幸せの青いことり

 人生を歩むに従って、避けられないものはいくつかある。迎えるべきイベントごとも、いくつかある。誕生日だとか結婚するだとか、そういうものじゃなく、だ。
 例えば成長痛、例えば声変わり、例えば精通や初潮、肉体の変化のエトセトラ。避けられないから、そうなってしまうのだから困ることだってある。


「ぁ…」

 がらり、と声が壊れたみたいな音を出し始めたことに気が付いたのはとことこ歩いているシリウスを見ていた時だった。最近このチビはお喋りを覚えて拙いながら話しかけてくる。それに返事をしていた。そこで、気が付いてしまった自分の変声期の訪れに、ぶわりと冷や汗がでた。
 栄養不足とホルモン注射の打たれ過ぎで幼さが随分残った身体は、ホライゾンと暮らすようになってからまともな食事と生活リズムによってまっとうに成長を始めていた。未成熟な幼体から成体へ変わるがごとく、じわじわと変化を始めてきた身体がまず真っ先に変化をしめしたのは声だ。

「(やばい)」

 本来ならそんなことは思わなくていいんだろうが、脳裏にホライゾンの笑顔がよぎる。小さい子が好きだ、といって浮かべていた笑顔。あの男の事なので下心は一切ない発言だったが、小さい子が好き、といった彼の意図にそぐわなくなりつつある身体の変化が恐ろしい。声が変わるという事は、一種の脱皮に近く、もう二度と子供独特の高い声が出ないかもしれない。
 すっかり変声期が落ち着いて声が変化をしたとき、君の声は可愛いね、と笑っていたホライゾンが冷たい目を向けるのではないかと思ってしまう。それは恐ろしいことだ。受け入れてくれた相手にこんな事で、捨てられる、自分の言動一つで相手を冷めさせ、必要とされなくなる経験は痛いほどしている。敢えてそういう行動をして嫌われるように行動することも、出来ると言えば出来るのだがホライゾンに関していうなら「嫌われたくない」という感情が真っ先に飛んでくる。
 今すぐにでも許されるなら男性性が競り勝ってきたホルモンバランスをフラットにならす為、薬の一つでも注射するか錠剤の一つでも飲み込みたいが、ホライゾンはそれを許さないだろう。そもそもここにそんなヤバイもんは医療に使う用途でしかない、と思う。
 あの日、ホライゾンの家に招かれた日。そんな薬はもう飲まなくていいと優しく諭しながら、肘の内側、うっ血が多く残っていた皮膚を優しく指の腹で何度も何度も撫でた男が、そんなものを飲めだなんて、飲んでもいい、打ってもいいだなんて言うはずがない。

 でもそうしたい、と思ってしまう。

 嫌われたくない、捨てられたくない。捨てられないにしても、憐れみだけがそこに残って、要らないとも出ていけとも宣言されず、ただただ真綿で首を絞め続けられるような生活を続けることになるかもしれないのが耐えがたい。折角、息継ぎが出来る場所が出来たと思ったのに。

「おにいちゃ、いたい?」
「あ、ああ、大丈夫」

 ずぶずぶと暗い思考にはまり込んでいたのを引き上げたのはシリウスの高い声。ファゼット、とまだきちんと呼べないこのチビは、ホライゾンにそう言われているからなのか「にーに」から、気が付けば「お兄ちゃん」とこちらを呼ぶようになっていた。変な呼び方を覚えるよりはましで安心する。頬に添えられぺたぺた触れてくる小さな手の動きはホライゾンの真似か?と思う。
 そういう遺伝子なのか知れないが、シリウスはどうも成長が基準より遅いらしく、かなりゆっくり育っている。かと思えば急に色々な事を吸収していくので興味深そうにあのギゴウという男は家に来るたびシリウスを観察している。

「いたいいたい?」
「大丈夫、痛くないよ」

 がらがらと揺れる音が耳障りだ。どうしよう、そればかり思ってしまう。身体的な成長は少しずつ、背が伸びてきていたのは自覚があるが、明確に「子供」の枠を出ようとするこの変化が怖い。精通は迎えたがそんなものよりよっぽど恐ろしい変化だ。
沈黙すれば隠し通せるだろうが、それは出来ない。ホライゾンは積極的に自分に話しかけてくるし、「シリウス君はいい子にしてたかな!?」と意気揚々に毎日飽きずに聞いてくる。会話をしないというのは回避不能、だ。

「ただいまー」

 控えめな足音を立てて近寄ってくる音が聞こえて、まるで処刑台に上がる心地になる。普段ホライゾンは足音を立てない。最早癖になっているらしいそれは家柄といっていたし、アサシンも出来て学者もこなすとかどんなだとツッコミを入れたことがある。それでもあえて音を鳴らすのは帰宅したという合図であったし、AIによって警備が厳重とはいえ子供二人置いていくホライゾンなりの気遣いの一種で。

