手を繋ぐ日


「エルちゃんお話があります」

 リーゼロッテが腕を掴んで自分の前に仁王立ちするやいなやそう言い放つ。何か言う前に「こっちに来て」と、手首を掴まれ移動した先は彼女が自室として使用している場所で、中に入るとありあわせのもので彼女なりに飾り付けたらしい可愛らしいフリルのクッションやレースのあしらわれたひざ掛けが椅子に綺麗に畳まれてかけられているのが目に付く。つい、女の子の部屋だ、と思ってしまうほどにリーゼロッテという女性は自分にとって理想とする女性像だった。可愛らしくて、たおやかで…強さも兼ね備えるそれだ。

「話とは」
「エルちゃんとダーリン君の事です」
「ダ…」

 まずは座って、と言われるままベッドに腰かけるよう促され、黙って腰を下ろすと彼女が左隣に座る。

「ちゃんと気持ちを伝えなきゃダメじゃない」

 何を根拠に開口一番それなのだと言えるほど自分が、ノニン・シュトロムフトという男に対して何もしていない自覚は十分すぎるほどある。ぐ、と反論することが出来ず口を噛みしめるとリーゼロッテは、もう、とまた腕を組む。少しとがらせた唇はぽってりとしていて気を使って手入れをしているのだろう、艶々としている。

「……しょうがないだろ、男と付き合った事なんかない…んだから……」
「教えてあげるし、協力するから!」
「そういうのを求められたこともないから、別に」
「言わないだけなのー!」

 男心なのよ、と言われてもいまいちピンとこない。ノニン・シュトロムフトは言葉を多く告げないし、かといって女性らしさをこちらに求めることもなかった。好きという言葉を告げられたのは片手で足りる程度だったし、好きだと言ってほしいと請われた記憶がない。ある意味それは気が楽で、友人関係だった時と変わらずこのままでいいと暗に言われている気がして変に気を張ることがなく安堵もしたし、求められないならそれをすることはないと思っていたので男心で求めてこないことと、だから好きというべき、というのがなんとも結びつかない。

「言えと言われれば私だとて言う、そのくらい…善処して…」
「そうじゃなくて、ダーリン君はエルちゃんに自発的に好きだって言われる方がいいから言わないの」
「……いや、それは」
「言っておきますけどね、エデルガルド」
「はい」

 ぴしゃりと制すような言葉の音に姿勢を正す。軍属の関係で言えば自分より先に入隊した彼女の方が年数として先輩で、序列ある厳しい世界に身をおいている自分としては言葉使いひとつで無意識に体が反応する。

「貴女だって好きだから、…ううん、嫌いじゃないからお付き合いしてください、を受け入れたんでしょ」
「……まあ、そうだが」
「お付き合いをはじめて随分立つけど、どうなの?」
「どう…とは」
「異性としてちゃんと好きだなって思えてきたの?」

 リーゼロッテの言葉はこちらの心情を何もかもわかっているかのようなものだった。男女の恋愛の何もかもを知らない自分が、嫌いではない、から受け入れたことも見抜いたようなそれだし、実際、告白を受けたときは好きだという実感はなくて頭が真っ白になっただけだった。自分を、女性として慕ってくれる男性が現れるだなんて思ってもいなかったから、何も考えきれず、しかし相手が冷やかしでいったわけではないことは十分伝わってきて、だから、首を縦に振って承諾した。正直、異性としてノニン・シュトロムフトという男が好きかどうか、なんてきちんと深く考える思考はまだなかった。
 リーゼロッテにそんなことは言った事がないと思うが、彼女自身、男性と籍を入れ、家庭を持っていた身だし、恋愛事も多く経験をしてきたのだろうからそう、推測されたのだろう。だから異性として好きかと今聞くのだろう。
 異性として好いているかと聞かれれば、恥ずかしいが、好きだ。自分の性格もあるからだろうが、ノニン・シュトロムフトは控えめに陰から人を支えることが得意な性分のようで、特別主張することはなかったし、相手を急かすこともない男だ。恋人という関係に変わってからも、あの男から何かを急かされた記憶はない。こちらが運搬をしていれば物を持とうか、とか、普通に今まで自分が何とも思わないままやってきた作業も、女性にさせるのは自分が申し訳ないから変わると言ったりだとか。
 女性、とあの男に言われるたびに僅かなくすぐったさを感じた。明確に女性と言わないときでさえ「貴女は女性だ」と暗にあの男に言われている気がして、優しくされて、ときめく自分は確かにいたが、そんな己は認められないと叫ぶ自分もいる。

