幸せの青いことり


 酷く、嫌な夢を見た。

 具体的な言語化は避けたい。ホライゾンと会う前の、果たして現実にあった事か夢かは定かではないがリアルな夢だった。
 じっとりとした額の汗のせいで前髪が張り付いているのを震えの治まらない指先ではらう。
体中を好きかってはい回った手の感覚は妙にリアルすぎて、感覚を消すようにかきむしる。一定の気温で保たれた部屋は快適そのものだと思うが、ホライゾンがかけてくれていったらしいタオルケットを体から引きはがす。じっとりと汗をかいたせいなのか喉が渇く。
 水でも飲もう、と、横になっていたカウチからのそのそと起き出し、あてがってもらった自室に使っている部屋のドアを開ける。ホライゾンはクラシカルな趣味のようで、ドアにセキュリティこそついているが、有事の時以外手動で開けるような造りのものを好んでいるらしい。
 ドアノブを回して軽く引くと、ギィ、という音が静まり返った廊下に吸い込まれていく。足元を照らすように僅かに配置されている明りは、最近施工されたものだ。俺やシリウスが夜歩けないと不便だからとおっさんがいっていたので、それまではこういう明りの類を必要としない生活だったのかもしれない。
 明るさを落とした、やんわりとしたオレンジのフットライトの光が点々と壁沿いに廊下を照らしている。
 だだっ広い家はやはり屋敷と称した方がしっくりくる造りだ。エントランスへつながる階段を下りて、そこからキッチンへ向かう道のりは俺の足では遠い。ダルイ、と思うも、乾いた喉を潤すのと、気分転換を兼ねて静まり返った屋敷を歩くのはいいかもしれない。 

 ホライゾンはどうせ自室でシリウスを見ながら仕事をしているはずだ。
 
 キッチンのドアを開けるのも一苦労する。なにせ筋力が足りない。体力も全然ないが。
 自動感知でポッと小さな明りが灯る。デザインは本当に、シックと言うかクラッシックで、小さなシャンデリアを模した電気の明りが控えめに部屋を照らす。ホライゾンの背にあわせてある食器棚は俺にとっては背が高すぎるから、グラスを取るのにもやたら装飾が凝っている椅子を引っ張ってきて、そこへ乗ってから戸を開けないといけない。自分の服装はあまり頓着しないのか似たようなものを揃えているのか、だいたい似たり寄ったりと言った格好をしているくせに、食器や家具の趣味は凝ってるんだよなとほの明るいオレンジに照らされて暖かい色味を増しているグラスを手に取る。この家の中で大量生産品などはシリウス関連以外ほとんど目にしたことがない。
 一端グラスをテーブルに置いてから、冷蔵庫の中のウォーターピッチャーを取る。これも、最近軽量化重視の大量生産品になったが、ここに来た最初の頃はガラス製だったような気がする。
多分、俺でも持てるようにおっさんが買い替えた、んじゃないか、と思う。気が付くと直ぐ通販注文しているのでいつ買ったのかはわからない。
 水をグラスに注ぐ。それだけでも一苦労するが、急かされることもないから慌てずにゆっくりできる。
 氷は別にいいか、と思いながらグラスに口をつけ、水を飲む。ひんやりとよく冷えた綺麗な水が喉を通っていく心地よさ、というのもここにきて知った。水分を摂取すること一つに関しても何を入れられているか分からないから警戒する必要があった生活だったし、碌な水分の取り方をさせてもらったことがなかった。
 ここにきてからは、紅茶の淹れ方、も、グリーンティーの淹れ方、も教わったし(ここら辺は特にこだわりがないのか非常にざっくりした教え方だったしなんならティーバッグでもいいよ!なんていってた)、色々、おっさんが俺に教えてくれる。特に頼んだわけじゃないんだが、おっさんがやってるのをぼーっと見てたらやってみるかと必ず聞かれるのだ。

 大きな手が自分の手を掴むことが怖くなくなったのはホライゾンのおかげだと思う。彼の手にならいくらでも触っていてほしいと思うし、優しく包むように触れる手があるということも、知った。初めて知る世界、と言うのは、自分にとっては客や周囲の奴らが気まぐれでくれる専門書くらいなもので、対人関係はそもそも腹の探り合い読み合いだったし、バイヤーとしての仕事の付き合いにしても出身と、年齢のせいで良いようにされてたことが常、であったことが、ホライゾンという男に連れられてやってきた世界では否というのが、そもそも新鮮で信じがたいのに、当たり前のように周囲がそうやって優しく接してくれる。そういう世界があることを、教えてもらっている、と思う。

