夏
夏は夏で、春の収穫祭や祝い事のようになにやらあるのだ、とレヴェンデル殿に教えて頂いたのは数日前のことだった。直近である祭りは水の神に関連した祭りで、海側では大きな祝い事になるらしいのだが、この辺りでは湖の祠に供え物をする程度、らしい。領主のオウル・オルフェ殿の生誕月でもあるらしく、屋敷では関係者が呼ばれて社交界を兼ねたものが開かれるらしいのだが、当然のようにあなたの出席は決まってますからねとギーゼラ殿に言われてしまった。曰く、アメイシャ殿の師としての出席扱いのようで、下手に優男が傍にいるよりは顔の怖い俺がいる方が防壁になる、と言われては頷くほかない。
相変わらず服は用意しておきますからとだけレヴェンデル殿に言われ、申し訳なく思いながらもこちらの、オルフェ殿たちのような身分の方たちが集まる場での「正装」を存じないので、任せるほかなかった。
「先生、かんがえごとしてる?」
「え、ああ、ごめん。ちょっと、いろいろね」
「ううん、いいの!先生は大人だから、いっぱいむずかしい事があるんだよね」
今日は、ユッテの誕生日だ。
朝から彼女と出掛ける事には数日前から決まっていて、孤児院の管理をされているご老人が彼女にそれなりの服を選んでくださったらしく、上機嫌な彼女は「みてみて」とシンプルだが夏らしい涼し気な色合いの服を着ていた。
とりあえず、今日は一日、ユッテと一緒に過ごすというのが以前からの約束だったので、街中に繰り出し、日差しが暑すぎないように、彼女に夏用の帽子を買った。プレゼント、と言えば彼女は素直に喜んでくれて、小さな手が俺の指を掴んでずっとはしゃいでいる。
「あんまりはしゃぎ過ぎると、眠くならないか?」
「途中でねむたくなっても先生が一緒だもん」
ふにゃふにゃ、と嬉しそうに笑うユッテは腕に縋ってくる。小さくて細い腕。
「せんせーにおんぶしてもらうの!」
「俺に?」
「うんっ!!!!ねむくなったらおんぶしてもらう!」
「…うん、わかった」
一緒に遊んで欲しい、という彼女の細やかなお願いは始まったばかりだ。一応許可というわけじゃあないのだが俺がいる、ということで帰宅時間はあまり遅くならないようにすると約束はしている。彼女はまだ小さいから、思えば他の子たちのように一人で外に出たりするということもしないのだ。あのお店はなに、だとか、あれは何をしてるのだとか都度尋ねてくる彼女は酷く楽しそうにしている。
ご両親とも出掛けたことはあるんじゃないかとは思うが、物心もつく前、という可能性はあって、だとすれば、俺がきちんと案内をしてあげなくてはと思う。出来るかはわからないが、精いっぱい、彼女の願いくらいは叶えてやりたいとも思う。
いつもの俺の買い出しのコースとは違う道も歩く。石畳の石ひとつとっても彼女にすれば遊び道具になってしまう。ひとつひとつ、大きい石から石へ飛び移って遊んでいる。
「せんせー!こっちにきて!」
「ああ、今行くよ」
こっちこっち、と彼女が手招きする。少しだけ大股で歩いて近寄れる距離も、彼女からすれば大分遠く離れてしまったように思うのだろう。
「せんせ、せんせ、あのね、お願いがあるんだけど」
「ん?」
ちらり、と彼女が一度だけ視線を向けた先をつられてみてしまう。なんということはないいつもの大通りだが、ちらほらと親子連れの姿は当然見かける。やはり彼女も、俺なんかよりは実際、ご両親とああして手を繋いだり、背負ってもらったり、甘えたい年頃だろう。
「あの、あのね、…えと、ね、…つかれた、からね、だっこ、して?」
もじもじと、そして、申し訳なさそうに俯きながら彼女の述べた言葉はそんな小さな願い事だった。忙しなくスカートを握ったり離したりしながらちらちらとみている先にいるのは親子連れだ。ユッテと同じくらいか、もう少し小さい年ごろの女の子が父親に抱きかかえられている。
「…いいよ、おいで」
「いいの!?」
「うん、いいよ」
羨ましく思うのだろうことは想像できて、それでも申し訳なさそうにしながら伺うように、声を並べた彼女は「我慢すること」を覚えてしまったのだろう。
いつもの彼女なら疲れたとは言わないペースと時間で歩いているのに、疲れたとまで理由をつけて、しかし言う事をためらってしまうのだろう。両手を広げた中に迷うことなく飛び込んできたユッテを抱きかかえるとぎゅ、と首に腕を回してきて掴まる。
