夏
そういえば、一緒に過ごしてくれと言い逃げたのはいいとして、具体的にこの時刻のあたりで迎えに上がるだとか(そもそも了承もとっていないので都合も聞かずに迎えに行くのも迷惑な気がしている)、どこそこで待ち合わせるだとか、一切言わずに本当にそんな気持ちだけ優先して話してしまったなと考える。やってしまった、と思いながらいつものように雑務をこなしたあと、孤児院へ赴いて、ユッテから大きくなったら一緒に星祭りに行きたいと申し出をされ頷いた。
「やったあ!」
「大きくなったらね、先生はおじいちゃんになってるかもしれないけど」
「おじいちゃんでもいいよ!先生がいい!」
そんな言葉を笑顔と共に送られて、優しい気持ちになったのが昼過ぎだったろうかと、高い位置に上っている月を見ながら考えている。結局、レスライン殿に一方的に「待っている」と告げたくせに、何処で、とも、いつとも言わなかったから、来るわけもないと思いながらユッテの誕生日に、三人で休息をとった大きな樹の根元にぼんやりと座っていた。ここに来るとも限らないのに、少しばかり期待をしているのはロマンチスト過ぎると馬鹿にされそうだ。
離れたところでは仲の良さそうな二人が何組か、距離を置きながら月を眺めていたりしている。あまり邪魔をしてもいけないと目深にフードを被って樹からも少し離れて腰かける。
我に返った、というわけじゃないが、本当に計画性がないと自分に幻滅してしまう。もう少しスムーズにお誘いできなかったろうか、とか、無理を言ってでも約束をつけるべきだったろうか、と思うのだが、どれを思っても彼女の仕事や私事の邪魔は出来ない、と思考が落ち着いてしまう。
どの程度たったらここを離れよう、とあれこれ思考する。街の入り口で預けていて、この時間はもう寝ているかもしれない馬を起こして戻るのも可哀想だし、朝までここにいるのも別にいいかもしれない。寝ようとしても眠れない夜は苦痛だが、自ら進んで眠らないことにした夜はたいして苦痛とは思わない。
見上げた月の光に負けそうなほど星は細やかに輝いている。星にも名前があったり、この空のどこかでも同じように暮らしている人たちがいる、というのは本当に不思議だ。時折星が流れていく。星が流れる、というのは一体どんな原理なのだろう、あとでレヴェンデル殿に聞けば教えて頂けたりするのだろうか。
徐々に傾く月と、伴って人の気配がぽつぽつと消えていく。そろそろと樹の根元に移動し直して座って見る限り、仲良さげな方々はもう家路についたのだろう。すっかり人気のなくなっている場所にぽつんといるのは、あまりあちらにいたころと変わらないかとも思う。
ここで、野生の動物に襲われる可能性はないことはないのだが、寝てしまうのもありなのかもしれないとさえ思う。流石にそんなことはしないが。どこまでも遠い空がどこまでも優しい星の瞬きを抱いて、優しい闇が世界を覆っている。ここに来てから自分は変わった、と思う事は何度もある。
例えば今のように、穏やかな夜を比較的過ごせている事。あちらにいる時は眠れないことが当たり前すぎたが、ここでは、魘されないわけではないにしても比較的睡眠は長くとれていると思う。朝が来ることも苦痛ではない、と思う。夜を優しいと思うことも、心に余裕が出来たからだろうかと思う。
そんなことを考えながらぼんやり空を眺めていて、ふと、足音を感じて咄嗟にローブの中に隠して持ち歩いている剣の柄を握る。少しだけ早い足音は駆けているのか、早歩きなのかわからない。わからないで耳を澄まして、手が震えた。
左右で違う音。
この足音は、一人しか、今のところ心当たりがない。馬鹿なと思いながら、きっとそこに姿が見えるだろう場所を注視してしまう。ざっ、という草を強く踏む音と、此方を見て驚いたような顔をした人を見て顔が熱くなってしまうのを自覚すると同時に、いま一度だけ柄を強く握りしめた。
「大バカか貴様はっ!」
大股でこちらに歩いてくる彼女は、前髪を全て降ろしている。きちんとした服装というより、羽織るものを掴んで、ただ羽織って出てきたのかもしれないと思うのはコートの前が全て空いているせいだろうか。
