夏
あれから例の隣国の装いをした兵をちらほらと、オルフェ殿の屋敷で見かけるようになった。恐らくは交渉が得意な、話術であるとか、相手の思考を受け取って歩み寄る能力のある兵なのだろう、とは思いながら、もしもの時に備えてと言われて、今日もこっそりとオウル殿の執務室の横、小さな隠し部屋で待機をして過ごしていた。
数日泊りがけで来ている兵は、俺よりは低い背丈で、年頃は近いような印象を受ける。がっちりした体格と、短く切った淡い青の髪、それから、初対面で警戒心が薄まるような大らかな印象を受ける人だ。そこそこに身分もあって、こちらの国の言葉にも詳しいようだから、知識も深いのかも知れない、と思いながら、彼が退出して暫く時間をおいてから、隠し部屋からそっと抜け出て、書庫へと出た。レヴェンデル殿が自分は通りたくないが隠し通路があるから教えておくと、強制的に教えて下さった。
初めは部外者だし、どこのどんな身分のものであるかもはっきりしてない事になっている自分にそんなことを教えるのはと拒否していたのだが、「この屋敷の数人はどこの星のどんな身分かわからない人ですよ」と言われ、良いから、と教えられたのだ。
オウル殿と向こう側の一日の話し合いが終わる間はそうして、隠し部屋で待機して、終われば書庫で知識を詰め込む作業をしていた。この書庫はオルフェの家のものの許可がおりないと入れない一角だ。いくつか書庫があるのは管理が大変そうだ、と思うのだが、きちんと整頓されているのをみるに誰か専門で雇っていたりするのかもしれない。
ユッテに教えなくてはいけないことも多くあり、そのためにはこの「星」の基礎的な知識が必要で、数冊本を借りていくこともあった。そこそこに高価なものだと聞いているので、滅多には借りないが。
いつもより短めに学習をすませて書庫から出て少し歩いたところで、例の兵の方(兵というよりは、騎士、というのが良いのかもしれないが)を見かける。少し悩まし気に通路の真ん中でどんと腕を組んで立っている。どうかしたのか、と尋ねたいが生憎まだ向こうの国の言葉は覚えられていない。どうしたものかと悩んでいれば、向こうから声を掛けられる。ただ、何を言っているかはわからない。
彼が彼自身を指さし、それからいくつか通路のドアを指さして、肩を竦めたところで、もしかすると与えられた部屋がわからないのかと思う。同時に、そんなはずはないと思う。
方向が定かでなくなるという方には見えないし、今、明らかに、誰かが通りかかるのを待っていたという雰囲気だった。それでも一応、屋敷に仕えている者としては、案内してさしあげなければオウル殿やアメイシャ殿の印象にもかかわってくる。
「こちらです」
彼の名前はなんと言っただろうか。思えばまともな紹介はレヴェンデル殿からもされなかった。
にこりと笑ったあと、彼は大人しくついてくるようだった。何かあった時の為に彼の部屋は把握はしていた。誰に頼まれてもいないが。万が一、はある。
「ここですよ」
客間のドアを示して、なんとか笑うと、彼もまたにこりとわらって何かをいうのだが、やはりわからない。言葉がわからない、と悟ったのか、少し考えてから右手を差し出す。つい、袖や手の内に何か毒針のようなものでも仕込んではいないかとさっと視線を巡らすが、自分なら、もう少し周囲が安心してから事を起こす、ような気もして、おそるおそる握り返す。
ぶんぶんと、軽く、優しい力で上下に数回振られ、手を離された、と思ったのだが、何を思ったのか手首を掴んで、玄関ホールまで歩き出す。反抗しない方が良いだろうか、と思いつついつでも抵抗は出来るように構えていると、誰かを探しているかのようにきょろきょろとあたりを見回す。
外へ出て、見渡して、緑色の軍服を着ていた男性ふたり組に声をかけた。と、思ったのだが、一人は女性であった、と近くに連れていかれながら気が付く。ちらりと女性と目があう。少し茶色がかった黒髪は短く切られ、つんつんとしている。左右で色の違う目がこちらを見上げる。
「ごきげんよう」
「あ、…ハ、ハイ、」
綺麗な声がそう告げる。
「ええと…」
返事を返しながら様子を見ればもう一人、黒い髪の男性がなにやら話している。俺は手首を掴まれたままだが抵抗はせずにじっと二人の様子を見るしかない。
「貴方は?」
気を遣われたらしい。女性の方がそう話しかけてくれる。
