ゆめにっき
シンセサイザーを弾きながら、彼女を待っていた。
このところずっと刺され続けていたため、彼女の不在を味わうのは久しい。
たまった感情を音にし、整理して吐き出す。分断された思考を音につなげて形にする。一息入れて、また続ける。そんな作業を時間を忘れてやっていた。
一週間ほどそうして過ごしていたが、彼女は来ない。こんなに長い間、彼女が訪れなかったことはあっただろうか。心配になってきた私は部屋の外に出てみることにした。
ドアの向こうに足を踏み出す。視界がぐにゃりと歪んだ次の瞬間、私は森の中にいた。
雨粒が頭に肩に当たって跳ねる。
アスファルトで舗装された道路が木々の間を突っ切って、雨に煙る地平線の向こうまで続いている。
等間隔に立つ街灯の光が、私の影を長く伸ばしていた。
慎重に一歩踏み出す。また一歩。水たまりの水が足を濡らす。ぴしゃり、という音。しばらくそうやって歩いていた。
ふと、視界の端に赤い姿が映った。私は立ち止まり、そちらに意識を向けた。
それは短円筒系の笠を被り、赤い布のような外套を身にまとった人だった。長い旅をしてきたのか、外套は所々すり切れ、笠には穴があいていた。笠の下の顔は暗くなっており、確認できない。
『こんにちは。すごい雨ですね』
私が声をかけると、その人は笠の下から私を見た、ように思えた。
「ここはいつもこうさ」
存外低い声だった。
『いつも、というと、ここがあなたの』
「ああ、『定位置』だ」
この世界のものには、彼女に発見される「位置」がそれぞれ決められている。ものによって違うその位置のことを私たちは「定位置」と呼んでいる。
今私の目の前にいる相手はこの道路を「定位置」にされているようだった。
聞きたいことはたくさんあったが、出会って間もないときにあれこれ尋ねるのは不躾だろう。
とりあえず、双方ともに呼び名がなければ不便だと思ったので、名を名乗ろうと口を開いた。
『申し遅れました、私の名は、』
言いかけて、言葉に詰まる。私は今まで「彼女」としか関わってこなかったため、他人に認識してもらうための名前がない。
どう説明したものか迷っていると、知っている、と小さく彼が言った。
「先生、だな。知っている」
先生、というのは彼女が私のことを呼ぶ時の名だ。それは彼女しか知らない名のはずだった。
『なぜ……あなたは……?』
「私は旅人だ。死神と呼ぶ者もいる」
『あなたは、彼女をご存じなのですか?』
「一方的に、だが」
妙な感情が湧き上がってきて、私は押し黙った。
口を開くととんでもないことを言ってしまいそうな気がした。彼女についての私の知識と彼の知識を比較し、優位に立とうとするような何らかを。そんなことを言えば、相手もいい気はしないだろう。せっかく見つけた思考する存在との関係を早々にこじらせにかかるのは、得策でない。
私がしばらく黙っていると、彼の方が口を開いた。
「私には彼女の全てが見えているのだ」
淡々と、言う。
「存在したときから君がピアノを弾いていたのと同様に、存在した時から私には彼女が見えていた。過去の彼女も未来の彼女も、現実の彼女も夢の彼女も、彼女の取りうる時間が全て私には見えていた。彼女は先生、君のところを頻繁に訪れただろう。そうすると、彼女を見ている私も、必然的に君のことを知ることになる。私が君の呼び名を知っていたのは、そういうわけだ」
『そうなのですか……』
にわかには納得し難い話であったが、名乗ってもいないのに私の呼び名を知っているということから彼に何かあるのは確かだった。何より、彼女の取り得る時間が全て見える……彼にはそう納得させる雰囲気があった。
『説明してくださり、ありがとうございます』
私は頭を下げた。
