ポケットモンスターブラック・ホワイト
ぽしゃん、とバスラオの跳ねる音。水面は暖かな陽光を受けてきらめき、芽吹きかけの草がそよ風に揺れる、そんな春の日のこと。
トウコは草を踏みつけながら、道路を北上していた。
曲がり角を曲がり、幼稚園の横を通り過ぎ、「育て屋」の看板の前まで来る。
そこでトウコは足を止め、看板を眺めた。
「育て屋」は、ポケモンをトレーナーの代わりに育ててくれる施設だ。イッシュ地方のそれは、広い庭と一軒の家からなる。
トウコは看板から目を離し、その横に立っていた少し背の低いおじいさんに声をかけた。
「すみません」
おじいさんはゆっくりとトウコの方を向いた。
「お客さんかね。育て屋ははじめてかな」
はじめてです、とトウコ。
「おお、そうか。それでは軽く説明から始めるとするか」
おじいさんはトウコに育て屋の説明をした。預けたポケモンを時間がたってから迎えにくるといくらか育っているということ、ここの育て屋は二匹のポケモンを育てられるということ。
「それだけではないぞ。二匹のポケモンの性別が違うと、稀に……」
そのとき、にわかに日差しがかげった。
ばさりと何かの羽ばたくような音が頭上から聞こえてくる。
トウコは空を見上げた。
大きな翼を広げ、長い尻尾をなびかせて降りてくるのは、三つ首の巨大なドラゴンだった。
「お客さんじゃ。ちょうどよいときに」
滑らかに下降してきたドラゴンは、どしっと安定感のある着地をして身を下げた。低くなったその背から、持ち主であろう長身の男が降りる。背中まである緑の髪に青と金と白の刺繍がなされたローブ。
トウコははっとした顔をした。
「プラズマ団の、ゲーチス、さん」
その声が聞こえたのか、男――ゲーチスは顔を上げる。
特徴的な紅い目がトウコを捉え、少しだけ細くなった。
「演説を聴いてくださっていた方ですかな?」
「そ、そうです」
「覚えていてくださったとは光栄ですよ、お嬢さん。アナタも育て屋に?」
そう言いながら、ゲーチスはゆっくりと近づく。
「そ、そうです……」
トウコはじり、と後ずさった。
「おや、随分と警戒されたものですね」
ゲーチスは面白そうに笑うと、おじいさんの方を向いた。
「預けておいたサザンドラの調子はどうですか?」
「順調じゃよ。こちらがそのサザンドラから発見されたタマゴじゃ」
おじいさんは懐から薄い水色のタマゴを取り出し、ゲーチスに手渡した。
「先ほど、このお嬢ちゃんにタマゴについて説明しようとしておったんじゃ。しかし、わしはそろそろタマゴの様子を見る時間なので、一旦外さにゃならん。お前さん、このタマゴをお嬢ちゃんに見せてやってくれんかね」
「もちろん、いいですよ」
左手でタマゴを持ったゲーチスは、トウコに目で合図した。
「おいでなさい、お嬢さん」
恐る恐る近づくトウコ。その姿を見ておじいさんは一つ頷くと、頼んだぞ、と言って背を向けた。
「これがポケモンのタマゴです。育て屋に預けた二匹のポケモンの性別が違うとき、稀に見つかります」
触ってもいいですよ、とゲーチスが言うと、トウコはタマゴにそっと手を伸ばした。
タマゴの表面は思ったよりもすべすべしており、トウコはその感触を確かめるようにゆっくりと撫でた。
「どうやったら孵るんだろう」
呟いたトウコにゲーチスは答えた。健康なポケモンと一緒に連れて歩いていればいずれ孵るということ、ある特性を持つポケモンと一緒だと孵化が早くなること。
トウコは初めの警戒はどこへやら、目を輝かせてそれを聞いていた。
「ポケモンの技ではタマゴの孵るのが早くなったりしないんですか?」
「いけません。タマゴにダメージを与えてしまいます」
「技がよくて特性がいいのはなぜですか?」
「そもそもダメージを受けるときというのは、刺激を受ける対象がその急な変化についていけないときです。
技は、相手の状態を急に変化させることによって相手にダメージを与えるものです。
技による急な変化を受けると、タマゴもまたダメージを受けてしまいます。
このため、タマゴに技を使用することは一般に好ましくありません」
「だから技はだめなんですね」
納得した風に、トウコ。
「そうです。では、特性がなぜよいのか。孵化を早めるとされる特性、ほのおのからだもまた、自分に急に接触してきた相手にダメージを与える、やけど状態にさせる特性です。しかし、それは戦闘での話です。トレーナーの手持ちとしてボールに入っているときは別なのです。
