夏
欲しいと思ってはいけない。
愛しいと思うことも許されない。
思い続けることは未練がましく、相手にとって迷惑でしかない。
俺の気持ちは相手にとっては迷惑で、酷く軽いもので、結局、皆、兄が好きだ。
彼女も、いつか、兄上にとられたら、とられる。
そんなの、そんなのは、いっそ、死んでしまいたい。
嫌な感情のまま目が覚める。浅く吸い込んだ空気は夏の気温で暖かい。天井は窓から月の明かりが差し込んでいるためか明るく見える。
このところ、こんな夢で目が覚める。夢、というより夢に至らない感情の、曖昧で不確かな何か。不安と焦燥とどうしようもない切迫した感情が押し寄せて目が覚める。
また眠れていない。
全く酷い顔だ、とレヴェンデル殿にも言われた。セルベル殿にも言われてしまった。わかってはいて、倒れるかもしれないと思うから眠るのに眠れない悪循環だった。目が覚めないことも怖い。感情に押しつぶされそうになる。
彼女がとられるわけがない。何故ならこの世界に兄はいない。彼女が他の誰かを選ぶことがあっても、兄には、とられない。それだけが救いだ。
わかっている。兄に取られるんじゃないかと、そう思うといやだった。とられない、大丈夫と何度も自分に言い聞かせても眠る気にはなれない。寝ようとしても不自然に早くなる心臓と、不安から吐きそうになって、情けなくて死にたくなる。
また結局、考え事を重ねて朝になる。
作業をするのには危険な状態だな、という自覚はあって、それでも部屋で寝るのは怖さもあった。見たくない夢を見そうでいやだった。兄に全部取られる夢。アレに彼女がいるのはきっと耐えられない。兄へ嫌だと言えない自分が怖い。
外ならまだましなのだろうかと日陰で小さく膝を抱えて蹲る。眠れなさ過ぎて眠気さえこないが眠る真似だけはしてみなくては倒れると言う感覚はあった
目を閉じて、しかし耳は周囲の音を拾い上げるので嘘でも睡眠へ至るには少々難しい。それでもまだ夜じゃない。昼だ。人の気配がある。孤独ではない。
浅い意識。
深く睡眠に入ってはいない。外の音が時々聞こえながら、半分寝ているような気持ちの悪い感覚。苦しい。嫌な思考が頭の中を文字列になって埋め尽くしていくようで目覚めてしまいたいのに瞼が開かない。
どうしてこんなに不安なのか。
彼女にきちんと謝罪しきれないからだろうか。
感情ばかりが先を急いで、失礼ばかり、彼女にしている。迷惑をかけている。困らせたいわけじゃない。怒らせたいわけじゃない。
ただ、ただ、彼女を、見ていたい。
彼女に焦がれている。好きで居ても、勝手にしろと言って下さる。拒絶も許容もされない。それだけでいい。それだけが、どれだけ心を軽くするだろう。
それだけで、いいとしたいのに出来なくなってきている。
好かれたいと思ってしまう。
愛されたいと願ってしまう。
そんなことは、ダメだとわかっているのに。
「ノニン・シュトロムフト」
揺れた身体と声に慌てて顔を上げ、視線を泳がせたところに彼女がいる。
夢だというのに、まるで彼女はいつもと変わらないことに安心する。
「あぁ…レスライン殿」
「何を寝ぼけている」
凛とした声が心地いい。俺の肩へ彼女が手を置いている気がする。触れてもらって、良いんだろうか。夢でも、彼女に親切にして頂くのは申訳がない。ましてや、片腕しかない、それを俺に触れさせていただいていることが申し訳ない。彼女の腕は彼女の体を護るための腕なのに、俺の所為で、塞いでしまうのが申し訳なくありつつ、でも、夢なら、いいだろうかと甘えてしまう。
「少し、寝不足で……すまない」
金の髪が夏の日差しで煌めいている。いつもの軍帽は被っていらっしゃらないのだなと思う。
金の光が目元を縁取っていて、碧い瞳の、強い光が宿っていて。いつみても、何度見ても美しい。他の方は彼女を何というのか知らない。けれど、やはり、強く美しい人だと思う。
そんな人と、まるで世界に二人だけのような優しいこの夢が愛おしい。
彼女は、こんなに俺に、優しくはしてくれないと思う。不審がっていたから、仕方がないのに、夢は都合よく俺の望むような彼女をそこへ置く。俺を拒絶しきらず、かといって許すわけでもなく、存在を許してくれる。居ても構わないとしてくれる。手を伸ばして触れたいのに体が重い。最も、触れてしまって、夢の彼女が消えてしまうことも寂しい。
もっと彼女を見ていたい。だというのに意識がまた重くなる。夢の中で、夢の終わりが来る。
今だけなら、赦される気がする。見ていたい。見ているのを、赦されたい。好きな人を、見る事を赦されたい。
「綺麗、だ」
零れた自分の声が、いやに現実的だ。
ふ、と視界が暗くなる。目が覚めたら多分、彼女は消えてしまっている。
とぷんと落ちたような意識のあとに、鳥の羽ばたく音で、目が覚める。
「ぁ」
陽はすっかり傾き始めていて、体も、ずっと同じ姿勢でそうして眠っていたせいなのか思うように動かない。動かないなかで、自分の隣、少し離れた場所に、彼女が立っている。
夢の続きなんだろうか、と慌てながら身体の軋みが現実だという。どうして彼女がここに、とも思う。セルベル殿の宿に定期的に来ているらしいとは知っていても、あまり会うことを積極的にしてはこなかった。ご迷惑になるし、俺がいては、空気も悪くなると思って。だから来ていることは不思議じゃないのだが、俺の作業している場所に彼女がいるのが不思議で、つい見つめてしまう。
「……」
「レ、レスライン、殿、いつから」
夢と同じ、軍帽を被っていない彼女がそこにいる。少しだけ上着を開けた彼女は、本日は、休日だったりするのだろうか。
「あ、あの、」
「眠れたのか」
「え?」
「…眠れたなら良い」
「ま、ま、って」
いつからここに、と聞こうと、背を向けた彼女を追いかけようとして身体が悲鳴を上げる。ぎしぎしと固まった筋肉がいうことをきいてはくれない。
「ぅ」
随分長いこと眠っていたのは確かなのに、いつから彼女がそうしていたのかがわからない。
少しだけ、淡く胸が期待をするのをぎゅっと小さく潰す。
「同じ姿勢でいるからだ馬鹿者」
踵を返した彼女が、近くに来てくれることが夢のようだと思う。手を貸すでもなく、目の前で見下ろしている。
「す、すい、ま、せん……」
のろのろと立ち上がるのを、彼女が、待っていてくださる。きっと彼女にとってはなんでもないことなのかもしれない。けど胸が苦しい。
「レスライン、殿、あの、」
「セルベル・エルデが夕食だと、お前を呼んでいたから来たまでだ」
「ぁ、は、はい」
「ぐずぐずするなよ」
つい、と今度こそ背を向けて彼女が去っていく。けっきょく、いつからこちらに、なんて聞けないまま、のろのろと歩き出した。