「ところで、君の方は自分をどう認識しているのだ。先生」
抑揚のない声で、話題をこちらに振る彼。私はあごに手を当てて思案しつつ口を開いた。
『そうですね、彼女の話から考えるに、私は彼女の現実にいる「先生」の模造品でしょう。都合のいい話し相手であり、行き場のない感情の廃棄場所であり、夢であり』
そこで私は言葉を切り、顔を上げた。
『彼女の取りうる全ての時間が見える、と言いましたね。彼女の未来、彼女はこの先どうなるのですか。彼女の苦しみはどうなっていくのですか。彼女は「幸せ」になれるのですか』
「君は本当にそれを聞きたいのか」
もちろんです、と私は頷く。しばらく間があって、
「彼女は自死する、近いうちに」
静かにそう告げる彼。
『……ご冗談を』
かろうじて、そう呟く。 雨音がやけに遠く聞こえた。
赤い笠を被った旅人は何の感情も窺えぬ声で、冗談ではない、と言った。
「そのような未来なのだ」
『そんな……』
何か言い返したいと思うも、言葉が出ない。
「釈然としない気持ちはわかる。だが」
彼は言葉を切った。
「これは確定事項だ。外界に干渉できない我々では止められぬ運命だ」
沈黙を雨音が埋める。赤い外套にしぶきが撥ね、彼の輪郭がぼやけて見えた。
それから何と答え、彼とどうやって別れたのかは覚えていない。気付くと私は自分の部屋、宇宙に浮かぶ宇宙船内にあると思しき自分の部屋で、鍵盤に触れていた。
ぽつぽつと音を鳴らし、重い心の下にメロディで基盤を作る。曲の響きに思考を埋める。
脳内にイメージが浮かんでゆく。白い部屋の人工的な光、彼女の話した外の世界、微笑む彼女、鈍い刃物の光、見たこともない青い空。
不意に、イメージたちが大きく揺らいだ。
私ははっと我に返る。
誰もいない白い部屋はいつも通りだが、風景が二重にぶれているのだ。
瞬きをすると、部屋がだんだんぼやけたようになっていく。
うまく焦点が定まらず、視線がさまよって、ぼやけた視界を支配する白色をぼんやりと眺める。
こんなことは初めてだ。私がおかしいのか、周りがおかしいのか。
戸惑っているうちに、景色は完全にぼやけきって何も見えなくなった。
◆
気がついたとき、私がいるのは自分の白い部屋ではなかった。
見覚えのない、暗い部屋のベッドの上。そこに私は座っていた。手には怪しげな白い錠剤を握っている。
何の錠剤だろうか。だが、何だかよくないもののような気がしたのでベッドサイドのゴミ箱に放り込む。
あたりを見回すと、埃をかぶった黒い電子ピアノが真っ先に目に付いた。もう何年も弾かれていないようだ。
ピアノの隣には木製のテーブルがあり、とんぼをあしらった卓上照明が置かれていた。どっしりとしたテーブルの上には何やら書きつけられたノートの切れ端が置いてある。
私は卓上照明を点け、ノートの切れ端を手に取った。目をこらし、書かれている文章を読む。
[例の焦燥は私を蝕むばかりだ。夢をなくし、希望もなくし、どうしてこんなことになってしまったのだろう。ピアノを見るたび心が痛む。彼女は今どうしているだろう。ああ。私はなぜ、こんなときに彼女のことを考えているのだろうか。私には彼女を救う資格がない。励ます資格すらない。自分すら救えないのに、どうして人に希望を説けよう? 今になって、私は死ぬのが怖い。こんなところで固まって、言い訳のように文章を連ねている。……もうこんなことはやめよう。せめて、綺麗にさよならを言おう。今こそ、わたしはこの世界を]
文章はそこで途切れていた。
センチメンタルな文章だ。誰にも見せるつもりがなかったのか、悲嘆に心を侵食されきったような。
焦燥、という言葉から見るに、書き手は何か大きな悩みを抱えていたようだ。「彼女」という言葉が気になったが、「彼女」?
