Chapter1:Welcome to the White Garden

5 月と星


 遥か彼方へと澄み渡る大空に輝く星を、わたしたちが捕まえることはできない。
 彼らは燦々と天に浮かび、わたしたちは地に呼吸をするから。彼らの眩い煌めきは、わたしたちとは違う時を生きているから。
 けれども、きらきらと瞬く星屑たちは、いつだってわたしたちの心を奪うのだ。精霊のよう水中に舞う少女が、まさしくそうであるように。


 掴んでいたミラージェンの手首を離して、アリスは急足にエイプリルの元へと歩を進める。その弾みに姿勢を崩したミラージェンの体をわたしは支えた。
 アリスは予想外の事態に気が動転していたけれど、何とか伝えるべきことを端的に処理しようと、断じて間違えまいと、早口に述べていく。

「こ、この二人は赤の他人よ。エリィとは全く関係ない人たち。アナタに危害を加えたりしないわ。もしそんなことが起きたとしても、アタシが絶対に守ってあげる。だから、だから大丈……」

 発される言葉に誤りはない。けれどその声色は、眠たげに頭をかくかくと揺らすように頼りなかった。水槽のガラス面に伸ばされるアリスの手が、三日月の昂る瞳が、小刻みに震えている。それでもアリスは、声を途切らせようとはしない。
 そんな彼女を、エイプリルはじっと見つめていた。初めは不思議そうに、目をぱちぱちと瞬かせていたけれど、次第に彼女の表情は憂色に包まれていく。
 そっと、アリスの心に触れるように、エイプリルは細長くしなやかな手をガラスに乗せた。「大丈夫?」そう問いかけるみたいに、彼女は柔らかな眉を下げる。

「……!」

 はっと、水面から顔を出すように、アリスは息を取り戻す。ぐらついて乱れていた眼球に、エイプリルの姿が鮮明に映ったようだった。アリスは透明な壁越しに、エイプリルの手と自分の手を重ねる。

「……ごめんなさい。せっかくアナタが起きてくれたのに、アタシったら」

 ハート型のアホ毛がしょんぼりと下がる。小さく縮み込むアリスからは、反省よりももっと濃いような、罪の呵責さえも感じる。だけれど、彼女は瞬時にその仄暗さを振り払った。こつんとガラスに額を当てながら、こっそりと淡い秘密を囁く。

「おはよう、大好きなエリィ」

 眩しい星明かりに眼を細めると、目の前にいる最愛の人へ、目覚めのキス代わりに優しく微笑んだ。
 心配そうにアリスを窺っていたエイプリルも、彼女の和やかな笑みにほっとしたようで。嬉しそうにはにかむと、アリスと同じようにぴったりと額を合わせた。

「この二人は……さっき言った通り、赤の他人よ。すぐに帰ってもらうから、安心してちょうだい」

 ふう、と一息ついて、アリスはわたしたちを横目で見やる。釣られるように、エイプリルの視線もわたしたちに向けられた。
 きらきらと、混じり気のない月と星の輝きが、一斉にわたしたちを照らす。今まで己が構築してきた人生や存在そのものを、塗り替えて奪ってしまう。そんなスター性を放つ少女二人の目線を浴びて、わたしはつい硬直してしまった。そばにいたミラージェンも、陽気に踊る唇を今は閉ざしている。
 ぽかんと立ち尽くすわたしたちに、アリスは短くため息をつく。彼女は音を立てないようこちらに振り返った。

「伝えることはもうないわ。あとはもう一つ、ここと同じように家があるの。途中までは付き添ってあげるけど、中にはアンタたちだけで行ってちょうだい」
「他にも、ホワイトガーデンに過ごす人たちが?」
「えぇ。……本当はあんなとこ、近づきたくないのよ。エリィとの大事な時間も潰されちゃうし」

 何かを思い出しながら、アリスは心底嫌気が差すといった風に眉を顰める。嫌悪……というより、居心地が悪くてどうしようもない、という具合に。
 苦々しい顔色をしていたけれど、彼女は再度エイプリルの方を見返ると、とびきりの笑顔を彩らせる。

「ごめんねエリィ。少しだけ一人にしちゃうけど、すぐに戻ってくるわ」

 アリスはまるで手を握って安心させるように言い聞かせると、水槽からゆっくり手を離す。エイプリルから目を逸らす瞬間まで、アリスはあたたかな綻びを失わせない。そしてとうとう、彼女の視界からエイプリルが消えかかる。
 ――その時。とん、と、アリスの背後から音がした。聞き覚えのある、何かが壁に当たったみたいに鈍く曇った音。瞬く間に、アリスは後ろへと体を動かした。

「どうしたの? エリィ」

 純粋に驚いた様子で、アリスは尋ねた。ガラスに指を当てて引き留めたエイプリルは、きょとんと首を傾げるアリスを、どこか真剣な眼差しで注視する。彼女はメッセージを伝えるみたいに、指で形をなぞっていく。
 斜めの線が交差した、小さな記号。エイプリルがアリスに示したのは、バツ印だった。

