夏
「隊長でしたら昼前に一度顔を出した後は、夕飯までは見かけませんでしたよ」
そんな言葉を聞いて、彼女がどれだけの時間、俺の隣で時間を費やしてしまったのかを知る。今日は宿泊されるそうですけど、と嬉しそうに笑ったセルベル殿の顔を思い出しながらそわそわと落ち着かない。
時間を無駄にさせてしまった事を謝罪しなくてはいけない。彼女は恐らく本日は休みだろう、その貴重な時間をまた奪ってしまった。
でも、夜に女性の宿泊している部屋に伺うのも気が引けてしょうがない。しかし、言わなくては、ならない。お忙しそうな方だから、明日の朝にはもう街へ戻ってしまうかもしれない。
意を決して、彼女が宿泊に使っている部屋の前まできて深呼吸をする。ノックをするより先にドアが開いて、彼女が顔を出す。前髪が少しだけ降りていて、首まで覆うような服を着て。割と、薄着なんじゃないかとドキリとしながらそこに意識をおかないようにする。
「何だ」
夜の廊下に彼女の声が良く通る。大きくはないのに、よく聞こえる声だ。
「夜分遅くに申し訳ありません…あの、昼間はご迷惑をおかけしました…」
「そんなことで来たのか」
今日は、きちんと彼女がこちらを見て下さっている。
「俺にとっては、そんなこと、ではないので…」
「別に、セルベル・エルデが呼んでいただけだからな」
嘘なのだ、ということは知っている。知っている、というか、そう、なんじゃないかという勝手な予測だが間違ってはいない筈だ。
セルベル殿は「レスライン殿に頼んだ」とは言っていなかった。彼は素直な人だ。俺が聞くよりも先に教えてくれるかもしれないし、あまり人にものを頼んだりされない人だ。元上官の彼女に物事を頼むくらいなら、きっと、彼は自分で来る。
「そう、でしたか」
彼女の言葉を否定できない。本当に何でもないから、些細事で、感謝されることじゃあないと思っているからそう発言してくださっているのだとしたら、さして親しくもない俺が「嘘ですよね」とも言えない。
「でも、その、本当に、ありがとうございます……」
「貴様が寝過ごして飯が食えなくなっても私は別に困らんが、セルベル・エルデは困るだろうからな」
「そう、ですね、せっかく作って頂いているのに」
「第一あんなところで寝るな」
「……仰る通りで」
宿の裏手、それも普段は作業をするひっそりとした場所でうずくまって眠っていたら、それは、そう思うだろう。季節も暑い時期だというのに、俺は厚着をしているし。
「眠れていなかったもの、で」
「そうだろうな」
はっきりとした物言いに、思わず俯きかけていた顔を上げる。
「…顔色が悪い、隈も酷い、見る奴が見れば、寝不足だとすぐわかるものだ」
セルベル・エルデにも言われただろう、と彼女に言われて頷きながら、彼女が俺なんかのことを気にかけた…という言い方は傲慢かもしれないが、見て下さったということが嬉しかった。敵視や不信感を持たれることはあっても、それ以外で顔色を見て下さっていたのは、嬉しい。たとえそれが、観察であったとしても、今は良いようにとってしまいたくなる。
「だからといって昼間にあんな場所で寝るな。此処は離れていても一番国境に近いんだ」
「は、あ、ご忠告、胸に刻んでおきます…」
彼女の言葉がどことなく、優しい気がしてしまう。じわりと胸のなかに色がにじんでいくような気がする。
「お前の事は信用できないし、不審な点が多いが、この国にいる以上は私が護るべき民だからな」
「すいません…」
「用が済んだならさっさと寝ろ」
「は、はい」
きつすぎない言葉で、声で、今までで一番、なんでもない会話を続けて下さっているような気がしている。もう少し、話したいと思うが、これ以上女性の部屋の前に居座るわけにもいかない。
「…何が可笑しい」
「え?」
顔が笑っている、と睨まれて思わず手で口元を覆う。そんなに笑っていたのだろうか。
「わ、らっておりましたか、俺」
「笑っている」
訝し気にじろじろと睨まれる。どう答えたらいいのかわからない。どれを答えても、彼女は難しい顔をされそうだ。
「可笑しい、のではなくて、嬉しい、というか」
「は?」