不穏な内容の文書をばらばらに破いて捨てる。なんとなく、そうしなければいけないような気がした。
何かほかに手掛かりはないかと立ち上がると、大きな鏡に映った自分が目に留まった。
その姿に若干の違和感を感じて、じっと見る。
なんと言えばいいのか、白が多い。まるで私自身の部屋のような。いつもの私の姿はもっと黒っぽい印象だったと思うが。
そこまで考えて、やっと気付いた。
服装が違うのだ。
ひらひらとしていて、白い。これはおそらく話に聞いた「白衣」というものだろう。その下はいつもの私のような黒い服。
なぜ白衣を着せられているのだろうか。それ以前に、ここはどこなのだろうか。誰かからのメッセージのようなものまであるなど。彼女からそういった場所の話は聞いたことがないのだが。
視線を移すと、鏡の隣にドアがあった。
ゆっくり近付いて開けてみる。隣の部屋は食堂のようだった。
流しの横には食器棚。その横は玄関だ。
この外には何があるのだろうか。台所を横切りかけて、食卓の上の封筒に目が留まった。
その表面に書かれていた文字を見て、私は固まった。
「――――」
それはいつも彼女の話に出てくる「先生」……私のオリジナル、の名であった。
私は悟った。この白衣、あの手紙。この部屋もこの姿も、全て「彼」のものなのだと。
◆
「彼」の部屋のドアを開け、私は外に出た。
外はビルが立ち並ぶ「街」だった。その世界は鮮明で、どこまでも広がっていそうに見える。
空は抜けるように青く、雲ひとつない。周囲にはビルや店が整然と立ち並んでいるが、生命の気配はない。
歩きながら、現在の状況について考える。
ここは「先生」の住む街の複製か何かだろうか。彼女が私を、彼により重ねようとしているのだろうか。その意図は何だろうか。もしや、現実世界で「先生」と何かありでもしたのだろうか。
『彼女は自死する、近いうちに』
あの旅人の言葉を思い出し、私は不安になった。
道なりに進んでいくと、商店街に差し掛かった。そこにもやはり、人っ子一人いない。
彼女はこの街に来るだろうか。いや、もう来ているかもしれない。彼女が私の部屋に来なかったのは、ずっとここにいたからかもしれない。
それならば、彼女を探さなければ。
こんな風に夢と現実世界を近付けて、つらいことを思い出している可能性がある。泣いている可能性もある。
私の言葉は彼女には届かないが、一緒にいることくらいならできるだろう。
私は足を速めた。商店街を通り抜け、住宅街に入る。
色のない日光が屋根屋根を照らしている。その中に、頭一つ抜けて、タワーマンションがぽつんと立っていた。
あそこだ、という妙な確信があった。
マンションの中に入ると、私の目の前でドアが開いた。通り抜けて、開いていたエレベーターに乗る。手が勝手に行き先ボタンを押した。上昇するエレベーター。
ポン、と音を立てて扉が開いた。
私は外に出て、廊下を進んでゆく。向かうべき部屋はなぜかわかっていた。
目的の部屋の鍵は開いていた。
中に入るとまた廊下があって、一番手前の部屋にネームプレートがかかっていた。
「窓付き」。
私はノックをして――返事はなかった――ドアを開けた。誰もいない。ベランダの窓が開いていた。そのベランダにぽつんと置かれた階段、空へ向かい、縁で途切れている階段を上ろうとしている「彼女」。
「窓付きさん!」
思わず大きな声で呼んでしまう。彼女がびくっと全身を震わせ、振り返った。
「せん、せい……?」
「何をしているんですか、そんなところに上がったら危ないですよ、やめてください。ほらこっちに来て」
私は彼女の側まで行き、彼女を持ち上げて部屋に入り、窓を閉めた。
そうっと彼女を椅子に降ろす。彼女は目を伏せ、暗い表情で下を向いている。
「最近あなたが私の部屋……宇宙船に来なかったのは、やっぱりここにいたからなんですね。心配しましたよ。私はあなたがいなければ存在意義をなくしてしまうんですから」
「宇宙船……?」
