春
生まれついてこの方、自分に自信など持った事がなかったと思う。物心ついたときには既に出来のいい兄がいて、自然と、自分は彼に何かあった時の「替え」か、あるいは彼に何か危険が及ぶときの、盾にも満たぬそういう存在なのだ、と悲しいかな思うようになっていた。自分が生まれた理由は兄で、存在していい理由を与えているのは血筋と兄の弟だというその点のみで。周囲や兄からも、兄の替え玉が務まるように徹底的に教育を受けた。
自分の好きな事、と言われるとなかなか思い浮かばないのが現状で、ああ、自分には、本当に、何も、何一つ、ないのだ、と、思ったときには、刺された腹の痛みもどこか他人事で、これでもう、思い悩むことも卑屈さに嫌気がさすこともないのだろうと思うと同時に、自分は、『兄』として一時的に処理されるのか、『健気な弟が体を張って兄を護った』という処理になるのか、と考えてしまうのは根付いたものなのだろう。
今わの際まで、こんなこと考えたくなかったと思いながら、静かに目を閉じて、血の香りと冷たい床の硬質さを覚えながら、そうして、苦しいだけの人生に幕を閉じた。
その筈だった。
二度と開けることはないのだと思った瞼が自然に開いたのは、窓から聞こえた聞きなれない小鳥のさえずりの所為だ。ああ、鳥の声がする、と思った。だから目を開けた。見慣れない天井は見慣れない様式の建築だ。寝ていたらしいベッドは簡素過ぎないが豪奢過ぎるわけでもない。ベッドや家具の類に関しては一般の家庭で使う代物、に近いんじゃないかと思いながら、どうして生きているのかが不思議で、確かに殺意を持って深く刺された腹に手を伸ばし、
「(あ、れ)」
傷がない、と気が付く。深々刺されて、背中まで貫かれた筈の傷が指先に触れてこない。指の感覚が可笑しいのかと思い、惰性で寝たままだった上半身を起こして、気が付く。服装も、見慣れないもので、そしてここはどこかの一室らしい。小さな窓から吹き込んでくる風で厚手のカーテンが少し遊ばれている。服の裾を捲って見ても何の傷もそこにはない。古傷はそのままだが、致命傷だったあの剣の傷は見当たらないでいる。自分が帯剣していた愛用の剣もなく、きょろきょろと見回しているとドアが開く音がする。
「ああ、起きたんですか」
「ぁ」
見知らぬ男がはいってきた。情けない声が出た、と思うより早く、その男の外見にぎくりと体が固まってしまう。自分と同じ黒い髪と、黒い瞳を持っている。こんな男が親族にいただろうかと思ってしまうのは癖だ。兄に迷惑を掛けぬように必死に親類も兄の手のついた女性も頭に叩き込んだつもりではいたが、彼のような男は見たことがない。
「すみません、勝手だと思ったんですが…服を替えさせてもらいました」
ひょこ、と片足を引きずりながら年下に見えるその青年が歩み寄ってくる。手には、己が着ていた服が綺麗に畳まれていた。
「ぇ、っと…」
兄のように振る舞わなければいけない、と思っても思考が回らない。
「ああ、近場の森で、貴方が倒れていたので、ええと、自分、が運びました。名前は、セルベル・エルデ、と言います」
聞いたことがない名前だ、と思いつつ、森に倒れていたというのが不思議だ。刺された場所は確か、王宮だったと思ったが、森、森とは何処だと思ってしまう。
「お…わ、私は」
「ああ、いいんです、名乗らなくても。思い出せないかもしれませんし、何か事情がおありで名乗れない場合もあるでしょうから、今はいいです」
「そ、そう、か」
随分と楽観的な事を云う青年だと思った。普通は名を名乗らせて素性を明らかにしておかないと後々厄介になるものだし、事情があるからこそ名乗らせるべきなのでは、と思考しつつも、青年が良い、というのなら無理に名乗ることはするまい、と思ってしまう。
「ここは軍の方も滅多に来ない町のはずれの宿屋ですし、暫く回復するまでは」
「ここ、は、どこ、何だ?」
「え?……ええと、ここはオルフェの街の」
「……聞いたことがない、すまない、その…」
記憶のどこを探しても、彼が言った名の地名が思い浮かばない。
「ああ、やはり記憶喪失か何かかもしれませんね、ベテルギウスさんのいう通りかも」
「ベテルギウス…?」
「うちは宿屋兼食事処なんですけど、ベテルギウスさん、というのは、うちに結構長く宿泊してらっしゃる方でして、彼女が運んでくださったんです」
