夜遅くになってしまうと流石に一人で彼女を護るのは難しいということと、彼女自身も夕刻までときちんと自分で帰宅目安を決めていたらしく、屋敷まで彼女を送り届け、楽しかったと笑った笑顔を見たのが2時間ほど前。
 まだ完全に陽は落ちていないのだが夜の足音がしている空模様をみながら、「折角だから夜の祭りも楽しんであとで様子を教えてください」と言ったオルフェ殿の言葉を守っている自分がいた。
 広場には街灯に明かりが灯っている。これは、この国に仕えている何人かの魔術師の一人が施している魔術道具らしい。媒体などは滅多に使わないうえ作ることが難しい、とのことだったし、とすればあれは中に術式か何か書いてある、破壊されたり術が改変されない限り永続的につくものだったりするだろうか、と考えてしまう。
 広場が見えるベンチに座っているが、公園らしいここにも鳥の様な形の街灯が立っていて、祭りの類の時に使用しているのだろう金具に花かごが吊るされている。
 美しいものだと徐々に姿を現していく夜景を見ていると、背後から隠すことが無い気配と共に重い足取りが聞こえ、左斜め後ろでぴったりと止まる。

「ノニン・シュトロムフト」

 低く通る声が俺の名を呼ぶ。

「……屋敷に戻られましたよ、きちんと」

 言外に「オルフェ殿は何処だ」と聞かれた気がして、後ろを見ることは許されないかもしれないと背を向けたままそう答える。

「私は貴様を信用していない」
「ええ……結構です、私もそう言っていただける方が安心する」

 手放しの信頼より、こうして疑ってかかられる方が馴染み深いのは確かだった。セルベル殿やピスケス殿に申し訳なさも感じるものの、安心感は、レスライン殿のはっきりした言葉の方が強い。

「何か不審なことでもしてみろ、私が」
「そのときは始末していただいて構わない」

 空気が一瞬だけ張りつめたような気がする。

「記憶喪失で何もかも執着がなくなったか?」

 その情報もきちんと得ているのか、と感心する。だが、まあ、レヴェンデル殿に接触していればその程度の情報はレヴェンデル殿も開示するかとも思う。

「そう、だな…それほど、生きることに固執していない」
「………」
「私も貴方と同じ立場なら、私自身に懐疑心を持つし、警戒もする……。ましてや得体のしれないというのに指名をいただいての同伴だ。貴女の警戒は正しく、その通りだ」

 気配が近くなった。

「貴様」
「ただ、ご指名をいただいたからには、しっかり務めは果たす」

 恐る恐る、彼女がいるのだろう場所へ顔を向ける。街灯の明かりは彼女の輪郭のみをうっすらと照らすだけで、はっきりと表情は見えない。

「若い彼女を、裏切るような男にはならない…。そんなことは、しない」
「……ふん」
「信じて頂かなくてもいい、こんな事を言って、裏切る男はいくらでもいるだろう」
「もし裏切ったら、そのときは楽には殺してやらん」

 大きく、踏み出し、ぐっと距離を詰めて来たレスライン殿が目の前までやってくる。そのまま右手で胸倉を掴まれ、あっさりと掴み上げられてしまう。

「あの方を裏切った事、後悔させるほど痛めつけて殺してやる」

 そんな事、思っている場合ではないとわかっている。
 それでも、剣のように研ぎ澄まされたその瞳の殺意に見惚れてしまう。夜の色を少しだけ吸い込んだ青が、ほの明るい街灯の光を拾い、美しく輝いている。俺には出来ない深い決意の煌めきに目を細めそうになる。

「ああ、そうしてくれ」

 この人になら、と生まれて初めて思った感情かもしれない。
 この感情は、断罪を待つ罪人に近いのかもしれない。そうであれば、これは、まだ、「そう」とは定義出来ない。
 わかっているのは、この人が忠義心に溢れ、それをはっきり貫いている美しい心の人だと感じている…という事だ。その心が気高く、美しい。

「ふんっ」

 乱暴なほどに突き放され、よろめく。
 改めて見るに、レスライン殿は俺よりは小柄だが、ロージエ殿や街の女性たちよりは大柄な人だ。力も強く、体格も良い。金の髪は、帽子に隠れて今日は、全ては見えない。

「意味の分からん男だ」

 冷たい目がこちらを射貫く。
 意味が分からない、と言われたことと、その瞳にぞわりとした恐怖が頭の内側を撫でていくようだった。さっと冷えていく思考を自覚する。

「ま、待って、待ってくれ」

 似たような眼を、女性から何度も向けられた。兄からも、向けられた。慣れたものだったのに、彼女に向けられた瞳の色がざわざわと恐怖心でもって体の内側を撫で摩る。
 歩き出す彼女の腕を、失礼だと思う暇もなく掴みかけたとき、彼女が振り返る。
 ゆっくりとした動きに見えたのは、戦場で経験のあった「感覚が研ぎ澄まされていた」からだ。彼女の動きではためいた左の袖が視界に入ると、下からせり上がってきた拳を視認し、半歩さがり、顎を逸らすことで避ける。
 喉を撫でていく風圧と、彼女が吐き出しただろう短い呼吸音と、風を切った音。