「え…っと、ノニン、と申します。貴女は?」
「フラン・トシュテルです。あちらは同僚のヨルクと言います」
「ヨルク…殿、とトシュテル殿ですね」
「彼に任せておけばよろしい。ヨルク殿はあちらの言葉がわかりますから」
「そうなんですか……」
ええ、と彼女が頷いたのと、ヨルク、と呼ばれた男性と目があったのは同時だった気がした。
「……ノニン様」
「や、そんな、様はいい、です、」
「…ノニンさん」
「はい」
「…サッヴァ・ヨルク、と申します、今、少しだけ、こちらのヤルヴァ殿の通訳を、させていただきます」
「え、は、はい、宜しくお願いします」
ヨルク、確か、ユッテの両親の墓前にいったとき、ピスケス殿が「ヨルク」と名を口にしていたその人だろうか。物静かといえば聞こえはいいが、どこか、寂しそうな雰囲気のある男性だ、と思いつつ、ヤルヴァと呼ばれた隣国からきた彼を見る。青い瞳がにこりと微笑んで、こちらを見た。
「彼はレクス・ヤルヴァとおっしゃるそうで、貴方の名前を知りたいと」
「あ、ああ、ノニンと申します」
応えると、ヨルク殿が彼へと聞き馴染みがない言葉を述べるのが不思議だ。
「…ノニンさんは、騎士か、と」
「い、いいえ」
首を左右に振ったのを見て彼が怪訝そうにした後、ヨルク殿に何かと早口で伝えている。気がつけば掴まれていた手首は解放されていた。
「失礼、ヤルヴァ殿は貴方と手合わせがしたいと仰っていますが…」
「て、手合わせですか?」
「ヨルク殿、確かに顔は…失礼、顔は厳ついと思うのだが、見たところノニン殿はオルフェ家に仕えている方なのでは…?武人はいらっしゃらない筈だ」
同じように驚いたらしいトシュテル殿が言葉を重ねて下さる。
「説明はしている、のですが……そんなはずはないと…」
「すいませんが、その、そういう嗜みはしておりませんので…」
ヤルヴァ、と名乗ったこの男性が、「全くこちらの言語を知らない」という可能性は低いと思っていた。オウル殿と彼がどちらの言葉で話しているかまでは聞き取れないでいるので確信は出来ないが、僅かに、ヨルク殿が伝えるより先に俺のいう言葉を理解しているような反応を微かにしているように見える。
だから、知らないのだ、というていで通してはいるのだが、だからといって虚偽の言葉や罵倒の言葉を述べて良いわけではない。言葉がわからなくても、誠実に努めよう、と、する。するが、結局今自分が述べている言葉は、虚偽だ。彼の、俺が騎士ではないか、という見立ては正しい。
「記憶が…なくて、ですね」
驚いたようにトシュテル殿がこちらを見たような気がする。
「申し訳ないのですが、その、騎士のヤルヴァ殿がそう見える、というのならもしかすればしていたのかもしれないのですが、そう言った記憶がない、とお伝えしていただけますがヨルク殿」
「わかりました」
小さく首を縦に振ったヨルク殿が、ヤルヴァ殿へ伝えてくれるのを聞きながら、ヤルヴァ殿を観察する。やはり、がっちりした体格は鍛え上げていることが服越しでもわかる。掴まれた時、手の内側がごつごつとしていたのはそういう握る武器を扱うからだろう。剣か他の武器なのかはわからないが。
「それならなおさら手合わせがしたい、とおっしゃっておりますが、どうなさいますか、ノニンさん」
ちらり、とヤルヴァ殿を見ると、にやりと片側だけ口角をあげて笑みを向けられる。
「……わかりました、私のような者で、退屈が凌げるのでしたら」
「…よろしいんですか?」
「ええ、大丈夫です、騎士の方、でしたら素人相手にも手は抜いてくださるかな、と思いますし。ただ、ヨルク殿に同伴していただいて通訳だけは頼みたいのですが」
「…私でしたら、構いません」
「助かります」
「トシュテル殿、」
少しヨルク殿が離れてトシュテル殿へなにやら耳打ちをしているのを見ていると、肘で腕をとん、とつつかれたような感覚がある。そんなことをできるのはヤルヴァ殿しかいないのだが、何かあっただろうか、と警戒しつつ伺うと、にこにこと笑って見上げて来ていた。
なにか、と聞こうとしたとき、ヨルク殿が案内すると声をかけて下さって、軍属の方が使われているという修練場へと案内されることになる。