「せんせーの匂いがするー!」
「あ、はは、そうかな?」
妙な香りはしない、と思いたいのだがどうだろう。香水は、いつものをつけているんだが。
「えへへ、えへへー」
ぐりぐりと頬ずりされるのだが、髭を剃っておいてよかった。柔らかい感触が楽しそうに擦り付けては離れていく。
「ユッテ、何処まで歩こうか」
「どこまでも!」
「何処までもか、ははは、いいよ、行こう」
抱きかかえているせいで彼女の顔は伺えないのだが、それでも楽しそうに足をぱたぱたと動かしたり、鼻歌が聞こえてくるあたり、機嫌のよさは伝わってきた。
当てもなくただぶらぶらと彼女を腕の中に抱きかかえたまま歩いていると、あ、とユッテが小さく声を上げる。
「先生、もどって、もどって!」
「え?何…?」
「あっち、あの角!戻って」
首を回して彼女が指差した方向を確認する。
「わかった」
何だろう、と思いながら早くと急かされて足早に歩いて行った先で、彼女が何に反応したのかを理解した。
向こうも向こうで驚いたように目を見開いてこっちを見ている。
「お姉ちゃん!」
もぞもぞ、とユッテが降りたそうに動いた気配を感じて慌ててしゃがんで彼女を下に降ろすと、まっすぐに駆け寄っていく。いつもの軍服ではなく、夏だというのに、…相変わらずローブを手放せない俺がいえた事ではないのだが、長い袖に、長い丈のコートを着ている。髪型も、いつも、お見かけしている時にそうしているような、全て後ろへ撫でつけたものではなく、前髪を下ろして、左の方にいくらか流している。
「ユッテ」
「やっぱりおねーちゃんだったー!今日のお洋服はいつもと違うんだね!」
「ああ、今日は…今日はお仕事がない日だから」
ユッテと話すために膝をついていた彼女が、一度ちらりとこちらを見上げた。あまり自分の情報を俺には聞かせたくないのだろう、と察して顔を逸らしたのだが、どうだったろう。
「ユッテは、今日は……ああ、そうだったな、お誕生日おめでとう」
「ありがとう!!」
「大きくなったな」
片腕でユッテを抱きしめているレスライン殿の表情は柔らかい、と思う。声も、随分と柔らかくて、優しい。
「先生とね、お出かけしてるとこなの!」
「……そうか、良かったな」
「うん!お姉ちゃんもお出かけ?」
「いや、もう終わったところだから」
「じゃあお姉ちゃんも一緒にお散歩しよう!!」
ぱちぱちとレスライン殿の目が瞬いて、それから俺をじろりと睨み上げてくる。咄嗟に視線を逸らしたのだが、それをユッテが見ていたらしい。
「お姉ちゃんは、先生とまだ仲良しじゃない?」
酷く残念そうな、悲しそうな声で俯いたユッテに慌てたのは俺だけではなかったらしかった。
「仲良しだよ、まだ少しだけだが」
「ほんとう?」
「本当だ」
すっくと立ちあがったレスライン殿がまっすぐ俺のほうに歩いてくる。ユッテには見えないだろうがものすごく、険しい顔で俺を一瞥した後、左腕を組まれてぎくりと身体が固くなりかけたのを、即座に彼女の腕が横腹をきつく押し込んできて視線を泳がせる。合わせろ、と暗に言われていることは理解が出来た。
「ほら、仲良しだ、なあ」
「ッ…そうですね、仲良しです」
「ほんとだあ!」
すぐに離れて、またユッテのもとへ戻った背中を見ながら、つい右手で口を覆ってしまう。
ユッテを悲しませまいとして取った行動だったとは充分理解している。俺と、レスライン殿は実際問題「仲良し」でもなければ「友人」という関係にも満ちてはいないし、言ってしまえば、彼女はまだ俺を疑ってもいるだろう。それらを分かっていても、なあ、という優しい声と、柔らかな笑顔に動揺もしていれば、心臓も煩くなっている。
嬉しい、と纏めてしまうにはもったいなく、しかし他に言葉は見当たらない。俺に対して向けたわけじゃないのに。ざわざわと落ち着かなくて、酷く、嬉しいと思ってしまって。
「先生?」
つい、と裾を引かれてはっとする。
「ご、ごめん、何かな」
「お姉ちゃんも一緒に遊んでくれるって!」
「ん、そうか、良かったね」
「うん!」
良かった、とは言ったが、つまり、それは今日一日は、レスライン殿もこのあと同行される、ということになるわけだと気がついてまた動揺してしまう。
「えへへ、えへへえ…お姉ちゃんと先生とおでかけ」
「ユッテ、私は悪いが手を繋げない、先生と繋いでいてくれるか」
「うんっ」
