ポケットモンスターブラック・ホワイト
ポケモンリーグの前は静かで、風の吹く音だけが響いていた。
最後のジムのあるソウリュウで、あたしはもう何度目かのあいつの演説を聞いた。
そのときのゲーチスはいつものあいつで、シリンダーブリッジで突然話を打ち切られたときに少し見えた動揺など一欠片もなかった。
あいつはいつも余裕綽々で人を食ったような態度をとってるけど、まれにそのメッキが剥がれるときがある。
明白にわかるわけじゃない。ただ、目の奥に何らかの感情が揺れるときがあるってだけだ。
そういうとき、あいつはすぐに帰ってしまう。
あいつはいつも一人でその感情を処理しているのだろうか。誰にも頼らず。
あたしは気持ちが落ち着かないときベルやチェレンに話を聞いてもらってるけど、あいつの性格上、そもそも誰かに心許すということがなさそうだ。
Nはトモダチを求めているけれど、ゲーチスの方には友達なんていなさそうに思える。
七賢人は同僚というよりは部下に見えるし、ダークトリニティも部下だろう。Nは何だろう、王か。あいつの周りがわからない。
そこまで考えて、ふと気付いた。今更なんであたしはあいつに興味なんて持ってるんだろうか。
ゲーチスはプラズマ団の七賢人で、嫌な奴。それ以外の情報は持ってないし、いらなかったはず。
こんなところでまであんな奴のことを考えることもあるまい。
あたしは思考を振り切った。
◆◆◆
四天王はタイプ統一パーティだったので、思ったより苦戦せずに勝てた。
彼らがタイプを統一しているのは、挑戦者に対するハンデのようなものかもしれない。
四天王達の言うことには、あたしの前にNが挑んで勝っていったとのこと。
Nは本当に「チャンピオンを超える」つもりのようだ。
各地でバトルしたときはその場で捕まえたポケモンばかり使っていたNだが、ちゃんとしたパーティが揃っているのだろうか。
プラズマ団のポケモン解放は自分達のためだけであることはこの前判明したけれど、解放をうたいながらまっとうなパーティを用意して使っているNも矛盾している気がした。
ひょっとすると、Nは自分たちだけは違う、と思っているのかもしれない。または、ポケモンを使うのはこの場限り最後にして王になったら逃がすとかね。それも微妙だけど。
長い階段を上る。一番上に建っているのはギリシャ風の建物。
建物に入ったあたしの目に映ったのは、膝をついたチャンピオンと勝利宣言をするNだった。
「待っていたよ」
いつものように一人でしゃべり続けるN。あたしに勝つことによって、自分の正しさを示したいようだ。
説得力を増すために神話の力を借りて、伝説のポケモンを使って戦いたい。そういうことだろう。
一方的にこちらの意見も聞かないで、あたしの役目を勝手に決めてゆく。
Nのことは嫌いじゃないけど、そういうところは気に食わなかった。あいつを思い出して腹が立つから。
伝説のポケモンの目覚めを待たずとも、早く決着をつけてこんな役目とはおさらばしてしまいたい。
Nはここで勝負するつもりだろうか。あたしは自分のボールに手を伸ばす。
そのとき、ぐらりと地面が揺れた。
こんな時に地震だろうか。
揺れは止むことなく続く。
見ているうちに、周囲から巨大な城が轟音をあげながら現れ、ポケモンリーグを取り囲んだ。
「今現れたのがプラズマ団の城……君も城に来るんだ、そこで全てを決めよう」
そう告げると、Nはあたしの返事も聞かずに去った。
あたしは小さく首を横に振ると、城への通路に足を踏み出した。
◆◆◆
城の中には居住スペースもあり、ただ決戦のためだけに用意されたものという風ではなかった。
城の各部屋を回る。
色々な人がいて、色々な言い分があった。
プラズマ団の中にも自分達のやっていることにわずかな戸惑いを持つ者ぐらいはいるようだった。
