ゆめにっき
子供のころ、狼と猟師の話を読んだ。
暴食の灰色狼が、お百姓さんの飼っている鶏や羊を食べてしまう。困ったお百姓さんは、猟師に狼退治を依頼する。狼は、お百姓さんの山羊や猫や馬までみんな食べてしまうが、猟師に撃たれて退治される。
幼いころから周囲とうまくやれなかった私は、狼に感情移入してその話を読んでいた。自分はみんなを嫌な目に遭わせてしまう狼で、いずれは猟師に退治されてしまうのだ。漠然とそう思っていた。
私が学校で理科部に所属していたのは、理科が特別好きだったわけじゃない。顧問の先生が私の面倒をよく見てくれていたからだ。
理科部のメンバーは十数人ほどおり、活動計画をたてて、べっこう飴を作ったり炎色反応を見たりといったことをしていた。
しかし私は学校そのものにあまり来ていなかったため、本活動に参加することも少なかった。もっぱら活動終了後に登校し、理科準備室に行って、後片付けをしている先生と話をするのがメインだった。
こんな調子なので、部のメンバーとも特に仲が良いわけではなかった。廊下で会った時に少し挨拶されたり、調子はどうかと聞かれる程度の仲だ。
学校での私はいつも一人でいがちだった。今思えば、理科部のメンバーはそんな私のことを心配してくれていたのかもしれない。しかしながら、私の方は、彼らに無理に気を遣わせていると感じていた。そして、そのことをとても申し訳なく、つらく思っていた。
部のメンバーから優しくされればされるほどつらくなる、だから避ける。そんな日々だった。
新入部員の話を顧問の先生から聞いたのは真冬のことだった。
「彼女はあなたとは別のクラス……私のクラスの子なのですが、理科がお好きで。特に化学の分野、炎色反応や気体と気体の反応に興味を持っておられるようで、よくここに来られるのですよ」
その彼女、モノ江ちゃんが理科部に入部してきたのは、話を聞いてすぐの時期だ。彼女はあっという間に部になじみ、皆の話を楽しそうに聞き、機知に富んだ反応を返した。いつも一人でいる私とは大違いだった。
私は相変わらず部には行かなかったけれど、理科準備室で私と先生が話す時間にモノ江ちゃんも時々参加するようになった。
モノ江ちゃんを交えて話すことにはじめは緊張したけれど、三人で話をするのは悪くなかった。三人で話すときのモノ江ちゃんは部にいるときと全く変わらぬ様子で、私の話も先生の話も平等に聞いた。そしてモノ江ちゃん自身が話すときはいつも、未知の話をわかりやすくかつおもしろく話してくれた。
狼のような私に優しくしてくれる人が、先生の他にもいるとわかった。そして、少しだけ居場所を見つけたような気になった。
三人で過ごす時間は、冬の終わりまでたびたび続いた。
春になった。先生がいなくなった。
新学期、始業式を休んだ後、いつもの時間に理科準備室へ行くと、なぜか鍵がかかっていた。
ドアを見ると、なにやら紙が貼ってあった。先生が病気のために半年ほど休職する旨書かれたプリントだった。
プリントの体裁を見るに、学期初めに全校生徒に配られたもののようだ。
私は授業のわからない点を先生によく教えてもらっていた。授業に来ないので、たまに来たときにわからないところが多かったのだ。しかし、先生が勉強を教えてくれるおかげでテストはまあまあの点が取れていた。だから、私も学校を休んでいることにそこまで罪悪感を感じなくてもよくなっていたのだと思う。
先生がいないとわからないところを誰にも聞けなくなってしまう。例によって今日も質問を紙に控えてきていた私は、途方にくれた。
「窓付きちゃん」
いきなり声をかけられ、慌てて後ろを振り返った。モノトーンの服を着た女の子が立っていた。見覚えのある顔だった。そうだ、彼女は、
「モノ江ちゃん」
「どうしたの? そんなところでうつむいて」
「ええと、その」
言おうか言うまいか迷って、私は手に持っていた紙を握りしめた。かさりという音をたてて、紙にしわがよる。モノ江ちゃんは何も言わずに待っていた。
「あのね」
「うん」
「勉強してたら」
「うん」
「わからないとこが、あって」
うんうん、とモノ江ちゃん。
「いつもは先生に聞いてたんだけど、先生、いなくて」
