そんな時もあったな、なんて

「パンチさん……どこに行ったんですかパンチさん」
 まただ。またそいつの名前。
 オレの師匠は酔いつぶれると必ず「パンチさん」の名前を呼んで泣く。
 泣いてる師匠はオレの話なんか聞いてくれなくて、ただただそいつの名前を呼んでいる。


 始めて師匠が泣いた次の日、聞いてみたことがあった。
「師匠、パンチさんって誰すか」
「パンチさん? ……さあ? 聞いたことないな。誰ですか?」
「……」
 昨日師匠が名前を呼んで泣いてた人ですよなんて言えるはずもなく、それから毎回二人で飲む度にそいつの名前を呼んで泣く師匠を介抱して、介抱して。
「パンチさん……どうして……どうしてですか」
「師匠」
「どうしてですか……私を置いて……」
 さめざめと泣く師匠。日に日に疑問が膨れあがる。そいつは師匠にとって何だったんだ? どういう存在だったんだ? どうして師匠はそんなに泣くんだ?
 わからなくて、わからなくて。


 ある日、街角で「その名」を聞いた。
「この前、足に荷物を落としそうになったんだ。咄嗟のところで避けたけど」
「穴が空いたら大変ですもんね。私も遺跡でパンチに穴空けられましたけど、あんなの二度と味わいたくありません」
 思わず、なあ、と声をかける。
「なあ、パンチって言ったよな。それ、誰だ?」
「……? あなた、知らないんですか?」
「知らないから聞いてる」
「この前の騒動でキノピサンドリアから私たちを誘拐して遺跡に閉じ込めた奴の名前ですよ」
「……そうか、ありがとう」
「いえ……?」
 通行人に頭を下げて、家に帰る。
 パンチ。
 師匠もそいつに誘拐されていたのだろうか。
 だったらどうしてそんな奴の名を呼んで泣く?
 しかも普段はそれを覚えてないなんて、おかしいじゃないか。

 店に戻ったオレは師匠に声をかける。
「師匠」
「なんですか、弟子くん」
「パンチって奴のことがわかりましたよ」
「?」
「師匠を誘拐した奴の名前だそうですね」
「……私が誘拐されたことなんて……ありましたっけ?」
「師匠……」
 それ以上深く聞くのはやめた。平常時の師匠の記憶の中にいない奴のことを聞いても無駄でしかない。


「パンチさん……パンチさん、どうして、どうしてですか……」
「師匠、帰りましょう」
「パンチさん……」
「店が閉まる時間ですよ」
「……」
 普段が駄目でも、酔いつぶれている今なら聞き出せるんじゃないか。そう思ったオレは師匠、と呼ぶ。
「師匠、パンチって誰ですか?」
「パンチさん?」
「パンチは師匠にとって何だったんですか?」
「パンチさん……パンチさんは……」
 再び泣き出す師匠。その後は会話にならなかった。

 次の日会った師匠は当然そのことを忘れていて。
「やだなあ弟子くん、私が泣くわけないじゃないですか」
「でも師匠」
「からかってるんですか? パンチなんて人は本当に知らないんです」
 おかしそうに笑う師匠。駄目だ、やっぱり平常時の師匠はそいつのことを忘れている。
 何か手がかりでもあれば。


「ああ、パンチの話? お前の師匠を誘拐して専属DJにしてたって聞いたけど」
「……は」
「知らなかったのか?」
「……」
 あっけなく手に入った答えに、何と反応すればいいのかわからなかった。何も言えなかった。心の中で噴き上がった感情の種類が、そのときのオレには判別できなかった。


「師匠」
「なんですか?」
「……やっぱいいっす」
「遠慮しないで言ってくださいよ、私とあなたの仲でしょう?」
「……」
「どうしたんですか、悩み事? 最近元気がないと思ってたんです」
「パンチは」
「またその人の話ですか? 知らないって言、」
「パンチは師匠にとって何だったんですか?」
「……」
「師匠?」
「……ああ、すみません。少しぼうっとしてました。で、悩み事って何ですか?」
 もう一度聞いても同じことになる気がして、オレは悩みを捏造する。
「実は最近よく眠れなくて」
「それはよくないね。私が一緒に寝てあげましょうか?」
「え」
「誰かと一緒に寝たら案外眠れるって言うじゃないですか。そうしましょうそうしましょう」
 捏造した悩みに対して勝手にそう決められて、とんとん拍子で事が進む。


 次の晩、本当に来る気なのだろうかと思いながら寝る準備をしていたら師匠が来た。
「どうもー!」
「……ども」
「じゃあ寝ましょうか!」
 そんな軽いノリで言わないでほしい。こっちにだって心の準備というものがあるというのに。
 なんて思っている間に師匠は勝手にオレのベッドに上がって手招きをする。
「ほらほら早く来てください弟子くん」
「……」
 言われるがままにベッドに上がる。
「おやすみなさい弟子くん」
「……おやすみなさい」
 師匠と一緒に寝るなんて絶対眠れないなんて思っていたのに、目を閉じると案外すぐに眠りはやってきた。