「そ、うなのか……」
女性、が、自分のような男を運んだのか?と首をかしげたくなる。確かに目の前の青年は足が不自由そうだから己を運ぶのは一苦労なのだろう。しかし、それにしても、そこそこ鍛えていて上背も重さもそこそこある自分を女性が運んだのか。それが不思議でならない。
「すまない、なんだかその、混乱している……」
「ええ、構いません、暫くはここにお食事を運ぶのでゆっくりして下さい。着ていた物は洗っておいたので、ここに置いておきますね」
「あ、ああ、すまない」
丁寧な手つきでベッドの横にあった小さな机に衣類が置かれる。それを見ながら彼が言う街を何度も何度も思い出そうとしても記憶にない、ない、というか、知らないのだ。完全に。国外の国である可能性も少なくはないが、そうなると、彼の存在が不思議だ。シュトロムフトの家に連なる者で、我々王家と同じ黒い髪、黒の瞳の者がいるとなれば兄が放って置くはずがない。必ず傍に迎え入れて使おうとするはずだが、こちらを見ても彼が特に驚いたりする様子もない。そもそもシュトロムフト家の存在を母親から秘匿されていた、とするなら納得はするが、普通、であれば名を挙げて迎え入れてもらおうとするのが兄の周りにいる女性では大半で、あり得ない。
「(ああ、かんがえてもかんがえても、わからない)」
「急に考え込むと大変ですから、ゆっくりどうぞ」
「あ、ああ、ありがとう、セルベル、だったか」
「はい、何かあればベルを置いておきます。何度か鳴らしてください」
「ああ。その、すまない、迷惑を…」
「いいえ、お気になさらず」
にこりと笑って見せた青年に裏は感じられない。感じられないが、安易に信用はできない。誰も信じられない程に精神が摩耗しきっていることは自覚していたが、これほど良くしてくれる青年にまでか、と思いながら、胸元に下げていたネックレスはそのまま外さずにいてくれたらしいことに安堵したのは束の間で、つい、剣を探るように手を動かしてしまう。
「ああ、すいませんが、剣は一応自分が預かっています、その…、」
「………返してもらうことは出来ないんだろうか」
「すいません、ちょっと、今、色々情勢的にも立て込んでまして…、得体のしれない貴方が誰かに害を成すことはない、と示すためにもお返しは出来ません」
「得体が知れない方がまずくはないか」
「どこの何方である、というのは今はさほど重要ではないんです」
夜になったら使ってくださいと小さなランプを青年が机に置いてくれる。
「ここは街外れですが、国境から立ち寄りやすい位置でもあるので、」
「国家や国民に害を成す方法がないという方が良い、と」
「そうですね、…ベテルギウスさんの予測通りで安心しました」
「その、ベテルギウス、という女性の方は…」
「貴方の恰好や剣の装飾などから見るに身分は庶民ではないだろうと、推測していまして、それでええと、そうであれば教養がある方かもしれないので、ある程度話せば理解して下さるんじゃと」
「……そう、か」
「目を覚ましたことは伝えますので、じきに興味津々で来るとは思います、すいません」
「い、いや、いいんだ…」
それじゃあ、ごゆっくりどうぞ、そう告げてまた、足を少し引きずるようにして歩きながら、セルベルと名乗った青年がドアの向こうに消えていく。
ふ、と肩の力が抜け、改めて室内を見渡す余裕が出来た。扉は今しがた彼が使ったひとつのみ、隠し通路があるのかはわからない。ここは個室、のようで家具はひとつずつ配置されている。クローゼットと、ベッドサイドのテーブル、それとはべつに丸テーブルと椅子が一脚、全て木製。豪華な装飾はない。シーツの類も決して粗悪ではないが高価な肌触りというわけじゃあない。宿屋、の中ではそこそこ整った施設なんじゃないかと思う。
ただ、常に携えていた剣がないという事だけが心もとないものの、先ほどの話を聞くに、今は従っておくほうが良いのだろうと判断する。どうせ、此処が何処かもわからなければ、状況もわからない。国に戻ろうかという気持ちさえ、今はまだわかない。
「(あのまま、死んでしまえれば良かったろうか)」
もし、兄が探し始めていたら、あの青年にも迷惑をかけてしまうかもしれないと、背筋が冷えた。
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