ゆめにっき

 ある冬の日、先生のことを思い出していた私は、突然感じた負い目に耐えられず咳をした。その負い目はずしりと心に居座っていて、何ともし難い。私は布団にくるまって、思考を辿り始めた。


 今も休職している先生がいる。私のクラブの顧問だ。休職は病気療養のためで、当初は半年という話だった。しかし先生の病気はなかなかよくならず、休職は延長になっていた。
 先生の休職後しばらくして私は、もともと休みがちだった学校をいっそう休みがちになった。どうしてそうなったのかということについては、自分でもまだわかっていない。
 そうなってから少しして、先生から連絡があった。休職中の先生は私を心配し、色々と世話を焼いてくれた。勉強を見てくれたり、話を聞いてくれたり、等々。先生にはお世話になった……とてもよくお世話になった、はずだ。
 お世話になったはずだ。そう思う。しかし、お世話になったと思うとき、私の心は妙に冷静で凪いでいた。感謝の気持ちひとつ湧いてこなかった。そのことを考えるときはいつもそうだった。はじめは私が冷たい心の持ち主だからかと思っていたが、そんな簡単に片付けられるものでもなかった。ではどうしてそう思うのだろう。先生にだけ感謝の気持ちを抱けないというのも、おかしな話だ。自分が先生を舐めていて、何をしてもらっても当たり前だと思っているとは思いたくない。ならば別の理由だ。何が原因なのだろう。
 先生が悪いとは思いたくないので、先生のせいではない。ならば自分が何か悪いはずだから、悪いところを見つける必要がある。
 まずは、具体的にどうお世話になったのかから考えよう。私は、記憶を引っ張り出し、出来事を具体的に思い出しながら一つ一つ考えていこうとした。途中まではうまく進むのだが、しばらく進めていくと、思い出す速度が遅くなっていった。かまわず無理やり追おうとしたが、進めるたびに記憶のスライドはどんどん重くなり、ついには動かせないほど重くなってしまった。しばらく試してみていたが、どうにもこうにもうまくいかないので、とりあえず中断することにした。どうにもならない無力感と、なんだかよくわからない罪悪感が襲ってきて、追われるように私は目を閉じた。

 目を開けると、夢の中だった。ドアを開けて外に出た。外に並んだドアの中から適当に選んで入り、ぶらぶら歩いた。
 「先生」のところに行こうかと私は思った。先生と違い、夢の中の「先生」に私は別にお世話になっていない。無理に感謝もしなくていいから、楽でいいだろう。
 ここにいるときは、あまり色々なことを考えなくてもいいから助かる。時々怖いものに出会ったりもするけど、本当にどうしようもないときには包丁や目玉腕がある。相手を包丁で刺してしまっても、次来たときには復活しているから、罪悪感も少なくてよい。
 そんなことを思いながら歩いていると、いつもの宇宙船に到着した。
「こんにちは、先生」
 そう挨拶すると、シンセサイザーに向かっていた「先生」が振り向いて、『ピロ』と言った。挨拶を返してくれたんだろうか、わからない。
 部屋の真ん中まで行って、座った。特にすることもないし喋ることもないので、ぼんやりと壁や床を見る。白い。しみひとつない。まるで現実の先生の着ていた白衣のようだとまで考えて、やめた。そして、意識的に窓に目を移した。
窓の外には相変わらず漆黒の宇宙が広がり、暗黒の中には瞬かない星が散らばっていた。いつ見ても、不思議な景色だ。床に座ってこんな景色を見るなんて、ここに来るまでは考えもしなかった。瞬く星しか私は見たことがなかったし。
 瞬かない星や、真空の空間で何が起こるかについて、純粋に疑問を持って楽しみ思い巡らし、周囲に話しかけた日々を思い出す。あのころの私は、いつか自分の好奇心を自由に開放しても責められなくなるような日がくると信じていた。
 私は笑い、ため息をついた。ここに来てまで、どうしてそんなことを考えているんだろう。ふとした瞬間に記憶と現状の関連性を見つけてしまう頭を、疎ましく思った。
 何も考えたくない私は、ずっとここに留まっていたいのだ。でもそれは、苦しみを引き伸ばすだけでもある。何も進まなければ何も解決しないことはわかっている。しかし、私には動くだけのエネルギーがもう残っていない。結局のところ、動きたくないだけなのだ。
 心の水面が再び静まり返った。私は咳をした。思い浮かぶ全ての意見が正しく思えて、自分がどう思っているのかわからなくなってしまった。
 窓を見ながら考えていたはずが、俯いていたことに気づく。私は顔を上げた。
「うわあ?」
 いつの間にか、先生が私を覗き込んでいた。私は反射的に包丁を装備し、構えた。先生は驚いたように身体を起こし、いつものように後ずさった。私は咳をしたくなるのを堪えて、歯を食いしばった。包丁を持つ手が震える。刺すか刺さないかは私の選択に委ねられている。
 私は包丁を戻した。
「先生」
 先ほどまでの怯えようはどこへやら、平常状態に戻った先生がこちらを見た。私は慎重に言葉を探す。
「近いのは、好きじゃない。その、あっちの先生と混同しそうになるから、」
 そこまで話したところで、こみ上げてきた吐き気をやりすごした。息を大きく吸って、吐く。
「だからね、もう少し慎重に動いてくれるとうれしい」
 言ってしまってから、どの口がそれを言うんだろうかと思った。先生に何か要求できる権利を私は持ち合わせていない。夢の中でまで、私は恩知らずのように振舞うのかと思った。しかし、そう思ってしまってから、冷静な自分がそれは違うと言った。なぜならこれは先生ではない。「先生」なのだ。私は彼にお世話になったわけではない、借りもない。関係ないのだ。するともう一人の自分が確かにそうだねと言った。でも、と続く。でも私は先生に借りがある。冷静な自分は、わからずやめと反駁した。どうして混同するんだ、お願いだから冷静になってくれ、と言う。
 私は二人の自分から距離をとることにした。そして「先生」の方を見る。「先生」はピロ、と言った。承諾だか否定だかわからないが、ともかく何らかのコミュニケーションは成立したようだ。あとは言い争っている心の中の二人の自分を押し潰すだけだ。だがそれが難しい。私は目を閉じて、水面を思い浮かべた。平坦。
 私は目を見開いた。自分を押し潰そうとして心を平坦にするなら、心が平坦になっているときは自分を押し潰そうとしているときなのだ。そう気付いた。だが、わかったところで、どうにもならない。苦しみから逃れられるようになるわけでもない。私は首を横に振り、目玉腕になった。
 手を握る前に「先生」を見ると、「先生」は返事をしたときのまま、そこに立っていた。扉の間に戻る前に、ピロ、という声が聞こえた。別れの挨拶でもしてくれたのだろうか、わからない。

 ともかく、私は頬をつねった。ベッドで目を覚ました。

 日はとうに落ちていた。

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