夏
レヴェンデル殿に前日から泊って下さいね、と言われ、セルベル殿には少し街に泊りがけで出かけると告げたのち、馬を借りてオルフェ殿の屋敷に来たのが昼過ぎだ。明日はオウル・オルフェ殿の誕生パーティーという事で、メインに使う部屋を使用人たちが掃除をしたり用意したりと忙しそうにしている気配を扉越しに感じる。前日から、というのは一応俺が、アメイシャ殿の付き人としてここに間借りしている、という事になっているので、馬でどこかから来るよりもう屋敷に居た方が都合がいいということなのだ。
服装はいつもの恰好なのだが、宛がわれた客間は広々としていて嫌に落ち着かない。使用人が都度部屋を訪れて何か不便はないかと尋ねてくる生活も、随分久しいように思う。
宿泊、あるいはこの部屋に待たせている客が暇をしないようにだろう置かれているボードゲームに触れてみようかとしたときだった。小さくノックの音が聞こえ、先ほども使用人がきたばかりだったがと首を傾げつつ、どうぞ、と声をかければ扉が静かに開く。
「シュトロムフト殿」
控えめに開いたドアから物静かに入室してきたのはオウル・オルフェ殿で、ぎょっとしながら背筋を伸ばす。俺よりも背の低い御仁だから、見下ろすのは気が引けるのだが彼に膝をつこうとしたとき、そのままで構わないと微笑まれてからは、背筋だけは伸ばし敬意を払うことにしている。
「ご不便などございませんか」
「オ、オルフェ殿までそのような…」
「シュトロムフト殿は娘の師ですので…」
ほとんど癖のない淡い緑の髪はアメイシャ殿と同じだ。優し気で穏やかさが目立つその雰囲気はオフィーリス国のタイム王に少し似ていると思う。
「レヴェンデル殿が後程参られるとは思うのですが…上に羽織るものも用意いたしましたので…」
「あ、え、す、すいません、お気遣いいただいて」
「いいえ、そのようなことは…」
細い瞳が更に細められ、微笑まれる姿はどこまでも優しいように思えるのだが、彼も一国、領を治める人なのだという風格はある。
彼に会うまでアメイシャ殿の父上がどのような方であるかレヴェンデル殿からしか伺っていなかったのだが、一人娘を大事にしていて、愛妻家であることに安心している。女性を大切に扱う所や、娘を決して地位を確かなものとするための駒として扱わない、そういう所は本当に安心できるところだった。
「屋敷の中や庭も、ご自由に散策頂いて構いませんから…気になることは屋敷のものにお尋ねください」
「何から何まで、すいません」
ふ、とまたひとつ笑む彼は、俺にさえひとつ頭を下げてそっとドアを出て行く。快活さが目立つアメイシャ殿とはまた少し雰囲気の違う方だ。
レヴェンデル殿が来る、という言葉を信じて待っていれば程なくして彼女がするりと現れた。ノックの音さえしなかったような気がしたのだがそれを問うと「こっそりしましたよ」と微笑まれる。
「こっそりしなくても」
「ごめんなさい?癖なんですよ」
「く、癖か…そうか…」
「そうそう、はい、これ、」
どうぞ、と手渡されたのはオルフェ殿の仰っていた羽織りものだろう。レヴェンデル殿に言ったように、黒を基調にした目立ちすぎないくすんだものにしてくれたらしい。ありがとう、と両手で受け取ると、レヴェンデル殿がいやに笑顔(彼女はいつでも笑顔だが)なのが目に入って、首を傾げる。
「ど、どうかしましたか?」
「いえいえ、ただ……、今日の夜からレスライン隊が交代で夜警に入るんで、言っておこうかなと思って」
酷く楽しそうな理由はそれなのか、と思いつつ、胸がそわつかないわけではない。彼女が来る、と思うと酷く嬉しい。たとえそれが仕事で、決して内側には入ってこないだろうと予想できても、だ。
「そう、ですか」
「嬉しいです?」
小首をかしげそう問われる。
「そりゃ…………、嬉しい、ですよ」
「そう、それは良かった、上手に抜け出して逢えたらいいですねえ」
「……その、ええと、ありがとう、応援してくださってる、んですよね」