大きく頷くモノ江ちゃん。理科部のモノ江ちゃん。理科がお好きで、という先生の言葉を思い出した。
「あの……モノ江ちゃん。もしよければなんだけど、私に勉強教えてくれないかな」
ん、とモノ江ちゃんはいったん目を少し見開いた。ああだめか、と私は思って口を開こうとしたとき、いいよ、とモノ江ちゃんが言った。
「え」
「いいよ。いつがいい?」
それから私は一週間に何度か、学校に行った時、モノ江ちゃんに勉強を教えてもらうようになった。
モノ江ちゃんは私のどんな疑問にも根気よく付き合い、一緒に考えてくれた。休憩時間にはおやつを一緒に食べたり、夕日を見に行ったりもした。友達ができたみたいでとても嬉しかった。
相変わらず私は学校にあまり行かなかったけれど、週1回登校が週3回登校ぐらいの頻度にはなった。
「おはよ、窓付き」
すれ違う理科部メンバーに声をかけられる。
「ああ、おはよ」
「今日は学校来たんだ?」
「ふふ、まあね」
私は相手に対してそれほど恐縮しなくなった。
私には今や、何か怖いことがあっても相談できる友達がいるのだ。排斥されるべき狼であろうと、優しくして付き合ってくれる友達がいるのならばそれでかまわないのではないかと思うようになっていた。
しかしどうしてモノ江ちゃんは、狼に優しくするのか。それだけが私にはわからず、疑問は私の中で日を追うごとに膨らんでいった。「普通の人」の生活に近づけば近づくほど、周囲の環境がよくなればよくなるほど、私はそのことを不思議に思うようになった。
ある日、いつもの教室で、私はなんとはなしにモノ江ちゃんに訊いた。
「モノ江ちゃん」
「なあに、窓付きちゃん」
「モノ江ちゃんはどうして、私に優しくしてくれるの?」
それを聞いたモノ江ちゃんは、不思議そうにまばたきをした。そして、いつもと全く変わらない笑みを浮かべてこう言った。
「私は他の人と同じようにあなたに接しているだけよ?」
「え」
私はモノ江ちゃんに問いかけた姿勢のまま、固まった。
心臓が大きく鳴っている。
どうしてだろうか、めまいがした。「他の人と同じように」?
「それって……」
かろうじて、言葉を搾り出す。
「どういう」
「どんな人にでも、相手と接する機会を与えなければいけないということよ。平等。私が他人に接する態度は、多少の違いはあるかもしれないけれど、基本は変わらないわ。同じよ」
モノ江ちゃんはどんな相手にも優しく接し、上手に距離をとり、無理難題は上手に流す。しかし、同じクラスのモノ子ちゃんにだけは、どこか真剣というか、慎重な態度をとることに、私は最近、ぼんやりと気づいていた。平等な態度、の中の特別なのだろうか? よくわからなかった。でも、モノ江ちゃんが自らのことをみんなに平等、というならば、そうなのだろうと思った。
「そっか……」
「平等に接しなければ不公平でしょう?」
ね、とモノ江ちゃんは変わらない笑みを浮かべて言った。私は何か言おうと思ったけれど、うまく言葉を見つけられず、モノ江ちゃんから目を逸らした。胸が詰まっているような気がして、後頭部が妙に熱かった。
「私……そろそろ帰る、ね」
「あら、残念。でも、暗くなってきたし、それがいいでしょうね」
私はもう少しここに残るわ、やることが残っているの、とモノ江ちゃん。
夕暮れ時の商店街はにぎやかで、色々な物の混ざった匂いがした。
道行く人は皆忙しそうだが、どこか楽しそうで、私だけが別の世界の人のようだった。
私一人が別世界にいるのなら、私の存在などきっと誰の目にも映らないのだろう。そうであれば、誰のことも嫌な目に遭わせずにすむ……狼だなんだと心配することなどなかったのだ。
商店街を過ぎて住宅街に入る。周囲の家も私のかばんも手も足も夕焼けで赤く染まっていた。
そうか、と呟く。
私は、狼ではなかった。猟師でもなければ、お百姓さんでもなかった。
「狼は夜の間に5匹の羊と1匹の猫を食べました」
羊だった。猫だった。
「……そして狼は退治されました。猟師はお百姓さんにたくさんのお礼をもらいました。家畜も畑も元通りになったお百姓さんは、ずっと幸せに過ごしました」
物語を読み終わってから、羊や猫のことを思い出す読者は、たぶんいない。
「めでたし、めでたし」