「(しま、った)」

 驚いたように目を見開いた彼女と視線がかち合う。
 普通、普通は、だ、特段訓練などしていなければ、今のは「当たって」然るべき攻撃だった。彼女は殆どノーアクションで死角より拳を突き上げて来た。「普通」、当たっているのだ。

「……なん、だ?貴様、何者だ」
「い、まのは、」
「たまたまではないだろう、何だ、本当に記憶がないのか?だとしたら、身体が何か、覚えているのか?」 

 ギラギラと警戒心を隠すことを一切せずに視線を刺しこまれる。

「私が教えたんですもの、当然じゃない?」

 聞きなれた声に弾かれたように反応したのはレスライン殿が早かった。いつのまにかレヴェンデル殿が近くに立っている。

「ハアイ、エデルガルド」
「…………貴様が?教えただと?」
「飲み込みが早いらしいのその人」

 じとり、とレスライン殿から向けられた視線に少し委縮する。

「苛めないであげて?」
「苛めていない」

 つい、とレヴェンデル殿が顎で行け、と指示した。一瞬の事ではあったが、この場を離脱する隙もないまま、エデルガルド殿がぐるりと体の向きを変え、こちらに再び接近したと思った刹那、手首を掴まれる。

「エデルガルド、苛めないであげてっていってるじゃない」
「お前もだがこの男もこの男で信用が出来ん」
「ぁ……」

 信用できない、というのは仕方がない。それはそうだろうと何度も思ったことが頭をよぎる。
 それよりも、直に感じた彼女自身の体温にじりじりと熱が集まってくる。
 いや、しかし、まだ、まだ自分の感情もわかっていないのに早まりすぎると急いで深呼吸をするが、やはりというべきか、不審そうに見上げられた。一応、かなり控えめにしたつもりだったのだが。

「その人、女性苦手らしいの、手、離してあげて?」
「ハッ……、なら私は問題ない」
「あら……そうかしら」
「私はエデルガルド・レスラインだ、お前はまだしも、私が女に見えるものか」

 レヴェンデル殿の瞳は厚い睫で見えないのだが、それでも、何故か、確かに目があった、と感じた。それから、ふっと彼女の、口角が右側だけあがる。

「見えてるみたいですけど」

 ズ、と隣に立っている気配が重くなる。
 恐る恐る、視線を再び彼女へ降ろそうとして手首を一層強く、折る気なのではと感じるほどの力で握られる。女性と、扱われるのは嫌いだったりするのだろうか。

「悪い冗談だ」
「思うのは個人の自由ですもの、冗談かどうか、時期にわかるんじゃない?ほら、離してあげたら?痛そうじゃない」
「し、信用ならないなら、今宵はレスライン殿の監視下に置いていただいて行動する、それで、いいでしょうか」

 二人の視線が同時に刺さる。首を竦めそうになるが、彼女たちが険悪になるよりは良い選択だと思う。

「ま、まだ祭りを見ておきたい、ので、えと、監視していただいた方が俺は…」
「ですって、そうしたら?」

 随分はっきりした舌打ちが聞こえる。
 レヴェンデル殿が言うように、レスライン殿は彼女のことを疑っているのだろう。確かにこの国で生きるなら、彼女はもしかすると俺に話して見せた以外のもっと多くの秘密を持っているのかもしれない。

「そ、それで、場を治めさせて頂けないだろうか…、女性同士が、その、険悪になる、のは苦手で」
「あら、貴方苦手なもの多いんですね」
「……面目ない」
「じゃあ、エデルガルド、ノニンさんのこと宜しくお願い」

 にこにこと笑う彼女に、レスライン殿からの反応はない。

「ノニンさん」
「あ、な、なんだろうか」
「エデルガルドのこと宜しくお願いしますね、多分デートしたことないのよその人」
「………ぁ、う、うん」

 うん、と言ってからしまった、とレスライン殿を見ると目が座っている。怒っているようにも思うが言葉は一切発していない。多分、怒らせたには間違いなかった。
 じゃあね、と闇夜に消えていくレヴェンデル殿は本当に相当な実力者なのだろうと思う反面、手首をつかんだままのレスライン殿の殺気に近い気配が重々しい。

「ふん、……忘れられない程に最悪なデートにしてやる」

 ぶん、と低い声と共に強く手を振り払われる。
 顎でさっさと歩けと示され、祭りの夜に歩を進めた。
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