ゆめにっき
雨の日はわけもないのに世界の全てが憎くて、わけもないのに消え失せたくなる。
目を閉じる。カーテンが引いてあっても窓の外の雨音は聞こえていて。
さっさと眠ってしまおう。そう思う気持ちが功を奏したのか、暗転はすぐにやってきた。
◆
現実の雨は嫌だけど、夢の中の雨はそれほど嫌ではない。
樹海は今日も雨が降っていて、目の前の死体にもそれは降りかかっていて。
「やあ」
死体が挨拶をする。
「……」
私は無言でそれに傘をさしかける。
「優しいねえ」
へらりと笑う死体。
「優しくなんか、ない」
「おや、気を害したかい」
「……」
現実の雨から逃げる先を樹海にしたのには、理由がある。
最初から死んでいるものであれば、私を害さないから。
最初から死んでいるものであれば、壊さなくて済むから。
それだけだ。
だけど、そんな風に考えたら私がまるでこの死体を選んで会いに来たように感じられて。
反吐が出る。
「……」
「……」
私はこの死体が嫌いだ。
死に近いから。
というか、死んでいるから。
現実世界でこんなものを見たのかどうかは思い出せないけど、止まった記憶のモノクロを思い出したいかと問われると、頷く人は少ないと思う。
いや、どうかな。
ひょっとすると、過去を懐かしく思い出す人もいるのかもしれない。私はそうじゃないってだけで。
でも、そんなことはどうでもいい。
「調子はどうだい?」
「……よくない」
「正直なことはいいことだねえ、お嬢ちゃん」
「……」
嘘を吐いてでも「元気」とか答えた方がよかったのだろうか。社交辞令ってやつ?
「私が心配になった?」
訊いてみる。
「いや?」
死体は頭をわずかに動かす。
たぶん、首を横に振ろうとしたのだろう。
「そこは嘘でも心配って言うものじゃないの」
「死んでまで嘘吐いてもどうにもならないだろ?」
「嘘吐くのに生きてるか死んでるかって関係ある?」
「さあ? でもほら、死神さんも近くにいるし、地獄に行かされるようなことはしたくないし」
「あなたってそういうの信じるタイプなの」
「いや? 言ってみただけさ」
「……」
「怒った?」
「別に……」
こんな会話をしたって、私はどうにもならない。
わかっている。
気が紛れるだけ。
いや、それすらないかもしれない。
ただ無為な時間を過ごすだけ。
しかし無為であっても時間が過ぎてくれた方がましではある。
それだけ死へのカウントダウンが早まるということなのだから。
豪雨の中では人生は長すぎる。
本当に死ぬまでは夢を見ていた方がずっといいし、現実に夢を浸食させるために私はゆめにっきをつけているのだし。
「どうかな、気は紛れた?」
「全然」
「そうかあ」
死体は笑う。
怯えてばかりのあの人とは全然違うのね。
そんな言葉が出てきたけれど、言わない。
私に刺されないとわかっているが故の余裕か、既に死んでいて何者も自らを脅かさないと知っての余裕なのか。
どうでもいい。どうせ夢の中の存在なのだし、考えたって無駄なだけ。
「……」
「おや、お出かけ?」
「そう思ったけど、寝る」
「寝る? ここで? ……ふ」
死体は何度目かの笑いを漏らす。
「自罰的だねえ、お嬢ちゃん」
「どうせ夢の中だから、私は濡れない」
「俺はやめておいた方がいいと思うけどねえ」
「……」
そう言われると逆らいたくなるのが人間というものだと思う。だいたい、嫌いな相手の進言を受け入れるのも癪だし。
そこまで考えて、ふと思う。
ひょっとして、わざと言ってる?
