天秤
手を出さないという約束を破り、私は地球最後のマスターをさらってきた。
理由は自分でもわからない。強いて言うならば気まぐれ、だろう。
初めのうちは激しく抵抗し、抜け出すすべを探していた小娘だったが、ある日それをぱったりとやめ、無邪気な笑顔で私を見るようになった。
どうしたのかと問いつめてみても、要領を得ない。しばらく様子を見ているうちに、記憶を失っているようだということがわかった。
おそらく強いストレスによるものだろう。
小娘が反抗しないのはつまらなかったが、カルデアにいる者どもが必死で小娘を探しているのに対し、小娘は何もかも忘れて無邪気に笑っているというのも皮肉だと思った。
この皮肉さに面白みを感じたので、私は引き続き小娘を手元に置き続けることにした。
小娘が記憶を失ってから数日たったある朝、自分からはほとんど何も言い出すことのなかった小娘が、突然外に出たいと言い出した。
外の世界は焦土と化しているが、私のいるこの空間だけは別で、いつもいる城の周りにはちょっとした庭園が広がっている。
ずっと同じところにいて退屈したのかもしれないと思い、私は小娘を庭に連れ出すことにした。
「わあ、綺麗」
庭に出た小娘は真っ先にバラのアーチへと駆け出し、それをくぐったり周りを回ったりして遊びだした。
記憶を失って精神も退行しているのだろうか。魔術回路には異常ないようだが。
「ソロモンもこっち来て遊ぼうよ」
「いや、私はいい」
「ええ、つまんないなー。楽しいのに」
私が誘いを断ると、小娘は言葉通りつまらなさそうに頬を膨らませ、それでもまだ遊びをやめずバラの周りを跳び回り続けた。
小娘の楽しそうな様子とは裏腹に、灰色の雲が空を厚く覆っていた。
ここは術式によって適度に自然の天候を模すようになっている。空模様から見ると、そろそろ雨が降り出しそうであった。
私は呪文を唱え、自分の周りだけ雨がかからぬよう準備した。
そのうち、雨が降り出した。始めは控えめに降っているだけだったが、雨は見る見るうちに本降りになった。
びしょ濡れの小娘はそれでもなお楽しそうに遊んでいる。
「おい」
「何?」
私は思わず小娘を呼び止めた。
「雨が降っているが」
「あ、ソロモン濡れるの嫌だった? ごめんごめん」
「私は濡れない。濡れているのはお前だろう」
「そ、そうだね……濡れてるね……」
そう言った小娘は、先ほどの楽しそうな様子とはうってかわって不安そうに見えた。
私が黙っていると、小娘はその目を私に向けてきた。
「ソロモン……」
「何だ」
「えっとね……」
小娘は言いにくそうに私を見ている。
「言いたいことがあるなら早く言え」
「そのね……記憶を失う前の私って、どんなだったのかなと思って」
記憶を失う前のことに小娘が言及するのは初めてだった。
「なぜ今更そんなことを気にする」
「夢を……見たの」
「夢?」
頷く小娘。
「誰かが私を呼んでる夢。その時の私も今みたいにびしょ濡れで、一面緑の草原で誰かと戦ってた。私のとなりにはいつも誰かがいて、私はその人をとても信頼してるみたいだった。でも次の瞬間その人の姿が靄のように霞んで、その人が必死に私を呼ぶ声がするの。もうどんな顔だったのかも思い出せないけど……」
そこで一度言葉を切る。
「もしその人が以前の私と関係してるんだったら、その人は私のことを心配してるかもしれない。私のこと、探してるかも。今どこにいるんだろう。ソロモン、わかる?」
「さあな。私がお前に出会った時点でもうお前は記憶をなくしていた。そういうわけで、お前の記憶の手がかりなど、私が知るはずもあるまい」
なぜ嘘をついたのか、自分でもわからなかった。小娘が自分の記憶について知りたがったら教えてやって、混乱し絶望する様を楽しもうと思っていたのに、気がつくと嘘をついていた。
「まあ、ここでゆっくりするうちに思い出すだろう。あまり気にしすぎないことだ」
「うん……」
びしょ濡れの小娘は素直に頷いた。
「そろそろ中に入れ。風邪を引くぞ」
「ソロモン」
「何だ」
「私が記憶を取り戻しても、一緒にいてくれる?」
「……」
「ごめんね、変なこと聞いたね。中入ろ」
そう言って、駆け足で城に向かっていく小娘。
私はしばらくそこに立ちつくした。
雨脚は強く、何もかもを押し流すかのようだった。
