天秤

 小娘が記憶を失ってから、数週間が経った。
 あれはあの雨の日以来庭がいたく気に入った様子で、度々外に出ては花を観察したり虫と遊んだりして楽しんでいる。
 私も気が向いたときは共に庭に出て本など読んだりしながら過ごすようになっていた。
 自分の残した知識が後世にどう伝わったかを知ることは、脆弱な人間どもの作ったものだとわかっていても面白い。
 小娘は予想に反して、記憶について問うてくることはなかった。
 私の方からも特段そのことに触れる必要性を感じなかったので、触れずにおいた。
 まあ、私は知らないことになっているので、問われたところで答えてやるのもおかしな話だが。
 今日もまた小娘は庭で遊び、私は部屋で魔神柱のメンテナンスをしているところだった。
「ソロモン様、昼食ができておりますが、小娘の姿が見えません」
 部屋に入ってきた使い魔が慌てた様子で報告する。
「庭だろう」
「は。庭を探したのですが、一向に見つからず…」
 小娘の実力でこの空間から出るということは考えられない。私は空間全体を探った。果たして小娘は庭の中心にある大木の陰にいた。
「庭にいる。だが……私が行く」
「申し訳ございません、ソロモン様」
 大木の側まで行くと、小娘の魔力が感じられた。自然に流出している魔力だ。
 今の状態の小娘が魔力を隠す方法を知るはずがないので、わかりやすいものだ。
「小娘」
 返事がない。もしや隠れているつもりなのだろうか。
「見えているぞ」
 見えてはいなかったがそう言うと、小娘は恥ずかしそうな顔をしながら出てきた。
「わかっちゃったか。使い魔さんは誤魔化せたのになあ」
「なぜ隠れていたのだ」
「え……私がいなくなってもソロモンは見つけてくれるかなと」
「馬鹿か、お前は。私には全てが見えているのだ。見つけられないということはありえない。それより昼食ができたそうだが、食わないのか」
「食べたい」
「ならば、来い」
 私はきびすを返し、城に向かって歩き出した。
 小娘は、使い魔さんの作る料理おいしいもんねなどと言いながらぱたぱたと後ろをついてくる。
「ソロモン様、お見つけになったのですね。心配しました」
 食堂に行くと使い魔が待っていた。
「ごめんね、使い魔さんが心配するとは思ってなかった」
「あなたのことを心配したわけではありません。ソロモン様の賓客が行方不明になったとなればソロモン様はどんなに悲しむかと思い、この使い魔心配したのでございます」
「私が悲しむ? ふざけたことを言うのはやめろ、使い魔」
「も、申し訳ございません」
「え、ソロモンは私が行方不明になっても悲しんではくれないの」
「先程も言ったが、お前が行方不明になることなどない。前提が間違っている」
「それはつまり私がどこに行っても見つけてくれるという……」
「そう思いたいのであれば勝手に思っておけ」
 使い魔が椅子を引き、私は席につく。小娘は自分で椅子を引いて座った。
 食事が終わると、小娘はまた庭に遊びに行った。

 夕食時は小娘が自分から食堂に戻ってきた。空が曇ってきてなんだか降りそうだし、そろそろ時間だと思ったから、と言って使い魔の作った食事をおいしそうに食べていた。
 小娘は夕食後にはいつも用意された部屋で本を読んでから寝る。
 前読んでいた本を読み終わったからと言うので、新しい本を使い魔に持ってこさせた。どうも幻想種の出てくるファンタジーが好みらしく、そればかり頼んでくる。少し前まで自分がそれと似たものと戦っていたとは夢にも思わぬようだった。

 夕刻よりの曇り空からは瞬く間に雨が降り出し、夜半には雷鳴り響く嵐となった。
「……ロモン、ソロモン!」
 書斎のドアが勢いよく開け放たれ、悲壮な顔をした小娘が駆け込んできた。
「どうした」
 私は思わず立ち上がった。小娘は私の眼前まで駆けてきて、不自然な距離で立ち止まった。顔色を伺うような目でこちらを見る。
「いいぞ」
 そう返すと、小娘は私の服にしがみついた。
「ソロモン」
「……何があった」
「雷が……」
「ああ」
 しばらく小娘は無言で服に顔を埋めていた。
「また、夢を見たの。子供みたいだって笑う?」
 服を握りしめた両手が小刻みに震えている。
「……いや」
 一般の人間ならば大したことはないと切り捨てるだろうが、魔術的には夢は何らかの意味を持つものも多い。
 小娘には小娘自身が魔術師だということは教えていないため、ただの夢に怯える自分は幼いという思考になるのだろう。
「どんな夢だ」
「黒い触手が私をずっと追ってくるの。触手の中心には人影があって、やっと見つけた、皆が待っていると言いながら追いかけてくるの。でも捕まってしまったら私は終わってしまうと思っていて、必死で逃げ続ける夢。雷の音で目が覚めた」
 奴だ。私は思った。監獄塔で造反した羽虫。奴が、小娘の夢に干渉してきている。カルデアのキャスターの力を借りたのだろう。
 私は小娘とパスを繋げているわけでもないので、何者かが小娘に干渉していることがわからなかった。
「ほんとは逃げちゃいけなかったのかもしれない。でも私はその人が本当に怖かった」
「大丈夫だ」
 私は反射的にそう答えていた。
「それは記憶を取り戻せず焦っている心が見せた夢だ」
「私、焦ってた?」
「そうらしいな。だがこれからは大丈夫だ。顔を上げろ」
 小娘は素直に顔を上げる。その顎をすくい取って口付けた。驚きに少し開いた唇から口内に舌を差し入れ、絡める。抵抗はない。しばらく口内をなぞってから、どちらのものかわからなくなった唾液を呑んだ。
「そろもん……?」
 私を呼ぶ小娘。
「怖い夢を見なくなるまじないだ。これでお前がそういった夢を見ることはなくなるだろう」
 気休めではない。粘膜接触によって簡易的なパスを繋げ、更に小娘に魔術的干渉をできないよう防壁を貼った。
 これで、腹立たしい――私はどういうわけか腹を立てていたらしい――羽虫が使い魔の言う「賓客」に手を出すこともない。
「うん……ありがとう、ソロモン」
「礼はいい」
 すべきことはすんだはずだが、小娘は私から離れようとしない。
「まだ何かあるのか」
「あの……今日一緒に」
「一緒に寝たいのか? まあいい。不安な気持ちもわかる。今日だけだぞ」
 小娘の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとう!」
「礼はいいと言っている。それより服を離せ。歩けないだろう」
「あ、ごめん」
 慌てて服から手を離す小娘。
 私は小娘の手をひいて書斎を出た。
 私のテリトリー内にいる者相手に手を出されるなど、ひどい屈辱だ。今の小娘は「客」なのだから。使い魔の使った表現に固執するのは王らしくないが、それ以外の理由は考えられなかった。いや、考えたくなかったのかもしれない。
 記憶を無くし、遠慮がちに甘えてくる小娘のことを私はどう思っているのか。
 いつのまにか、自分のものだと思うようになっていた?
 ……馬鹿らしい。私のテリトリーにあるものは全て私のものだ。小娘に対してもそう思っていて当然ではないか。
 繋いだ手に感じる熱に気付かないふりをしながら、私は廊下を歩いた。

 嵐はまだ去りそうにない。
2/5ページ
スキ