「あなた、私にここで寝てほしいの?」
「まさか。風邪でも引かれたら困るからねえ」
「どうして?」
「俺、責任取れないし、取りたくもないし」
「無責任なのね」
あの人と同じ。そう続けたかったが、やめる。
「当然さ。所詮夢の中の存在が一番権力のあるお嬢ちゃんのしたことの責任なんて取れるわけないだろ」
「偉い人の責任を取って潰れるのが弱者の仕事ではないの」
「その歳ですごいこと言うねえ、お嬢ちゃん。やめときな」
「……」
「ほんとはね。立場の弱い者がしたことの責任を取るために偉い人はいるんだよ」
「そんなの、恵まれた人の正論だよ」
「現実の世界は逆だからねえ」
「でしょう」
「どっちにしても俺はもう死んでるから、これ以上の責任なんて取れないんだよねえ。もう一度死んでやることもできないし、消えてやることもできないし」
「責任は自分で取るから、いいでしょ」
なんだか交渉してるみたいになってきた。
「強引なお嬢ちゃんだ。でも、駄目。雨の中で寝るのは駄目だ。寝るならどこか他のとこにあるベッドで寝るんだね」
「……それで私の精神が危なくなってもいいわけ」
「それは困るねえ」
死体はにこにこと笑う。一体何がおかしいんだか。
「どっちにしても、俺は責任取れないからねえ。滅多なことは言えないよ」
「言ってるじゃない、よそで寝ろって」
「言ってるねえ。だから、よそで寝な」
「もう、どうしてそんな頑固なの」
「死んでるからねえ」
へらへらと笑う死体。
「死んでることと頑固なことって関係あるわけ」
「死んでるともうこれ以上の変化は望めないから、頑固になるのさ」
「意味がわからない」
「わからなくて結構」
「……」
「怒った?」
「だいぶ前から怒ってるよ」
「それは失敬」
また、笑う。
何もおかしくなどないのに。
「無責任な大人は君の責任なんて取れないし、取りたくないのさ。あいつと違って俺は優しくないからねえ。残念ながら」
自分で言ってるし。
「だから、よそで寝な」
「……けち」
言い捨てて、きびすを返す。
死体の笑い声が追いかけてきたが、無視して引き返す。
気が紛れたかどうかなんてわからない。でも、ところかまわず刺そうなんて気は消えたみたいだった。
癪だけど。
目を閉じる。カーテンが引いてあっても窓の外の雨音は聞こえていて。
さっさと眠ってしまおう。そう思う気持ちが功を奏したのか、暗転はすぐにやってきた。
◆
現実の雨は嫌だけど、夢の中の雨はそれほど嫌ではない。
樹海は今日も雨が降っていて、目の前の死体にもそれは降りかかっていて。
「やあ」
死体が挨拶をする。
「……」
私は無言でそれに傘をさしかける。
「優しいねえ」
へらりと笑う死体。
「優しくなんか、ない」
「おや、気を害したかい」
「……」
現実の雨から逃げる先を樹海にしたのには、理由がある。
最初から死んでいるものであれば、私を害さないから。
最初から死んでいるものであれば、壊さなくて済むから。
それだけだ。
だけど、そんな風に考えたら私がまるでこの死体を選んで会いに来たように感じられて。
反吐が出る。
「……」
「……」
私はこの死体が嫌いだ。
死に近いから。
というか、死んでいるから。
現実世界でこんなものを見たのかどうかは思い出せないけど、止まった記憶のモノクロを思い出したいかと問われると、頷く人は少ないと思う。
いや、どうかな。
ひょっとすると、過去を懐かしく思い出す人もいるのかもしれない。私はそうじゃないってだけで。
でも、そんなことはどうでもいい。
「調子はどうだい?」
「……よくない」
「正直なことはいいことだねえ、お嬢ちゃん」
「……」
嘘を吐いてでも「元気」とか答えた方がよかったのだろうか。社交辞令ってやつ?