夕焼けが私の心を刺すようだった。
暴食の灰色狼が、お百姓さんの飼っている鶏や羊を食べてしまう。困ったお百姓さんは、猟師に狼退治を依頼する。狼は、お百姓さんの山羊や猫や馬までみんな食べてしまうが、猟師に撃たれて退治される。
幼いころから周囲とうまくやれなかった私は、狼に感情移入してその話を読んでいた。自分はみんなを嫌な目に遭わせてしまう狼で、いずれは猟師に退治されてしまうのだ。漠然とそう思っていた。
私が学校で理科部に所属していたのは、理科が特別好きだったわけじゃない。顧問の先生が私の面倒をよく見てくれていたからだ。
理科部のメンバーは十数人ほどおり、活動計画をたてて、べっこう飴を作ったり炎色反応を見たりといったことをしていた。
しかし私は学校そのものにあまり来ていなかったため、本活動に参加することも少なかった。もっぱら活動終了後に登校し、理科準備室に行って、後片付けをしている先生と話をするのがメインだった。
こんな調子なので、部のメンバーとも特に仲が良いわけではなかった。廊下で会った時に少し挨拶されたり、調子はどうかと聞かれる程度の仲だ。
学校での私はいつも一人でいがちだった。今思えば、理科部のメンバーはそんな私のことを心配してくれていたのかもしれない。しかしながら、私の方は、彼らに無理に気を遣わせていると感じていた。そして、そのことをとても申し訳なく、つらく思っていた。
部のメンバーから優しくされればされるほどつらくなる、だから避ける。そんな日々だった。
新入部員の話を顧問の先生から聞いたのは真冬のことだった。
「彼女はあなたとは別のクラス……私のクラスの子なのですが、理科がお好きで。特に化学の分野、炎色反応や気体と気体の反応に興味を持っておられるようで、よくここに来られるのですよ」
その彼女、モノ江ちゃんが理科部に入部してきたのは、話を聞いてすぐの時期だ。彼女はあっという間に部になじみ、皆の話を楽しそうに聞き、機知に富んだ反応を返した。いつも一人でいる私とは大違いだった。
私は相変わらず部には行かなかったけれど、理科準備室で私と先生が話す時間にモノ江ちゃんも時々参加するようになった。
モノ江ちゃんを交えて話すことにはじめは緊張したけれど、三人で話をするのは悪くなかった。三人で話すときのモノ江ちゃんは部にいるときと全く変わらぬ様子で、私の話も先生の話も平等に聞いた。そしてモノ江ちゃん自身が話すときはいつも、未知の話をわかりやすくかつおもしろく話してくれた。
狼のような私に優しくしてくれる人が、先生の他にもいるとわかった。そして、少しだけ居場所を見つけたような気になった。
三人で過ごす時間は、冬の終わりまでたびたび続いた。
春になった。先生がいなくなった。
新学期、始業式を休んだ後、いつもの時間に理科準備室へ行くと、なぜか鍵がかかっていた。
ドアを見ると、なにやら紙が貼ってあった。先生が病気のために半年ほど休職する旨書かれたプリントだった。
プリントの体裁を見るに、学期初めに全校生徒に配られたもののようだ。
私は授業のわからない点を先生によく教えてもらっていた。授業に来ないので、たまに来たときにわからないところが多かったのだ。しかし、先生が勉強を教えてくれるおかげでテストはまあまあの点が取れていた。だから、私も学校を休んでいることにそこまで罪悪感を感じなくてもよくなっていたのだと思う。
先生がいないとわからないところを誰にも聞けなくなってしまう。例によって今日も質問を紙に控えてきていた私は、途方にくれた。
「窓付きちゃん」
いきなり声をかけられ、慌てて後ろを振り返った。モノトーンの服を着た女の子が立っていた。見覚えのある顔だった。そうだ、彼女は、
「モノ江ちゃん」
「どうしたの? そんなところでうつむいて」
「ええと、その」
言おうか言うまいか迷って、私は手に持っていた紙を握りしめた。かさりという音をたてて、紙にしわがよる。モノ江ちゃんは何も言わずに待っていた。
「あのね」
「うん」
「勉強してたら」
「うん」
「わからないとこが、あって」
うんうん、とモノ江ちゃん。
「いつもは先生に聞いてたんだけど、先生、いなくて」
