春
結局、夜になっても眠れるはずがなく、眠りについたのは朝方になってからで、しかし浅い睡眠から目覚めても、部屋の外へでる気力がなく、ぼんやりとベッドに腰かけていた。一応身嗜み程度は整えたが、鏡の類がないので髪を少し手櫛で梳いて、いつものように耳の後ろに流している髪を編みなおしたくらいで、まあ、いいかと思ってしまうのは無気力故かもしれない。
ここは何処で、自分は何故生きていて、これからどうなるのかと考えながら、ふと本当にここが自分の知らないどこかなら、気も楽になるのにと夢見がちな事を考えてしまう。
ため息を一つ、二つついたあたりで、廊下を軽やかに歩く音が聞こえてきた。木製の床なのだろうそれを鳴らしながら、迷うことなく歩いている音が、部屋の前で止まってつい、腰に手を伸ばすが慣れ親しんだ剣の柄が触れることはない。
少し遅れてきた足音は、テンポが違っている。トントンという音ではなく、引きずるような音に、彼かと少々安堵した。
数度のノックの音に、どうぞ、と答えると彼、ではなく女性が姿を見せた。
「やあ!流れ星の貴公子殿!」
ぱっと笑った女性は独特の格好だ。随分豊かな胸元はひし形に大きく開かれた服のせいで素肌が見えている。そもそも服装自体も彼女の体の曲線を余すことなく誇張するように張り付いたようなもので、辛うじて下腹部のあたりの太めのベルトでその部分の曲線は隠されている、といった具合だ。淡い灰色の髪を右側は撫でつけているが、あとは全て左にはね上げるようにして整えている様子は、鳥が片翼だけ翼を広げようとしているようにも見える。淡い灰色から、青、それから夕暮れのような赤にと変色している髪の色は人生の中で一度たりとも見たことがない。
つかつかと歩いてくる様子は彼女の自信を表すようで少し身構えてしまう。セルベル殿よりも頭一つ、小さいのに大きく見える。
「ご機嫌はどうだろうか?」
「あ、あぁ……その、」
「ベテルギウスさん、困ってらっしゃいますから、」
「ベテルギウス…貴女が?」
「そうとも!」
胸元に手を当てた彼女は、そのまま胸を張るようにして背を少しだけ逸らして見せる。上に羽織っているケープで隠れてはいるが、見えている限り、しっかりと鍛え上げられている体躯を見れば、自分を運んできた、と言われても納得は出来そうな綺麗で、屈強な体つきだ。
「流れ星から零れ落ちた貴公子殿を見つけ、ここに匿うことにしたのが私さ!」
「その、あ、ありがとう、助けて頂いて…」
「構わないさ」
片目だけ器用に瞑ってみせる彼女は、頭の先からつま先まで自信で満ちているように思える。自分が接してきた女性の中には、彼女に当てはまるようなタイプは居ない。
「ベテルギウス殿、その、伺っていいだろうか」
「良いとも!」
「流れ星のとか、いう、のは、その、」
「ああ、貴公子殿のあだ名だ。名前もまだ思い出せないんだろう?暫くはあだ名がいるかと思ってそう呼んでいるんだ。あの夜は多くの流れ星が空を埋め尽くしていてそれはそれは幻想的な夜だった。ああ、こちらの国ではあの夜の事は星の雨と呼ぶんだが」
つらつらと述べる彼女の口ぶりは役者か何かの芝居を見ているかのような印象を受ける。作って、意識してそう話しているという感じだ。
「その夜の日に森で倒れていたので、ベテルギウスさんが担いでくるなり、流れ星が王子様を落として言ったぞ、と」
「お、王子様…」
「恰好がそんな感じだったろう?身分がよさそうな衣類と装飾品だった」
「見てわかるものか?」
「勿論、そのくらいの目はある」
ふふんと笑う彼女は嘲笑というよりは普通に、笑顔を作って見せているのだろう、恐らく。
「まあ王子という年齢ではなさそうなんだがな、その方が可愛い感じで良いんじゃないか?」
「ああ、そうですね、物語みたいで素敵です」
「そうだろう?!」