ほのおのからだを持つポケモンが手持ちに入っているとき、同じトレーナーの手持ちにいるポケモンたちには微量の熱が伝わります。その熱は急な状態変化につながらないほど微量で、微弱なものです。なにしろ、ボールを介していますから。ですから、その熱によっては、タマゴもダメージを受けることがないのです。おわかりでしょうか?」
「わかりました。そういうことだったんですね」
ありがとうございます、とトウコは嬉しそうな声で言った。好奇心からくる興奮を隠し切れていないのか、タマゴに伸ばした手が震える。
その姿に自身の「息子」Nが重なり、ゲーチスは苦い顔をした。
ポケモンへの好奇心は人一倍だが、自分とポケモン以外のことには興味が薄い「息子」。
頑固な性格はこれまでならば扱いやすさのもとであったが、近頃はそれが逆に働いてきている。
反抗的な態度が増えたのは、外に出た影響だろうか。何にせよ、早く軌道に戻さなければならない。そこまで考えて我に返り、思考を中断する。
タマゴに夢中になっているトウコは、彼の表情の変化に気付かなかったようだ。
「お嬢さん」
とゲーチスは言った。
「お嬢さん。ワタクシはそろそろおいとましなければなりません」
「あ……すいません」
トウコは慌ててタマゴから手を離し、ゲーチスを見た。
いえ、と言ってゲーチスは口角を上げる。
「それでは」
ばさり、と服を翻らせて背を向ける。ゲーチスの待たせていたサザンドラが、上体を低く下げた。
数メートルの距離を歩きながら、ゲーチスは考える。
Nの旅の様子を、本人からも聞いておかなければならない。報告だけでは思考の流れまで掴めぬだろう。
トレーナーから影響を受けたというようなことを言っていたが、それについてもいずれ聞く必要がありそうだ。
「あの」
トウコの呼び止める声に、ゲーチスは足を止めてちら、と振り返る。
「今日はありがとうございました」
一瞬虚をつかれたような顔をしたゲーチスだったが、すぐにもとの表情に戻り、どういたしまして、と言うと、サザンドラに向き直った。
サザンドラはゲーチスを掬い上げると、助走をつけ、翼を羽ばたかせて空へ飛び去った。
春風と、空を見上げるトウコだけがそこに残った。
トウコは草を踏みつけながら、道路を北上していた。
曲がり角を曲がり、幼稚園の横を通り過ぎ、「育て屋」の看板の前まで来る。
そこでトウコは足を止め、看板を眺めた。
「育て屋」は、ポケモンをトレーナーの代わりに育ててくれる施設だ。イッシュ地方のそれは、広い庭と一軒の家からなる。
トウコは看板から目を離し、その横に立っていた少し背の低いおじいさんに声をかけた。
「すみません」
おじいさんはゆっくりとトウコの方を向いた。
「お客さんかね。育て屋ははじめてかな」
はじめてです、とトウコ。
「おお、そうか。それでは軽く説明から始めるとするか」
おじいさんはトウコに育て屋の説明をした。預けたポケモンを時間がたってから迎えにくるといくらか育っているということ、ここの育て屋は二匹のポケモンを育てられるということ。
「それだけではないぞ。二匹のポケモンの性別が違うと、稀に……」
そのとき、にわかに日差しがかげった。
ばさりと何かの羽ばたくような音が頭上から聞こえてくる。
トウコは空を見上げた。
大きな翼を広げ、長い尻尾をなびかせて降りてくるのは、三つ首の巨大なドラゴンだった。
「お客さんじゃ。ちょうどよいときに」
滑らかに下降してきたドラゴンは、どしっと安定感のある着地をして身を下げた。低くなったその背から、持ち主であろう長身の男が降りる。背中まである緑の髪に青と金と白の刺繍がなされたローブ。
トウコははっとした顔をした。
「プラズマ団の、ゲーチス、さん」
その声が聞こえたのか、男――ゲーチスは顔を上げる。
特徴的な紅い目がトウコを捉え、少しだけ細くなった。
「演説を聴いてくださっていた方ですかな?」
「そ、そうです」
「覚えていてくださったとは光栄ですよ、お嬢さん。アナタも育て屋に?」
そう言いながら、ゲーチスはゆっくりと近づく。
「そ、そうです……」
トウコはじり、と後ずさった。
「おや、随分と警戒されたものですね」
ゲーチスは面白そうに笑うと、おじいさんの方を向いた。
「預けておいたサザンドラの調子はどうですか?」