本拠地というだけあって、思想にどっぷり浸かった人達ばかりだと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。
あたしは少しだけ安心した。
城の奥へ奥へと進んでいくと、もうこれ以上進めない場所へと出た。
行く手には大きな部屋があり、どうもこれが最後の部屋らしい。
外から見た部屋の中は暗くなっていて、少し覗き込んだだけでは全く様子が窺えない。
いよいよ最終決戦か。軽く息を吸って部屋に入ろうとしたとき、正面から何者かが現れた。
突然のことだったのであたしの反応は遅れ、踏み出した勢いのまま相手にぶつかった。
衝撃を覚悟して目を瞑ったが、相手の着ていた分厚い服があたしを受け止めた。
「おや、これはこれは……」
聞き慣れた声が降ってくる。
「不注意な方だ。いったい何を考えていたのです?」
見上げれば、面白そうに細められた深紅の目。
「ようこそ、お嬢さん」
驚いたのと、動揺とであたしは一瞬固まる。
意識的に思考の外に置いていた、その相手との邂逅だ。
「まあ……いるよね。本拠地だもんね」
そう呟くことで、気持ちを落ち着かせようとする。
「おや、心外な。ワタクシがいないとでも思っていらっしゃいましたか?」
相手はどこまでも落ち着いた様子で問うてくる。
「そんなことはないけど…」
「けど、何です? まさかここまで来ておいてまだ平穏な旅を期待していらしたとか?」
「平穏な旅はあたしの希望だけど、Nにあそこまで言われて穏便に済むとは思ってないよ。戦うんでしょ。ボール出しなよ」
「まあ待ちなさい、お嬢さん。ここで戦うのは本意ではありません。アナタは我々の王と戦いに来たのだから。それを邪魔するなど、野暮というもの。違いますか?」
「野暮も何も。七賢人たちはあたしを止めようとした」
「彼らは恐れたのです。自分達の王の強さを心から信頼できなかった」
「それで? 自分は違うとでも言うわけ? あんたの御託はわかったから、そこどいて。どうせこの先にNがいるんでしょ」
「焦っても何もいいことはありませんよ。落ち着いてワタクシの前口上を聞いていきなさい」
そう言って、ゲーチスは片手を挙げた。
「……ポケモンリーグを包み隠すように出現した城はイッシュが変わることを意味するシンボル」
大勢の聴衆を相手にするような態度であいつは話し出す。
これは長くなるだろうな。
聞かずに無視して突っ切ってもいいのだけれど、不思議とそんな気にもなれず、あたしはおとなしくそれを聞いた。
「これを英雄と呼ばずして誰を英雄と……」
まるであたしが英雄じゃないみたいな言い方だ。
こいつは一度だってあたしを英雄と認めたことはなかった。
自分の組織の大事なイベントなのに他人事のような話し方、英雄ごっこは子供のお遊びだとでもいうような態度。向き合い方が真面目に見えない。まるでまっすぐ向き合うことを避けているみたいに。
きっと他の誰よりもこいつが一番あたしを「ただの小娘」として見ているはずだ。
そんな調子で、あたしがNを倒してしまったらどうするんだろう。小娘に計画を破られるという事実に耐えられるのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えているうちに、演説は佳境に入ってゆく。
ヒートアップする語調。もはや語りかけではなく、独白のようだ。自分自身の気持ちをそのまま吐いてしまっているよう。
たびたびそういうことはあったが、これほど長く素のようなものを見せるこいつは見たことがない。
それなりに何度も接してきたというのに、本拠地で気を許しているのか。
それとも、どうせあたしが敗者になってどうにでもなるのだから本当のことを話してしまってもいいと思っているのだろうか。
こいつが何を考えているのか全く確信が持てない。当たり前だけど、あたしはこいつのことを知らなさすぎたんだ……だから?