「私が、っ来ないとは考えないのか!!馬鹿者!!まさか本当にっ…」
目の奥が熱くなるのをこらえきれないで、しかし、そのまま熱を零して落すのも違うような気はして、小さく呼吸をする。怒っているらしい彼女の言葉が全て、すり抜けていってしまう。
「きてくださったんですか?あんな、みがってなこと、いったのに」
少しだけ彼女の呼吸が乱れている。走ってきてくださったんだろうかと、そんな風に思ってしまう。
「どこで、とも、つたえておりませんでしたのに…」
「なっ、っ…何故泣く」
「だって、おれ、……あんな、」
ひやりと感じた冷たさは涙の通った後を風が撫でていったせいだと気がつく。あんなに無茶苦茶で、独りよがりな願いを一方的に告げただけなのに。来なくて構わないと、思ってでも僅かに、期待はあっても、それでもやはり来なくてもいいから、伝えたかっただけの事を聞き入れて下さったことが酷く感情を揺さぶっている。
「っな、泣くな…ほら、さっさと拭け」
胸に押し付けるようにして差し出されたハンカチを持っているその手を掴んだのも、許可もとらず引き寄せてしまったのも、一切の思考が出来ないまましてしまって、気がつけば彼女を腕の中に閉じ込めてしまっていた。
「なっ、な…」
「すいません、すこし、すこし、このまま、すいません…ゆるして、」
感情の整理が出来ない。
彼女が、恐らく駆けて来てくださったことも、いつもきちんとした格好をされているのに、こんなふうにコートの前を閉じずにいることも、場所も言わなかったからもしかすれば探してくださったかもしれないなどという傲慢な思考に基づいてしまった憶測も、泣くなと私物だろうハンカチをこちらに手渡そうとしてくださったことも、どれも、どれもが酷く胸を締め付けていく。
一方的に好きだと言っているのは俺なのに、それを無碍にせず、こうして折角のお休みの日、それも、夜更けだというのに時間を割いて、律儀に、ここへ来てくださったことも、全部が嬉しい。
「うれしい、うれしいです、うれしい…」
涙で震えてばかりの自分の声は酷く情けない。
「レスライン殿、すきです、心から、お慕いしています…」
きつく抱きしめた体は鍛え上げられていてしっかりと筋肉がついている。夏とはいえ少しだけ肌を撫でる風は冷たいのに、薄着で平気だろうかと思ってしまう。
「っ…、い、いい加減放せっ」
「す、すいません…」
腕の中で嫌がるようにもがいて、慌てて腕を離した途端に彼女が後ろを向いて歩きだす。その背を慌てて追いかける。
「あ、あのっ、レスライン殿」
「もう遅い、私は帰る!」
「お、お送りします、」
「ッ勝手にしろ!」
「か、ってにします」
大股で歩く彼女の後ろを追う。月の明かりが照らしているとはいえ暗いことに変わりはない。遮るものがない場所で、月光が彼女の金の髪を淡く照らしている。馴染みのない髪の色は、いつみても不思議で、今日は特別、幻想的にも思う。何も通ってはいない左の袖が彼女の歩く速度に置いて行かれて揺れていて、
「レスライン殿」
「な、なんだ」
「あまり早く歩かれると危険です、その、夜目がきくなら良いのですが…転ぶかも…」
「だ、まっていろ!仮に転んだとしてもやわに出来ていない!…街の娘じゃあるまいし…!」
怒らせてしまった、と俯く。彼女のプライドを貶すだとか、そういう意図はないのにどうもうまくいかない。勝手に抱きしめてしまったのも、失礼だったろう。
まだどこか、熱に浮かされているような夢見心地の感情が思考回路を支配している。いけない、と思って深呼吸をしても、嬉しさは熱を引かないまま燻ぶっている。こういう時の感情の整え方を知らない。
結局、とうとう、彼女の住まいの前までついて行ってしまって、扉の前でさえ彼女はこちらを振り返らない。
「お、お休み、なさい、レスライン殿、あの」
「……さっさと帰って寝るんだな」
小さく声をかけると、彼女は背を伸ばしたまま、声をかけて下さる。怒らせたのに、優しい人だと思う。