「吾輩たち似た者同士みたいだから、ええと、仲良くしようね」

 と、若干挙動不審になりながら笑いかけてきたあのおっさんの言葉がふと思い出される。こんなに優しい世界を知っている男と自分の、どこが似た者同士なんだと思ってしまう。
 まあ、確かに、向こうはアサシンでもあるようだし、俺と同じようにアンダーグランドな世界の事に関しては、似てる、のかもしれないが、でも、

「ぜんぜん、ちがう」

 自然と声に出ていた言葉はやはり静寂に溶けて消えていく。似てなんかいない。全然違う。
 
 俺はただの、いわゆるマセたガキというんだろうかスレたクソガキみたいなもんだ。向こうはどうだ。能力もあって人脈もそれなりにもっているらしいし、優しい世界で生きていて、大人で、ちょっとまあ、変だけど、それでもまともな大人という感じだ。似てなんかいない。
 すん、と小さく鼻を啜る。泣くのは極力しないようにしている。意地でもあるし、相手に弱みを見せるようなのが嫌いだからだ。この前は、まあ、うっかり泣いたが。それでもホライゾンが気を利かしてくれたのか、泣き顔はだれにも見られなかったと思う。

「ファゼット君」
「ぅわっ」
「ひえっ!?」

 しんと静寂だけに包まれていたキッチンで、突然、名前を呼ばれたことに驚いて声を上げると、呼んだ当人もびっくりしたらしく肩を揺らした。お前が先にびっくりさせてきたのに何驚いてんだ。

「なんだ、おっさんか」

 遅い時間だという自覚もあって自然と声は小さくなる。

「びっくりした」
「俺のセリフだわ…何?」
「ああ、うん、少し気分転換でうろうろしてたらキッチンから明りが漏れてたから」
「ああ…煮詰まってんのか」
「もーちょっとなんだけどそのちょっとが難関でねぇ」

 そう言いながら当たり前みたいにホライゾンは隣の椅子に腰かける。吸血鬼みたいな種族のイメージで固めてるのかそもそもセット購入したのか知れないが、アンティークなデザインのテーブルとイスは8人くらいは座れる長テーブルのタイプだ。中央にこれまた古めかしいというか、ろうそくを使うタイプの燭台が置いてあるくらいで後は何もない。

「ごめんね、食器棚…高かったよねえ」
「えっ、…あ、ああ、ごめん、椅子、戻すから」
「いいのいいの、吾輩が戻しちゃうから」

 こういう時はさっさと行動するよなこのおっさんと思いながら元の位置に戻される椅子を見る。

「……ていうか、」
「ん??」
「おっさん一人しかいないならこんな長テーブル要らねえだろ…」
「……気に入ったデザインだったんだけど現品限りで、椅子8脚とのセットしかもう在庫なくて泣く泣く買った話をする…?」
「うわ」
「ボッチには地獄の買い物だったよ」

 悲惨な顔をして、そう、さめざめと話す。

「ほんとは吾輩だって4脚セットくらいでいいかなーとか思ったんだけどさぁ、売り切れだったんだよ…一品ものを作るタイプの職人さんだったし…デザイン好きだし、お客さん呼ぶときもあるかもしれないからいいかなって思って…」
「客呼ぶの?」
「きょ、極力呼ばないかなあ………」

 意味ねえじゃん、と思うがそういえばこいつ人見知りとかいってたか?と思い出す。シリウスを競り落としたときも堂々と歩いてはいたもののそわついてる瞬間もあったし、パーソナルスペースが広大な可能性がある。

「ところでファゼット君、夜中なのに起きちゃったの?」
「ああ、まあ」
「そっかそっか…お水のんだらリラクゼーション効果のありそーな曲でも聴く??吾輩の部屋で」
「はあ?おっさんと??」
「うん、っていうかまあ吾輩もそろそろいったん仮眠しないといい加減ヤバイなあと思ってたし」

 仮眠何時間とるんだ?と思いながらも、どうしようか、と一瞬思考してしまう。迷うことはない。おっさんに迷惑はかけられないから、断ればいいだけなのに先日のこともあって一瞬、考えてしまった。

「良いよ、別に、赤ん坊じゃあるまいし」
「ぶっちゃけていうと仮眠して起きる自信がないから良ければ吾輩をたたき起こして」
「はあ??」
「絶対昏々と寝ちゃうんだよ………目覚ましが意味を成さないんだよ……」
「それでよくシリウスの面倒が……。おっさん、まさか、えっと、寝てない?」
「えっ、ああ、うん」
「ああうんじゃねえよ」
「ほ、ほら、吾輩一週間くらいは寝なくても別に平気だしそもそも睡眠とかあまり関係がないっていうか、睡眠は脳みそリフレッシュを兼ねてとってるっていうか」
「一週間?!」

