手を繋ぐ日


 陽が落ちかけて、作業がひと段落した後の三十分。

 それが恋人であるエデルガルド・レスラインと取り交わした二人きり、の時間だった。たった三十分だが、それでもあの厳しい彼女が時間を割いて何をするでもなし、ただ会話を少し交えて、じっと二人きりでいる時間をとってくれるだけでもありがたかった。
 これといって進展はない。付き合っているということにはなっていても、作業時間や会議もあって彼女と何かあるわけじゃない。がっつくような盛りの年齢でもないので、良いと言えばいいのだが、どこまですすんだの、と、彼女の友人であるリーゼロッテ・ロージエに問われたとき曖昧に笑ったことで悟られたのか、「エルちゃんってば」と、何故かそう呟いていた。
 自分としては、別に気にならないと言えれば格好がつくだろうがもう少しだけ先に進みたいと思う気持ちがないわけじゃない。だがそれは彼女は良しとしないだろうというのは彼女の普段の行動や態度から受け取った結果で、自己判断だ。本当に彼女が好きだからこそ、彼女の意思を尊重したい。自分の意見など些細なことで、彼女がこれ以上はダメだと線を引き続ける限りは、何もせずにいようとそう決めていた。

「遅くなったな」

 聞き心地のいい低めの音が耳に届く。俯いていた顔を上げ、いや、と呟く。自分と彼女が恋仲にあるのは皆殆ど把握しているから別にそうしなくてもいいのに、つい声をひそかにしてしまう。いけない事でも何でもないのだが、会う場所も物陰というより普段あまり人が来ない外壁の、隅の隅、だから、気持ち的にこそこそとしてしまう。
 いつも彼女は自分の右手側に立つ。左の腕が肩からそっくりないぶん、何かあっても右で反応できるようにだろうし、小型の拳銃がいつもベルト、右後方にショルダーに入れられている。左側の対処は、ある意味任されているのかもという嬉しさがあるので、、その立ち位置は好きだった。だからいつも彼女が右側へこれるようにと壁にもたれて、前を通れるようにしていることも好きだった。目の前を通る彼女の顔をみるのも、少しだけ香る彼女自身の香りも好きだ。彼女には、言ったことはないが。
 もはや暗黙の立ち位置になっていたし、そうして自分が彼女のスペースをとることも当たり前になってしまったのさえ嬉しいと思うのだから自分は安上がりな男かもしれないと苦笑しそうになる。

「それほど、待っていないから」
「そうか」

 壁にもたれかかって彼女が通れるように(別にそうしなくても十分通れるスペースはあるのだけれど合図になってしまっている)前をあける。

「…?」

 普段ならこの動作を見て目の前を通る彼女が動かない。少し俯きがちで、しかし視線は一点を見つめている。どうか、いや、気分でも優れないのだろうかと声をかけようとしたところで彼女の足が一歩前に進む。それから、二歩、三歩と歩を進め、止まった場所は、左隣だった。

(あ、れ…)

 彼女はあまり喋ることをしないし、自分もお喋りが特段得意だというわけではないので、沈黙することは多い。だから、どうかしたのかと、たったこれだけの言葉も出せない。沈黙が美徳だ、とは思わないが、彼女といるとつい緊張して口が重くなる。どんな話を好むのか、どんな言葉使いなら不快にさせないだろうか、とか考えるのもあるが、恥ずかしい話、好きな女性と時間を過ごすことが長らくなかったから、嬉しさと緊張でうまく口が動かないのもあった。
 おろおろとした態度をしていても彼女が苦言をいうことは、この時間中はない。普段の時間だと誰頭常にいるので、彼女は彼女らしく、人に注意を述べたり規律に従って意見をするし、おどおどするなとよく言われる。
 彼女なりのけじめなのだろうと思うと納得だし、こうして二人きりの時は、言い方は稚拙だが甘やかされているような気にもなるので、鋭く言葉を重ねない彼女を愛しく思ったりもするのだ。