「は、はい、…本日は…ありがとう、ございました、わざわざ……あの、おやすみなさい」
無言で扉が開かれ、無言のまま消えていく彼女の、微かな香りが自分の服からして、ぎくりと小さく肩を跳ねさせながら、帰るのは朝にしようと今一度、元来た道をたどり返した。
「やったあ!」
「大きくなったらね、先生はおじいちゃんになってるかもしれないけど」
「おじいちゃんでもいいよ!先生がいい!」
そんな言葉を笑顔と共に送られて、優しい気持ちになったのが昼過ぎだったろうかと、高い位置に上っている月を見ながら考えている。結局、レスライン殿に一方的に「待っている」と告げたくせに、何処で、とも、いつとも言わなかったから、来るわけもないと思いながらユッテの誕生日に、三人で休息をとった大きな樹の根元にぼんやりと座っていた。ここに来るとも限らないのに、少しばかり期待をしているのはロマンチスト過ぎると馬鹿にされそうだ。
離れたところでは仲の良さそうな二人が何組か、距離を置きながら月を眺めていたりしている。あまり邪魔をしてもいけないと目深にフードを被って樹からも少し離れて腰かける。
我に返った、というわけじゃないが、本当に計画性がないと自分に幻滅してしまう。もう少しスムーズにお誘いできなかったろうか、とか、無理を言ってでも約束をつけるべきだったろうか、と思うのだが、どれを思っても彼女の仕事や私事の邪魔は出来ない、と思考が落ち着いてしまう。
どの程度たったらここを離れよう、とあれこれ思考する。街の入り口で預けていて、この時間はもう寝ているかもしれない馬を起こして戻るのも可哀想だし、朝までここにいるのも別にいいかもしれない。寝ようとしても眠れない夜は苦痛だが、自ら進んで眠らないことにした夜はたいして苦痛とは思わない。
見上げた月の光に負けそうなほど星は細やかに輝いている。星にも名前があったり、この空のどこかでも同じように暮らしている人たちがいる、というのは本当に不思議だ。時折星が流れていく。星が流れる、というのは一体どんな原理なのだろう、あとでレヴェンデル殿に聞けば教えて頂けたりするのだろうか。
徐々に傾く月と、伴って人の気配がぽつぽつと消えていく。そろそろと樹の根元に移動し直して座って見る限り、仲良さげな方々はもう家路についたのだろう。すっかり人気のなくなっている場所にぽつんといるのは、あまりあちらにいたころと変わらないかとも思う。
ここで、野生の動物に襲われる可能性はないことはないのだが、寝てしまうのもありなのかもしれないとさえ思う。流石にそんなことはしないが。どこまでも遠い空がどこまでも優しい星の瞬きを抱いて、優しい闇が世界を覆っている。ここに来てから自分は変わった、と思う事は何度もある。
例えば今のように、穏やかな夜を比較的過ごせている事。あちらにいる時は眠れないことが当たり前すぎたが、ここでは、魘されないわけではないにしても比較的睡眠は長くとれていると思う。朝が来ることも苦痛ではない、と思う。夜を優しいと思うことも、心に余裕が出来たからだろうかと思う。
そんなことを考えながらぼんやり空を眺めていて、ふと、足音を感じて咄嗟にローブの中に隠して持ち歩いている剣の柄を握る。少しだけ早い足音は駆けているのか、早歩きなのかわからない。わからないで耳を澄まして、手が震えた。
左右で違う音。
この足音は、一人しか、今のところ心当たりがない。馬鹿なと思いながら、きっとそこに姿が見えるだろう場所を注視してしまう。ざっ、という草を強く踏む音と、此方を見て驚いたような顔をした人を見て顔が熱くなってしまうのを自覚すると同時に、いま一度だけ柄を強く握りしめた。
「大バカか貴様はっ!」
大股でこちらに歩いてくる彼女は、前髪を全て降ろしている。きちんとした服装というより、羽織るものを掴んで、ただ羽織って出てきたのかもしれないと思うのはコートの前が全て空いているせいだろうか。
「私が、っ来ないとは考えないのか!!馬鹿者!!まさか本当にっ…」
目の奥が熱くなるのをこらえきれないで、しかし、そのまま熱を零して落すのも違うような気はして、小さく呼吸をする。怒っているらしい彼女の言葉が全て、すり抜けていってしまう。