一番後ろをついて歩きながら、道案内の為先頭に立つヨルク殿と、真ん中にはいっているヤルヴァ殿の背中をぼんやり見る。あまり意識を向けないように、時々見る程度に努めたはずだったが、ヤルヴァ殿が振り向いて、少し笑って再び前を向く、という行動を見せたのをみて、ああ、と納得がいった。
「(彼は、俺が隣に控えている、と、勘づいていた、のか、)」
オウル殿も大概人が好い方だから、事前に誰かが見張っている、と申告はしていたのかもしれないが、性別や年齢などまで言うわけがない。何回かの会談を重ねながら、もしかすれば誰がそこにいるのかこの御仁なりに視察していたのかもしれない。偶然で済ませられる些細なことかもしれないが、選ばれて、元々敵対していた領地に送られている方なのだから、愚鈍では務まらないだろう。
「ここが、そうです……」
「ありがとうございます」
「アリガトウ」
にっこり笑って、たどたどしい言葉を出したのはヤルヴァ殿だった。つい、やはり話せるのではないか、とそんな顔をしそうになったがぐっとこらえて彼を見る。
「わかっていらっしゃるなら、わざわざ通訳を探して会話をするというのは無駄では…」
ひとつ、静かに、ゆっくりと首に手をかけるような重い声でそう言うのはヨルク殿だ。表情はぴくりとも変わらない。本当に腹を立てているのかも、わからない。いや、そもそもこの手のことで腹を立てる御仁なのかもわからないのだが。
「デモ、俺、上手くハナセナイ、必要デスヨ」
「そこまで達者なのでしたら問題はないと思いますよ」
「ヨ、ヨルク殿、ですが、異国の地で何かと困るのかもしれませんし…こまやかな伝達をしていただくのは大切です、し」
「…失礼ですが…ここまで上手く聞き取れていて会話の返しもしっかりできているのなら、私はきちんとご自分の言葉で話した方が通じるのではと思いますが、ヤルヴァ殿」
ふふ、と笑いを零したヤルヴァ殿は肩をすくめて笑っただけだった。それから俺の手首を掴んで、模擬の武器がある場所まで連れて行き、さあやろう、という具合に背中を押される。
「お、お手柔らかに……」
悩む素振りだけはしながら片手剣をとる。何かヤルヴァ殿に言われたような気がして顔を上げると、ヨルク殿が無表情に近いまま此方を見て、「動けば思いだすかも、だそうです」と教えてくれた。
「そうだと良いんですが、思いだしたところで…」
「ダイジョウブ」
すらりと、模擬剣を抜いた彼はそういって笑ってみせた。
数日泊りがけで来ている兵は、俺よりは低い背丈で、年頃は近いような印象を受ける。がっちりした体格と、短く切った淡い青の髪、それから、初対面で警戒心が薄まるような大らかな印象を受ける人だ。そこそこに身分もあって、こちらの国の言葉にも詳しいようだから、知識も深いのかも知れない、と思いながら、彼が退出して暫く時間をおいてから、隠し部屋からそっと抜け出て、書庫へと出た。レヴェンデル殿が自分は通りたくないが隠し通路があるから教えておくと、強制的に教えて下さった。
初めは部外者だし、どこのどんな身分のものであるかもはっきりしてない事になっている自分にそんなことを教えるのはと拒否していたのだが、「この屋敷の数人はどこの星のどんな身分かわからない人ですよ」と言われ、良いから、と教えられたのだ。
オウル殿と向こう側の一日の話し合いが終わる間はそうして、隠し部屋で待機して、終われば書庫で知識を詰め込む作業をしていた。この書庫はオルフェの家のものの許可がおりないと入れない一角だ。いくつか書庫があるのは管理が大変そうだ、と思うのだが、きちんと整頓されているのをみるに誰か専門で雇っていたりするのかもしれない。
ユッテに教えなくてはいけないことも多くあり、そのためにはこの「星」の基礎的な知識が必要で、数冊本を借りていくこともあった。そこそこに高価なものだと聞いているので、滅多には借りないが。
いつもより短めに学習をすませて書庫から出て少し歩いたところで、例の兵の方(兵というよりは、騎士、というのが良いのかもしれないが)を見かける。少し悩まし気に通路の真ん中でどんと腕を組んで立っている。どうかしたのか、と尋ねたいが生憎まだ向こうの国の言葉は覚えられていない。どうしたものかと悩んでいれば、向こうから声を掛けられる。ただ、何を言っているかはわからない。
彼が彼自身を指さし、それからいくつか通路のドアを指さして、肩を竦めたところで、もしかすると与えられた部屋がわからないのかと思う。同時に、そんなはずはないと思う。