あたしがこんな奴のことを気にしてどうする。嫌いな奴のことなんか考えてもイライラするだけなのに。
「自分にも英雄の資質があるか、確かめればいいのです!」
いつの間にか、演説は終わっていた。でも、あたしはなんとなく動く気になれなかった。何か言い残したことがあるような気がした。だけどそれが何かわからなかった。
もやもやした気持ちをわだかまらせたまま立っていると、あいつが促すようにまた片手を挙げる。
「ライトストーンを持つ者よ、」
「……ゲーチス」
遮るようにあいつを呼んだ。あいつは少し驚いて、探るような目でこちらを見た。
「ゲーチス、あんたは」
その先の言葉が出ない。あたしは何が言いたいんだろう。
あたしが自分の頭の中を探っているうちに、あいつは何かを納得したとでも言うように頷いて口を開いた。
「ワタクシに怒りを感じているのですか」
「それもある、けど」
「この期に及んでまた戦いたくないなどと言うおつもりですか」
「違う。もう腹は決まってる」
「ほう。英雄になれるチャンスを逃してはならないとようやくわかりましたか」
「えい……ゆう」
「それはそうでしょう。英雄には誰もが憧れる。憧れられずして誰が英雄か。このチャンスを逃すなど考えられないことだ」
「待ってよ」
なおも言葉を続けようとするゲーチスを遮る。
「英雄英雄ってあんたたちはいつもそればっかりだ……なんであたしなの? なんで他の人じゃいけなかったの?」
「N様がアナタをお選びになったからだ。それ以外に理由など……」
あいつの目が妙な陰りを帯びていることにあたしは気づかなかった。
「そんなのおかしいよ。特定の誰かが英雄だって言ったらその時からポンと英雄になれるの? 英雄っていう名前は後からついてくるものじゃないの? 生まれながらの英雄とか選ばれし英雄とかさ……ちょっと飛びすぎじゃないの。ねえゲーチス、あんただってそう思ったこと……」
「トウコ」
抑えた声。あたしははっとして口をつぐんだ。あたしを見据えた深紅の瞳に浮かんでいたのは怒りなのか憎しみなのか、はっきり判別はできないけれど激しい何らかの感情だった。
「ワタクシは英雄になれません」
静かにそう言うと、底なし沼の目があたしから外される。
話はもう終わりだ、とでも言うように王へと続く道を開けるあいつ。
「さあ、お嬢さん。自分にも英雄の素質があるかどうか、確かめればいいのです」
あたしはふらりと足を踏み出す。一歩、また一歩、前に進む足がだんだん速くなる。
完全に部屋に入ってしまう直前、あいつが何か言ったような気がしたけれど、小さすぎるその言葉はあたしに追いつくことなく遠くへ消えてしまった。
◆◆◆
英雄を求める王様は、玉座に座って待っていた。ポケモンだけの世界にしたい、ボクには覚悟がある、と彼は彼の理想を語る。
英雄に反応しないあたしのライトストーンに落胆したNはゼクロムを呼んだ。
「おいで、ゼクロム!」
黒いドラゴンポケモンが一鳴きすると、天井や柱が振動で崩れ、凄まじい電撃がその破片を浮かす。
あたしは自分の手持ちポケモンの入ったボールをそっと撫でた。
伝説のポケモンだろうが何だろうが、戦って倒せないということはないだろう。あたしたちはこれまでずっと一緒に旅をして、成長してきたんだから。
一番目のポケモンを選ぼうと手に力を入れたとき、あたしのバッグの中で何かが動いた。
あっという間に周囲が真っ白な光で満たされる。
それとともに感じる、身体から意志まで燃やし煽り立てられるような熱気、立ち上がる炎。
高い鳴き声が響く。
白いドラゴンポケモン、レシラムがあたしの目の前に現れた。
戦って仲間にしろ、ということらしい。あたしは浮いているレシラムを見上げる。英雄の相棒というだけはあって、大きいしきれいなポケモンだ。
バッグからボールをひとつ、取り出す。
レシラムが大きく鳴く。
あたしはボールを投げた。
ボールがレシラムに当たる。
一回、二回、動くボールを見つめる。
三回目。カチッという音とともにあっけなく捕獲が完了し、レシラムとの戦闘は終了した。
あたしは少し拍子抜けした。が、レシラムがあたしに捕まえられるのを待っていたと考えると納得はいく。
床からレシラムの入った水色のボールを拾い上げ、両手に持って眺める。
このレシラムを使ってしまうと、本当に「英雄」になってしまうような気がする。
あいつは自分が英雄になれないと言った。でも、それはどうなんだろう。
なろうとすれば誰だって英雄になれるんじゃないか。運次第で。あたしは……
「トウコ。ポケモンを出すんだ。ボクは絶対に勝つ」
Nが右手を広げ、前に出す。