二人のやりとりはなんというか、それなりに付き合いがある同士の会話に思えた。
「ええと、それで、お腹はすきませんか?よかったらお昼でもどうかと思って」
「わざわざ…それで?」
「私とセルベル、それから貴公とあと一人、数日前から此処に宿泊中の顔なじみがいるんだがどうだろうか?」
「………お邪魔して、いいのであれば、…少しは歩いた方が良いだろうから、ご一緒させていただきたい」
決まった!と朗らかに笑ったベテルギウスと名乗った女性は、では先に言ってるぞとだけつげて颯爽と部屋を後にする。風のような人だと見送りつつ、見ず知らずの相手と会食することに緊張はあるが、少しでも、記憶喪失ということで二人が解釈してくれているうちに、ある程度、ここの情報は仕入れておくほうがいいだろう。日常会話の中でも拾える違和感や情報は存在するはずだ。
「すみません、ベテルギウスさん、いつもああなので……でも、明るい人ですよ」
「そのようだ……」
「こちらです、どうぞ」
ついて来てください、というエルデ殿についていく。背丈はさほど自分と変わらないのだなと思いながら背を追う。相変わらず右の足を引きずってはいるのだが、壁に手をつかなければ歩行が出来ぬというわけではないらしい。
「エルデ殿は、怪我か何かを?」
「え?…ああ、軍属だったんですが、数年前に戦闘中、移動していたところを腕のいい狙撃手に持っていかれてしまって…、腱が切れたり、結構撃たれてしまったのでうまく歩けないんですよ」
「そうなのか」
「その時の隊長にも、足手まといになるなら要らないと言われましたし、実際、隊長にも仲間にも、迷惑をかけられないなあとおもって退役して、今は親族のツテで宿屋をやってまして、まあもともと料理をしたりするのも好きでしたし性にはあってていいかなあと………あ、すいません、自分、つい喋りすぎて…」
「いや、構わない」
確かにこの様子で、兵として抱えていても使えないだろう。まだ年も若いし、足手まといとは言えないかもしれないが自分が彼の上司であれば似たような理由でもつけて除隊させるなりしていたかもしれない。
「ベテルギウス殿、は長い付き合いか?」
「そうですね、結構、始めたころからご利用いただいてます。何の仕事をしてるかは知らないんですが、気さくな人ですよ」
「そう、だな、話しやすい気はする」
長い廊下を歩き、少し広めにとられた両開きの扉を彼が開けると、少し広い部屋に出た。いくつかのテーブルとそれに合わせて椅子が並べてあり、カウンターとその奥にはキッチンが見えるので、食事に使う部屋なのだろう。
ベテルギウス殿がすぐ近くのテーブルに腰かけ、片手をあげて笑いかけてくる。その真向かいに、またひとり女性が座っている。
「今、貴方のぶんを持っていくので、座っていてください」
「え、あ、俺が持っていこう、か」
「え?」
「持っていくよ、自分のぶんくらいは…」
「……わかりました、お気遣いありがとうございます」
「いや、その、余計な事だったらすぐ言ってくれ」
「そんなことありません、嬉しいです」
どうぞと渡されたプレートには少し大きめのパンととろりとしたスープが付いている。寝起きというか、起き上がりの俺に配慮してくれたのだろうかと、ベテルギウス殿の、かなり胃に向けて重量がありそうな昼食をみて思う。
「さ、貴公子殿、好きな方に座っていいぞ」
「………」
もう俺がそこに座る、というのが前提らしい席は4人掛けだ。迷いながら、全く見知らぬ女性の隣よりは、と先ほど会話を交わしたベテルギウス殿の隣に腰かける。
「ギーゼラ、彼が流れ星の王子殿だ」
「……あら」
ギーゼラ、と呼ばれたその女性はこちらに顔を向け、微笑んだ。細い目は瞳がその睫で確認するのが難しいのだが、僅かに、赤い色なのが見て取れた。長く艶やかな紫色の髪の毛は遠方の国の女王を思い出させる。最もあの王は髪を短く切っているのだが。