「すいま、せん、お話が、出来て、嬉しいなと、思ったのが出てしまったかも、しれない……き、気を付けますから」
「……」
やはり、難しい顔をされる。
「すいません……」
「あら、ノニンさん」
俯いたと同時に飛び込んできた声にびくりと肩が跳ねて反応してしまう。にこにことしたレヴェンデル殿がそこにいて、俺とレスライン殿をやはり、ニコニコと見比べる。
「深夜デートのお誘いでもしてるんです?大胆なんですねえノニンさん」
「いや、そんなわけではないんだ、ただ昼間ご迷惑をかけたので…」
「あらあ、真面目」
くすくすと笑う彼女から、微かに血の香りがする。どこか怪我をしているんだろうか、と少し不安になるが、彼女の場合、「鼠を仕留めた」という可能性もある。
「ギーゼラ・レヴェンデル、貴様負傷しているのか」
「あら、心配してくださるんですか?エデルガルド」
「答えろ」
血の香りはレスライン殿も感知したらしい。流石と言うべきで、つい、レヴェンデル殿をみるその横顔を見てしまう。
「御心配なさらず。私は無傷ですから。怪我をしたのはあっち」
「………」
「いくら警備していても鼠は来るものじゃない?エデルガルド、貴女仕事熱心でいいですけどね、休日くらい休めばいいのに…」
「ふん」
くしゃ、と顔を歪めた彼女が一度だけ俺を見て、ドアを閉めようとする。
「あら、ノニンさんともっとお喋りしなくていいの?」
「話すことなんかない」
「あらあ…お邪魔だった?」
無言のまま、ドアが閉じて、レヴェンデル殿が近くに寄ってくる。
「仲直りは出来ました?」
「…お、おかげ、さまで、た、多分」
「ふふふ、そ、じゃあよかった」
それだけを言葉にして、それからおやすみなさい、と彼女が背を伸ばし、少しだけ跳ねて、頬に口づけていく。
「こういうのは動揺しないのに、彼女相手だとダメなんですね」
「…は、はは、レスライン殿に、されてしまったら、何も考えられそうにありません…」
「あら、可愛いですこと、ふふ、それじゃ、良い夢を」
ひらひらと手を振って部屋に戻っていく彼女を目で少しだけ追いかけながら、自分の部屋に戻るべく、廊下を戻った。
そんな言葉を聞いて、彼女がどれだけの時間、俺の隣で時間を費やしてしまったのかを知る。今日は宿泊されるそうですけど、と嬉しそうに笑ったセルベル殿の顔を思い出しながらそわそわと落ち着かない。
時間を無駄にさせてしまった事を謝罪しなくてはいけない。彼女は恐らく本日は休みだろう、その貴重な時間をまた奪ってしまった。
でも、夜に女性の宿泊している部屋に伺うのも気が引けてしょうがない。しかし、言わなくては、ならない。お忙しそうな方だから、明日の朝にはもう街へ戻ってしまうかもしれない。
意を決して、彼女が宿泊に使っている部屋の前まできて深呼吸をする。ノックをするより先にドアが開いて、彼女が顔を出す。前髪が少しだけ降りていて、首まで覆うような服を着て。割と、薄着なんじゃないかとドキリとしながらそこに意識をおかないようにする。
「何だ」
夜の廊下に彼女の声が良く通る。大きくはないのに、よく聞こえる声だ。
「夜分遅くに申し訳ありません…あの、昼間はご迷惑をおかけしました…」
「そんなことで来たのか」
今日は、きちんと彼女がこちらを見て下さっている。
「俺にとっては、そんなこと、ではないので…」
「別に、セルベル・エルデが呼んでいただけだからな」
嘘なのだ、ということは知っている。知っている、というか、そう、なんじゃないかという勝手な予測だが間違ってはいない筈だ。
セルベル殿は「レスライン殿に頼んだ」とは言っていなかった。彼は素直な人だ。俺が聞くよりも先に教えてくれるかもしれないし、あまり人にものを頼んだりされない人だ。元上官の彼女に物事を頼むくらいなら、きっと、彼は自分で来る。
「そう、でしたか」
彼女の言葉を否定できない。本当に何でもないから、些細事で、感謝されることじゃあないと思っているからそう発言してくださっているのだとしたら、さして親しくもない俺が「嘘ですよね」とも言えない。
「でも、その、本当に、ありがとうございます……」
「貴様が寝過ごして飯が食えなくなっても私は別に困らんが、セルベル・エルデは困るだろうからな」