「勿論」
くすくすと笑うその笑い方は、彼女の言葉を多く受け取っていなければ警戒したかもしれない。人の心に侵入してきそうに見える彼女が、実際はこちらがはっきりと引いた線を踏み越えてこず、嫌だと言えばそこで立ち止まってくれるひとなのだということはこれまでのやり取りでよく知っている。野次馬はするが、邪魔はしないといった言葉も、だから、信じることが出来る。
「抜け出せる、かな」
「……ふふ、アメイシャは結構早く会場から出ると思いますよ?まだ若いですからね」
「……そう、か。その、…迷惑、じゃないだろうかもし、俺が抜け出せたとして、彼女に、会っても」
彼女は勤務でここに来るのだ。私的な用事で彼女に会うために抜け出していいのかもわからず悩ましくはある。かと言って、こんなことを彼女に聞いてしまってもよかったのだろうかと言ってから後悔もする。
「あらあー、良いんじゃないですかあ?」
「…そんなあっさり」
「だってあっちは警護やら警備やらが仕事ですもの、ふふ」
「………」
如何様にでも理由はつけれるのでは、と暗に言われている気もして、小さく頷くとレヴェンデル殿がまたくすりと笑う。
「射止めるのは大変そうですけどねえ」
「…いや、そういう、のはいいんだ、俺がただ……身勝手にお慕いしているだけだから」
「あらあら」
「本当に、良いんだ、慕わせていただけているならそれでいい」
我儘を言えば、彼女にも、レスライン殿にも俺を好いていただけたらという欲求がないわけではない。だが、彼女にとってそれが邪魔にしかならないのだったら強く望むことではないし、押し付けたくもない。そもそも自分が好いて貰える要素があるとは思えないでいる。
だから、思うだけ、それだけでも許されるならいい。
「欲のない人ねえ」
「…そうかな、欲は深い、と思うよ…」
苦笑しながら手渡されそのまま抱えていた上着を広げると、やはり上等なものには違いなく、こんなに良くしてもらって良いのだろうかと考えてしまう。
「これもまた随分、ええと、上等だな」
「勿論、アメイシャの付き人なんですからこれくらい」
「少し気が引けるが……みすぼらしい物も着ていられない、な」
ありがとう、と告げれば、彼女は少しだけ穏やかな笑顔で、いいえ、と笑うだけだった。
服装はいつもの恰好なのだが、宛がわれた客間は広々としていて嫌に落ち着かない。使用人が都度部屋を訪れて何か不便はないかと尋ねてくる生活も、随分久しいように思う。
宿泊、あるいはこの部屋に待たせている客が暇をしないようにだろう置かれているボードゲームに触れてみようかとしたときだった。小さくノックの音が聞こえ、先ほども使用人がきたばかりだったがと首を傾げつつ、どうぞ、と声をかければ扉が静かに開く。
「シュトロムフト殿」
控えめに開いたドアから物静かに入室してきたのはオウル・オルフェ殿で、ぎょっとしながら背筋を伸ばす。俺よりも背の低い御仁だから、見下ろすのは気が引けるのだが彼に膝をつこうとしたとき、そのままで構わないと微笑まれてからは、背筋だけは伸ばし敬意を払うことにしている。
「ご不便などございませんか」
「オ、オルフェ殿までそのような…」
「シュトロムフト殿は娘の師ですので…」
ほとんど癖のない淡い緑の髪はアメイシャ殿と同じだ。優し気で穏やかさが目立つその雰囲気はオフィーリス国のタイム王に少し似ていると思う。
「レヴェンデル殿が後程参られるとは思うのですが…上に羽織るものも用意いたしましたので…」
「あ、え、す、すいません、お気遣いいただいて」
「いいえ、そのようなことは…」
細い瞳が更に細められ、微笑まれる姿はどこまでも優しいように思えるのだが、彼も一国、領を治める人なのだという風格はある。
彼に会うまでアメイシャ殿の父上がどのような方であるかレヴェンデル殿からしか伺っていなかったのだが、一人娘を大事にしていて、愛妻家であることに安心している。女性を大切に扱う所や、娘を決して地位を確かなものとするための駒として扱わない、そういう所は本当に安心できるところだった。