ぎゅ、と小さな手が俺の手を掴んでくれても、ユッテを挟んで隣に立つ彼女に気持ちが向いてしまって申し訳がない。それでも今日はユッテの誕生日なのだから、と二度、三度、深呼吸をして気持ちを落ち着け、切り替える。
フリでも何でもいい。ここを起点にして、彼女を知る切っ掛けにすれば、と思う。
相変わらず服は用意しておきますからとだけレヴェンデル殿に言われ、申し訳なく思いながらもこちらの、オルフェ殿たちのような身分の方たちが集まる場での「正装」を存じないので、任せるほかなかった。
「先生、かんがえごとしてる?」
「え、ああ、ごめん。ちょっと、いろいろね」
「ううん、いいの!先生は大人だから、いっぱいむずかしい事があるんだよね」
今日は、ユッテの誕生日だ。
朝から彼女と出掛ける事には数日前から決まっていて、孤児院の管理をされているご老人が彼女にそれなりの服を選んでくださったらしく、上機嫌な彼女は「みてみて」とシンプルだが夏らしい涼し気な色合いの服を着ていた。
とりあえず、今日は一日、ユッテと一緒に過ごすというのが以前からの約束だったので、街中に繰り出し、日差しが暑すぎないように、彼女に夏用の帽子を買った。プレゼント、と言えば彼女は素直に喜んでくれて、小さな手が俺の指を掴んでずっとはしゃいでいる。
「あんまりはしゃぎ過ぎると、眠くならないか?」
「途中でねむたくなっても先生が一緒だもん」
ふにゃふにゃ、と嬉しそうに笑うユッテは腕に縋ってくる。小さくて細い腕。
「せんせーにおんぶしてもらうの!」
「俺に?」
「うんっ!!!!ねむくなったらおんぶしてもらう!」
「…うん、わかった」
一緒に遊んで欲しい、という彼女の細やかなお願いは始まったばかりだ。一応許可というわけじゃあないのだが俺がいる、ということで帰宅時間はあまり遅くならないようにすると約束はしている。彼女はまだ小さいから、思えば他の子たちのように一人で外に出たりするということもしないのだ。あのお店はなに、だとか、あれは何をしてるのだとか都度尋ねてくる彼女は酷く楽しそうにしている。
ご両親とも出掛けたことはあるんじゃないかとは思うが、物心もつく前、という可能性はあって、だとすれば、俺がきちんと案内をしてあげなくてはと思う。出来るかはわからないが、精いっぱい、彼女の願いくらいは叶えてやりたいとも思う。
いつもの俺の買い出しのコースとは違う道も歩く。石畳の石ひとつとっても彼女にすれば遊び道具になってしまう。ひとつひとつ、大きい石から石へ飛び移って遊んでいる。
「せんせー!こっちにきて!」
「ああ、今行くよ」
こっちこっち、と彼女が手招きする。少しだけ大股で歩いて近寄れる距離も、彼女からすれば大分遠く離れてしまったように思うのだろう。
「せんせ、せんせ、あのね、お願いがあるんだけど」
「ん?」
ちらり、と彼女が一度だけ視線を向けた先をつられてみてしまう。なんということはないいつもの大通りだが、ちらほらと親子連れの姿は当然見かける。やはり彼女も、俺なんかよりは実際、ご両親とああして手を繋いだり、背負ってもらったり、甘えたい年頃だろう。
「あの、あのね、…えと、ね、…つかれた、からね、だっこ、して?」
もじもじと、そして、申し訳なさそうに俯きながら彼女の述べた言葉はそんな小さな願い事だった。忙しなくスカートを握ったり離したりしながらちらちらとみている先にいるのは親子連れだ。ユッテと同じくらいか、もう少し小さい年ごろの女の子が父親に抱きかかえられている。
「…いいよ、おいで」
「いいの!?」
「うん、いいよ」
羨ましく思うのだろうことは想像できて、それでも申し訳なさそうにしながら伺うように、声を並べた彼女は「我慢すること」を覚えてしまったのだろう。
いつもの彼女なら疲れたとは言わないペースと時間で歩いているのに、疲れたとまで理由をつけて、しかし言う事をためらってしまうのだろう。両手を広げた中に迷うことなく飛び込んできたユッテを抱きかかえるとぎゅ、と首に腕を回してきて掴まる。
「せんせーの匂いがするー!」
「あ、はは、そうかな?」
妙な香りはしない、と思いたいのだがどうだろう。香水は、いつものをつけているんだが。
「えへへ、えへへー」
ぐりぐりと頬ずりされるのだが、髭を剃っておいてよかった。柔らかい感触が楽しそうに擦り付けては離れていく。