 それでも、好き、なのは確かで、この感情を、嘘にはできない。捨てることが出来ない。

「す、好き、だ」
「うんうん」

 落ち着かない気持ちのまま、リーゼロッテにそう言葉にするだけで羞恥心で頭がどうにかなりそうになる。自分の口から恋だの愛だの好きだのなんだという言葉がでるのがむず痒い。それでもリーゼロッテは茶化すこともしないでにこにこと笑って聞く。それがまた恥ずかしくて眉間に皺がよるのを、彼女の、なんどもなんども盾を構え続け、グリップで擦り切れては再生を繰り返したせいで分厚くなったのだろう指先がちょんと押す。

「それを言えばいいのよ、うーんでも、エルちゃんには難しそうだから、まずは行動からでもいいのよ」
「行動と言われても」
「にこっとするとか」

 にこりと微笑む、と言われればギーゼラが真っ先に浮かぶ。彼女は掴みどころがなくいまいち信用しかねるのだが、微笑みといわれるとあの薄く柔らかいものが浮かぶほどには彼女は常に笑顔を湛えている。

「無理だ」
「んもうー」
「微笑んだりにこりと笑う、ようなのは、私には合わない」
「喜ぶと思うんだけどなぁ、私がダーリン君だったら嬉しいけど」
「あの男はそういう、………沢山、女性と付き合ってきた経験があるのだろうし、今更何とも思わないだろ」
「やぁだあ!好きな人の笑顔は特別可愛く思うじゃない!」
「そんなことないだろ」

 ふうーと軽やかなため息が聞こえる。リーゼロッテとはセルベルの宿で会うようになってから会話をすることが増えた別部隊のものだったが、元々そうやって気を回すのがうまいのかなんなのか、「深く問い詰める」ということはせず、ある程度で話を切ってくれるような女性だ。発言は柔らかで、笑い方も酷く可愛らしいし、とろりとした目も、ぽってりした唇も、整えられている爪も、服装も、可愛くて、性格もおっとりとしていて、本当に「素敵な女性」だと思う。
 眩しくて、きらきらして見えるそんな人が自分のような男に混ざって、男のように振る舞う自分と友人でいてくれることに、申し訳なくなるときもある。

「じゃあ手を繋ぐとかは?」
「手…手か……」
「そういうのからでもいいのよ?」

 それなら、出来るかもしれない、と頷くと、じゃあ頑張ってきてね、と送り出された。

 目的の時間になるまではいつも通りのスケジュールをこなし、いざ時間になって、行こうと思うと足がすくむ。手の繋ぎ方をどうするべきなのか考えてしまう。もしかしたらノニン・シュトロムフトは嫌だと言うかもしれない。誰がこんな女と手を繋ぎたいと思うのだろうと後ろ向きになりそうになるのを、必死に奮い立たせる。嫌われたらそれまでで、それで、いいだろうと割り切る。割り切ってやるしかない。

「遅くなったな」
「いや」

 地面を見ていた顔があがってこちらを向く。続けられた言葉はひそやかで小さい。この男はいつも声が大人しい。

「それほど待っていないから」

 少しだけ微笑む男は壁に背を預け、いつものように私にその場所を開く。この男は笑うと、申し訳ないような笑顔を浮かべる。
 いつも私が右隣に立つので、気が付けば自然と、彼はそうするようになった。話がしたい、少しの間だけでも二人で居たいと言った彼の願いを受け入れてこうして、約束を交わして三十分だけのなにがあるわけでもない二人の時間を過ごす中で無言で決まった流れのようだった。
 いつもなら右隣に行く。それがいつも、だから。でも今日は手を繋いでみる、のだ。片腕しかない私は彼の左隣に行くしかない。

 たった数歩。たったの数歩。

 踏み込めばすぐの距離が酷く遠く、そこだけ重い何かがあるように足が動かない。それでもここで臆するのは「エデルガルド・レスライン」として相応しくない。私はいつも堂々としていなくてはならない。胸を張り前をむいて、剣と銃を振りかざし、敵を薙ぎ倒し、上に立つものでなくてはいけない。

「今日、は」
「ここでいい」

 きちんと声を張れたか不安だが、いつも通りを装わなくてはいけない。彼の思い描くだろう「エデルガルド」という人物をわずかでも保持し続けなくてはいけない。
 拳に力を籠める。勢い良く掴むべきだろうか。それとも触れるだけにするべきだろうか。そもそも異性と手など繋いだ思い出は、あるにはあるがそれは戦場で部下の手を掴んで引いたくらいなものでつないだ、にはなりえない。優しく触れあう、という女性らしい振る舞いをしたことがない。

 昔読んだ物語は、どうだったか、思い出す。思い出しながら、情けないがそろそろと手を近づけ、触れる。ここから、ここからどうするか、だ。幸い、ノニン・シュトロムフトが手を振り払うことはなく安堵する。