彼女はそうっと顔を上げ、視線を私に向けた。その目には疑問符が浮かんでいる。
私の言葉が彼女に通じたのか? なぜ? 私が「彼」に限りなく近付いたことに関係があるのだろうか。
「せんせい、宇宙船って……」
「私の白い部屋は宇宙船にあるでしょう。窓付きさん、あなたはよくあの窓から宇宙を眺めていたではありませんか」
「まさか、先生? でも……ここは、現実だよ」
「え?」
今度は私が疑問符を浮かべる番だった。
「ここは夢でしょう。外には人っ子一人いません。建物にも人の気配はない。こんな昼間だというのに。現実というには明らかに異常ではありませんか」
「人、いるよ。うちには私と先生だけだけど。ほら、車の音がする」
車の音など聞いたことがないはずなのに、なぜかそれが車の音だとわかった。一台だけではない、何台も。そればかりではない。子供のはしゃぐ声。遠くから聞こえる「電車」の音。色々な音が聞こえてきた。
私は窓の外を見る。車、が走っている。歩いている人もいる。庭で遊ぶ子供もいる。
「これは……」
「見えてなかったの?」
「ええ、全く。でも、今はわかります」
「変なの……夢から出てきちゃったからかな……」
そう、それが問題だ。
「ここが本当に現実ならば、私は夢から出てきたことになる。しかし、そんなことは現実には起こり得ません」
「うーん、何度も言うけどここは現実だよ。エフェクトも出せないし、他の人とも言葉が通じるし。先生の見た目は「先生」だけど雰囲気が違うし、それに「先生」が私の夢とか宇宙船のことを知ってるのはおかしいから、やっぱり夢から出てきちゃったんじゃないかな……」
「……」
状況から考えると、そうなのかもしれない。理屈は今のところ不明だが。
『外界に干渉できない我々では止められぬ運命』。彼の言葉を思い出す。彼女が自死するという運命……
「先生」
「……何でしょうか、窓付きさん」
「先生ってここにいつまでいるの?」
いつまで。
「それは考えていませんでした」
私が自分の意思でここにいることを自分で選択できるのかどうかは不明だ。
何らかの力が働いているとして、彼女の運命を変えられれば私としてはいつ戻ることになってもいいのだが、運命を変えてもいないのに戻されるのだけは困る。
向こうの世界には特に未練があるわけではないし、長くいればいるほど、可能性は高まるのだから、
「いられるものならば、いつまでもいるつもりです」
そう答えた。
「……そう。どうして出てきてくれたの?」
「わかりません。しかし、窓付きさんに会いたいという気持ちがあったのは確かです」
「ふうん……」
興味がなさそうな返事をしてはいるものの、彼女の表情は少し嬉しそうであった。
「現実は大変だよ。しなきゃいけないこともいっぱいあるし。先生一人で生きていける?」
「一人で?」
それも考えていなかった。
外界の様子は彼女から聞いて知っていたし、どこか夢の中の風景と似ているところもある。
新しい世界への不安がないのは「先生」の記憶が私にあるから、とまではいかないが、ここに来てから、知らないはずのことについて考えるより先に「わかる」ことがあった。
知らないはずなのに知っている、という感覚だ。
思い出までにはさすがにアクセスできないが、生活する上で必要な知識のレベルならば取り出せる。
「大丈夫?」
大丈夫ですよ、と答えるより先に、
「私が一緒に暮らしてあげようか? この家を出てさ」
彼女がそう申し出た。
これほどアクティブな案を出されるとは思わなかった。しかし、一緒に暮らすことができれば、彼女をいつでも見守れる。言葉が通じるようになっているので、相談にも乗ることができる。だが、
「ありがたい申し出ですが、寂しくはないですか? ご両親と、確か弟さんもいらしたでしょう」
「平気だよ。家族とは一言も喋ってないし、ずっと顔合わせてないから、いてもいなくても変わらない。先生の方が私にとっては身近だよ。ほぼ毎日会ってたし、いつも話を聞いてくれるし」
「……」