「……さん」
 意識が浮上する。辺りは暗い。まだ夜か。
「……さん……」
 師匠が何か言っている。意識を向けようとして、ぎょっとした。
 オレの腰に手が回っている。
 師匠がオレを抱き締めているんだ。
「師匠、オレ抱き枕じゃないんですけど」
「……さん……パンチさん」
 急速に頭が冴える。その名前。
 腰に回っている手を引きはがし、呼ぶ。
「師匠!」
「?」
 師匠が薄らと目を開ける。
「あれ……ここは?」
「オレの家っすよ。どこと間違えたんすか?」
 誰と、とは言えなかった。
「そういえば、私は弟子くんの家にお泊まりに来たんでしたね」
「そうですよ」
「寝相が悪くて起こしちゃいましたか?」
「いえ……」
「弟子くん、目が覚めちゃったんですか?」
 言えない。言えるわけがない。
「まあ、ちょっと」
「外、まだ暗いです。背中さすってあげますから、寝ましょう」
「え」
「ほらほら」
 強引にベッドに寝かされ、背中をさすられる。
「師匠……」
「ふふ、なんですか弟子くん」
 言えない、何も言えない。言ってもこの人は覚えていない。
 オレだけが損をするんだ。オレだけが覚えていて、この人は覚えていない。なのに師匠はあいつの名前を呼んで、泣いて、そして。
 意識が落ちていく。
 どうしてなんですか、なんて言えるはずもなく。

「おはようございます、弟子くん」
 寝起き一番の視界に映ったのはエプロン姿の師匠。
「目玉焼きを作ったんです」
「あー、それは……どうも」
「得意料理なんですよ! 遺跡にいるときも……」
「……遺跡?」
「遺跡に……」
「師匠」
「遺跡に、? 遺跡、遺跡、私は、そこには、パ」
「師匠!」
「……あれ?」
 ぱちぱち、と瞬きをする師匠。
「弟子くん?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫って?」
「……いえ」
 言えないことだらけ。
「なんでも。目玉焼き、いただきます」
「ふふふ」
 笑う師匠。この人は……ただ忘れてるんじゃない、封じている、思い出せないようにしているのか、そういう類いのもの。おそらくそう。
 だがそれがわかったからと言ってオレにどうにかできるとは思えない。どうにかする方法もわからない。思い出してほしいわけではない、腹が立つから。どちらかというと永久に忘れ去ってほしい、オレだけを見ていてほしい。
 その感情が何なのかそのときのオレにはわからなかった。はじめにあった「尊敬」を通り越した何か、もっと薄暗い何か、言うなれば「執着」。自分がそんなものを師匠に対して抱いているなんて認められなかったし、認めたくなかった。


「じゃあまた明日、店でね」
「はい。ありがとうございました、師匠」
「……あれ」
 ドアを開けようとした師匠がふらついて、
「!?」
 オレにもたれかかる。図らずも正面から抱き合う形になって焦るオレ。
「……大丈夫ですか」
「……大丈夫です、ありがとうございます」
 ふにゃり、と笑った師匠の次の一言にオレは凍り付いた。
「優しいですね……パンチさん」


 気が付くと、師匠の首を締めていた。
 ぐったりした師匠を見て、焦って手を離す。
「師匠、すみません、大丈夫ですか」
 返事はない。だがまだ息はしている。
「……」
 オレは師匠を師匠の家まで運んで、ベッドの上にのせて。
 顔を合わせるのが怖かったので、そのまま帰った。


 次の日。
 気が重かったが、店に行く。
「弟子くん! おはようございます!」
 カウンターで、ぱぁ、と笑顔になる師匠。
「あの……師匠」
「なんですか?」
「昨日はすみませんでした」
「昨日?」
「オレの家に泊まりに来てくれたとき、オレは師匠の、」
「泊まりに? そんなこと……ありましたっけ?」
 思わず師匠の顔を見る。
「弟子くん?」
 澄んだ目に映っているのはオレの顔。
「泊まりに来ましたよ。そしてオレは師匠の首を、」
「くび」
「そう、首を」
「……私は……弟子くんの家に泊まりに行って、そして、そして、弟子くん……くび、」
「師匠」
 師匠がびくりと震える。
「……あれ?」
「ねえ、師匠、師匠はずっとオレだけを見てくれますよね?」
「……当然じゃないですか。師匠が弟子のことを見ないなんて、ありえませんよ。かわいい弟子を見捨てるなんて、とんでもない」
 その目は澄んで、オレだけを映している。
 じわりと何らかの感情が広がるのがわかる、満たされるような、アガるような、何なのかわからないけれど、久方ぶりに虚ろが満たされたような気がして、
「ありがとうございます、師匠」
 仮面の下で小さく笑った。
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