ギーゼラと呼ばれた彼女も、豊かな胸が目立っていて、首や腕周りの貴金属が目立つ以外は黒ずくめの恰好だ。背丈は座っているのでわかりかねるが、小柄な印象を受ける。それにしても格好がきわどい、と目のやり場に困りながらも彼女へ軽く会釈をする。
「ギーゼラ・レヴェンデルです、どうぞよろしく」
「あ、あぁ、よろしく、」
「一応、念のため釘はさしておくが、剣欲しさにセルベルを襲っても私かギーゼラが貴殿の動きを封殺するから覚えておくように」
「……承知した」
「あら、素直な人」
ふふ、と笑う声は澄んでいる。清らかさとはちがう、僅かに感じる冷徹さも含んだ声はよくよく耳に残りそうだ。
ひょこひょこと歩いてきたエルデ殿が、レヴェンデル殿の隣しかあいていないのを見て少し難しそうな顔をしたあたり、もしかすれば彼は彼女が苦手なのかもしれない。
「セルベルちゃん、遠慮しないでもっと近くでもいいのに」
「いいえ、ここで平気なので」
「あら、慎ましやか」
少しだけ椅子を離してから座ったエルデ殿は申し訳なさそうにしながら小さくレヴェンデル殿に会釈をする。彼女は特段気に障った風でもないようだった。
「流れ星の貴公子さんはお名前は?」
「ああ、すいません、その」
「まだ思い出せないらしいんだ!まあそのうち思い出すさ」
「あらあら、そうなんですか?」
思い出せない、と言ったことはないのだが、そうおっしゃってくださっているなら今はそうしておこう、と決めて小さく頷く。すう、とレヴェンデル殿の目がさらに細くとがったような気がして首の後ろがざわりとする。
「思い出せたらいいですね」
「ありがとうございます……」
にこりと笑う彼女の瞳は見えない。だからこそ恐ろしいと感じるのだろうか。
「思い出せない時は思い出してもらうのさ!」
「そうね、それが手っ取り早いかもね、命の危険でも感じれば思い出すかも」
「冗談ですから」
「あ、ああ」
冗談、冗談ならいいが、ベテルギウス殿も大概恐ろしい事を云う、と思いつつ、どんどんと彼女の口の中に運ばれていく大盛の料理は、あっという間になくなっていった。
ここは何処で、自分は何故生きていて、これからどうなるのかと考えながら、ふと本当にここが自分の知らないどこかなら、気も楽になるのにと夢見がちな事を考えてしまう。
ため息を一つ、二つついたあたりで、廊下を軽やかに歩く音が聞こえてきた。木製の床なのだろうそれを鳴らしながら、迷うことなく歩いている音が、部屋の前で止まってつい、腰に手を伸ばすが慣れ親しんだ剣の柄が触れることはない。
少し遅れてきた足音は、テンポが違っている。トントンという音ではなく、引きずるような音に、彼かと少々安堵した。
数度のノックの音に、どうぞ、と答えると彼、ではなく女性が姿を見せた。
「やあ!流れ星の貴公子殿!」
ぱっと笑った女性は独特の格好だ。随分豊かな胸元はひし形に大きく開かれた服のせいで素肌が見えている。そもそも服装自体も彼女の体の曲線を余すことなく誇張するように張り付いたようなもので、辛うじて下腹部のあたりの太めのベルトでその部分の曲線は隠されている、といった具合だ。淡い灰色の髪を右側は撫でつけているが、あとは全て左にはね上げるようにして整えている様子は、鳥が片翼だけ翼を広げようとしているようにも見える。淡い灰色から、青、それから夕暮れのような赤にと変色している髪の色は人生の中で一度たりとも見たことがない。
つかつかと歩いてくる様子は彼女の自信を表すようで少し身構えてしまう。セルベル殿よりも頭一つ、小さいのに大きく見える。
「ご機嫌はどうだろうか?」
「あ、あぁ……その、」
「ベテルギウスさん、困ってらっしゃいますから、」
「ベテルギウス…貴女が?」
「そうとも!」