 物語のお姫様は柔らかい手で触れる。
 私の手は柔らかくない。傷だらけで、剣を握ってきて、銃を手に取り、多くの命を葬った。

 手の甲に触れてから、それから手を繋ぐ、繋ぐ、繋げるだろうか。

 
 まだ拒絶されない。


 物語に出ていた女性は、細くてしなやかな指で、男性の手を取る。
私の手はそんなんじゃない。なりえない。ごつごつしているし、切り傷もおおい。するりと絡めていけるような、女性らしい手をしてない。辛うじて、つめの形は好きで、手入れは少しするが、恐らく、彼が触れ合ってきただろう、好きあっただろう女性とはかけ離れていると想像に容易い。
 この男は王族なのだ。煌めく宝石と、美しいドレスと、香水の甘やかな香りがする可愛らしく愛されるような女性を多く見てきただろうし、高貴な身分でありながら一切異性関係を持った事がないというのは、それは、空想のなかだけのことだ。大概あの手この手、の手ほどきは男性であるなら恐らく受けているものだろうし、品があって、美しい女性が周りにいて、だから、私が、こんな私が、彼と、手を、繋ぐことは、こわい。怖いが、やるしかない。言葉にできないなら行動せよとリーゼロッテもいった。

 初めて触れた指は、当たり前だが、明確に男性なのだと思わされる指で、私はどれほど努力しても男になることが出来ないのだと痛感する。かといって、女性らしく振る舞うことも出来ない半端者だとつくづく思いしる。今までそんなものは気にしたことがなかった、というより必要ないと思っていたのに、こんな気持ちが浮かぶのは、いや、今はやめよう。

 ぎゅ、と力を込められて反射的に握り返してしまう。

 彼は多くを語らないが、せめて、こんな時ばかりは何かせめて言葉をかけてくれと思ってしまう。相変わらず彼は無言で、良いのか、悪いのかもわからない。
 僅かに手が動いて、ああ、やはり嫌だったのだと腕の力に従うがまま自分の傍へ寄せようとした手を再び握られる。呼吸の仕方を忘れるという一文を思い出しながら、右手に集中してしまう。大きな手がそろりと動いて、手首を撫でた気がする。それから、指と指の間に、彼の指がゆるりと絡んでくる。力も籠められないまま、とんでもない羞恥に襲われて目を閉じる。


 酷くいけないことをしているような気分だ。本当は、いや、そもそも、私のような女が彼と付き合うということだけで酷く後ろめたいのに、こんなに恋人のような真似を彼として、罰が当たるのではないかとさえ思う。
 なにより、罪悪感より勝る勢いで、酷く嬉しくて、これを、どうにかしないといけないと必死になってしまう。女性らしく振る舞うのは今更自分に似合わない。きっと赤くなっている顔をなんとか落ち着かせようと考えこむ。作戦を練れば多少は気がまぎれると思って思考を手繰り寄せても、考えた傍から、額の真ん中に穴が開いて、零れて落ちていくようでまるで機能してくれない。

 ふわりと彼のつけているらしい香水の香りがしたのと、目じりに熱と柔らかさを感じて反射的にのけぞる。目があった彼は何とも言えない顔をして、眉を下げてすまないとだけいった。

「う、うれ、しくて……ほ、本当に、嬉しくて……だ、だから…」

 口づけられた、と頭がやっと理解したころに、震えがくる。どうして、なんで、自分に今、と聞きたいのに、言葉が出ない。

「かわいいと思って、レスライン殿、が」
「は…?」

 つい零れた言葉に、彼の唇が一度だけきつく結ばれ、再び開く。何かをいったとおもうよりさきに、親指の腹で手の甲を撫でられて、肩が跳ねる。

「すごく、かわいい、ほんとうに」



 可愛い、かわいい?私がか?私が可愛い?

 何を言うんだ、こいつはと、思考の中にヘラでもツッコまれて滅茶苦茶にかき混ぜられた気になる。



「かわいい、というのは、もっと、わ、若い娘にいうもので、」
「可愛らしい…から、レスライン殿は、その、あ、お、俺にとっては、誰より、可愛い、から」
「かわいく、なんか」
「好きなんだ」

 否定をし続けたところでかぶせられるように告げられた言葉は、真摯だ。これ以上彼が、「可愛い」のだといってくれるのを否定するのは、きっと、まずい、んだろうとなんとなく思う。

「ぅ、ん」
「わ、わかっていただけている、なら、良かった」

 受け止めることで、何が変わるわけじゃない。魔法がかかってお姫様になるわけじゃない。可愛らしい女性へ劇的に変化するわけじゃない。それでもこの男はいつも必死だった。真摯に言葉をくれた。私がどれほど睨みつけても困ったように笑って「すまない」とだけいう。