本当にいいのだろうか。この世界にとっては異物であろう私に時間を割かせてしまっても。
いや。異物であろうが何であろうが、私は彼女の一部なのだ。自分に時間を割くということは、そうおかしなことではない。その辺りは世界もお目こぼししてくれるだろう。それに、現実に出てこれた私が目的のために今とれる選択肢は、彼女と一緒にいることくらいだ。
「では……お願いします」
「決まりだね」
「まずはご両親の了解を取らなければ」
「そんなこと気にするの? 先生って案外堅いね」
「余計なトラブルは起こしたくないですからね」
「なにそれ」
彼女はふふっと笑った。
このところずっと刺され続けていたため、彼女の不在を味わうのは久しい。
たまった感情を音にし、整理して吐き出す。分断された思考を音につなげて形にする。一息入れて、また続ける。そんな作業を時間を忘れてやっていた。
一週間ほどそうして過ごしていたが、彼女は来ない。こんなに長い間、彼女が訪れなかったことはあっただろうか。心配になってきた私は部屋の外に出てみることにした。
ドアの向こうに足を踏み出す。視界がぐにゃりと歪んだ次の瞬間、私は森の中にいた。
雨粒が頭に肩に当たって跳ねる。
アスファルトで舗装された道路が木々の間を突っ切って、雨に煙る地平線の向こうまで続いている。
等間隔に立つ街灯の光が、私の影を長く伸ばしていた。
慎重に一歩踏み出す。また一歩。水たまりの水が足を濡らす。ぴしゃり、という音。しばらくそうやって歩いていた。
ふと、視界の端に赤い姿が映った。私は立ち止まり、そちらに意識を向けた。
それは短円筒系の笠を被り、赤い布のような外套を身にまとった人だった。長い旅をしてきたのか、外套は所々すり切れ、笠には穴があいていた。笠の下の顔は暗くなっており、確認できない。
『こんにちは。すごい雨ですね』
私が声をかけると、その人は笠の下から私を見た、ように思えた。
「ここはいつもこうさ」
存外低い声だった。
『いつも、というと、ここがあなたの』
「ああ、『定位置』だ」
この世界のものには、彼女に発見される「位置」がそれぞれ決められている。ものによって違うその位置のことを私たちは「定位置」と呼んでいる。
今私の目の前にいる相手はこの道路を「定位置」にされているようだった。
聞きたいことはたくさんあったが、出会って間もないときにあれこれ尋ねるのは不躾だろう。
とりあえず、双方ともに呼び名がなければ不便だと思ったので、名を名乗ろうと口を開いた。
『申し遅れました、私の名は、』
言いかけて、言葉に詰まる。私は今まで「彼女」としか関わってこなかったため、他人に認識してもらうための名前がない。
どう説明したものか迷っていると、知っている、と小さく彼が言った。
「先生、だな。知っている」
先生、というのは彼女が私のことを呼ぶ時の名だ。それは彼女しか知らない名のはずだった。
『なぜ……あなたは……?』
「私は旅人だ。死神と呼ぶ者もいる」
『あなたは、彼女をご存じなのですか?』
「一方的に、だが」
妙な感情が湧き上がってきて、私は押し黙った。
口を開くととんでもないことを言ってしまいそうな気がした。彼女についての私の知識と彼の知識を比較し、優位に立とうとするような何らかを。そんなことを言えば、相手もいい気はしないだろう。せっかく見つけた思考する存在との関係を早々にこじらせにかかるのは、得策でない。
私がしばらく黙っていると、彼の方が口を開いた。
「私には彼女の全てが見えているのだ」
淡々と、言う。
「存在したときから君がピアノを弾いていたのと同様に、存在した時から私には彼女が見えていた。過去の彼女も未来の彼女も、現実の彼女も夢の彼女も、彼女の取りうる時間が全て私には見えていた。彼女は先生、君のところを頻繁に訪れただろう。そうすると、彼女を見ている私も、必然的に君のことを知ることになる。私が君の呼び名を知っていたのは、そういうわけだ」
『そうなのですか……』