「ユッテ、何処まで歩こうか」
「どこまでも!」
「何処までもか、ははは、いいよ、行こう」
抱きかかえているせいで彼女の顔は伺えないのだが、それでも楽しそうに足をぱたぱたと動かしたり、鼻歌が聞こえてくるあたり、機嫌のよさは伝わってきた。
当てもなくただぶらぶらと彼女を腕の中に抱きかかえたまま歩いていると、あ、とユッテが小さく声を上げる。
「先生、もどって、もどって!」
「え?何…?」
「あっち、あの角!戻って」
首を回して彼女が指差した方向を確認する。
「わかった」
何だろう、と思いながら早くと急かされて足早に歩いて行った先で、彼女が何に反応したのかを理解した。
向こうも向こうで驚いたように目を見開いてこっちを見ている。
「お姉ちゃん!」
もぞもぞ、とユッテが降りたそうに動いた気配を感じて慌ててしゃがんで彼女を下に降ろすと、まっすぐに駆け寄っていく。いつもの軍服ではなく、夏だというのに、…相変わらずローブを手放せない俺がいえた事ではないのだが、長い袖に、長い丈のコートを着ている。髪型も、いつも、お見かけしている時にそうしているような、全て後ろへ撫でつけたものではなく、前髪を下ろして、左の方にいくらか流している。
「ユッテ」
「やっぱりおねーちゃんだったー!今日のお洋服はいつもと違うんだね!」
「ああ、今日は…今日はお仕事がない日だから」
ユッテと話すために膝をついていた彼女が、一度ちらりとこちらを見上げた。あまり自分の情報を俺には聞かせたくないのだろう、と察して顔を逸らしたのだが、どうだったろう。
「ユッテは、今日は……ああ、そうだったな、お誕生日おめでとう」
「ありがとう!!」
「大きくなったな」
片腕でユッテを抱きしめているレスライン殿の表情は柔らかい、と思う。声も、随分と柔らかくて、優しい。
「先生とね、お出かけしてるとこなの!」
「……そうか、良かったな」
「うん!お姉ちゃんもお出かけ?」
「いや、もう終わったところだから」
「じゃあお姉ちゃんも一緒にお散歩しよう!!」
ぱちぱちとレスライン殿の目が瞬いて、それから俺をじろりと睨み上げてくる。咄嗟に視線を逸らしたのだが、それをユッテが見ていたらしい。
「お姉ちゃんは、先生とまだ仲良しじゃない?」
酷く残念そうな、悲しそうな声で俯いたユッテに慌てたのは俺だけではなかったらしかった。
「仲良しだよ、まだ少しだけだが」
「ほんとう?」
「本当だ」
すっくと立ちあがったレスライン殿がまっすぐ俺のほうに歩いてくる。ユッテには見えないだろうがものすごく、険しい顔で俺を一瞥した後、左腕を組まれてぎくりと身体が固くなりかけたのを、即座に彼女の腕が横腹をきつく押し込んできて視線を泳がせる。合わせろ、と暗に言われていることは理解が出来た。
「ほら、仲良しだ、なあ」
「ッ…そうですね、仲良しです」
「ほんとだあ!」
すぐに離れて、またユッテのもとへ戻った背中を見ながら、つい右手で口を覆ってしまう。
ユッテを悲しませまいとして取った行動だったとは充分理解している。俺と、レスライン殿は実際問題「仲良し」でもなければ「友人」という関係にも満ちてはいないし、言ってしまえば、彼女はまだ俺を疑ってもいるだろう。それらを分かっていても、なあ、という優しい声と、柔らかな笑顔に動揺もしていれば、心臓も煩くなっている。
嬉しい、と纏めてしまうにはもったいなく、しかし他に言葉は見当たらない。俺に対して向けたわけじゃないのに。ざわざわと落ち着かなくて、酷く、嬉しいと思ってしまって。
「先生?」
つい、と裾を引かれてはっとする。
「ご、ごめん、何かな」
「お姉ちゃんも一緒に遊んでくれるって!」
「ん、そうか、良かったね」
「うん!」
良かった、とは言ったが、つまり、それは今日一日は、レスライン殿もこのあと同行される、ということになるわけだと気がついてまた動揺してしまう。
「えへへ、えへへえ…お姉ちゃんと先生とおでかけ」
「ユッテ、私は悪いが手を繋げない、先生と繋いでいてくれるか」
「うんっ」
ぎゅ、と小さな手が俺の手を掴んでくれても、ユッテを挟んで隣に立つ彼女に気持ちが向いてしまって申し訳がない。それでも今日はユッテの誕生日なのだから、と二度、三度、深呼吸をして気持ちを落ち着け、切り替える。
フリでも何でもいい。ここを起点にして、彼女を知る切っ掛けにすれば、と思う。