胸元に手を当てた彼女は、そのまま胸を張るようにして背を少しだけ逸らして見せる。上に羽織っているケープで隠れてはいるが、見えている限り、しっかりと鍛え上げられている体躯を見れば、自分を運んできた、と言われても納得は出来そうな綺麗で、屈強な体つきだ。
「流れ星から零れ落ちた貴公子殿を見つけ、ここに匿うことにしたのが私さ!」
「その、あ、ありがとう、助けて頂いて…」
「構わないさ」
片目だけ器用に瞑ってみせる彼女は、頭の先からつま先まで自信で満ちているように思える。自分が接してきた女性の中には、彼女に当てはまるようなタイプは居ない。
「ベテルギウス殿、その、伺っていいだろうか」
「良いとも!」
「流れ星のとか、いう、のは、その、」
「ああ、貴公子殿のあだ名だ。名前もまだ思い出せないんだろう?暫くはあだ名がいるかと思ってそう呼んでいるんだ。あの夜は多くの流れ星が空を埋め尽くしていてそれはそれは幻想的な夜だった。ああ、こちらの国ではあの夜の事は星の雨と呼ぶんだが」
つらつらと述べる彼女の口ぶりは役者か何かの芝居を見ているかのような印象を受ける。作って、意識してそう話しているという感じだ。
「その夜の日に森で倒れていたので、ベテルギウスさんが担いでくるなり、流れ星が王子様を落として言ったぞ、と」
「お、王子様…」
「恰好がそんな感じだったろう?身分がよさそうな衣類と装飾品だった」
「見てわかるものか?」
「勿論、そのくらいの目はある」
ふふんと笑う彼女は嘲笑というよりは普通に、笑顔を作って見せているのだろう、恐らく。
「まあ王子という年齢ではなさそうなんだがな、その方が可愛い感じで良いんじゃないか?」
「ああ、そうですね、物語みたいで素敵です」
「そうだろう?!」
二人のやりとりはなんというか、それなりに付き合いがある同士の会話に思えた。
「ええと、それで、お腹はすきませんか?よかったらお昼でもどうかと思って」
「わざわざ…それで?」
「私とセルベル、それから貴公とあと一人、数日前から此処に宿泊中の顔なじみがいるんだがどうだろうか?」
「………お邪魔して、いいのであれば、…少しは歩いた方が良いだろうから、ご一緒させていただきたい」
決まった!と朗らかに笑ったベテルギウスと名乗った女性は、では先に言ってるぞとだけつげて颯爽と部屋を後にする。風のような人だと見送りつつ、見ず知らずの相手と会食することに緊張はあるが、少しでも、記憶喪失ということで二人が解釈してくれているうちに、ある程度、ここの情報は仕入れておくほうがいいだろう。日常会話の中でも拾える違和感や情報は存在するはずだ。
「すみません、ベテルギウスさん、いつもああなので……でも、明るい人ですよ」
「そのようだ……」
「こちらです、どうぞ」
ついて来てください、というエルデ殿についていく。背丈はさほど自分と変わらないのだなと思いながら背を追う。相変わらず右の足を引きずってはいるのだが、壁に手をつかなければ歩行が出来ぬというわけではないらしい。
「エルデ殿は、怪我か何かを?」
「え?…ああ、軍属だったんですが、数年前に戦闘中、移動していたところを腕のいい狙撃手に持っていかれてしまって…、腱が切れたり、結構撃たれてしまったのでうまく歩けないんですよ」
「そうなのか」
「その時の隊長にも、足手まといになるなら要らないと言われましたし、実際、隊長にも仲間にも、迷惑をかけられないなあとおもって退役して、今は親族のツテで宿屋をやってまして、まあもともと料理をしたりするのも好きでしたし性にはあってていいかなあと………あ、すいません、自分、つい喋りすぎて…」
「いや、構わない」
確かにこの様子で、兵として抱えていても使えないだろう。まだ年も若いし、足手まといとは言えないかもしれないが自分が彼の上司であれば似たような理由でもつけて除隊させるなりしていたかもしれない。
「ベテルギウス殿、は長い付き合いか?」