にわかには納得し難い話であったが、名乗ってもいないのに私の呼び名を知っているということから彼に何かあるのは確かだった。何より、彼女の取り得る時間が全て見える……彼にはそう納得させる雰囲気があった。
『説明してくださり、ありがとうございます』
私は頭を下げた。
「ところで、君の方は自分をどう認識しているのだ。先生」
抑揚のない声で、話題をこちらに振る彼。私はあごに手を当てて思案しつつ口を開いた。
『そうですね、彼女の話から考えるに、私は彼女の現実にいる「先生」の模造品でしょう。都合のいい話し相手であり、行き場のない感情の廃棄場所であり、夢であり』
そこで私は言葉を切り、顔を上げた。
『彼女の取りうる全ての時間が見える、と言いましたね。彼女の未来、彼女はこの先どうなるのですか。彼女の苦しみはどうなっていくのですか。彼女は「幸せ」になれるのですか』
「君は本当にそれを聞きたいのか」
もちろんです、と私は頷く。しばらく間があって、
「彼女は自死する、近いうちに」
静かにそう告げる彼。
『……ご冗談を』
かろうじて、そう呟く。 雨音がやけに遠く聞こえた。
赤い笠を被った旅人は何の感情も窺えぬ声で、冗談ではない、と言った。
「そのような未来なのだ」
『そんな……』
何か言い返したいと思うも、言葉が出ない。
「釈然としない気持ちはわかる。だが」
彼は言葉を切った。
「これは確定事項だ。外界に干渉できない我々では止められぬ運命だ」
沈黙を雨音が埋める。赤い外套にしぶきが撥ね、彼の輪郭がぼやけて見えた。
それから何と答え、彼とどうやって別れたのかは覚えていない。気付くと私は自分の部屋、宇宙に浮かぶ宇宙船内にあると思しき自分の部屋で、鍵盤に触れていた。
ぽつぽつと音を鳴らし、重い心の下にメロディで基盤を作る。曲の響きに思考を埋める。
脳内にイメージが浮かんでゆく。白い部屋の人工的な光、彼女の話した外の世界、微笑む彼女、鈍い刃物の光、見たこともない青い空。
不意に、イメージたちが大きく揺らいだ。
私ははっと我に返る。
誰もいない白い部屋はいつも通りだが、風景が二重にぶれているのだ。
瞬きをすると、部屋がだんだんぼやけたようになっていく。
うまく焦点が定まらず、視線がさまよって、ぼやけた視界を支配する白色をぼんやりと眺める。
こんなことは初めてだ。私がおかしいのか、周りがおかしいのか。
戸惑っているうちに、景色は完全にぼやけきって何も見えなくなった。
◆
気がついたとき、私がいるのは自分の白い部屋ではなかった。
見覚えのない、暗い部屋のベッドの上。そこに私は座っていた。手には怪しげな白い錠剤を握っている。
何の錠剤だろうか。だが、何だかよくないもののような気がしたのでベッドサイドのゴミ箱に放り込む。
あたりを見回すと、埃をかぶった黒い電子ピアノが真っ先に目に付いた。もう何年も弾かれていないようだ。
ピアノの隣には木製のテーブルがあり、とんぼをあしらった卓上照明が置かれていた。どっしりとしたテーブルの上には何やら書きつけられたノートの切れ端が置いてある。
私は卓上照明を点け、ノートの切れ端を手に取った。目をこらし、書かれている文章を読む。
[例の焦燥は私を蝕むばかりだ。夢をなくし、希望もなくし、どうしてこんなことになってしまったのだろう。ピアノを見るたび心が痛む。彼女は今どうしているだろう。ああ。私はなぜ、こんなときに彼女のことを考えているのだろうか。私には彼女を救う資格がない。励ます資格すらない。自分すら救えないのに、どうして人に希望を説けよう? 今になって、私は死ぬのが怖い。こんなところで固まって、言い訳のように文章を連ねている。……もうこんなことはやめよう。せめて、綺麗にさよならを言おう。今こそ、わたしはこの世界を]
文章はそこで途切れていた。
センチメンタルな文章だ。誰にも見せるつもりがなかったのか、悲嘆に心を侵食されきったような。
焦燥、という言葉から見るに、書き手は何か大きな悩みを抱えていたようだ。「彼女」という言葉が気になったが、「彼女」?
