ポケットモンスターブラック・ホワイト

 久しぶりに晴れた冬のある日、大都会ヒウンシティは夕暮れに染まっていた。
 演説を終えた帰り道、ゲーチスは沈みゆく夕日に目を細めた。
 歩きながら吐く息が白く残る。すれ違う人々の息もまた、白い。
「急がなきゃ」
「おっと失礼」
「明日もらえるかねえ」
 人々の会話を耳に入れながら、ゲーチスは街を歩く。
「お前は逆チョコしないの?」
「逆チョコ? 何それ、歌?」
「知らないのかお前。男が女にあげるやつだよ」
「ふーん、ありなのか。そういうの」
「最近のトレンドだってよ」
「だいたいチョコ合戦自体がカントーの文化だろ……」
 前から歩いてきた二人組の会話。知らなくて当然、と続ける声が遠ざかっていく。
 ゲートを通過した先は4番道路。吹き荒れる砂嵐を横目に見ながら、ゲーチスはボールを取り出した。「サザンドラ、城まで頼みます」
 三つ首の竜は小さく頷くと、ゲーチスを乗せて空を駆け上がった。

 翌日、ゲーチスは団員を連れてライモンシティに来ていた。
 市場の売り子がチョコを売っている。
「そこらのチョコとはちょこっと違う、シンオウ直輸入・タカイのチョコはいかがですか? シックな装丁で、今流行の逆チョコに是非……」
「ゲーチス様はチョコ買われないんです?」
 後ろを歩いていたプラズマ団員Aが売り子をちらりと見ながら聞いた。
「逆チョコ、ですか? あなたはどうなのです」
「僕ですか。そうですね、愛の女神様に逆チョコを、なんて考えてます」
「そうですか。まあ、彼女なら受け取ってくれるでしょう。応援してますよ、団員A」
「駄目元で頑張ります、ゲーチス様。今日の演説を成功させて、胸張ってチョコを渡します!」
 ぴっ、と敬礼すると、団員Aは聴衆集めに駆けだしていった。
 ゲーチスはゆっくりと売り場を通り抜け、市場横の広場の真ん中で立ち止まる。
 団員達の働きによって、広場には既に多数の住民が集まっていた。
 ゲーチスは満足げに笑うと、口を開く。
「こんにちは、ライモンの皆様。近頃寒いですが、お元気ですか?
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、初めての方は初めまして。ワタクシの名前はゲーチス、プラズマ団のゲーチスです……」
 群衆はたちまち彼の演説に引き込まれていく。
 今日の演説も首尾は上々であった。

「さて皆さん、お疲れ様です。今日はこの辺で解散にしましょうか。市場で買い物でもしていくとよいでしょう」
「お疲れ様でしたー」「お疲れー」「失礼しますー」
 団員達が街に散っていく。
 ゲーチスはふう、と息をついた。
「チョコレート、か」
 イッシュで普段売られているチョコは安物が多く、彼の口には合わないものばかり。普段は買えない物なので、この機会に味わっておこうかとゲーチスは考える。
「一つ、いただけますか」
「おっダンディなお客様。ありがとうございます。現在、全ての製品に無料で、バレンタイン特別ラッピングを致しております。逆チョコですか?」
「……まあ、そんなところですよ」
「いいですねー若いですねー。はい、できました。うまく渡せるといいですね」
「ええ。ありがとうございます。良い商売を。」
 ラッピングされたチョコを手に彼は市場を出、サザンドラの上でCギアを開いた。
「さて、どこで食べましょうか」

◆◆◆

「これはベルの、これは博士の、これはチェレンの、で、Nはどうしようね…」
 9番道路、巨大フレンドリィショップ。
 トウコはジャノビーを連れてバレンタインフェアの売場を歩いていた。
「まあ、会えたら渡せばいいか。あっ、これおいしそう。これはあたしの分にしよう。ジャノビー、これもお願い」
「ジャノ」
 受け取ったチョコをカートに入れるジャノビー。
 カートの中にあるチョコは多くも少なくもなく、新たなチョコはすんなりと収まった。
「会計お願いしまーす」
「はい、ありがとうございます。ラッピング致しましょうか?」
「お願いします」
 きれいに包装されたチョコをバッグにしまい、外に出たトウコはCギアを開く。
「もしもし、ベル。 今どこ? 夢の跡地ね。チェレンには連絡した? うん、そう。オーケイ、そこで待ち合わせってことで。すぐ行くね」
 ピッ、と通話を切ると、トウコはハトーボーをボールから出した。
「サンヨウまでお願い」
「クルルッ」