相手のゼクロムの尻尾がバチバチ放電を始める。
あたしはボールを投げ上げた。光と共に現れ、ぽすんと大地を踏みしめたのは赤茶色に黒縞の身体をしたポケモン。
「お願い、ワルビアル」
「トウコ! なぜレシラムを出さない!」
「あたしの勝手でしょ。ワルビアル、じしん」
相手のゼクロムは大きくふらついた。かなりのダメージが入ったと見える。
「ここは引こう。アバゴーラ!頼むよ!」
相性不利と見たか、ポケモンを交代するN。
「ジャローダ、お願い」
それに合わせ、あたしもポケモンを交代する。
アバゴーラの爪をかわし、ジャローダがリーフストームを入れる。相性有利。アバゴーラのHPがぐんと削れた。
◆◆◆
一匹、また一匹とNのポケモンが倒れていく。最後に残ったのはゼクロムだけとなった。
「ワルビアル、とどめをお願い」
沈むゼクロム。
Nはしばらく無言で立ち尽くしていたが、ややあって口を開いた。
「ボクとゼクロムが敗れた…キミの思い…理想…それがボクを上回ったか」
伝説の二匹が違う英雄を選んだのがわからないと迷うN。異なる考えを受け入れることが世界を変える数式か、と呟く。
そうだね、と相槌を打とうとしたとき、背後から突然声がした。
「それでもワタクシと同じハルモニアの名前を持つ人間なのか? ふがいない息子め」
やっぱり出てきたか。Nが敗れた以上、黙って引き下がることはないと思ってたけど。
ゲーチスは自分の真の目的とNへの落胆を示し、これからもNを王とし続ける旨を話した。それをする上での障害となるあたしを消す、とも。
チェレンとアデクさんが合流し、ゲーチスの真の目的に驚く。
アデクさんはゲーチスの目的に怒りを見せたが、ゲーチスの方は涼しい顔だ。
さて、と言って紅の目があたしの方を向いた。きたか。あたしの背筋に震えが走る。
「神と呼ばれようと所詮はポケモン。そいつが認めたところで、トウコ! アナタなど恐るるに足らん。さあ、かかってきなさい! ワタクシはアナタの絶望する瞬間の顔が見たいのだ!」
ここまで来てしまった以上、もう引き返すことはできない。あたしはあいつを倒す。そして、このふざけた茶番を終わらせる。
「行きなさい、デスカーン!」
「ワルビアル!」
「一匹目はレシラムではないか……なめられたものだ」
どくどくを放ってきたデスカーンをじしんで沈める。自信過剰で攻撃力が上がる。
後続のバッフロンもじしんで沈める。自信過剰で攻撃力が上がる。
次のガマゲロゲもじしんで沈む。自信過剰で攻撃力が上がる。
六匹目までこれを繰り返した。
「最後の一匹までレシラムを使いませんか。しかしその余裕が命取りになるのです」
出てきたのは三つ首の竜。サザンドラだ。
ゲーチスと会う度に顔を合わせてきたポケモンだが、戦うのは初めて。こちらの方は何となく親しみを覚えていたポケモンだが、向こうにその気配は微塵もない。
当然だろう。これは戦いだ。情を差し挟む隙などあろうはずもない。
「決めて、ワルビアル」
放たれる光弾を紙一重でかいくぐり、三つ首の根本に噛みつくワルビアル。
サザンドラは暴れるが、食い込んだ牙は外れない。
次第に抵抗は弱まっていき、三つ首の竜はおとなしくなった。
「さてNよ…今でもポケモンと人は別れるべきだと考えるか?」
問いかけるアデクさん。答えないNをののしるゲーチス。チェレンが反論する。争った人間のどちらかだけ正しいのではないとアデクさんは言う。Nも自分なりの答えを得たようだ。長かった戦いもここに決着を見た。
◆◆◆
「ゲーチスが、逃げた?」
「うん。黒ずくめの連中に刑事さんたちが襲われて、その間にいなくなってたらしいよ。悪いことしたヤツがその報いも受けずにいなくなるなんて許せないね」
「うん……ごめんチェレン、ちょっと」
「あっトウコ、どこに行くの」
「先帰ってて!」
ケンホロウに乗り、飛び立たせる。
行く当てがあったわけではない。が、なんとなく、あいつをそのまま逃がすのは嫌だと思った。
探し始めて数時間。
日は落ちかけ、オレンジ色の夕陽が辺りを照らしている。
「ここにいなかったら諦めよう」
以前、人気のない場所を探すのにはまっていた時期、手持ちのレベリングに使っていた洞窟の前で、あたしはケンホロウをボールにしまった。
代わりにシャンデラを出し、足元を照らしてもらいながら洞窟に踏み行った。
「もうすぐ奥まで着くね……」
シャンデラに話しかける。と、首筋に冷たいものが当たった。
「止まれ」
ナイフだ。背後に一人、左右に二人。黒ずくめの連中、ダークトリニティだ。
あたしは反撃しようとしたシャンデラを止める。