不穏な内容の文書をばらばらに破いて捨てる。なんとなく、そうしなければいけないような気がした。
何かほかに手掛かりはないかと立ち上がると、大きな鏡に映った自分が目に留まった。
その姿に若干の違和感を感じて、じっと見る。
なんと言えばいいのか、白が多い。まるで私自身の部屋のような。いつもの私の姿はもっと黒っぽい印象だったと思うが。
そこまで考えて、やっと気付いた。
服装が違うのだ。
ひらひらとしていて、白い。これはおそらく話に聞いた「白衣」というものだろう。その下はいつもの私のような黒い服。
なぜ白衣を着せられているのだろうか。それ以前に、ここはどこなのだろうか。誰かからのメッセージのようなものまであるなど。彼女からそういった場所の話は聞いたことがないのだが。
視線を移すと、鏡の隣にドアがあった。
ゆっくり近付いて開けてみる。隣の部屋は食堂のようだった。
流しの横には食器棚。その横は玄関だ。
この外には何があるのだろうか。台所を横切りかけて、食卓の上の封筒に目が留まった。
その表面に書かれていた文字を見て、私は固まった。
「――――」
それはいつも彼女の話に出てくる「先生」……私のオリジナル、の名であった。
私は悟った。この白衣、あの手紙。この部屋もこの姿も、全て「彼」のものなのだと。
◆
「彼」の部屋のドアを開け、私は外に出た。
外はビルが立ち並ぶ「街」だった。その世界は鮮明で、どこまでも広がっていそうに見える。
空は抜けるように青く、雲ひとつない。周囲にはビルや店が整然と立ち並んでいるが、生命の気配はない。
歩きながら、現在の状況について考える。
ここは「先生」の住む街の複製か何かだろうか。彼女が私を、彼により重ねようとしているのだろうか。その意図は何だろうか。もしや、現実世界で「先生」と何かありでもしたのだろうか。
『彼女は自死する、近いうちに』
あの旅人の言葉を思い出し、私は不安になった。
道なりに進んでいくと、商店街に差し掛かった。そこにもやはり、人っ子一人いない。
彼女はこの街に来るだろうか。いや、もう来ているかもしれない。彼女が私の部屋に来なかったのは、ずっとここにいたからかもしれない。
それならば、彼女を探さなければ。
こんな風に夢と現実世界を近付けて、つらいことを思い出している可能性がある。泣いている可能性もある。
私の言葉は彼女には届かないが、一緒にいることくらいならできるだろう。
私は足を速めた。商店街を通り抜け、住宅街に入る。
色のない日光が屋根屋根を照らしている。その中に、頭一つ抜けて、タワーマンションがぽつんと立っていた。
あそこだ、という妙な確信があった。
マンションの中に入ると、私の目の前でドアが開いた。通り抜けて、開いていたエレベーターに乗る。手が勝手に行き先ボタンを押した。上昇するエレベーター。
ポン、と音を立てて扉が開いた。
私は外に出て、廊下を進んでゆく。向かうべき部屋はなぜかわかっていた。
目的の部屋の鍵は開いていた。
中に入るとまた廊下があって、一番手前の部屋にネームプレートがかかっていた。
「窓付き」。
私はノックをして――返事はなかった――ドアを開けた。誰もいない。ベランダの窓が開いていた。そのベランダにぽつんと置かれた階段、空へ向かい、縁で途切れている階段を上ろうとしている「彼女」。
「窓付きさん!」
思わず大きな声で呼んでしまう。彼女がびくっと全身を震わせ、振り返った。
「せん、せい……?」
「何をしているんですか、そんなところに上がったら危ないですよ、やめてください。ほらこっちに来て」
私は彼女の側まで行き、彼女を持ち上げて部屋に入り、窓を閉めた。
そうっと彼女を椅子に降ろす。彼女は目を伏せ、暗い表情で下を向いている。
「最近あなたが私の部屋……宇宙船に来なかったのは、やっぱりここにいたからなんですね。心配しましたよ。私はあなたがいなければ存在意義をなくしてしまうんですから」
「宇宙船……?」
彼女はそうっと顔を上げ、視線を私に向けた。その目には疑問符が浮かんでいる。
私の言葉が彼女に通じたのか? なぜ? 私が「彼」に限りなく近付いたことに関係があるのだろうか。
「せんせい、宇宙船って……」
「私の白い部屋は宇宙船にあるでしょう。窓付きさん、あなたはよくあの窓から宇宙を眺めていたではありませんか」