 サンヨウから夢の跡地までは歩いて数分もかからない。
 歩いてくる彼女を見つけたベルは嬉しそうに笑い、飛び跳ねながら手を振った。
「トウコ! お疲れー!」
「ありがとー、ベル。チェレンは?」
「ううん、まだ来てないよ。ちょっと時間早いもん」
 ベルが腕時計に目をやりながら答える。
 トウコもCギアを確認し、そうだね、と相槌を打つ。
「今年もベルは手作り?」
「うん! 材料買ってさ、昨日作ったの」
「おお、楽しみだなー。あたしのは今年も買ったやつだよ……」
 トウコは歩きながら自分のリュックとベルのリュックを見比べ、心なしか沈んだ表情を浮かべた。
「買ったチョコだったらだめなの? トウコは選ぶのうまいから、私いっつも楽しみにしてるよー」
「そうかな……」
「そうだよ。」
「ありがと、ベル。」
「どういたしましてー」
 そんな会話をしているうちに、二人は集合場所である空き地の中央に差し掛かった。
 もう一度時計を確認したとき、空からケンホロウが重たそうに降りてきた。
「トウコー、ベルー。遅れてごめん」
「あたしたちは早く来すぎちゃっただけだから、大丈夫ー…ってチェレン、相変わらずの量だね。だいじょぶ? 持とうか? 」
 大荷物を抱えたチェレンはよいしょ、とケンホロウの背から降りる。
「平気平気。ラッピングに時間かかっちゃってさ…」
「そりゃそれだけの量だとかかるわ。」
「いつもまめだねー、チェレンは。早く食べたいな!」
「へへん。それじゃいっせーのーでで出そうか」
「「「せーの!」」」
 三人はいっせいに各自のチョコを出す。
「わーチェレン、今年はザッハトルテなの? 頑張ったね…」
「豪勢だねーほら早くこちらにもよこしなさい。ベルはトリュフチョコか、うーんおいしそう」
「本当だ、クリームとチョコと、どんな配合具合なんだい? 後でメモってくれないかな。 トウコ、これまさかロディバブランドかい……」
「当たり。いつもより多くバトルしておりましたー。」
 三人は交換し合ったチョコを食べながら、今後の予定の打ち合わせをした。
「……それじゃあ博士には私とチェレンが持っていく感じかな?」
「あれっ、トウコはこの後用事あるのかい?」
「あー、ちょっとね。」
 トウコは曖昧に微笑んだ。
「もしかして本命かいトウコさん」
 チェレンがケンホロウによじ登りながら冷やかす。
「そういうわけじゃないんだけど……」
「ふふっ、うまく渡せるといいね!」
 チェレンに続いてケンホロウの背に乗ったベルがまたね、と手を振る。
「ありがと、博士によろしく」
 重たそうに飛び立つケンホロウを見送ったあと、しばらく一人で考え込んでいたトウコであったが、よし、と言うと立ち上がってボールを出す。
「とりあえず、いそうなところを当たってみるか」

◆◆◆

 一方そのころゲーチスは、電気石の洞窟にいた。
「こういうところで食べるのもよさそうだが…」
 右手で石に触れると石はすぐに動いてゲーチスの手を離れた。
「いかんせん、不安定すぎますかね…」
 石に背を向けると、見慣れた制服が駆けてくるのが見えた。
「ゲーチス様!」
「おやどうしたのですか団員B、こんなところで」
「我々からのチョコでございます。昨日、プラズマ団員皆で作っておりました」
 団員Bの背後数メートルにある岩陰から他の団員たちが固まって様子を見ているのが見えた。
 隠れているつもりなのだろうが、それぞれがゲーチスの反応を見ようとして完全に岩陰から出てしまっている。
 ゲーチスは彼らに気付いていない振りをしながらチョコを受け取った。
「ありがとうございます、帰ったらゆっくり食べさせていただきますよ」
 その言葉を聞くが速いか、団員たちは色めき立つ。
「やった」「受け取ってくださった!」「ありがとうございますゲーチス様!」
「我々としても嬉しい」「作るのを手伝ったかいはあった」「嬉しい重点」
 団員たちに混じって喜びを露わにしていたのは、ダークトリニティの四人。忍者めいた動作で静かにハイタッチし合っている。
「トリニティ」
「お呼びでしょうか」
 呼ばれた瞬間、喜びの輪からさっと外れて主の元へ参上するトリニティ。職務に忠実なのだ。
 彼らはすばやくゲーチスの足下に跪く。
「ワタクシは少し用事があるので、先に城に戻っていなさい」
「はっ」
 音無き風の如く、トリニティはその場からいなくなった。それを見た団員たちも、ゲーチスに挨拶をして散っていく。
「さて…どこで食べましょうか?」