 ギゴウという奴も言ってたが、本当に時間の感覚と言うか概念みたいなものが違うというか。まあ、そういう体のつくりになってる種族なんだろうし何も咎める事はないんだがそれにしても日数の感覚が可笑しいだろと思ってしまう。

「お願いだから!一緒に寝よう!!そして吾輩を起こして!!」
「な、何で俺が起こさなくちゃ…」
「今寝たらシリウス君が泣いても絶対気が付かないからだよお!」
「どんだけ眠りがふけえんだよ!!」
「ブラックホールより深いよ!」

 だから本当におねがいします、と再三言われて承諾する流れになった。
 そういえばおっさんの私室というか、仕事部屋までは入ったことがあるがその奥にある寝室兼私室は初めて入るかもしれない。ユリカゴを移動させながら向かったドアはやはり、古めかしいデザインというのか重厚、というのか、そんなデザインだ。どんな部屋なんだと思って構えたが、案外中はゴテゴテしていない。こじゃれてるな、という飾り棚があったり、枕元に端末機器やら古典的な時計が置いてあるくらいだ。壁も暗い色だし、ベッドはシンプルなものだが、ベッドヘッドにおいてある明りは手動式のランプのように見える。多分、手間がかかるタイプのインテリアだろう。

「落っこちたら大変だからファゼット君壁際にどぉぞー」
「……枕元賑やかすぎねえか」

 よく見ると端末機器を遠隔で充電する装置も置いてある。壁際も、凸凹していて壁と一体型の棚になっているらしく古そうな文庫本が何冊もそこに積んであったりゲームソフトがあったりする。

「寝ころびながらゲームしてたらなんかそうなっちゃってて…」
「……何のゲームしてんの」
「アッッ」

 おもむろに手に取ったソフトのタイトルを見ようとしたらサッと取り上げられる。本当にこういう時は行動早いよな。

「ファゼット君にはまだ早いから!」
「あ?」
「大きくなったら教えるから!見ちゃダメ!!」

 置いてある場所を大体把握しているのか、何本かさささっと回収されて、窓際にある棚にしまい込まれる。さては成人向けか暴力表現で規制がかかるタイプだろ、と言ったらわかりやすく目がそれていったので多分そうなんだろう。
 別にそんなものなんてことはないのに、と思いつつごろりと体を横たえる。シリウスの様子をうかがっていたホライゾンもややあってから、隣にそのひょろりとした体を横にする。

「あっ、やばい直ぐに寝落ちしそう」
「……今までどうやって生きてきたんだよおっさん」
「え、あー、独りが長かったから、まあ…それなりに適当に」
「…あのギゴウっておっさんが起こしに来たりすんの」
「ああ、そういうときもあったかな、大概ギゴウ君は吾輩を部屋から引きずってく係みたいなところあるから」
「ふうん」
「あーーーマジでやばい…うう、ファゼット君狭くない?」
「別に」

 そう、なら安心、と呟いたホライゾンは最早既に寝落ちしそうだ。瞼がすっかり閉じていて目を開ける気力もないらしく時々ごしごしと手の甲で瞼をすって眠気に抗ってる、んだと思う。

「吾輩こうやって誰かに添い寝してもらうの初めてだなあ」
「そうなのか?」
「うん、家、居ても一人だったし…物心ついた頃には両親もいなかったしね…、ああ、こうして誰かとお喋りしながら、眠るの、憧れだったんだあ」

 むにゃむにゃと半分もう眠りの世界に行きながらもホライゾンは言葉を零す。

「食事と言い、これといい、あんた憧れ多いな」
「うん、全部、本でしか読んだことなかったから、やってみたいなあって、…ファゼット君とシリウス君のおかげで、これから何度でも出来るんだけど、やっぱりうれしいよ」
「……俺でもいいの?…俺でも、その、」
「ファゼット君のおかげだよ」

 ふふ、と笑った声でなんとも心がむずむずする。

「…俺もおっさんの、おかげで、えと、楽しいよ」
「……ほんとぉ?ああー眠いんだけど感涙しそうやばい、泣きながら眠れるかもしれない」
「いや器用な真似しなくていいから寝ろよ」

 うぐぐ、と呻いてからしばらくして、素直な寝息が聞こえてきたのを確認してからそっと目を閉じた。夢は見なかったが、翌朝おっさんをたたき起こすのに苦労したのは、まあ、しょうがないことだろう。
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