「まさか、先生? でも……ここは、現実だよ」
「え?」
今度は私が疑問符を浮かべる番だった。
「ここは夢でしょう。外には人っ子一人いません。建物にも人の気配はない。こんな昼間だというのに。現実というには明らかに異常ではありませんか」
「人、いるよ。うちには私と先生だけだけど。ほら、車の音がする」
車の音など聞いたことがないはずなのに、なぜかそれが車の音だとわかった。一台だけではない、何台も。そればかりではない。子供のはしゃぐ声。遠くから聞こえる「電車」の音。色々な音が聞こえてきた。
私は窓の外を見る。車、が走っている。歩いている人もいる。庭で遊ぶ子供もいる。
「これは……」
「見えてなかったの?」
「ええ、全く。でも、今はわかります」
「変なの……夢から出てきちゃったからかな……」
そう、それが問題だ。
「ここが本当に現実ならば、私は夢から出てきたことになる。しかし、そんなことは現実には起こり得ません」
「うーん、何度も言うけどここは現実だよ。エフェクトも出せないし、他の人とも言葉が通じるし。先生の見た目は「先生」だけど雰囲気が違うし、それに「先生」が私の夢とか宇宙船のことを知ってるのはおかしいから、やっぱり夢から出てきちゃったんじゃないかな……」
「……」
状況から考えると、そうなのかもしれない。理屈は今のところ不明だが。
『外界に干渉できない我々では止められぬ運命』。彼の言葉を思い出す。彼女が自死するという運命……
「先生」
「……何でしょうか、窓付きさん」
「先生ってここにいつまでいるの?」
いつまで。
「それは考えていませんでした」
私が自分の意思でここにいることを自分で選択できるのかどうかは不明だ。
何らかの力が働いているとして、彼女の運命を変えられれば私としてはいつ戻ることになってもいいのだが、運命を変えてもいないのに戻されるのだけは困る。
向こうの世界には特に未練があるわけではないし、長くいればいるほど、可能性は高まるのだから、
「いられるものならば、いつまでもいるつもりです」
そう答えた。
「……そう。どうして出てきてくれたの?」
「わかりません。しかし、窓付きさんに会いたいという気持ちがあったのは確かです」
「ふうん……」
興味がなさそうな返事をしてはいるものの、彼女の表情は少し嬉しそうであった。
「現実は大変だよ。しなきゃいけないこともいっぱいあるし。先生一人で生きていける?」
「一人で?」
それも考えていなかった。
外界の様子は彼女から聞いて知っていたし、どこか夢の中の風景と似ているところもある。
新しい世界への不安がないのは「先生」の記憶が私にあるから、とまではいかないが、ここに来てから、知らないはずのことについて考えるより先に「わかる」ことがあった。
知らないはずなのに知っている、という感覚だ。
思い出までにはさすがにアクセスできないが、生活する上で必要な知識のレベルならば取り出せる。
「大丈夫?」
大丈夫ですよ、と答えるより先に、
「私が一緒に暮らしてあげようか? この家を出てさ」
彼女がそう申し出た。
これほどアクティブな案を出されるとは思わなかった。しかし、一緒に暮らすことができれば、彼女をいつでも見守れる。言葉が通じるようになっているので、相談にも乗ることができる。だが、
「ありがたい申し出ですが、寂しくはないですか? ご両親と、確か弟さんもいらしたでしょう」
「平気だよ。家族とは一言も喋ってないし、ずっと顔合わせてないから、いてもいなくても変わらない。先生の方が私にとっては身近だよ。ほぼ毎日会ってたし、いつも話を聞いてくれるし」
「……」
本当にいいのだろうか。この世界にとっては異物であろう私に時間を割かせてしまっても。
いや。異物であろうが何であろうが、私は彼女の一部なのだ。自分に時間を割くということは、そうおかしなことではない。その辺りは世界もお目こぼししてくれるだろう。それに、現実に出てこれた私が目的のために今とれる選択肢は、彼女と一緒にいることくらいだ。
「では……お願いします」
「決まりだね」
「まずはご両親の了解を取らなければ」
「そんなこと気にするの? 先生って案外堅いね」
「余計なトラブルは起こしたくないですからね」
「なにそれ」
彼女はふふっと笑った。