえばいいと思ってた」
『それで?』
「夢の中の先生だって同じ、そう思ってた……だけど違う。同じようで、違う。私には夢の中の先生の言葉がわからない。現実の先生は感情的、でも夢の中のあなたは冷静で私の話にも全く動じないわ」
 彼女はオリジナルと私の違いを認識していた。それなら今、なぜ私は存在できているのか。
『先生は……あなたと仲良くなりたかったのでしょう』
「先生は私のことを疎ましがっていたのよ。私はそのことを直視するのがつらかった。だから鈍いふりをして、単純な子供のふりをして、先生、ねえ先生、私は」
『ストップ、そこまでにしてください。私は先生とは違う。ただの模倣品です。模倣品に何を望むんですか。あなたは重ねて見ているだけだ』
「私は、もしかしたら……」
『窓付きさん』
 停滞していた感情が私を動かしてしまったのだろうか。驚いた目で私を見つめる彼女との距離は今までで最も近く、強引な手段で彼女の口を塞いだ私はいったいどんな表情だったのか、自分ではわからない。
 こんなことをしたって何も変わらない。事態はむしろ悪化するだけだ。わかりきっている。わかりきっている。それでも私は聞きたくなかった。
 侵してはいけない領域を侵してしまったのは、おそらく私の方だ。
 突如、私ではない「先生」の記憶が私を浸食した。情報が混ざり合う。これまで繋ぎ合わせてきた私の記憶たちが、新たな記憶のノイズに呑まれてばらばらになってゆく。
 彼女の表情は見えなかった。包丁を握っているのかもしれないな、となんの根拠もなくそう思う。
 「私」が自壊する前に、彼女が私を消すのだろうか。
 彼女はおそらく「私」の混濁をわかっていない。今回消されれば、次の「先生」はもう「私」ではないだろう。
 ピアノはどこだろう。せめて最後にこの感情を曲に残しておきたかった。もうほとんどできあがっているのに。
 不意に私は既視感を覚えた。
 同じようなことが前にもあったような気がする。流れ込んでくる情報の波がちらつき、現在から順に最初の記憶まで流れて混じる。唐突に、私は悟った。
 「私」が定義される前に弾いていた曲、あれはつまり、
 ……なんのことはない。突き動かされるように動いた指は、「前の私」がそう望んだから動いたのだ。
 彼女に抱いたこの感情も、消えてしまうのだろうか。
 「私」の最初でおそらく最後の、


◆◆◆


 部屋の中、一人でピアノを弾いていた。
 ぼんやりともやがかかったような意識の中、時間の概念すらろくにないまま、ただただピアノを弾いていた。
 勝手に動く指で、突き動かされるように何度も、同じ展開を繰り返す。
 おそらく私のものではないそのメロディを、人事のように聞いていた。
 曖昧な自我、曖昧な世界、夢現の狭間で音符を並べる。同じフレーズを執拗に繰り返す。そこには私とピアノしかいなかった。

 私と、ピアノと、一つのメロディしかいなかった。
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