「順調じゃよ。こちらがそのサザンドラから発見されたタマゴじゃ」
おじいさんは懐から薄い水色のタマゴを取り出し、ゲーチスに手渡した。
「先ほど、このお嬢ちゃんにタマゴについて説明しようとしておったんじゃ。しかし、わしはそろそろタマゴの様子を見る時間なので、一旦外さにゃならん。お前さん、このタマゴをお嬢ちゃんに見せてやってくれんかね」
「もちろん、いいですよ」
左手でタマゴを持ったゲーチスは、トウコに目で合図した。
「おいでなさい、お嬢さん」
恐る恐る近づくトウコ。その姿を見ておじいさんは一つ頷くと、頼んだぞ、と言って背を向けた。
「これがポケモンのタマゴです。育て屋に預けた二匹のポケモンの性別が違うとき、稀に見つかります」
触ってもいいですよ、とゲーチスが言うと、トウコはタマゴにそっと手を伸ばした。
タマゴの表面は思ったよりもすべすべしており、トウコはその感触を確かめるようにゆっくりと撫でた。
「どうやったら孵るんだろう」
呟いたトウコにゲーチスは答えた。健康なポケモンと一緒に連れて歩いていればいずれ孵るということ、ある特性を持つポケモンと一緒だと孵化が早くなること。
トウコは初めの警戒はどこへやら、目を輝かせてそれを聞いていた。
「ポケモンの技ではタマゴの孵るのが早くなったりしないんですか?」
「いけません。タマゴにダメージを与えてしまいます」
「技がよくて特性がいいのはなぜですか?」
「そもそもダメージを受けるときというのは、刺激を受ける対象がその急な変化についていけないときです。
技は、相手の状態を急に変化させることによって相手にダメージを与えるものです。
技による急な変化を受けると、タマゴもまたダメージを受けてしまいます。
このため、タマゴに技を使用することは一般に好ましくありません」
「だから技はだめなんですね」
納得した風に、トウコ。
「そうです。では、特性がなぜよいのか。孵化を早めるとされる特性、ほのおのからだもまた、自分に急に接触してきた相手にダメージを与える、やけど状態にさせる特性です。しかし、それは戦闘での話です。トレーナーの手持ちとしてボールに入っているときは別なのです。
ほのおのからだを持つポケモンが手持ちに入っているとき、同じトレーナーの手持ちにいるポケモンたちには微量の熱が伝わります。その熱は急な状態変化につながらないほど微量で、微弱なものです。なにしろ、ボールを介していますから。ですから、その熱によっては、タマゴもダメージを受けることがないのです。おわかりでしょうか?」
「わかりました。そういうことだったんですね」
ありがとうございます、とトウコは嬉しそうな声で言った。好奇心からくる興奮を隠し切れていないのか、タマゴに伸ばした手が震える。
その姿に自身の「息子」Nが重なり、ゲーチスは苦い顔をした。
ポケモンへの好奇心は人一倍だが、自分とポケモン以外のことには興味が薄い「息子」。
頑固な性格はこれまでならば扱いやすさのもとであったが、近頃はそれが逆に働いてきている。
反抗的な態度が増えたのは、外に出た影響だろうか。何にせよ、早く軌道に戻さなければならない。そこまで考えて我に返り、思考を中断する。
タマゴに夢中になっているトウコは、彼の表情の変化に気付かなかったようだ。
「お嬢さん」
とゲーチスは言った。
「お嬢さん。ワタクシはそろそろおいとましなければなりません」
「あ……すいません」
トウコは慌ててタマゴから手を離し、ゲーチスを見た。
いえ、と言ってゲーチスは口角を上げる。
「それでは」
ばさり、と服を翻らせて背を向ける。ゲーチスの待たせていたサザンドラが、上体を低く下げた。
数メートルの距離を歩きながら、ゲーチスは考える。
Nの旅の様子を、本人からも聞いておかなければならない。報告だけでは思考の流れまで掴めぬだろう。
トレーナーから影響を受けたというようなことを言っていたが、それについてもいずれ聞く必要がありそうだ。
「あの」
トウコの呼び止める声に、ゲーチスは足を止めてちら、と振り返る。
「今日はありがとうございました」
一瞬虚をつかれたような顔をしたゲーチスだったが、すぐにもとの表情に戻り、どういたしまして、と言うと、サザンドラに向き直った。
サザンドラはゲーチスを掬い上げると、助走をつけ、翼を羽ばたかせて空へ飛び去った。
春風と、空を見上げるトウコだけがそこに残った。