理由は自分でもわからない。強いて言うならば気まぐれ、だろう。
初めのうちは激しく抵抗し、抜け出すすべを探していた小娘だったが、ある日それをぱったりとやめ、無邪気な笑顔で私を見るようになった。
どうしたのかと問いつめてみても、要領を得ない。しばらく様子を見ているうちに、記憶を失っているようだということがわかった。
おそらく強いストレスによるものだろう。
小娘が反抗しないのはつまらなかったが、カルデアにいる者どもが必死で小娘を探しているのに対し、小娘は何もかも忘れて無邪気に笑っているというのも皮肉だと思った。
この皮肉さに面白みを感じたので、私は引き続き小娘を手元に置き続けることにした。
小娘が記憶を失ってから数日たったある朝、自分からはほとんど何も言い出すことのなかった小娘が、突然外に出たいと言い出した。
外の世界は焦土と化しているが、私のいるこの空間だけは別で、いつもいる城の周りにはちょっとした庭園が広がっている。
ずっと同じところにいて退屈したのかもしれないと思い、私は小娘を庭に連れ出すことにした。
「わあ、綺麗」
庭に出た小娘は真っ先にバラのアーチへと駆け出し、それをくぐったり周りを回ったりして遊びだした。
記憶を失って精神も退行しているのだろうか。魔術回路には異常ないようだが。
「ソロモンもこっち来て遊ぼうよ」
「いや、私はいい」
「ええ、つまんないなー。楽しいのに」
私が誘いを断ると、小娘は言葉通りつまらなさそうに頬を膨らませ、それでもまだ遊びをやめずバラの周りを跳び回り続けた。
小娘の楽しそうな様子とは裏腹に、灰色の雲が空を厚く覆っていた。
ここは術式によって適度に自然の天候を模すようになっている。空模様から見ると、そろそろ雨が降り出しそうであった。
私は呪文を唱え、自分の周りだけ雨がかからぬよう準備した。
そのうち、雨が降り出した。始めは控えめに降っているだけだったが、雨は見る見るうちに本降りになった。
びしょ濡れの小娘はそれでもなお楽しそうに遊んでいる。
「おい」
「何?」
私は思わず小娘を呼び止めた。
「雨が降っているが」
「あ、ソロモン濡れるの嫌だった? ごめんごめん」
「私は濡れない。濡れているのはお前だろう」
「そ、そうだね……濡れてるね……」
そう言った小娘は、先ほどの楽しそうな様子とはうってかわって不安そうに見えた。
私が黙っていると、小娘はその目を私に向けてきた。
「ソロモン……」
「何だ」
「えっとね……」
小娘は言いにくそうに私を見ている。
「言いたいことがあるなら早く言え」
「そのね……記憶を失う前の私って、どんなだったのかなと思って」
記憶を失う前のことに小娘が言及するのは初めてだった。
「なぜ今更そんなことを気にする」
「夢を……見たの」
「夢?」
頷く小娘。
「誰かが私を呼んでる夢。その時の私も今みたいにびしょ濡れで、一面緑の草原で誰かと戦ってた。私のとなりにはいつも誰かがいて、私はその人をとても信頼してるみたいだった。でも次の瞬間その人の姿が靄のように霞んで、その人が必死に私を呼ぶ声がするの。もうどんな顔だったのかも思い出せないけど……」
そこで一度言葉を切る。
「もしその人が以前の私と関係してるんだったら、その人は私のことを心配してるかもしれない。私のこと、探してるかも。今どこにいるんだろう。ソロモン、わかる?」
「さあな。私がお前に出会った時点でもうお前は記憶をなくしていた。そういうわけで、お前の記憶の手がかりなど、私が知るはずもあるまい」
なぜ嘘をついたのか、自分でもわからなかった。小娘が自分の記憶について知りたがったら教えてやって、混乱し絶望する様を楽しもうと思っていたのに、気がつくと嘘をついていた。
「まあ、ここでゆっくりするうちに思い出すだろう。あまり気にしすぎないことだ」
「うん……」
びしょ濡れの小娘は素直に頷いた。
「そろそろ中に入れ。風邪を引くぞ」
「ソロモン」
「何だ」
「私が記憶を取り戻しても、一緒にいてくれる?」
「……」
「ごめんね、変なこと聞いたね。中入ろ」
そう言って、駆け足で城に向かっていく小娘。
私はしばらくそこに立ちつくした。
雨脚は強く、何もかもを押し流すかのようだった。
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