◆◆◆

「結局残ったのは遊園地っていうね…」
 イッシュはそろそろ夕暮れ、トウコはあれからのんびりとNを探していた。
「まあ渡せなかったら渡せなかったであたしがおいしく食べるんだけどさ…」
 片手にチョコを持って大きく伸びをしたその目が、緑色の姿をとらえた。
「……Nか」
 一瞬身構えたトウコであったが、視認したその人物がNだとわかるとほっと息をついて呼ぶ。
「N!」
 トウコに気付いたNが振り返る。
「やあトウコ。どうしたの」
「今日はバレンタインだから、チョコを渡しにね」
 はい、とチョコを渡すトウコ。
「ありがとう、素敵な装丁だね。フラクタルか。僕もフラクタルは大好きでね、この前も…」
 受け取ったNはいつもの早口で語り始める。
 ひとくさり終わる頃にはもう、夕日が辺りを照らし出していた。
「おっといけない、もうこんな時間だ…僕にはやらなきゃいけないことがあるというのに。トウコありがとう、またお返しするよ」
 そう言うと、Nはひらっと片手を挙げて歩き去っていった。

◆◆◆

 Nを見送って、トウコは今度こそ伸びをした。
「ふうー、終わった終わった。一大イベントだったな」
 なんとはなしに観覧車へと足を向ける。
「お腹、空いたな……」
 歩きながら、残った包みにちらりと目をやる。
「乗りながら食べるか……」
 包みから目を離したトウコは観覧車の前に人がいたことに気付いた。しかし、遅かった。
 勢いを殺せず、トウコは正面から相手にぶつかった。
「うわ、ごめんなさ……」
 衝撃で相手のローブが揺れる。
「積極的ですね……お嬢さん」
 見上げたトウコの視界に写ったのは紅の目。
「ゲ……」
 ぶつかった姿勢のまま固まったトウコを見て、彼の酷薄そうな口元がふっと上がる。
「バレンタインですか?」
「な、なんであんたが……」
 さあ、なぜでしょうね、とゲーチスは答える。
「上の空で歩いておられたようですが。男のことでも考えていたのですか?」
「やっぱり嫌な奴だ、あんたは」
「嫌で結構」
 ゲーチスは嬉しそうに笑うと、彼女の両肩に手をかけた。
「嫌な奴にぶつかりたくないならば、もっと気をつけて歩くことです……」
 そう言って身体を離しかけた彼の動きが止まり、トウコの手元の包みを興味深そうに覗き込む。
「それはロディバのチョコではありませんか?」
「あんたのはタカイブランドじゃない。いい物もらってんのね」
「これはワタクシが自らのために購入した物」
「あたしのだってそうだよ」
「なるほど。……よろしければ交換しませんか、ワレワレのチョコを」
 ゲーチスは何気ない調子でチョコを差し出した。
 面食らって彼を見つめるトウコ。紅い瞳に浮かぶ思惑を読もうとするも、慇懃無礼の壁に阻まれて彼の感情は読めない。
 彼女は相手の目を注意深く見たまま口を開く。
「うん……確かに願ってもない話だ、タカイチョコなんて普段は食べられないし。でも……あんたからっていうのは」
「おやおや、お嬢さん。ワタクシを意識しているのですか? 嫌な奴であるワタクシを。」
 トウコの目に苛立ちが走る。彼女は罵倒の言葉をなんとか飲み込み、ゲーチスを睨みつけた。
「意識なんかするわけない、あたしはあんたが嫌いだから…いいよ、交換しよう。ほら」
 何でもない風を装い、ゲーチスにロディバを押しつける。
「そう、そうこなくては。お取りなさい。アナタの物だ」
 ゲーチスもまた、飄々とした態度でタカイから手を離した。手元に落ちるチョコを慌てて受け止めるトウコ。
「もっと丁寧に扱ったらどうなわけ」
 高いんだから、と言いかけたトウコのお腹が鳴った。そこでやっと空腹を思い出す。
「せっかくですから食べましょうか、チョコを」
「えっ」
「意識していないのでしょう? 観覧車に乗るぐらいわけないことではありませんか、お嬢さん」
 今の彼女には苛立つ気力すら惜しかった。早く食べたいという気持ちの赴くまま、深く考えずに誘いを受ける。浅はかな選択をしたことを後に彼女は後悔するが、今はまだそのときでない。