「今日、は」
「ここでいい」

 言葉には覇気が無い。きびきびとした受け答えは彼女の特徴でもあるし、この時間帯でもそれは変わらない事だったが、あまりにも力のない言葉にやはり気分でも悪いのかもしれないと思う。今日は早めに切り上げて、休んでもらおう、ときめたところで、左手の甲に、ちょん、と何かが触れる。

 彼女の右手の甲が触れていると脳が理解するのは少し時間がかかった。
 理解した瞬間一気に心拍数があがる。一挙一動迷いなく動く彼女が、戸惑いがちに、僅かに触れてきたという動作に煽られる。彼女の方を見る事も出来ないで、かといって動く事も戸惑われる。何か自分が行動したらこの触れている手の甲が離れていくのでは、と思うと情けないのだが何もできない。
 ただ上がっていく体温と熱くなる顔をどうにかしようと必死になる。

 そろりと彼女の手が動く。
 迷うようにすり、と手の甲を甲で撫でるように動いてから、熱が離れる。離れた寂しさにまた俯きだした顔をあげようとしたところで彼女の人差し指の背が、そろそろと自分の小指の付け根にふれて、迷ったような、控えめな動作で、掌側に滑り込む。そのまま彼女の人差し指と中指とが、自分の小指と薬指にひっかけられて、咄嗟に力が入ってしまう。しまった、と思ったが、振り払われることはなく、彼女の方からも僅かに力が籠められる。
 煩い心臓の音しか耳に届かない。風が吹いているのに木々の葉がこすれる音も何も聞き取れず、この喧しい心臓の音が彼女に聞こえてはいないかと馬鹿なことを考えるほどに頭の中は単純な思考回路になり果てている。
 頭の中でぐるぐると回っていた熱が徐々に下に降りてくる。不味いと思いながら彼女に気取られないよう右手を強く握りしめて熱をそちらに集中させようとする。痛いほど胸が鳴っていて、キンと音が遠のく程に意識が世界から切り離されていく。触れている手の熱だけが異常で、生々しい。離れていく気配がないその熱をもっと捉えたい欲が出てしまう。
 少しだけ手を動かすと、するりと彼女の手は落ちていく。また視線だけで咎められるかもしれないと思いつつも、落ちていくその手を掬う。びく、と震えた手をそのまま、握って、確かめるように皮膚をなぞりながら指を絡めても彼女から拒絶の言葉がないことに胸が高揚してしまう。
 ぐう、と喉の奥で変な音が出そうになるほど、言いようがないほどの緊張と歓喜が襲う。素直にうれしかった。嬉しかったし、彼女の、恐る恐る確かめるように動いた手に、動作に興奮もした男の自分も自覚する。

 横目で、前髪の隙間から彼女を覗き見る。彼女は、髪が短い。加えて髪を後方へ撫でつけているから、横顔が良く見える。長く垂れた髪のカーテンの向こうでどんな顔をしているのか怯える必要が、彼女に限って言えばない。



 耳まで赤くした彼女がそこにいる。
 いつもまっすぐ前を見据える瞳が瞼できつく閉ざされていて、唇は引き結ばれている。ふ、と無意識に口から熱を吐き出し、握った手をそのままに、ほとんど衝動的に、水が容器からあふれて零れるような、そんな抱えきれない感情のまま目じりに口づけを落としてしまう。

「ぅ」

 手は離れることがなかったが思い切り顔の距離を取りながら、小さく声を漏らした彼女にぞくりと背中にまずいものが駆け上がって、降りていくのを自覚する。

「す、すまない」

じとりと手に汗をかいてしまった気がする。

「う、うれ、しくて、」

 喉に声が張り付くような錯覚を覚える。

「ほ、本当に、嬉しくて」

 眦が下がったまま、困ったように、顔を紅潮させ目を見開く彼女を抱きしめたいと思ってしまう。腕の中に閉じ込めて、好きだと何度も言いたい。でもそれは、彼女は困る事かもしれない。出来ない。してはいけない。