方向が定かでなくなるという方には見えないし、今、明らかに、誰かが通りかかるのを待っていたという雰囲気だった。それでも一応、屋敷に仕えている者としては、案内してさしあげなければオウル殿やアメイシャ殿の印象にもかかわってくる。
「こちらです」
彼の名前はなんと言っただろうか。思えばまともな紹介はレヴェンデル殿からもされなかった。
にこりと笑ったあと、彼は大人しくついてくるようだった。何かあった時の為に彼の部屋は把握はしていた。誰に頼まれてもいないが。万が一、はある。
「ここですよ」
客間のドアを示して、なんとか笑うと、彼もまたにこりとわらって何かをいうのだが、やはりわからない。言葉がわからない、と悟ったのか、少し考えてから右手を差し出す。つい、袖や手の内に何か毒針のようなものでも仕込んではいないかとさっと視線を巡らすが、自分なら、もう少し周囲が安心してから事を起こす、ような気もして、おそるおそる握り返す。
ぶんぶんと、軽く、優しい力で上下に数回振られ、手を離された、と思ったのだが、何を思ったのか手首を掴んで、玄関ホールまで歩き出す。反抗しない方が良いだろうか、と思いつついつでも抵抗は出来るように構えていると、誰かを探しているかのようにきょろきょろとあたりを見回す。
外へ出て、見渡して、緑色の軍服を着ていた男性ふたり組に声をかけた。と、思ったのだが、一人は女性であった、と近くに連れていかれながら気が付く。ちらりと女性と目があう。少し茶色がかった黒髪は短く切られ、つんつんとしている。左右で色の違う目がこちらを見上げる。
「ごきげんよう」
「あ、…ハ、ハイ、」
綺麗な声がそう告げる。
「ええと…」
返事を返しながら様子を見ればもう一人、黒い髪の男性がなにやら話している。俺は手首を掴まれたままだが抵抗はせずにじっと二人の様子を見るしかない。
「貴方は?」
気を遣われたらしい。女性の方がそう話しかけてくれる。
「え…っと、ノニン、と申します。貴女は?」
「フラン・トシュテルです。あちらは同僚のヨルクと言います」
「ヨルク…殿、とトシュテル殿ですね」
「彼に任せておけばよろしい。ヨルク殿はあちらの言葉がわかりますから」
「そうなんですか……」
ええ、と彼女が頷いたのと、ヨルク、と呼ばれた男性と目があったのは同時だった気がした。
「……ノニン様」
「や、そんな、様はいい、です、」
「…ノニンさん」
「はい」
「…サッヴァ・ヨルク、と申します、今、少しだけ、こちらのヤルヴァ殿の通訳を、させていただきます」
「え、は、はい、宜しくお願いします」
ヨルク、確か、ユッテの両親の墓前にいったとき、ピスケス殿が「ヨルク」と名を口にしていたその人だろうか。物静かといえば聞こえはいいが、どこか、寂しそうな雰囲気のある男性だ、と思いつつ、ヤルヴァと呼ばれた隣国からきた彼を見る。青い瞳がにこりと微笑んで、こちらを見た。
「彼はレクス・ヤルヴァとおっしゃるそうで、貴方の名前を知りたいと」
「あ、ああ、ノニンと申します」
応えると、ヨルク殿が彼へと聞き馴染みがない言葉を述べるのが不思議だ。
「…ノニンさんは、騎士か、と」
「い、いいえ」
首を左右に振ったのを見て彼が怪訝そうにした後、ヨルク殿に何かと早口で伝えている。気がつけば掴まれていた手首は解放されていた。
「失礼、ヤルヴァ殿は貴方と手合わせがしたいと仰っていますが…」
「て、手合わせですか?」
「ヨルク殿、確かに顔は…失礼、顔は厳ついと思うのだが、見たところノニン殿はオルフェ家に仕えている方なのでは…?武人はいらっしゃらない筈だ」
同じように驚いたらしいトシュテル殿が言葉を重ねて下さる。
「説明はしている、のですが……そんなはずはないと…」
「すいませんが、その、そういう嗜みはしておりませんので…」
ヤルヴァ、と名乗ったこの男性が、「全くこちらの言語を知らない」という可能性は低いと思っていた。オウル殿と彼がどちらの言葉で話しているかまでは聞き取れないでいるので確信は出来ないが、僅かに、ヨルク殿が伝えるより先に俺のいう言葉を理解しているような反応を微かにしているように見える。