「じ、時間、大丈夫だろうか、」
「しるか、そんなもの、」
「ぁ、そ、うか」

 このやりとりも、たまに彼から向けられる決まった文言だ。彼が時間を訪ね私は計測していた時間を答えるだけ、の、会話。会話にさえならないかもしれない質問と報告。事務的なものを出ないが、内側に彼なりの気持ちがあるのだろうとは感じていた。
 今、これに答えることが出来ない。

「わたしだって、ッひっしで、…時間なんてわかるか、」

 正直時間なんて計る頭が用意できていない。何時にここにきたかさえ確認を取っていないし、酷く長い時間いるような錯覚になっている。きっと、左腕があったら、私は今顔を隠していたと思う。それくらい見られたくない酷い顔をしている自覚がある。

「す、すまない、」

 またこの男は謝る。すぐ、謝罪を述べる。

「……怒ってるわけじゃ、ない、」

 恥ずかしいだけだ、と、口が裂けても言えない。言えるわけがない。そんな柄じゃないが、顔に出ているのだろうと考えてしまうと今すぐ左腕が生えてこないかと思ってしまう。ないのに、隠そうと肩を動かしてしまう。

「その、う、嬉しい、手が、つなげて…ええと、あ、有難う。あの、ま、また、手を、繋いでも、いい、んだろうか、え、と」
「いちいちっ…」
「す、すまない、その」
「こ、恋人なのに、手を繋ぐ、だけで、きょ、許可を、とるな」
「ぁ、ああ、そ、そうだな。……そ、そう、だな、うん、すまない」

 ノニン・シュトロムフト、という男がいったいどんな生い立ちなのか詳しく聞いたことはない。ただ、周囲から得た情報の限りによれば、兄の影武者として生活していたようだ、ということくらいしかわからない。謝罪が多いのは、そういう理由もあってなのだろうかと思ってしまう。許可を常にとるのも、そうして育ってきたからだろうかと、あくまでこれは推測の域を出ない。
 夜、魘されていたのを知っている。たまたま遅くに通りかかっただけ、だったが、酷く魘されていて、勝手に部屋に入った事がある。ベッドで、小さく丸くなり、シーツを手繰り寄せて青い顔をする男がどれだけの心的苦痛を生涯で追ってきたのか少しだけ見えたような気もした。それでもそこを掘り下げて聞くのは辛いことを思い出させるようで出来るわけもなく、ただ、目を開け、私を見て微笑んだ彼を護ってやろうと、思った。護るからには私は依然として強くなければいけないし、弱い部分を晒してもいけない。
 だから、動揺と困惑に苛まれながら震える体をとめて、まっすぐ立たなくてはいけないのに出来ずにいる。この男に謝らせたいわけじゃない。この男に俯かせたいわけでもないのに、私の行動は全てそうさせてしまうようで、うまくいかない。
 優しい言葉一つかけてやることもできない。私はこの男が望む女性になんか、

「うれしい」

 考え事を遮るように発せられた言葉に、なにか、ほとり、とはがれ落ちたような気がした。そんな気持ちにさせる声だった。全ての思考が、どうでもよくなるような、そんな声だ。

「よか、った」

 私如きでも、そう、感じてもらえるのか、と安堵さえした。私の言葉でも、この男は、嬉しいと思ってくれるらしい。感じてくれるらしい。

「…、すき、だ、わたし、も、うれし、い」

 そうであれば、言葉にしても、良いのかもしれない、と少し思う。自然と零れてしまった言葉に羞恥心を覚える事はなかった。不思議と、素直に零れ落ちる。後ろめたい気持ちは、何もなかった。

「っ、ぁ、あぁ…」

 本当にうれしそうな声をした。初めて聞いたかもしれないその音に、安心さえする。いつも私は謝罪させてばかりだったから、そう、その声を聞いて初めて、良かった、と思った。本当にこの男は、こんな私でも、良いのかもしれない、と心の奥の深い、とうに捨てたと思っていた部分から、初めて思えた。
 そろりと指が絡められる。じわじわと指先から羞恥心がせりあがってくるような気がする。なんどか指先に力が籠められ、遊ぶようにしながら、優しく握られることが本当に恥ずかしい。

「もう少しだけ、このままがいい」

 酷く近く、頭上から落とされた声に、初めて距離が更に近くなっていたことに気が付く。顔を上げたそこには、零れそうなほど優しい笑みを浮かべた男がいる。取り繕う暇もなく、動揺した顔を見せてしまった気がする。

「そう、…だな……」

 彼の嬉しそうな、優しい笑顔を見ると、今だけは、普段の自分は、やめようと、そんな風に思えた。
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