ゆめにっき

 シンセサイザーを弾きながら、彼女を待っていた。
 このところずっと刺され続けていたため、彼女の不在を味わうのは久しかった。
 たまった感情を音にし、整理して吐き出す。分断された思考を音につなげて形にする。一息入れてまた続ける。そんな作業を時間を忘れてやっていた。
 一週間ほどそうして過ごしていたが、彼女は来ない。こんなに長い間、彼女が訪れなかったことはあっただろうか。心配になってきた私は部屋の外に出てみることにした。

 ドアの向こうに足を踏み出す。視界がぐにゃりと歪んだ次の瞬間、私は森の中にいた。
 雨粒が頭に肩に当たって跳ねる。
 アスファルトで舗装された道路が木々の間を突っ切って、雨に煙る地平線の向こうまで続いている。
 等間隔に立つ街灯の光が私の影を長く伸ばしていた。
 慎重に一歩踏み出す。また一歩。水たまりの水が足を濡らす。ぴしゃり、という音。しばらくそうやって歩いていた。
 ふと、視界の端に赤い姿が映った。私は立ち止まり、そちらに意識を向けた。
 それは日本風の菅笠を被り赤いマントを身にまとった人だった。長い旅をしてきたのかマントは所々すり切れ、菅笠には穴があいていた。
『こんにちは。すごい雨ですね』
 私が声をかけると、その人は菅笠の下から私を見た。
「ここはいつもこうさ」
 存外低い声だった。
『いつも、というと、ここがあなたの』
「ああ、『定位置』だ」
 この世界のものには彼女に発見される位置がそれぞれ決められている。ものによって違うその位置のことを私たちは『定位置』と呼んでいる。
 今私の目の前にいる相手はこの道路を『定位置』にされているようだった。
 聞きたいことはたくさんあったが、出会って間もないときにあれこれ尋ねるのは不躾だろう。
 とりあえず、双方ともに呼び名がなければ不便だと思ったので、名を名乗ろうと口を開いた。
『申し遅れました、私の名は、』
 言いかけて、言葉に詰まる。私は今まで「彼女」としか関わってこなかったため、他人に認識してもらうための名前がない。
 どう説明したものか迷っていると、彼がゆっくりこちらを見た。

「先生、だな。知っている」
『なぜ……あなたは?』
「私は旅人だ。死神と呼ぶ者もいる」
『あなたは彼女をご存じなのですか?』
「一方的に、だが」
 妙な感情が湧き上がってくる。私は押し黙った。口を開くととんでもないことを言ってしまいそうな気がした。だが、せっかく見つけた思考する存在との関係を早々にこじらせにかかるのは得策ではないだろう。しばらくそうして黙っていると、彼の方が口を開いた。
「私にはあらゆる彼女が見えているのだ」
 事務的な調子で、そう説明する。
「君が存在したときからピアノを弾いていたのと同様に、私が存在した時から、私には彼女が見えていた。
 過去の彼女も未来の彼女も。現実の彼女も夢の彼女も。彼女の取りうる全ての可能性が、私には見えていた。
 彼女は『先生』、君のところを頻繁に訪れた。そうすると、彼女を見ている私も、必然的に君のことを知ることになる。私が君の呼び名を知っていたのは、そういうわけだ」
『ありがとうございます。納得いたしました』
 私は彼に頭を下げた。

「ところで、君の方は自分をどう認識しているのだ。先生」
 抑揚のない声で、彼は話題を私に振る。私はあごに手を当てて、考えつつ口を開いた。
『そうですね、彼女の話から考えるに、私は彼女の現実にいる『先生』の模造品でしょう。
 都合のいい話し相手であり、行き場のない感情の廃棄場所であり、夢であり』
 そこで私は言葉を切って、顔を上げた。
『彼女の取りうる全ての可能性が見える、と言いましたね。彼女はどうなるのですか。彼女の苦しみはどうなっていくのですか。彼女は「幸せ」になれるのですか』
「君は本当にそれを聞きたいのか」
 もちろんです、と私は頷く。しばらく間があって、
「彼女は死ぬ」
 何の感情もこもらない声で彼はそう告げた。
『……ご冗談を』
 かろうじて、そう呟く。 雨音がやけに遠く聞こえた。
 赤い傘を被った旅人は平坦な声で、冗談ではない、と言った。
「これは既に決まっていることだ」
『そんな……』
 何か言い返したいと思うも、言葉が出ない。
「釈然としない気持ちはわかる。だが」
 彼は言葉を切った。
「これは確定事項だ」
 沈黙を雨音が埋める。赤いマントにしぶきが撥ね、彼の輪郭がぼやけて見えた。

 それから何と答え、彼とどうやって別れたのかは覚えていない。気がついたとき、私は、白い自分の部屋で鍵盤に触れていた。
 ぽつぽつと音を鳴らし、重い心の下にメロディで基盤を作る。曲の響きに思考を埋める。 白い部屋の人工的な光、彼女の話した外の世界、微笑む彼女、鈍い刃物の光、青い空。