大きく頷くモノ江ちゃん。理科部のモノ江ちゃん。理科がお好きで、という先生の言葉を思い出した。
「あの……モノ江ちゃん。もしよければなんだけど、私に勉強教えてくれないかな」
ん、とモノ江ちゃんはいったん目を少し見開いた。ああだめか、と私は思って口を開こうとしたとき、いいよ、とモノ江ちゃんが言った。
「え」
「いいよ。いつがいい?」
それから私は一週間に何度か、学校に行った時、モノ江ちゃんに勉強を教えてもらうようになった。
モノ江ちゃんは私のどんな疑問にも根気よく付き合い、一緒に考えてくれた。休憩時間にはおやつを一緒に食べたり、夕日を見に行ったりもした。友達ができたみたいでとても嬉しかった。
相変わらず私は学校にあまり行かなかったけれど、週1回登校が週3回登校ぐらいの頻度にはなった。
「おはよ、窓付き」
すれ違う理科部メンバーに声をかけられる。
「ああ、おはよ」
「今日は学校来たんだ?」
「ふふ、まあね」
私は相手に対してそれほど恐縮しなくなった。
私には今や、何か怖いことがあっても相談できる友達がいるのだ。排斥されるべき狼であろうと、優しくして付き合ってくれる友達がいるのならばそれでかまわないのではないかと思うようになっていた。
しかしどうしてモノ江ちゃんは、狼に優しくするのか。それだけが私にはわからず、疑問は私の中で日を追うごとに膨らんでいった。「普通の人」の生活に近づけば近づくほど、周囲の環境がよくなればよくなるほど、私はそのことを不思議に思うようになった。
ある日、いつもの教室で、私はなんとはなしにモノ江ちゃんに訊いた。
「モノ江ちゃん」
「なあに、窓付きちゃん」
「モノ江ちゃんはどうして、私に優しくしてくれるの?」
それを聞いたモノ江ちゃんは、不思議そうにまばたきをした。そして、いつもと全く変わらない笑みを浮かべてこう言った。
「私は他の人と同じようにあなたに接しているだけよ?」
「え」
私はモノ江ちゃんに問いかけた姿勢のまま、固まった。
心臓が大きく鳴っている。
どうしてだろうか、めまいがした。「他の人と同じように」?
「それって……」
かろうじて、言葉を搾り出す。
「どういう」
「どんな人にでも、相手と接する機会を与えなければいけないということよ。平等。私が他人に接する態度は、多少の違いはあるかもしれないけれど、基本は変わらないわ。同じよ」
モノ江ちゃんはどんな相手にも優しく接し、上手に距離をとり、無理難題は上手に流す。しかし、同じクラスのモノ子ちゃんにだけは、どこか真剣というか、慎重な態度をとることに、私は最近、ぼんやりと気づいていた。平等な態度、の中の特別なのだろうか? よくわからなかった。でも、モノ江ちゃんが自らのことをみんなに平等、というならば、そうなのだろうと思った。
「そっか……」
「平等に接しなければ不公平でしょう?」
ね、とモノ江ちゃんは変わらない笑みを浮かべて言った。私は何か言おうと思ったけれど、うまく言葉を見つけられず、モノ江ちゃんから目を逸らした。胸が詰まっているような気がして、後頭部が妙に熱かった。
「私……そろそろ帰る、ね」
「あら、残念。でも、暗くなってきたし、それがいいでしょうね」
私はもう少しここに残るわ、やることが残っているの、とモノ江ちゃん。
夕暮れ時の商店街はにぎやかで、色々な物の混ざった匂いがした。
道行く人は皆忙しそうだが、どこか楽しそうで、私だけが別の世界の人のようだった。
私一人が別世界にいるのなら、私の存在などきっと誰の目にも映らないのだろう。そうであれば、誰のことも嫌な目に遭わせずにすむ……狼だなんだと心配することなどなかったのだ。
商店街を過ぎて住宅街に入る。周囲の家も私のかばんも手も足も夕焼けで赤く染まっていた。
そうか、と呟く。
私は、狼ではなかった。猟師でもなければ、お百姓さんでもなかった。
「狼は夜の間に5匹の羊と1匹の猫を食べました」
羊だった。猫だった。
「……そして狼は退治されました。猟師はお百姓さんにたくさんのお礼をもらいました。家畜も畑も元通りになったお百姓さんは、ずっと幸せに過ごしました」
物語を読み終わってから、羊や猫のことを思い出す読者は、たぶんいない。
「めでたし、めでたし」
夕焼けが私の心を刺すようだった。