深々とため息をついてしまいながら、黙々とパンを千切っては口の中に入れている。

 オウル殿から、中央で隣国と和平を考えている所だという話があった。向こうは向こうで疲弊が激しく、決して国を潰すのが目的ではないこちら側の、中央にいるのだろう王の意向もあってのことらしい。潰してしまうのは聞きかじった限りこちらの力をみれば容易いのかもしれないが、確かに潰してしまえばいつかは反乱される覚えもある。囲うのはそれはそれで危険ではあるが、犠牲を少なく、ということで和平をとのことらしい。
 交替で防衛のために国境沿いへ待機している者たちも折を見て戻るのだとかいう話を聞きながら、そうであるなら、彼女がまた国境沿いへ向かうということはなくなるのかもしれないと思う。
 仕事がなくなるわけではないだろうから、それでも、彼女が忙しいことに変わりはないはずだ。だとしても、少しでも危険が減るのは安心ではある。誰かを心配するだなんて久しくしていなかったが、こんなに複雑に、安堵と少しの不安と、心配と、入り混じるものだったろうかと思う。

 レスライン殿とは、あれから何度か、オウル殿の屋敷や、街中でお見かけすることはあったが、話かけよう、とは思えなかったし、出来なかった。なんとなく、視線で制されているような気がしたし、お仕事の邪魔をするのも気が引けた。大概見かけると、彼女は軍服を必ず着ていたというのもあった。以前より彼女を多く見かける事が増えたのは、単純に彼女の行動範囲と合致している時があるからなのか、それとも、自分がもっとよく彼女を見ているからなのか、わからない。後者の方が強いような気がするのだが、なんとも言い難い。

 そんなことを思考しながら食べ進めるのだが、今日は、いつもと違う状況ではあった。今日は、というか、今日から少しずつと言うべきなのか。
 安定的な収入、と言って良いのかわからない。そもそも孤児院で勉学の補助をするのも、アメイシャどのに教えている状況にしても、レヴェンデル殿やアメイシャ殿の計らいあってのことで、自分で掴んだ職というわけではないので気が引けるのだが、一定した金銭が手に入るようになってだいぶ経つ。
 だいぶといっても季節が一つ過ぎて半分くらい、になるのだろうか。個人的にはもう少しだけ様子をと思ったのだが、レヴェンデル殿に勧められ、セルベル殿やベテルギウス殿にも同意を受け、街中にあった空き家をひとつ、借りるようになった。宿の部屋も使うことはあるのだが、最近は殆どこの借りた家に寝泊まりをするようになっていた。
 向こうにいたころ借りていた家に少し似ていて、大通りから路地に入って、そこからさらに隠れるようにぽつんと立っている家はどことなく落ち着いた。違う所と言えば階段が少し螺旋を描くようにあって、二階があることだろうか。まだまだ家具が揃っていなく、ちまちまと掃除やら整頓やらしながら、屋敷に通いつつ、孤児院へ通いつつの数日を送っている。
 あまり物を持っていなかったので、荷物自体は小さく箱に詰めて持ってこれたのだが、管理されていたとはいえ長いこと人が立ち入らなかった部屋は埃が多くて軽い掃除で一日を費やした。
 この世界に来てから、自分がこういう、誰に評価されるでもない作業が好きなのだという事に気が付いたのも、優しい彼らに囲まれたおかげだろうかと考える。多分、そうだと思う。
 テーブルはヴィムの父上のツテで家具を取り扱う店を紹介してもらって購入させて頂いたし、書籍類はなかなか高価なものだからここに置けないのは残念だが、気分だけ、小さな本棚もある。ベッドも、そこまで古くないものを譲って頂いた。
 少し殺風景だろうかとも思うのだが、これでもまあ、上出来だろう。上出来だ、と思うことにする。

 これは、そう、下準備、なのだ。勿論いつまでもセルベル殿の宿に、支払いはしているとはいえお世話になりっぱなしだというのも申し訳がなかったので、いつかはどこかに空き家があれば借りようかとは視野に入れてはいた。
 それともう一つ。ユッテのこともあった。
 まだ聞いてみる勇気はないのだが、もう少し、安定したら、…落ち着いたらユッテと、一緒に暮らそうかと、真面目に考えるようになった。彼女を幸福にするのは俺ではなく、別の誰かなのかもしれない。俺では事が足りないのかもしれないが、彼女のこれから先を見守るくらいはさせてほしい、と思えた。一番懐いてくださっている、というのもあるのだが、此処最近は特にもべったりされる、という印象があった。周りにいた年上の友達が何人か、引き取られたのも大きいのかもしれない。
 小さなレディと暮らすとなればいろいろと入用にもなるだろうし、彼女の部屋も、ないことはない。個人的な空間があることは大切にしてあげたい。あとは、彼女へ伺いを立てるだけなのだが、それが怖くて、黙っている。
 幸い、気晴らしで昔から家事の真似はしたことがあった。今思うと逃げの一種だったその「身の回りのことを自分でする空間」を作ったことも、好きなこと、ではあるのだ。確かに。そう思う、思い返して胸に落とせる余裕が出来たのだ、と思いたい。
 最後のひとくちだったものをやっと飲み込んで、立ち上がる。治安は良い方だとは言うがそれでも絶対ではないから、鍵は持った。向こうで着ていた服もあまり着なくなったと思う。レヴェンデル殿が用意してくださった服と、追加で買った衣服とが増えていく。向こうの服がこちらで目立ちすぎるということはないが、それでも少し特殊らしくて控えている。威圧か何かするときには良いのかもしれないので、捨てずには置いている。
 向こうでつけていた、シュトロムフト家の証拠であるネックレスも、殆ど身につけなくなったと思う。まだあれを見るとそわりとするが、無いと落ち着かないということはなくなった。ここが違う世界で、兄は存在せず、自分の事を知らない者ばかりなのだというのは自分にとって随分気楽な環境なのだと考えるようにもなった。まだ、夢見が悪い日があるが、そのうち見なくなると笑ったレヴェンデル殿やオウル殿の言葉に少しだけ縋ってもいる。本当にそんな日が来るのかと思う自分と、彼らが言うのならそうなのかもしれないと思える自分がいる。
 扉を開けて、流れてくる空気は少し暑い。あまり雨が降らないらしいので、空気はからりとしているが、それがまた、じとりと額に少しずつ汗をにじませる。今日も暑いのだろうな、と思いながら見た空は、清々しいほどに青い。
 いつもセルベル殿の宿から向かっていた場所は随分と近くなったし、歩いて行ける、というのは大きい。
 今日は聞こう。少しだけ。彼女に聞いてみよう。

「先生だ!」

 暑さのせいか三つ編みをせずに、高い位置でひとつに結われた黒い髪が左右に揺れている。

「ユッテ」
「どうしたのー?」
「君に会いに来たんだ」

 そう伝えれば、くすぐったそうに、嬉しいと笑う。彼女は、なんというだろうかと思いながら、小さく深呼吸をした。
16/21ページ