「だ、だから、ぁ…」

 可愛らしい、も、好きだ、も、愛しい、も、彼女は好まないかもしれないと思いながら言葉にしないと熱が溜まる一方であることに危機感も覚える。片腕しかない彼女を獣の衝動のまま組み敷くのは容易いと思考してしまうのがまずいから、言うしかない。言葉として吐き出すことで誤魔化しではあっても自分自身を騙して熱を緩和する程度にはなるはずだと、言い聞かせる。

「かわ、い、いと、思って、レスライン殿、が、」
「は…?」

 鋭さのかけらもない言葉だった。
 侮辱やこちらの言葉を嘲る音でもない。純粋に口から零れたような音と、いつかみた、きょとりと目を開いた、少女のような顔をした彼女がいる。ぎゅ、と自分の唇を噛んで溢れそうなものを抑え込んで殺す。

「可愛い」

 親指で手の甲をなでる。

「す、すごく、可愛い、ほんとに」

 彼女はいつも凛々しいから、こんな言葉を向けるのは侮辱ととられるかもしれないと思いながら、わかってほしくて言葉を重ねる。
 本当はもう少し言葉を重ねたいが、軽々しいと思われたくないし、口先ばかりと思われるのも嫌だ。

「か、かわい、というのは、」

 いつも張った弓の糸のようにピンとした音をのせる彼女の声は、震えていて、いつもより酷く小さい。

「もっと、わ、若い娘にいうもので、わ、わたし、」
「可愛らしい…から、レスライン殿は、その、あ、お、俺にとっては、誰より、可愛い、から」
「は………」

 惚れた弱みだとか、盲目だと言われたらそうかもしれないというほどに、彼女と可愛いという単語は結びつきがたいだろう。凛々しくて背がいつもまっすぐ伸びていて、恐れずに前進する姿は見ていて眩しいし、頼もしい。
 でも、今は、酷く愛しい。そろりと触れてきてくれた指先も、鋭さを失っている表情も、戦慄く唇も全部、好きで、愛しい。

「か、かわいくなんか、」

 震えて小さく開閉を繰り返す唇を塞いでしまいたい衝動にさえ駆られる。良くない、と律してなんとか自分を保っている。いつも彼女を目でおいかけて、好きだと思っていたが、今日は、可愛いという感情も乗ってきて正直自分でも持て余すほど胸が震えてしまっている。彼女が触れてきたことが嬉しくて、許されたものが一つ増えたようでたまらない気持ちになる。今の弱弱しく項垂れて、首まで赤くなる彼女も、震える手も、全部が可愛い。

「好き、なんだ」

 今日はしゃべりすぎなのではと言うくらい言葉を零している気がする。言わずにいられない程感情を整理できずにぐちゃぐちゃとしたまま言葉を口に出してしまうことは、今後の課題かもしれない(彼女から何か許されるたびにこの調子だとまずい気がする)。

「ぅ、ん」

 小さく首が縦に振られるのと、幼いその応答にまた頭がぐらぐらする。

「わ、わかっていただけている、なら、良かった」

 これ以上はダメだと判断してそろりと手を離す。名残惜しいと思いながら指先が離れる瞬間まで意識しすぎてしまう。つるりと離れていったあとは風が掌を撫でていって、余分な熱を攫っていく気がして安堵する。

「じ、時間、大丈夫だろうか、」

 沈黙を続けるのが気まずいと思ったのは恋仲になって初めてだった。無言の間を縫うように言葉をとつりと零すと、俯いていた彼女の頭が少しだけ持ち上がる。

「しるか、そんなもの、」
「ぁ、そ、うか」

 あと五分だ、といつも時間をきっちり計っている彼女から返ってきたその言葉に、きちんと地に足がついてるか不安になるほど衝撃を受けてしまう。

「わたしだって、ッひっしで、…時間なんてわかるか、」

 声に出さないで頭の中で叫びたい気持だった。もしくは許されるなら今すぐ自分の頭を壁にたたきつけたい。それでせりあがってくるどろりとしたものすべてを綺麗に流しだしてしまってから、彼女を優しく抱きしめたいのに、出来ない。