 向かい合わせで座席に座る。ゆっくりと上昇していく観覧車。
 景色を楽しむ余裕はなかった。彼女はもどかしい思いでシックな包装のそのチョコを開けた。
 きれいに並べられたそれは、生チョコだ。一気に食べたいところを我慢して一粒口に放り込む。
「うう、おいしい・・・タカイならではのチョコの香りが口いっぱいに」
 批評もそこそこに次のチョコを頬張る。おいしいおいしいと言いながら、チョコはあっという間に減っていく。
 残すところ数粒となって、彼女はやっと我に返った。
「タカイのチョコなのにあんまり味わってない……」
 チョコの箱を見つめて恨めしそうにそう呟く。くすくすと笑う声に顔を上げてみれば、ゲーチスが口元を押さえて笑いをこらえていた。
「空腹は最高のスパイス、といいますからね。ほら、そろそろ頂上ですよ」
 その言葉にトウコは慌てて外を眺める。
 いつもより高いところから見下ろすイッシュ地方は思っていたよりも広く感じた。
 沈みかけの夕日が刺し込んで、観覧車内は紅く染まる。
 ふとゲーチスに目をやると、彼もまた窓の外を見ていた。トウコはまじまじとゲーチスを見た。窓枠に肘をつき世界を見下ろす彼のいけ好かない紅い目も、淡い緑の髪も、夕焼け色に染まっている。しかし、それは決して元の色を失ってはいない。対して、自分はどうだろう。
 そのとき、夕日よりも紅い瞳がこちらを向いた。
「お嬢さん」
「え?」
「見とれていたのですか、ワタクシに」
「……そんなわけないでしょ」
 薄く微笑む彼の目からは、相変わらず本当の感情が読みとれない。
「だいたいアンタのどこに見とれる要素があるっていうの…そんな紅い目に。Nと同じアンタの髪だけは評価してあげてもいいかもね」
 それを言い終わるか言い終わらないかのうちに、トウコはゲーチスの目がすっと冷えるのを見た。
(まずい、怒らせた)
 しかし、その色が観測されたのは一瞬のみで、次の瞬間には元の紅に戻っていた。
「……N様には差し上げたのですか?」
「あ、うん。……なんで?」
「アナタがN様のお名前を出されましたのでね」
「うん……さっき会ったから」
「偶然ではないはずだ、アナタは探していらしたのでしょう?」
「だったら……だったら何だって言うのよ」
「お好きなのでしょう? N様のことが。結構なことです。王には配偶者が必要。優秀な血を残すなら、それは強い方がいい。アナタのようにね」
彼は淡々と、だが抑揚をつけて喋る。演説の時のように。その感情はわからない。
「ふ……ざけないで。アンタ何が言いたいの。なんでNの人生まで勝手に決めてるの。そんな権利なんかないはずよ」
「権利。面白い言葉を使いますね、お嬢さん……」
 ゲーチスの瞳の紅が深くなる。しかし、彼はそれ以上言葉を継ぐことをしなかった。

 観覧車が下に着く。冬の寒さが彼らを迎える。
 日は既に暮れており、暗くなった園内にもう人はいない。
「ありがとうございました。では、ワタクシはこれで」
 彼はひどく平坦な声で別れの挨拶をした。その目からは何の感情も読み取ることができない。
「待って、ゲーチス……」
 引き留める少女の呼びかけには答えず、ゲーチスはボールのボタンを押した。

◆◆◆

 夜の空を行くのは男を乗せた三つ首の竜。
「アナタは本当に不愉快だ、トウコ」
 竜の上で自分に言い聞かせるように呟いた男の言葉は、誰にも聞かれることなく空気に溶けていった。
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