「ビンゴだったってわけ。ゲーチスを逃がしたのはあんたたちね。ここにいるんでしょ」
「黙ってポケモンをボールに戻せ」
「シャンデラ」
灯り役がいなくなり、視界が闇で塞がれる。
「前へ進め」
「はいはい」
トリニティの気配を感じたまま、前へと足を進める。
しばらく進むと、道の先に明かりが見えてきた。
左のダークトリニティが音もたてずに消える。
「ゲーチス様」
「わかっている」
そんな声が聞こえてくる。
足を進めるうちに光源は近付き、やがて広い場所に出た。
「来ましたね」
「……」
その中央に、ゲーチスは立っていた。先ほどあたしに負けたばかりだというのにその態度は堂々としている。
「ご苦労。下がりなさい」
ダークトリニティがどこかに去る。姿を隠して見張るつもりだろう。
この洞窟内のどこに隠れる場所があるのか知らないけど。どうせあいつらも、何するかわからないし。いつも何もかも隠してる。まるで、こいつの紅い目みたいに。
首を振る、
紅色があたしを見て、あたしのどこかが震えるようなそれ、でも駄目だ。見返す、視線が少し合うけどやっぱりいつもの食えない瞳。わからない。
「さて。逃げたワタクシを捕らえに来た……という風でもありませんね、英雄様。我々の仲間にでもなりに来ましたか」
「ばっかじゃないの? そんなわけないじゃない」
「では、可哀想なバケモノのために文句でもつけにきましたか?」
「確かにあんたがNに言ったことは許せないけど……違う」
「では何を」
追いかけようとは思ったが、追い付いて何を言おうかとかそんなことは全く考えていなかったことに気付く。
沈黙が落ちる。
ゲーチスは黙ってこちらを見ている。
「……可哀想だと思った」
ぽつりと言葉がこぼれた。
ゲーチスが片眉を上げる。
「バケモノに同情、ですか。まあ、同情をかうには十分でしたからね」
「違う」
「同情ではないと? では、」
「あんたのことを、可哀想だと思ったんだ」
ゲーチスが鼻で笑う。
「アナタごときにそのようなことを言われる要素などどこにもないと思いますがね」
「Nにバケモノって言ったときのあんたはどこか必死に見えた。そう言わないといけないような、そんな感じがした」
「馬鹿らしい」
ゲーチスは吐き捨てる。
「英雄にはなれない、とあんたは言った。それは、なれない、じゃなくて、なろうとしたけどなれなかった、ってことじゃないかって。負けたNに腹が立ってたのかもしれないけど、あそこまで言う必要はない。あんたは、Nにああ言わないと自分を保っていられなかったんだ」
「……それ以上馬鹿げたことを言う前に、口を閉じなさい」
「羨ましくて、憎かった。自分に手に入れられなかったものを持って――」
それ以上、言葉を続けることはできなかった。
ゼロ距離。驚いて見開いたあたしの目と、あいつの目が合った。
紅い目の中には、これまで見たこともなかったような様々な感情が渦巻いていた。怒り、憎悪、悲しみ、そして戸惑い。それら全ての感情を押さえつけるかのように、あいつは目を細めた。
屈みこんだあいつの胸を押してみるが、びくともしない。顔の角度を変えたあいつの長い髪が頬を擦る。
思いもよらぬ刺激に身体が震えると、その拍子に何かが歯列を割って入ってきた。
「……!」
他人の身体が自分の中に入り込んでくるという違和感に、あいつの胸を押す手が止まってしまう。あいつの舌が上顎の裏をなぞる。ぞくり。初めて味わう感覚に、力が抜けた。それをいいことに、いっそう深く口付けられる。息ができない。
「……!!!」
舌先を吸われる。歯列をなぞられる。未知の感覚は去ってくれない。それら全てが息苦しさの中で行われるものだから、もうわけがわからない。どうしてあいつがこんなことをするかとか、そういうことがぼんやりとした頭の中で溶けてぐしゃぐしゃになる。
視界がぼやけて何も見えなくなり始めたころ、あいつはあたしを解放した。ぺたんと地面に座り込み、ぜえぜえと肩で息をする。
「何、す……」
「これに懲りたら二度とワタクシにそんな口をきかないことですね、お嬢さん」
姿勢をまっすぐに直したあいつが髪をかきあげる。その態度は憎らしいほど落ち着いている。
「トリニティ」
「ここに」
「行きますよ」
あいつの姿がかき消える。
行くってどこに? 警察から逃げ続けるつもりだろうか? そんなことをして何になるというのだろう。
逃げて、その後したいことでもあるというのか。
ぼんやりした頭でそんなことを考えながら、あたしは洞窟の外に出た。
日はとうに暮れていて、白い月明かりだけが草むらをこうこうと照らしていた。
[BW編終了]