ゆめにっき

 走って部屋に入り、ベッドにもぐりこむ。いそいそと掛け布団を被って目を閉じた。
 すぐに眠りに落ちたかったけれど、心臓の音がうるさい。頭を抱え込む。
 言ってしまった、と思った。またやってしまった、と。
 包丁の話になると、私はおしゃべりになって、つい何もかも言いすぎてしまう。
 言葉ってそこまで軽いものじゃない。でも、沈黙が怖いから、次々言わなければいけない。考えをまとめきっていない状態で口を開くと、的外れな言葉がたくさん出てきてしまう。そういった言葉は、自分にとってはそんなに重要な言葉じゃない。でも、相手はそう見てくれない。相手に私の頭の中は見えないから。
 私の頭の中は誰にも見えない、先生でさえも。

 先生は私のことを何でもわかってるみたいに動くけど、本当はわかってない。お茶が飲みたいと思っているときには入れてくれるし、質問して答えてもらっているときにわからないところがあったら、途中で止まって説明してくれる。私が何もしなくても、先生は私の心を読んだみたいに動いてくれる、けれど本当に読めているわけじゃない。他人の心なんて、読めるわけがないから。
 「先生」は?
 わからない。あまり考えたくなかった。言葉にしてしまうと、何かが失われてしまうような気がした。包丁の話と違って、「先生」の話は、その存在さえも持ち出したくない話だった。信じてもらえないとか、そういったことはあまり問題じゃない。何か、私の外に出したくなかったのだ。

 包丁の話に戻ろう。
 自分はおしゃべりなたちじゃないと私は思っていた。でも、たくさん喋りすぎてしまった。静けさが怖かった。深刻そうな雰囲気にしてしまうのが怖かった。包丁のことは大した問題ではないのだから、深刻にとってもらっては困るのだ。
 一度包丁の話をしてしまうと、止まらなかった。罪悪感が胸をちくちくと刺していて、逃げたくて、追い立てられるように言葉を放つ。その上無理に茶化そうとして、明るく振舞って、私は道化のようだった。
 罪悪感というのは、相手に対するものかもしれないし、包丁で刺してしまった人々に対するものかもしれなかった。
そもそもなぜ、包丁の話なんかしたんだろう。
 共有できると思った。相手が、「ひとを傷つけてしまう」と言ったとき。だから、私は包丁の話をした。夢の中の包丁の話。
 私は刺してしまう自分が嫌いだ。それは私にとっては大した話かもしれない。だけど、私が夢の中で誰を刺そうが、それで自分を嫌いになろうが、相手にとってはどうでもいいことだろう。
 共有が、共有できるかどうかもわからないのに、共有なんかして相手が嬉しいのかどうかすらわからないのに、私はどうして話をしてしまったんだろう。

 布団を、ますます深く被った。こんなときに限って、眠りに落ちるのが遅い。後悔で加速した頭は猛スピードで思考を回し続けて、一向に休む気配がない。
 こんなこと考えたって無駄だって私はわかっているのに、私の頭はなぜ、無駄な行為を繰り返すんだろう。わからない。
 無駄な行為への疑問について、もっと考えようとしたけれど、考えようとする側から霧散してゆく。後悔と言い訳ばかりが頭を回して、それ以外のことを考えられない。
 早く、早く眠ってしまいたい。私はきつく目を閉じる。手を握りこむ。自分の手の爪の感触に気を集中させてみたり、服の微妙なずれに気を留めてみたりして、なんとか思考を止めようと努力する。



 ひとを傷つけてしまう、とうつむいた彼女は、どうすればいいのと私に聞いた。そして、こうも問いかけてきた。
「窓付きちゃん、あなたはどうして、その人を刺すの」
 私は言葉に詰まった。高揚した気分が、時を止められたように固まる。それは、と私。彼女は、「その人たち」、と言わずに「その人」と言ったのだ。
「それは」
 相手は黙って私の答えを待っている。何か言わなければいけない。でも私は言いたくない。素直にそう言うべきなのかしら。ああ、待たれているのが気詰まりだ。沈黙が続く。こんな間をつくったら、このことが私の話の核心だなんて思われてしまうかもしれない。それは違う、私はただ言いたくないから言えないだけで。大したことない話の中で、これは特に関係のないこと、いっそう大したことのない話なのだから。しかし。
 口を閉じたまま私は焦る。何か言わなければ、言ってあげなければ。手足がじわじわと重くなる。冷や汗が出ている。うつむいた彼女とうつむいた私。
「わからない?」
 ややあって、相手が助け舟を出す。これ幸いとばかりに、私は頷いた。
 そう、と彼女。
「それなら仕方ないわ」
 考えが浅いのね、でも仕方ないわ、と言われているように感じてしまって、ため息をつく。ついてしまってから、そのため息が彼女にどう思われるのかに思い至った。
 嫌そうに思われてしまったかもしれない。気分を害してしまっただろうか。おそるおそる、目を上げる。でも目は合わせられない。見るのが怖いから。
 結局、彼女がどんな表情だったのかは確認しそびれてしまった。
「今日はもう遅いわ。帰りましょう」
「そう、ね」
 私は同意する。会話の空白を作った責任を感じていたし、先ほど喋りすぎたことへの後悔もあって、早くその場から去ってしまいたかったのだ。
「商店街、通りましょうか?」
「ううん、ちょっとやめとく」
「そう。私はちょっとお使いを頼まれているから、寄って帰るわ」
 ポニーテールを揺らして、彼女は私の先を歩き出す。
「じゃあ、また」
 また。その言葉をなぜか重く感じた。彼女は私の答えを知りたがっているのかな。彼女とこんな話をしたのは、私の単なる気まぐれにすぎないのに。次があるかどうかもわからないのに、どうして、またなんて言えるんだろう。
 何にしても、挨拶をしないのは失礼だと思う。だから私は、また、と彼女に応えた。
 夕日が彼女の金髪を照らして光る。
 彼女は教室ではいつも輝く場所にいる、と私はずっと思っていた。彼女の方はそう思っていなかったみたいだ、ということが、今日わかったことだった。
 羨ましい、と思う。私がいくら背伸びしても届かない場所にいるのに、どうして怖がっているんだろう。人を傷つけたって、何も言われず許されるような立場にいるのに。
 私は逆。ずっと日陰にいる。どんな相談を受けたって、日陰にいる私に満足な答えが返せるわけがない。日向にいながらそれにおびえる彼女は、日陰から日向を羨望と嫉妬の眼差しで見つめる私とは違う。私が日向にいる人をどれだけ羨んでいるか、彼女はわかっていなかったのだろうか。わかっていないから、まだ私に望みをかけ続けるのか。それとも、「また」なんていうのはただの社交辞令で、もう私と会おうなんて思っていないのかもしれない。どうせ、私はあまり学校に来ないのだし。


 帰ってから彼女にメールで言い訳をしてみたけど、求めたような答えは返ってこなかった。当たり前だ、彼女は「先生」じゃない。
 私は何を求めていたのかしら、許してもらいたかったのかしら、そんなこともわからない。考えるのが怖い。無駄なことは考えてくれるくせに、肝心なことを考えるのが怖くて逃げてしまう。私の頭なんて、そんなもの。
 誰にも嫌われたくなかった。でも駄目だった。本当はどうしたいのか、わからない。本当にしたいことなんてないのかも。薄れてゆく、眠気が襲う、私の頭はようやく思考を諦めてくれたようだ。
 そして、私は夢の中へ逃げる。

 今日も。
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