兄は俺を強い口調でもってなじる事は決してなかった。

 ただただ、静かに、冷ややかに、当然の理であるかのように淡々と事実を突きつけて、「お前は無能なのだからせめて兄に尽くせ」と言うのだ。優し気に笑いながらぞっとするような、冷たい剣先を向けるかのように告げられる言葉をずっとそうして聞いてきて、思考するのも億劫で、好きな人を心から愛することもとうに諦めて(結局彼女たちは兄に近づきたいが為だった)、早く死んでしまいたいと何度心臓をかきむしって取り出して、潰してしまえたらと思ったかわからない。
 そうでなくともせめて、この心臓を、抜き取って、凍らせて、感情も何も置いて、人形のように生きていけたらどれ程楽になれるのだろう。

 どれ程。

 どれだけ。

 まだ、死ねないのか。

 まだ、



 息苦しさで目覚め、呼吸を無意識にまた止めていたらしいことを知る。額から伝う汗を手の甲で拭いながら大きく呼吸をして、少し冷たい空気が心地よく喉を通っていったことで意識がやっとはっきりとしてくる。
 そういえば、今この国は春、なのだろうか。自国はそうでもなかったが、同盟国では季節感がはっきりしている国もあって、遠征した際驚いた事を思い出した。しいて言うなら、春、という季節感が近いのかもしれない。

「(苦しい)」

 もぞもぞと起き上り、閉めていた窓を開けると少しだけひんやりとした空気が流れ込んでくる。王宮の自室は殆ど成人してから使うことはなかったし、街中に構えていた小さな家も、窓はあっても開けることはなかった。開けても、今の様に一面の森と、夜空が見えるなどという環境にはなかった。
 ああ、知らない土地に、本当に来てしまったのかもしれないと、空を見てそう思ったのは、月が二つ、並んでいたからだ。

「(どうして二つ、月があるんだろうか)」

 何日か前、眠れなかった日は曇り空でもあったし、空を見る余裕さえなかったから単純に気がつかなかっただけかもしれないが、大小二つ、僅かに雲がかかっていてはっきりとは言えないが、丸い月が並んで浮かんでいる。
 不思議だ、と大きくあけ放った窓から身を僅かに乗り出して眺めていると、視線を真向いの森から感じて身構える。

「(なんだ……?)」

 近くの木から、その視線を感じ、じっと目を凝らす。
 僅かにかかっていた雲が月から退いたらしい。明るい月光があたりに差し込んで、それから、その注視していた木の枝に、レヴェンデル殿が片膝をついてこちらを見ていることにぎょっとしたのと同時だった。
 彼女が枝を蹴りつけ、どこにそんな跳躍力があるのかというほどの距離をこちらに向かって、まっすぐ窓に向かって飛び込んでくるのが見える。

 咄嗟に数歩後ろに下がる。

 瞬く間に、長いその髪をきらめかせながら、文字通り窓から飛び込んできた彼女は、上半身が室内に入ったと同時に両手を広げてみせる。思わず、それにこたえるようにして彼女を受け止め、ぐるりと力を分散させるのに身体を、半回転。

 とすんと足を下ろした彼女は、随分と軽やかだ。

「お上手、やっぱり普通の記憶喪失の男性というわけではないようですね」

 右手で、少しだけ乱れた髪を耳にかけつつ、彼女は小さな声でそういう。くすくす、と笑う声が耳を擽る。

「咄嗟にあんな反応、セルベルちゃんじゃ出来ないわ。ね、流れ星の王子様、貴方、長い事何か、例えば戦うことや咄嗟に反応をしなくてはならない環境に身を置いてらっしゃった?」

 肩やスカートに、葉や何かついていたのかもしれない。ぱさぱさと殆ど音を立てる事をせずに払いながら彼女は窓辺に腰かけ、笑う。

「そちらこそ、普通ではないようだが」
「怖い顔なさらないで」
「……、警戒するだろう」
「質問に答えてはくださらない?よく私がいる場所を見つけたと感心したのよ、貴方のこと、フツーの男性だと見積もっていたわけではないけど、まさかこんなに勘がいいとは想定してなかったの」

 しなやかな足を長く黒いスカートの下で恐らく、組み、彼女はそう言葉を続ける。

「それに動体視力も大変いいから、やっぱり何か、そういう経験があるんでしょう?」
「……聞きたいなら、まずそちらの情報から教えて頂こうか」
「あら、そう、まあ……いいんですけどね。私、暗殺稼業をこちらでしてます」