「す、すまない、」
「……怒ってるわけじゃ、ない、」
「その、う、嬉しい、手が、つなげて…ええと、あ、有難う。あの、ま、また、手を、繋いでも、いい、んだろうか、え、と」
「いちいちっ…」

 少しばかり強い語気に肩を揺らしてしまう。今回だけだったとしたら調子に乗ってしまったかもしれない。

「す、すまない、その」
「こ、恋人なのに、手を繋ぐ、だけで、きょ、許可を、とるな」
「ぁ、ああ、そ、そうだな」

 変に上ずってしまったが時間を巻き戻すことは出来ない。落ち着く気配のない心臓を抑えれるものなら両手でつかんで押しこめてしまいたい。

 今日の彼女はどうしたのだろうと考えてしまう。

 時折見せる、可愛らしいような仕草や表情をちらりとみることはあったが、それは彼女の中にある僅かな女性らしさを自分が良いように汲み取っているだけかもしれないと思うところはあった。
 普段は厳しくて、凛々しくて、ともすれば自分よりはるかに決断力も判断力も行動力もあって男性のように、男性の中にまじって負けずに振る舞ってきた女性そのもの、という印象が強かった。
 もともと女性優位の世界で、戦う女性は多くいたにしても、流行のアクセサリーを身に着けていたり、可愛らしい装飾を好んだりする人は少なくない。髪も長く伸ばし、手入れをして美しく強くある女性を多く目にしてきた。レスライン殿はそういうタイプではなく、どちらか、といえば、海の向こうの小国のフリティーラ公などに近い気がする。かの王とは戦場でまみえたことがあるが、紫色の髪を短く切りあげ、雄々しく剣を突き上げて指揮をとるような女王だという印象が強い。着飾る事をしないような、そういう人だとおもっている。
 だからこそ今日の、たどたどしく指を探る動きだとか、迷いながらこちらを掴もうとする所作に驚いたし、本当に、嬉しかったし、なにより、ああ、どう言葉にすればいいのかわからない。

「そ、そう、だな、うん、すまない」

 例えるべき言葉を探しきれないまま項垂れる。呆れられても仕方ないくらいの愚問だった。それでも許可を取らずにいられないのは、大事だからだ。初めて兄と言う恐怖のない中で、素直に彼女の手を、取ろうと、握ろうとしているからなおさら慎重になってしまう。彼女は裏切るような人じゃない筈だ、今までと状況だって環境だって違うから大丈夫だと自分に言い聞かせてもなお言いしれない不安に襲われ続ける。でも、これは今云うのは、いいわけだ。

 女性に言わせるべきでなかった。手を繋いでもいいと、女性に承諾させるのは。必死だといった彼女を思い返しながらちらりと顔を伺う。何度もせわしなく瞬きをしたかと思えばぎゅ、と強く目を閉じて深呼吸を繰り返す姿は、虚偽ではない。

「うれしい」

 何度零したかしれない言葉をもう一度だけ彼女に向ける。

「よか、った」

 零れ落ちるような優しい声を拾う。

「…、すき、だ、わたし、も、うれし、い」
「っ、ぁ、あぁ…」

 どのような意味かと問うのは、この場にそぐわない。今は、自分に都合のいい取り方をしていようと思うと、一度引き下がったようにおもった熱が腹の奥から喉にせりあがるような、ぐるぐるとした炎を感じて、そっと呼吸を吐き出す。

 酷く、甘くて、頭の中がぐずりと溶けだしそうな逢瀬だと思いながら、そっとまた彼女の指に指を絡めた。
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