だから、知らないのだ、というていで通してはいるのだが、だからといって虚偽の言葉や罵倒の言葉を述べて良いわけではない。言葉がわからなくても、誠実に努めよう、と、する。するが、結局今自分が述べている言葉は、虚偽だ。彼の、俺が騎士ではないか、という見立ては正しい。
「記憶が…なくて、ですね」
驚いたようにトシュテル殿がこちらを見たような気がする。
「申し訳ないのですが、その、騎士のヤルヴァ殿がそう見える、というのならもしかすればしていたのかもしれないのですが、そう言った記憶がない、とお伝えしていただけますがヨルク殿」
「わかりました」
小さく首を縦に振ったヨルク殿が、ヤルヴァ殿へ伝えてくれるのを聞きながら、ヤルヴァ殿を観察する。やはり、がっちりした体格は鍛え上げていることが服越しでもわかる。掴まれた時、手の内側がごつごつとしていたのはそういう握る武器を扱うからだろう。剣か他の武器なのかはわからないが。
「それならなおさら手合わせがしたい、とおっしゃっておりますが、どうなさいますか、ノニンさん」
ちらり、とヤルヴァ殿を見ると、にやりと片側だけ口角をあげて笑みを向けられる。
「……わかりました、私のような者で、退屈が凌げるのでしたら」
「…よろしいんですか?」
「ええ、大丈夫です、騎士の方、でしたら素人相手にも手は抜いてくださるかな、と思いますし。ただ、ヨルク殿に同伴していただいて通訳だけは頼みたいのですが」
「…私でしたら、構いません」
「助かります」
「トシュテル殿、」
少しヨルク殿が離れてトシュテル殿へなにやら耳打ちをしているのを見ていると、肘で腕をとん、とつつかれたような感覚がある。そんなことをできるのはヤルヴァ殿しかいないのだが、何かあっただろうか、と警戒しつつ伺うと、にこにこと笑って見上げて来ていた。
なにか、と聞こうとしたとき、ヨルク殿が案内すると声をかけて下さって、軍属の方が使われているという修練場へと案内されることになる。
一番後ろをついて歩きながら、道案内の為先頭に立つヨルク殿と、真ん中にはいっているヤルヴァ殿の背中をぼんやり見る。あまり意識を向けないように、時々見る程度に努めたはずだったが、ヤルヴァ殿が振り向いて、少し笑って再び前を向く、という行動を見せたのをみて、ああ、と納得がいった。
「(彼は、俺が隣に控えている、と、勘づいていた、のか、)」
オウル殿も大概人が好い方だから、事前に誰かが見張っている、と申告はしていたのかもしれないが、性別や年齢などまで言うわけがない。何回かの会談を重ねながら、もしかすれば誰がそこにいるのかこの御仁なりに視察していたのかもしれない。偶然で済ませられる些細なことかもしれないが、選ばれて、元々敵対していた領地に送られている方なのだから、愚鈍では務まらないだろう。
「ここが、そうです……」
「ありがとうございます」
「アリガトウ」
にっこり笑って、たどたどしい言葉を出したのはヤルヴァ殿だった。つい、やはり話せるのではないか、とそんな顔をしそうになったがぐっとこらえて彼を見る。
「わかっていらっしゃるなら、わざわざ通訳を探して会話をするというのは無駄では…」
ひとつ、静かに、ゆっくりと首に手をかけるような重い声でそう言うのはヨルク殿だ。表情はぴくりとも変わらない。本当に腹を立てているのかも、わからない。いや、そもそもこの手のことで腹を立てる御仁なのかもわからないのだが。
「デモ、俺、上手くハナセナイ、必要デスヨ」
「そこまで達者なのでしたら問題はないと思いますよ」
「ヨ、ヨルク殿、ですが、異国の地で何かと困るのかもしれませんし…こまやかな伝達をしていただくのは大切です、し」
「…失礼ですが…ここまで上手く聞き取れていて会話の返しもしっかりできているのなら、私はきちんとご自分の言葉で話した方が通じるのではと思いますが、ヤルヴァ殿」
ふふ、と笑いを零したヤルヴァ殿は肩をすくめて笑っただけだった。それから俺の手首を掴んで、模擬の武器がある場所まで連れて行き、さあやろう、という具合に背中を押される。
「お、お手柔らかに……」
悩む素振りだけはしながら片手剣をとる。何かヤルヴァ殿に言われたような気がして顔を上げると、ヨルク殿が無表情に近いまま此方を見て、「動けば思いだすかも、だそうです」と教えてくれた。
「そうだと良いんですが、思いだしたところで…」
「ダイジョウブ」
すらりと、模擬剣を抜いた彼はそういって笑ってみせた。