「ぱぱー」
「うわーーーっ!!!!!パパだよーー!!!」

 ホライゾンがドアを開けて、シリウスがそう言うや否や。アサシンらしく音もなくすっ飛んできて俺事抱きしめる。これも日常茶飯事だ。華奢そうに見えるが筋肉がついている腕は子供二人くらい抱き上げるのは簡単らしいというか、もうすぐ、あと少しで10代後半の年齢を迎えそうな俺ごと抱き上げる筋力があるあたり決してもやしではないのだろうが見た目はやっぱりもやしだ。

「ああーーーシリウス君ーーー夕方のシリウス君も超かわいいよーーー!天使かな!ああっ、そうだった!!最早疑うまでもなく君は天使だったね!!」
「てんー?」

 やめろ、シリウスが変な言葉覚えたらどうすんだこのおっさんと言いたいが、発言しかねる。

「ファゼット君も可愛いよー!」

 声を出すのが怖い。小さく頷くが、きょときょとと瞬きするこの男が、ヘタレで頼りない男ではなく、わりと敏いということは一緒に暮らしていてよくよく理解している。いつもぽやんとしてるのにこういう時はぱっと気が付きやがると内心暗い気持ちになる。

「どうしたの、ファゼット君」
「おにいちゃん、いたいいたい」
「ひえっ!!!!??」

 もう一人、口がまともに聞けるようになった伏兵がいたと気が付いても遅い。畳みかけるようにどうしたの、どこが痛いの、と、まるで自分が痛みを背負っているような悲痛な表情で覗き込まれてはたまったもんじゃない。年上なのだが、あまりこの男を泣かせたくはない。

「痛くないから」

 壊れた音声機器みたいな音が出る。風邪だといって通してもこいつに心配をかけるし、自白するのはまるで、自分で自分の首を晒して切り落としてください、どうぞ、と言うような気持ちだ。斬首刑とかいうのがあったなと借りた本にあった事柄を思い出しながらため息を堪える。

「…え、っと…もしかして……声変わりかな?」
「そ、うだと、おもう、けど」

 そうか、といってやっと床に降ろしてくれたホライゾンは「ううん」と唸って口に手を当てている。いったいなんと宣告されてしまうのか恐ろしくて俯きがちな視界には、眠そうなシリウスがいるばかりで。
 ああ、いっそ、清々しく可愛げもなくなったから出ていけと言われた方が、気が楽で良いのに。

「吾輩お祝い事って感心がなくって…声変わりのときってどんなお祝いをするものなのかな???誰に聞けばいいのかな。ジャンルカ君…?ギゴウ君……?レイフ君のが知っているかな…」
「お、お祝い…?」
「そう!ファゼット君の成長お祝いしないと…!!」

 思い返せばこいつは、たしか、シリウスが初めて喋った時も、お祝いとかいってたし、よちよち歩きだしたときもお祝いとか言ってはしゃいでたが、シリウスにのみ適用されるものだとばかり思っていたので動揺してしまう。お祝い、をまさか自分に対してしてもらえるなんて、思ったためしがない。だからこの発言があまりにも現実味がない言葉に聞こえてしまって、変な顔して聞き返してしまったんだろうなと、思う暇もなく目の前の男はおろおろぱたぱた落ち着かない。
 なにやらぶつぶつと呟いている。何を食べるのかとかそもそも食事で祝うイベントなのか?とか、儀式の類なのか、とか資料が、とか声に出して思考を並べて整頓しているらしい。

「はあーー!!一人で考えても全然わからないからちょっとチャットで皆に聞いてくる!!!!」
「あ、え、お、おい」

 何でこういう時の行動は早いんだよ、と言う間もなく、ホライゾンは自室に向かったのだろうするすると風のように駆け抜けていってしまう。まあ、シリウスが眠りかけていたのでバタバタされるよりはいいのだが。マイナスばかり思考していたこっちは、取り残されて気が抜ける。

「おいわい」

 どくどくと心臓に血が巡りだしたような錯覚だ。つまりかけた思考がスムーズに流れだすような、そんな感覚を覚える。

「お祝いだってさ」

 眠たくて、ぐずぐずとこっちに頭をすりつけているシリウスの背を叩いてあやしながら、縁がなかった優しすぎる言葉、優しい音の並びを繰り返してしまう。

「はは、馬鹿みてえ」

 少しの間でも、あの男を疑った自分が、馬鹿だったのだ。
 あの男が、情が深いあのヘタレのしょうもない男が、自分で拾ったものをつまらない理由一つで切り捨てるなんて、するわけがなかったのだ。
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