「そう、ですね、せっかく作って頂いているのに」
「第一あんなところで寝るな」
「……仰る通りで」
宿の裏手、それも普段は作業をするひっそりとした場所でうずくまって眠っていたら、それは、そう思うだろう。季節も暑い時期だというのに、俺は厚着をしているし。
「眠れていなかったもの、で」
「そうだろうな」
はっきりとした物言いに、思わず俯きかけていた顔を上げる。
「…顔色が悪い、隈も酷い、見る奴が見れば、寝不足だとすぐわかるものだ」
セルベル・エルデにも言われただろう、と彼女に言われて頷きながら、彼女が俺なんかのことを気にかけた…という言い方は傲慢かもしれないが、見て下さったということが嬉しかった。敵視や不信感を持たれることはあっても、それ以外で顔色を見て下さっていたのは、嬉しい。たとえそれが、観察であったとしても、今は良いようにとってしまいたくなる。
「だからといって昼間にあんな場所で寝るな。此処は離れていても一番国境に近いんだ」
「は、あ、ご忠告、胸に刻んでおきます…」
彼女の言葉がどことなく、優しい気がしてしまう。じわりと胸のなかに色がにじんでいくような気がする。
「お前の事は信用できないし、不審な点が多いが、この国にいる以上は私が護るべき民だからな」
「すいません…」
「用が済んだならさっさと寝ろ」
「は、はい」
きつすぎない言葉で、声で、今までで一番、なんでもない会話を続けて下さっているような気がしている。もう少し、話したいと思うが、これ以上女性の部屋の前に居座るわけにもいかない。
「…何が可笑しい」
「え?」
顔が笑っている、と睨まれて思わず手で口元を覆う。そんなに笑っていたのだろうか。
「わ、らっておりましたか、俺」
「笑っている」
訝し気にじろじろと睨まれる。どう答えたらいいのかわからない。どれを答えても、彼女は難しい顔をされそうだ。
「可笑しい、のではなくて、嬉しい、というか」
「は?」
「すいま、せん、お話が、出来て、嬉しいなと、思ったのが出てしまったかも、しれない……き、気を付けますから」
「……」
やはり、難しい顔をされる。
「すいません……」
「あら、ノニンさん」
俯いたと同時に飛び込んできた声にびくりと肩が跳ねて反応してしまう。にこにことしたレヴェンデル殿がそこにいて、俺とレスライン殿をやはり、ニコニコと見比べる。
「深夜デートのお誘いでもしてるんです?大胆なんですねえノニンさん」
「いや、そんなわけではないんだ、ただ昼間ご迷惑をかけたので…」
「あらあ、真面目」
くすくすと笑う彼女から、微かに血の香りがする。どこか怪我をしているんだろうか、と少し不安になるが、彼女の場合、「鼠を仕留めた」という可能性もある。
「ギーゼラ・レヴェンデル、貴様負傷しているのか」
「あら、心配してくださるんですか?エデルガルド」
「答えろ」
血の香りはレスライン殿も感知したらしい。流石と言うべきで、つい、レヴェンデル殿をみるその横顔を見てしまう。
「御心配なさらず。私は無傷ですから。怪我をしたのはあっち」
「………」
「いくら警備していても鼠は来るものじゃない?エデルガルド、貴女仕事熱心でいいですけどね、休日くらい休めばいいのに…」
「ふん」
くしゃ、と顔を歪めた彼女が一度だけ俺を見て、ドアを閉めようとする。
「あら、ノニンさんともっとお喋りしなくていいの?」
「話すことなんかない」
「あらあ…お邪魔だった?」
無言のまま、ドアが閉じて、レヴェンデル殿が近くに寄ってくる。
「仲直りは出来ました?」
「…お、おかげ、さまで、た、多分」
「ふふふ、そ、じゃあよかった」
それだけを言葉にして、それからおやすみなさい、と彼女が背を伸ばし、少しだけ跳ねて、頬に口づけていく。
「こういうのは動揺しないのに、彼女相手だとダメなんですね」
「…は、はは、レスライン殿に、されてしまったら、何も考えられそうにありません…」
「あら、可愛いですこと、ふふ、それじゃ、良い夢を」
ひらひらと手を振って部屋に戻っていく彼女を目で少しだけ追いかけながら、自分の部屋に戻るべく、廊下を戻った。