「きてくださったんですか?あんな、みがってなこと、いったのに」
少しだけ彼女の呼吸が乱れている。走ってきてくださったんだろうかと、そんな風に思ってしまう。
「どこで、とも、つたえておりませんでしたのに…」
「なっ、っ…何故泣く」
「だって、おれ、……あんな、」
ひやりと感じた冷たさは涙の通った後を風が撫でていったせいだと気がつく。あんなに無茶苦茶で、独りよがりな願いを一方的に告げただけなのに。来なくて構わないと、思ってでも僅かに、期待はあっても、それでもやはり来なくてもいいから、伝えたかっただけの事を聞き入れて下さったことが酷く感情を揺さぶっている。
「っな、泣くな…ほら、さっさと拭け」
胸に押し付けるようにして差し出されたハンカチを持っているその手を掴んだのも、許可もとらず引き寄せてしまったのも、一切の思考が出来ないまましてしまって、気がつけば彼女を腕の中に閉じ込めてしまっていた。
「なっ、な…」
「すいません、すこし、すこし、このまま、すいません…ゆるして、」
感情の整理が出来ない。
彼女が、恐らく駆けて来てくださったことも、いつもきちんとした格好をされているのに、こんなふうにコートの前を閉じずにいることも、場所も言わなかったからもしかすれば探してくださったかもしれないなどという傲慢な思考に基づいてしまった憶測も、泣くなと私物だろうハンカチをこちらに手渡そうとしてくださったことも、どれも、どれもが酷く胸を締め付けていく。
一方的に好きだと言っているのは俺なのに、それを無碍にせず、こうして折角のお休みの日、それも、夜更けだというのに時間を割いて、律儀に、ここへ来てくださったことも、全部が嬉しい。
「うれしい、うれしいです、うれしい…」
涙で震えてばかりの自分の声は酷く情けない。
「レスライン殿、すきです、心から、お慕いしています…」
きつく抱きしめた体は鍛え上げられていてしっかりと筋肉がついている。夏とはいえ少しだけ肌を撫でる風は冷たいのに、薄着で平気だろうかと思ってしまう。
「っ…、い、いい加減放せっ」
「す、すいません…」
腕の中で嫌がるようにもがいて、慌てて腕を離した途端に彼女が後ろを向いて歩きだす。その背を慌てて追いかける。
「あ、あのっ、レスライン殿」
「もう遅い、私は帰る!」
「お、お送りします、」
「ッ勝手にしろ!」
「か、ってにします」
大股で歩く彼女の後ろを追う。月の明かりが照らしているとはいえ暗いことに変わりはない。遮るものがない場所で、月光が彼女の金の髪を淡く照らしている。馴染みのない髪の色は、いつみても不思議で、今日は特別、幻想的にも思う。何も通ってはいない左の袖が彼女の歩く速度に置いて行かれて揺れていて、
「レスライン殿」
「な、なんだ」
「あまり早く歩かれると危険です、その、夜目がきくなら良いのですが…転ぶかも…」
「だ、まっていろ!仮に転んだとしてもやわに出来ていない!…街の娘じゃあるまいし…!」
怒らせてしまった、と俯く。彼女のプライドを貶すだとか、そういう意図はないのにどうもうまくいかない。勝手に抱きしめてしまったのも、失礼だったろう。
まだどこか、熱に浮かされているような夢見心地の感情が思考回路を支配している。いけない、と思って深呼吸をしても、嬉しさは熱を引かないまま燻ぶっている。こういう時の感情の整え方を知らない。
結局、とうとう、彼女の住まいの前までついて行ってしまって、扉の前でさえ彼女はこちらを振り返らない。
「お、お休み、なさい、レスライン殿、あの」
「……さっさと帰って寝るんだな」
小さく声をかけると、彼女は背を伸ばしたまま、声をかけて下さる。怒らせたのに、優しい人だと思う。
「は、はい、…本日は…ありがとう、ございました、わざわざ……あの、おやすみなさい」
無言で扉が開かれ、無言のまま消えていく彼女の、微かな香りが自分の服からして、ぎくりと小さく肩を跳ねさせながら、帰るのは朝にしようと今一度、元来た道をたどり返した。