夏の風がすり抜けていく。木陰にいるおかげで、暑さはそれほど感じることが無く涼やかで心地いい。心地がいい、と何処かで思いながら、彼女との空気は重く感じてしまう。

「何の真似だ」
「す、すいません、でした」

 おそらくは先ほどの件だ。それしかない。間違いなく。いや、他にもあるのだとは思うのだが思いつく一番が、そこしかない。

「謝罪が聞きたいのではないが?」
「っ、ぁ、そ、その、」
「謝罪はいい、言い訳も聞きたくない。答えろ、何のつもりだ」

 なんのつもり、なんの、と、言われても言葉を出していいか考え込んでしまう。小さく積もった気持ちは形を成してはいても、彼女に対してあまりにも不誠実なのではないかと考えれば言葉にすることはためらうばかりだ。

「何故目を逸らす、疚しい事でもあるのか」

 違う。そんなのじゃない。
 いや、でも、疚しいことなのかもしれない。貴女が好きなのだと、一目ぼれなんだという漠然とした、あまりにも、あやふやな感情のまま動いてしまったことを思えば、確かに疚しい。

「目を逸らすな」

 ユッテを決して起こさないための声量なのに、威圧する音はしっかりと耳に届く。持っていた花の冠を置いて、その手がシャツの襟を掴む。静かに、彼女と強制的に顔を合わせる事になる。
 逸らしたいほどに強い光が目の前にある。眩しいと思うほどに、惚れた弱みなのだとしても、在り方が強く、美しい人だと何度でも思えるその顔が間近にある。苦しいと思う胸の中の塊をどうすることもできない。言ってどうしたらいいかわからない。言ってどうなるのかも想像が出来ない。出来ないわけじゃない、したくない。拒絶されるかもしれない。俺は、出来が悪いのに、誰かを好きになるだなんて、すきだと思うだなんてそんな烏滸がましいこと、

「言え」
「ぁ…」

 心臓が大きく揺れた気がした。内側から喉に、大きな波が打ち寄せて、もどって、繰り返して七回目、一層大きく打ち寄せて、ごぼりと溢れるような感覚を数度、耐えて言葉を飲み込む。

「好き、で」

 それでも飲み込めなかった言葉が落ちていく。

「あ?」

 引こうとすると咎めるように襟を強く掴まれて引き寄せられる。顔が近い。

「ぅ、…ぁ」
「なんだと?」

 強い人だと思う。強く、前を見つめていて、迷いがなく、自分を確固たるものにしている人。国の為と身を削り、そこに立ち続けることを選び続けるその在り方が美しく思う。多くを知っているわけじゃない。人から聞いたことばかりだ。それでも、決してぶれないものを持っているのだというのは分かる。
 厳しいだけの人かと思えば、優しい一面が見えて、それは、今日は特にも、たくさん見えて、嬉しいとさえ思って。笑う顔も好きだと思って。まだ、全然彼女の多くを知らないのに。

「ぁ、貴女が、すきで、す」

 険しかった顔が見る間に驚愕の色を纏っていく。それでもすぐにまた、険しい顔に戻って、襟をきつく、引き寄せられる。

「馬鹿な事を…!!」
「ほっ、ほんきっ…です」
「嘘をつけっ」
「嘘じゃないっ…嘘じゃ、嘘なんかじゃない、お、おれっ本当にっ貴女が好きなんです」
「っ……き、っさま…!!」

 怒りからなのかわからないが彼女の傷だらけの手が震えている。

「きょ、かなく、貴女の肌に触れてしまったこと、は、謝罪します、すいません…。でも、あ、好きなのは本当なんです、許して、くださいっ…」
「何をっ…」
「貴女を好きでいることは、許して、ください…ご迷惑は、かけませんから」

 誰かに好意を伝えるなんていつぶりかというほどに、言葉を紡いでいる。どうしていいかわからないまま必死になっているのを自覚する。嫌われたくないが、でも、レスライン殿が嫌だと仰るなら、諦められないにしても、思う事だけは許されたい。だって、彼女を好きになっても、まだ、誰にもとられない、はずだ。
 とられない。

 兄上は此処にいない。自分で身を引いて、それで彼女が誰かと幸せになるのなら堪えられる。とられてしまう、のは、堪えられない。
 彼女がダメだと仰ることを全て守る自信はある。その程度ならいくらでも耐え凌げる。好きな女性がいやだと仰ることならダメだというものなら全て、いくらでも我が身を制して、律して見せることは出来る自信がある。

「許せだと…!?」
「許してください。私の、一方的な恋慕で、だから、それだけは、」
「何を血迷っ──」
「おねえちゃん?」

 眠たげな声にはっとして顔を向けると、不思議そうな顔でユッテが見上げている。

「なにしてるの…?けんか、してる?」

 むず、と顔を歪めて泣き出しそうなユッテに先に声をかけたのは俺の方だった。

「ちがうよ、お姉ちゃんと少し、お話してたんだ」
「そぉなの?」
「そうだよ、大丈夫…ちょっと先生がお姉ちゃんを困らせちゃっただけだから、喧嘩じゃないよ」
「じゃあ、良かったぁ…お姉ちゃんの事、困らせちゃだめだよせんせい」
「うん、気を付ける」