「そうですね、結構、始めたころからご利用いただいてます。何の仕事をしてるかは知らないんですが、気さくな人ですよ」
「そう、だな、話しやすい気はする」
長い廊下を歩き、少し広めにとられた両開きの扉を彼が開けると、少し広い部屋に出た。いくつかのテーブルとそれに合わせて椅子が並べてあり、カウンターとその奥にはキッチンが見えるので、食事に使う部屋なのだろう。
ベテルギウス殿がすぐ近くのテーブルに腰かけ、片手をあげて笑いかけてくる。その真向かいに、またひとり女性が座っている。
「今、貴方のぶんを持っていくので、座っていてください」
「え、あ、俺が持っていこう、か」
「え?」
「持っていくよ、自分のぶんくらいは…」
「……わかりました、お気遣いありがとうございます」
「いや、その、余計な事だったらすぐ言ってくれ」
「そんなことありません、嬉しいです」
どうぞと渡されたプレートには少し大きめのパンととろりとしたスープが付いている。寝起きというか、起き上がりの俺に配慮してくれたのだろうかと、ベテルギウス殿の、かなり胃に向けて重量がありそうな昼食をみて思う。
「さ、貴公子殿、好きな方に座っていいぞ」
「………」
もう俺がそこに座る、というのが前提らしい席は4人掛けだ。迷いながら、全く見知らぬ女性の隣よりは、と先ほど会話を交わしたベテルギウス殿の隣に腰かける。
「ギーゼラ、彼が流れ星の王子殿だ」
「……あら」
ギーゼラ、と呼ばれたその女性はこちらに顔を向け、微笑んだ。細い目は瞳がその睫で確認するのが難しいのだが、僅かに、赤い色なのが見て取れた。長く艶やかな紫色の髪の毛は遠方の国の女王を思い出させる。最もあの王は髪を短く切っているのだが。
ギーゼラと呼ばれた彼女も、豊かな胸が目立っていて、首や腕周りの貴金属が目立つ以外は黒ずくめの恰好だ。背丈は座っているのでわかりかねるが、小柄な印象を受ける。それにしても格好がきわどい、と目のやり場に困りながらも彼女へ軽く会釈をする。
「ギーゼラ・レヴェンデルです、どうぞよろしく」
「あ、あぁ、よろしく、」
「一応、念のため釘はさしておくが、剣欲しさにセルベルを襲っても私かギーゼラが貴殿の動きを封殺するから覚えておくように」
「……承知した」
「あら、素直な人」
ふふ、と笑う声は澄んでいる。清らかさとはちがう、僅かに感じる冷徹さも含んだ声はよくよく耳に残りそうだ。
ひょこひょこと歩いてきたエルデ殿が、レヴェンデル殿の隣しかあいていないのを見て少し難しそうな顔をしたあたり、もしかすれば彼は彼女が苦手なのかもしれない。
「セルベルちゃん、遠慮しないでもっと近くでもいいのに」
「いいえ、ここで平気なので」
「あら、慎ましやか」
少しだけ椅子を離してから座ったエルデ殿は申し訳なさそうにしながら小さくレヴェンデル殿に会釈をする。彼女は特段気に障った風でもないようだった。
「流れ星の貴公子さんはお名前は?」
「ああ、すいません、その」
「まだ思い出せないらしいんだ!まあそのうち思い出すさ」
「あらあら、そうなんですか?」
思い出せない、と言ったことはないのだが、そうおっしゃってくださっているなら今はそうしておこう、と決めて小さく頷く。すう、とレヴェンデル殿の目がさらに細くとがったような気がして首の後ろがざわりとする。
「思い出せたらいいですね」
「ありがとうございます……」
にこりと笑う彼女の瞳は見えない。だからこそ恐ろしいと感じるのだろうか。
「思い出せない時は思い出してもらうのさ!」
「そうね、それが手っ取り早いかもね、命の危険でも感じれば思い出すかも」
「冗談ですから」
「あ、ああ」
冗談、冗談ならいいが、ベテルギウス殿も大概恐ろしい事を云う、と思いつつ、どんどんと彼女の口の中に運ばれていく大盛の料理は、あっという間になくなっていった。