「私が心配になった?」
訊いてみる。
「いや?」
死体は頭をわずかに動かす。
たぶん、首を横に振ろうとしたのだろう。
「そこは嘘でも心配って言うものじゃないの」
「死んでまで嘘吐いてもどうにもならないだろ?」
「嘘吐くのに生きてるか死んでるかって関係ある?」
「さあ? でもほら、死神さんも近くにいるし、地獄に行かされるようなことはしたくないし」
「あなたってそういうの信じるタイプなの」
「いや? 言ってみただけさ」
「……」
「怒った?」
「別に……」
こんな会話をしたって、私はどうにもならない。
わかっている。
気が紛れるだけ。
いや、それすらないかもしれない。
ただ無為な時間を過ごすだけ。
しかし無為であっても時間が過ぎてくれた方がましではある。
それだけ死へのカウントダウンが早まるということなのだから。
豪雨の中では人生は長すぎる。
本当に死ぬまでは夢を見ていた方がずっといいし、現実に夢を浸食させるために私はゆめにっきをつけているのだし。
「どうかな、気は紛れた?」
「全然」
「そうかあ」
死体は笑う。
怯えてばかりのあの人とは全然違うのね。
そんな言葉が出てきたけれど、言わない。
私に刺されないとわかっているが故の余裕か、既に死んでいて何者も自らを脅かさないと知っての余裕なのか。
どうでもいい。どうせ夢の中の存在なのだし、考えたって無駄なだけ。
「……」
「おや、お出かけ?」
「そう思ったけど、寝る」
「寝る? ここで? ……ふ」
死体は何度目かの笑いを漏らす。
「自罰的だねえ、お嬢ちゃん」
「どうせ夢の中だから、私は濡れない」
「俺はやめておいた方がいいと思うけどねえ」
「……」
そう言われると逆らいたくなるのが人間というものだと思う。だいたい、嫌いな相手の進言を受け入れるのも癪だし。
そこまで考えて、ふと思う。
ひょっとして、わざと言ってる?
「あなた、私にここで寝てほしいの?」
「まさか。風邪でも引かれたら困るからねえ」
「どうして?」
「俺、責任取れないし、取りたくもないし」
「無責任なのね」
あの人と同じ。そう続けたかったが、やめる。
「当然さ。所詮夢の中の存在が一番権力のあるお嬢ちゃんのしたことの責任なんて取れるわけないだろ」
「偉い人の責任を取って潰れるのが弱者の仕事ではないの」
「その歳ですごいこと言うねえ、お嬢ちゃん。やめときな」
「……」
「ほんとはね。立場の弱い者がしたことの責任を取るために偉い人はいるんだよ」
「そんなの、恵まれた人の正論だよ」
「現実の世界は逆だからねえ」
「でしょう」
「どっちにしても俺はもう死んでるから、これ以上の責任なんて取れないんだよねえ。もう一度死んでやることもできないし、消えてやることもできないし」
「責任は自分で取るから、いいでしょ」
なんだか交渉してるみたいになってきた。
「強引なお嬢ちゃんだ。でも、駄目。雨の中で寝るのは駄目だ。寝るならどこか他のとこにあるベッドで寝るんだね」
「……それで私の精神が危なくなってもいいわけ」
「それは困るねえ」
死体はにこにこと笑う。一体何がおかしいんだか。
「どっちにしても、俺は責任取れないからねえ。滅多なことは言えないよ」
「言ってるじゃない、よそで寝ろって」
「言ってるねえ。だから、よそで寝な」
「もう、どうしてそんな頑固なの」
「死んでるからねえ」
へらへらと笑う死体。
「死んでることと頑固なことって関係あるわけ」
「死んでるともうこれ以上の変化は望めないから、頑固になるのさ」
「意味がわからない」
「わからなくて結構」
「……」
「怒った?」
「だいぶ前から怒ってるよ」
「それは失敬」
また、笑う。
何もおかしくなどないのに。
「無責任な大人は君の責任なんて取れないし、取りたくないのさ。あいつと違って俺は優しくないからねえ。残念ながら」
自分で言ってるし。
「だから、よそで寝な」
「……けち」
言い捨てて、きびすを返す。
死体の笑い声が追いかけてきたが、無視して引き返す。
気が紛れたかどうかなんてわからない。でも、ところかまわず刺そうなんて気は消えたみたいだった。
癪だけど。