 ふにゃ、と笑った後ユッテはまた夢の中に潜り込んでしまう。
 気がつけばレスライン殿は前を向いていて、黙したままじっとその視線の先を見据えているようだった。

「レスライン殿、あの」
「勝手にしろ」
「ぇ」
「勝手にしろといった。…そして後悔すればいい、時間を無駄に費やしたと」
「……勝手に、してよろしいなら、します」

 舌打ちが聞こえて、それでも好きにせよとの言葉に酷く安心もする。後悔するわけがない、という不確かだが、明確に断言できる自信がある。ユッテの手が加わっているとはいえ、酷く大事そうに、優しく冠を掴む手を持っている人を、好きになって後悔など、するわけがない。

「馬鹿な奴だ」
「…馬鹿で、いいです」

 風が通り抜けていく。

「…この後は、どうしましょうか」
「………ユッテの誕生日なんだ、彼女の願いを優先してやるべきだろう。我々で決めていいことでもあるまい」
「………そうですね」

 やはり、優しい方だ。

「…貴様に懐いているなら、私の役目は終わりだ」
「どういう事ですか」
「…彼女の父に、頼まれた。一人娘をよろしく頼んだ、と」

 はあ、と大きくため息をついた彼女は相変わらず前を見つめている。

「貴様は一応、記憶喪失だというから知らん、という体で話すが、戦場では家庭事情や生い立ちなど関係ない。等しく戦士として平等で、そして強いか、運がいい者が生き残れる。あいつも、一人娘のことと妻の事を気にかけて死んでいったが、まさか二人そろって戦死するとは思わなかった。……私は部隊長だ。死んでいった奴の願いくらい叶えるまでは出来なくともあいつと、妻の代わりに娘の成長を見守るくらいはしてやろう、と、思っていたが、貴様が必要とされているならもう良いだろう」

 少し細く、長い溜息をついて、レスライン殿は少し空を見上げる。

「もうその子に深くかかわらない。……これ以上、情が湧いても困る」
「……懐いています、よ、レスライン殿にだって」
「だから困るのだ。…必ず生きて帰るなど、不確かな約束は出来ない、その子をこれ以上悲しませる真似は、出来ない」

 話過ぎた、と少しだけ苛ついたような声をだしたが、やはり、どうしてこうも、優しい方なのだろう。

「ユッテにはレスライン殿が必要ですよ…。例え貴女のおっしゃる通りユッテが求めていた所で、男の俺では、補えない所だって、あります…ユッテには同性の友達も、必要で、…だから、そんなことはおっしゃらないで」
「他に女らしい女などそこら中いくらだっている」

 貴女だって、と言おうとして口をつぐんでしまう。言葉を重ねることは簡単で、しかし、今、ここで彼女に伝えても受け止めてはくれそうにない固い決意にも似たものを感じている。

「ユッテに、とっては、レスライン殿は、……大好きな、お姉ちゃん、なんですよ」

 なんとか絞り出した声は、届いた、と思いたいのに、風に凪いで消えてしまったようにも思うほど、彼女の表情は険しいままだった。結局、陽が傾き落ちかけるまで眠っていたユッテを起こして、果たして夜眠れるだろうかと心配しながら背負って帰路につくことになった。背中で嬉しそうにしているユッテがなんどか額を肩にぐりぐりと押し付けてくる。

「いっぱい寝てしまって夜眠れるか?…先生、もう少し早く起こせばよかったかな」
「がんばってねる!いいこにする!」
「そうか?」

 前を見ればレスライン殿が歩いている。離れ過ぎず、早すぎないスピードで歩いてくださっている。

「ねえねえ、先生」
「ん?」
「またお姉ちゃんと三人で、おでかけしたい」
「……そうだね、楽しかったから、またしたいね」

 余程楽しかったのだろう、ひそひそと話しかけてきたユッテの声は弾んでいる。

「でも、でも、お姉ちゃんは、お父さんと同じぐんじんさんで、いそがしいから、むずかしい、かなあ」
「……そのときは先生が、頼んでみるよ」
「いいの?」
「うん……先生も、お姉ちゃんと、もっと仲良くなりたいから…」
「先生大好き!」

 ぎゅ、と服を強くつかんでユッテが肩に頭を何度も押し付けてはしゃいでいる。この程度では落さない自信はあるが、念のためしっかりと彼女を支えておく。

「ユッテ、先生の背中であまり暴れるんじゃない」
「うん!あのね、お姉ちゃん、あのね、また三人で、おでかけしようね!!」
「………時間が合えばな」
「うん!!」

 関わらないようにする、と言ってはいても、やはりこの人は小さな子供につらく当たれる人ではないのだと思う。ダメだ、と言わず、時間が合えば、と濁したものの言い方は、優しいと思う。
 孤児院の前でレスライン殿はユッテにだけ言葉をかけ、早々に立ち去っていく。少し寂しくはおもうものの、勝手にしていい、と言われたのだから、これで良いのだとも思う。

「先生今日は楽しかった!!」
「ああ、先生も楽しかったよ、ありがとう」
「来年のお誕生日も、良い??」

 もう来年の話なのか、と思いつつ期待するような眼差しに笑みがこぼれてしまう。

「来年でいいのかな?秋とか、冬のお祭りでもいいんだけど」
「いいの??」
「いいよ、ユッテが迷惑じゃなければ」
「じゃあ、じゃあ、星のお祭りは、夜だからユッテはいけない、から、秋と、冬と、春と、いっぱい一緒がいい!!」
「わかった、ユッテの為に先生ご用事は作らないようになるべくするけど、先生も大人で、忙しいときはごめんね」
「うんっ、いいの!!」

 今一度、ぎゅう、と力強く抱き着いたユッテを抱きしめ返し、本格的に、彼女の事を娘として迎えることも視野に入れても構わないだろうかと、ほんの少し思案しながら、彼女の誕生日の約束の終わりを迎えた。
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