 不意に、そのイメージたちが大きく揺らいだ。私ははっと我に返る。誰もいない白い部屋はいつも通りだが、それが二重にぶれて見えた。瞬きをすると、部屋がだんだんぼやけたようになっていく。目をこらそうとしてもうまく焦点が定まらず、視線がさまよって、ぼやけた視界に写る白をぼんやりと眺める。
 こんなことは初めてだ。私がおかしいのか、周りがおかしいのか。戸惑っているうちに、景色はぼやけきって何も見えなくなった。



 気がついたとき、私がいるのは自分の白い部屋ではなかった。見覚えのない、暗い部屋のベッドの上に座っている。手には怪しげな白い錠剤を握っていた。
 きょろきょろとあたりを見回す。
 まず気になったのは埃をかぶった黒いピアノ。もう何年も弾かれていないようだ。その隣にはとんぼをあしらった卓上照明があった。どっしりしたテーブルの上に、何やら書きつけられた紙が置いてある。
 私は照明をつけ、テーブルの上の紙を手に取る。紙には、手書きでなにやら文章が書かれているようだった。私は目をこらしてそれを読む。
[例の焦燥は私を蝕むばかりだ。夢をなくし、希望もなくし、どうしてこんなことになってしまったのだろう。……あの家具を見るたび心が痛む。彼女は今どうしているだろう。ああ。私はなぜ、こんなときに彼女のことを考えているのだろうか。私には彼女を救う資格がない。励ます資格すらない。自分すら救えないのに、どうして人に希望を説けよう? 今になって、私は死ぬのが怖い。こんなところで固まって、言い訳のように文章を連ねている。……もうこんなことはやめよう。せめて、綺麗にさよならを言おう。今こそ、わたしはこの世界を]
 文章はそこで途切れていた。
 センチメンタルな文章だ。誰にも見せるつもりがなかったのか、悲嘆にくれ、立ち止まるばかりの内容。焦燥、という言葉から見るに、書き手は何か大きな悩みを抱えていたようだ。「彼女」という言葉が気になったが、私にこのような文章を書いた覚えはない。
 何かほかに手掛かりはないかと立ち上がると、大きな鏡に映った自分が見えた。……なんのことはない、いつもの私だ。しかしながら、若干の違和感を感じたので、そのまま鏡を見続ける。いつもより、なんと言えばいいのか、白色が多く見える。
 服装が違うのだ。
 これは「白衣」だ。ひらひらとしていて、白い。医者や研究者がよく着ているという服装だ。

 何か他に手がかりはないかと、私はその部屋を出た。隣の部屋は、食堂のようだった。流しの横には食器棚があり、反対側には外へのドアと思しき扉があった。靴が並べられていたので、そう思ったのだ。
 部屋の真ん中にはテーブルが置かれていた。テーブルの上には郵便物があった。何の気なしに、宛名を見て、私は固まった。
「     」
 それは、いつも彼女の話に出てくる「先生」、私のオリジナルの名であった。
 そして、私は悟った。この白衣、この部屋、これは「彼」のものであると。



 部屋の外に出られたということが驚きだった。鮮明な世界だ。知識でしか知らなかった街というものを、私は今歩いている。
 どういうわけか知らないが、私は今、「外」にいるらしい。いつもいる世界の外側であるこの世界は広く、歩いていればどこまでもいけそうな気さえしてくる。
 ひとりでに笑いがこみ上げた。自らの目で直接見る空は抜けるように青く、雲ひとつない。自らの目で直接見る地上も、ビルや店が整然と立ち並び、人っ子一人いない。この美しい世界で、私は自由なのだ。
 解放感に満ち溢れた心を、待ってくれ、少し待ってくれと制するものがある。
 何かがおかしい。
 この風景には、どこか引っかかるところがあるのだ。
 抜けるように青い空は、街が昼であることを示している。
 ビル群や店はきれいで、人の手が入っていることを思わせる。たくさんの人がここを利用しているということを。
このような、多くの人が住んでいそうである街に、真昼であるのに、人が一人もいない。それは少し、おかしなことではないか。
「そう簡単にいくはずもありませんでしたね」
 呟いて、私ははたと気付いた。
 これでは、私が彼女から解放されたがっているようだ。
 私は彼女によって、彼女のために作られた。私も彼女のためにあろうと思って今まで存在してきた。思い返せばそれほど長く存在したとも思えないが、感覚としてのみであれば、ずっと長い間そう思って存在してきたかのように感じられる。
 その私が、少し環境が変わっただけで、このような事を思ってしまうとは。
 自由になれば、私の存在意義はどうなる? 生まれた理由はどうなる? 信じてきたこと全てが覆され、台無しになってしまう。何も、私の存在を保証してくれなくなってしまうのだ。それは困る。私を縛り、支えてくれていたものが突然無くなってしまうのは、困る。
 どうすればいいのかわからなくなってしまう。
 ああ、そうだ。そんなことよりも、もし彼女がそれに気付いてしまったら、私は書き換えられてしまうだろう。
「書き換えられる?」
 なぜ、そんな言葉が出てきたのだろう。生まれたときから、私は私であったはずだ。思い返せば。しかし、感覚としてのみであれば……

 空の色が変わる。どす黒い赤に。私はその下で呆然と立ち尽くした。







「また私の前からいなくなるのね、先生」
 そんな声を聞いたのだったか、聞かなかったのだったか、そもそも本当にそんな言葉を聞いたのか。
 消えゆく記憶にとっては、どちらでもいいことだった。
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