「屋敷の中や庭も、ご自由に散策頂いて構いませんから…気になることは屋敷のものにお尋ねください」
「何から何まで、すいません」
ふ、とまたひとつ笑む彼は、俺にさえひとつ頭を下げてそっとドアを出て行く。快活さが目立つアメイシャ殿とはまた少し雰囲気の違う方だ。
レヴェンデル殿が来る、という言葉を信じて待っていれば程なくして彼女がするりと現れた。ノックの音さえしなかったような気がしたのだがそれを問うと「こっそりしましたよ」と微笑まれる。
「こっそりしなくても」
「ごめんなさい?癖なんですよ」
「く、癖か…そうか…」
「そうそう、はい、これ、」
どうぞ、と手渡されたのはオルフェ殿の仰っていた羽織りものだろう。レヴェンデル殿に言ったように、黒を基調にした目立ちすぎないくすんだものにしてくれたらしい。ありがとう、と両手で受け取ると、レヴェンデル殿がいやに笑顔(彼女はいつでも笑顔だが)なのが目に入って、首を傾げる。
「ど、どうかしましたか?」
「いえいえ、ただ……、今日の夜からレスライン隊が交代で夜警に入るんで、言っておこうかなと思って」
酷く楽しそうな理由はそれなのか、と思いつつ、胸がそわつかないわけではない。彼女が来る、と思うと酷く嬉しい。たとえそれが仕事で、決して内側には入ってこないだろうと予想できても、だ。
「そう、ですか」
「嬉しいです?」
小首をかしげそう問われる。
「そりゃ…………、嬉しい、ですよ」
「そう、それは良かった、上手に抜け出して逢えたらいいですねえ」
「……その、ええと、ありがとう、応援してくださってる、んですよね」
「勿論」
くすくすと笑うその笑い方は、彼女の言葉を多く受け取っていなければ警戒したかもしれない。人の心に侵入してきそうに見える彼女が、実際はこちらがはっきりと引いた線を踏み越えてこず、嫌だと言えばそこで立ち止まってくれるひとなのだということはこれまでのやり取りでよく知っている。野次馬はするが、邪魔はしないといった言葉も、だから、信じることが出来る。
「抜け出せる、かな」
「……ふふ、アメイシャは結構早く会場から出ると思いますよ?まだ若いですからね」
「……そう、か。その、…迷惑、じゃないだろうかもし、俺が抜け出せたとして、彼女に、会っても」
彼女は勤務でここに来るのだ。私的な用事で彼女に会うために抜け出していいのかもわからず悩ましくはある。かと言って、こんなことを彼女に聞いてしまってもよかったのだろうかと言ってから後悔もする。
「あらあー、良いんじゃないですかあ?」
「…そんなあっさり」
「だってあっちは警護やら警備やらが仕事ですもの、ふふ」
「………」
如何様にでも理由はつけれるのでは、と暗に言われている気もして、小さく頷くとレヴェンデル殿がまたくすりと笑う。
「射止めるのは大変そうですけどねえ」
「…いや、そういう、のはいいんだ、俺がただ……身勝手にお慕いしているだけだから」
「あらあら」
「本当に、良いんだ、慕わせていただけているならそれでいい」
我儘を言えば、彼女にも、レスライン殿にも俺を好いていただけたらという欲求がないわけではない。だが、彼女にとってそれが邪魔にしかならないのだったら強く望むことではないし、押し付けたくもない。そもそも自分が好いて貰える要素があるとは思えないでいる。
だから、思うだけ、それだけでも許されるならいい。
「欲のない人ねえ」
「…そうかな、欲は深い、と思うよ…」
苦笑しながら手渡されそのまま抱えていた上着を広げると、やはり上等なものには違いなく、こんなに良くしてもらって良いのだろうかと考えてしまう。
「これもまた随分、ええと、上等だな」
「勿論、アメイシャの付き人なんですからこれくらい」
「少し気が引けるが……みすぼらしい物も着ていられない、な」
ありがとう、と告げれば、彼女は少しだけ穏やかな笑顔で、いいえ、と笑うだけだった。