 何処にしまっていたのか定かではないが、するりと短剣を取り出して見せる。少し変わった、見たことが無い形ではあるが、薄く小さい短剣はしまうのにちょうどよさそうだ。

「私、貴方が気になる情報ならある程度教えて差し上げられると思いますよ、ノニンさん」
「……何処で聞いた」
「セルベルちゃんのことならリサーチ済みですから」

 くす、とまた笑う音が漏れている。

「ベテルギウスさんはまあ、気がついてないかもしれないけど、……ここでは魔術を使える人間はほんの一握り。むやみに使わない方がよろしいと思いますよ」
「………何故」
「何故分かったか、というと、貴方のピアスにつかっている石、それから少し拝見したんですが貴方が持っていたという剣にあしらわれている石、魔石と呼ばれているものでしたから、ああ、魔術を使うんだなと思って。この国ではそういう媒体ってかなり貴重なんです、覚えていて損はないですよ」

 本当に、ただの女性ではないらしいと改めて心に覚え込ませながら、じっと彼女を見る。武器を持たない今、出来ることは魔術くらいだがそれも釘をさされた格好だ。

「……一応、戦場には何度も出ているし、貴女のような暗殺者に命を狙われた経験もあるので、」
「あら、そうなんですか」
「……情報はどれ程教えて頂けるんだ」
「ノニンさんの誠意次第です」
「誠意?」
「私の教える情報も、この国の人たちにとってはかなり理解がしがたい情報を多く含んでいたりします、それを知っている私も命の危険があるかもしれませんし」
「口外はしない、監視して頂いても構わない」
「あらあ、必死なんですね」
「何もかも、わからないし、下手にセルベル殿たちに質問も出来ない。勘繰られても困るからな……ある程度情報を得て身の振り方は考えたい」

 そうですか、と言った彼女は猫のようにするりと座っていた窓辺から降り、今度は俺が使わせていただいているベッドに腰かける。

「やはり記憶はあるんですね、…悪い人、素直でいい子のセルベルちゃんを騙して」
「……彼にはすまないとは思っている」
「ふふふ、でもセルベルちゃんに悪いことをしてないので大目に見ましょうか」

 セルベル殿は彼女のお気に入りらしいことははっきりわかった。
 彼女が話してくれた内容から、ここは間違いなく自分がまるで知らない世界であることらしいという事実がわかったのは大きな安心だった。知らないなら、兄はもういないかもしれない。怯えずとも、セルベル殿に迷惑が掛かる事もないかもしれないと思えば肩が少しだけ軽くなった。
 それから魔術を使う人間はほんの僅かしか存在しておらず、魔術師というらしい。自国では魔石を使えばだれでも、個人差はあれど魔術を使うことは出来たので、彼女の忠告通り使わずに行こうと思った。魔術を使う適正があると認められたものだけが各地の学び舎に通い試験を受けるといった流れらしい。
 まだ頭が追い付いていないが、レヴェンデル殿は遠い空の向こうから来た、と言っていた。これは、俺が元の場所ではそれなりの地位に属していた事を教えてくれたお礼、といっていたが、空の向こうにも多くの国や人がある、というのがどうも、信じられないというかこれこそ物語のようで頭を抑えたくなった話だった。

「話が広大すぎて、すまない、何と言えば良いのか」
「良いんですよ、この国だって、惑星外と交流を持っていることは上の階級でも理解ある方しか知らされていないことですし」
「レヴェンデル殿は、その、どうして」
「私、ここの領主殿に雇われてるので」
「領主殿は、その、今の話に理解がある僅かな方だと」
「そうですね、困ったことがあれば言ってください、私がお話を通しますから」
「そう、ならないようになんとか立ち回ろうとは思う」
「それがいいかもしれませんね、ふふふ」

 じゃあ、私部屋に戻るので、と発し、彼女が横をすり抜けていく。

「すまない、その、助かった、色々」
「あら、お礼を言ってもらえるだなんて……。良いんです、そのかわり何かあった時はご助言くださいね、おもに魔術とか」
「………わかった、協力はしよう」

 どうもありがとう、と、肩に手を置かれ、頬に触れるだけのキスをされる。恐らくは彼女も彼女で色々目的があるからこそ俺にこれほど接近して情報を見せてきたのだという事はわかる。それから、彼女へ協力せざるをえない環境を整えられたことも。
 尋ねにくい情報を彼女はきっとまだ多く持っていて、恐らくは、都度質問すれば答えてくれるのだろう。

「(計算尽く…というのか、なんというか)」

 教えがたい情報を教えた、ということも、暗に、自分も口外はしないと言われているような気がして、安堵はする。ただ、本当にわからない女性だ、と少しため息も出た。
 ぐるぐると、一気に与えられた情報を頭で整頓しながら、この空の向こうのどこかに、元居た世界があるのかと、長い夜を窓辺で過ごした。
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