「もしかして、帰しちゃダメってこと?」

 アリスは暫し思案したのち、まさか、と零れるのをきゅっと抑えるように、質問を投げかける。エイプリルはアリスの質問に、こくりと頷いた。そして、泡沫の浮かんだ双眼に、わたしを映す。
 わたしはてっきり、アリスが自分のそばからいなくなってしまうのを、寂しがっているのかと思った。けれどアリスには、会話を交わさずとも、エイプリルの声が聞こえているようで。
 彼女の肯定を受け止めるべきか、それとも流すべきかと、アリスは口篭って悩んでいた。だけれど、わたしをちらりと一瞥すると、ほんの少しだけ口元の頑固さが解けていく。

「分かったわ、帰さないわよ。バカよりそっちの方がまだマシだし」
「んえ?」

 やれやれと腰に手を当てながら、エイプリルに潔く白旗を上げる。それから、背後にいたミラージェンの首根っこを、親猫が子猫を捕まえるように持ち上げた。

「掃除が終わるまで。特別よ」
「……いいの?」
「エリィのお願いだもの。叶えられないでどうするの」

 当然だというように、アリスは相変わらずつっけんどんな態度で言い捨てる。正直、彼女に利のある頼み事ではなかったから、まさかこんなにもすんなり了承するとは見当もつかなかった。
 アリスにとって、エイプリルという存在は『全て』なのかもしれない。それはひたむきで至純な愛であったり、或いは決して逆らえないような弱みであったり。彼女にとって、表裏一体となる。そんな存在。

「えーと、あたしはどんな感じですかね……?」

 ちゅうぶらりん。長いポニーテールを揺らしながら、ミラージェンは恐る恐るといった面持ちで、自分をとっ捕まえた主の顔色を窺った。
 主である可憐な少女は、冷や汗をかくミラージェンと同じような体温で、まあるい目を冷ややかに狭める。
 
「アンタは雑用」
「雑用!? ひ、酷いですっ、あたしの運命の人と引き剥がすだなんて!」
「うるさ。運命なんて自分で手繰り寄せなさいよ」
「たった今その運命を引き裂こうとしてるのはアリスさんなのにー!!」

 じたばたと暴れて苦情を訴えるミラージェンを、アリスは洟も引っ掛けない。無に等しい彼女の抵抗をひょいと躱して、小動物の如く小脇に抱えると、アリスはアクアリウムから遠ざかっていく。

「エリィに少しでも変なことしたら許さないわ。肝に銘じておきなさい」

 赤のカーテンを捲りながら、語気を強めてそう告げる。アリスはわたしの返答も待たずに、ミラージェンの泣き声と共に暗闇の中へと紛れていった。
 わたしはアリスとミラージェンの後ろ姿を、黙って見届ける。あの二人の相性は、そんなに良いとは言えなさそうだけれど……。少しだけお言葉に甘えて、アリスのくれた時間を大切に過ごそうと思考を切り替える。すると、わたしの気持ちに呼応するように、すぐそばから視線を感じた。

「エイプリル、どうしてわたしを?」

 わたしを引き留めた張本人であるエイプリルに、改めて疑問を持ち出す。大方、ほとんどの時の中をアリスと一緒に共有しているであろう彼女。それにもかかわらず、わざわざわたしと二人きりになりたいと頼み込んだのだから、何かよっぽど気になることでもあったのだろう。
 エイプリルはまたしても、わたしを穴があくほどに凝視した。彼女の両目もまた、アリスと同じ初恋色に染まっている。玲瓏たる一等星は、今もなおわたしの心を奪って離さない。ただぼうっと、身体を預けて魅了されたように、わたしもエイプリルを直視した。
 するとやがて、彼女はぱくぱくと口を動かしていく。わたしに言いたいことでもあるのかと、聞こえもしない音を拾おうとエイプリルに近づいた。けれど、彼女は単純な動作を反復するだけで、そのありさまはさながら餌を求めて小さな口を開閉する金魚のよう。……だなんて、失礼なことを考えているうちに、エイプリルは色白な頬をじわじわと、まさしく金魚のような赤色に照らしていく。
 ……わたしの妄想が、あろうことが現実になってしまった。
 放心してつい佇立してしまったわたしに、彼女は大慌てといった状態で頬に両手を包むと、顔を真っ赤に蒸発させた。それから、「きゃー!」と叫ぶみたいに全力で首を左右に振ると、わたしから逃げるみたいに周辺を泳ぎ回る。

「あ、待ってエイプリル! 何か誤解をさせてしまっているみたい……!」

 広々としたアクアリウムで、俊敏な小魚のよう泳ぐエイプリルに、わたしはどうにか追いつこうと走り回った。だけれど、彼女は高い背丈もしなやかに回転させて、水槽の端から端まで振り子のように移動する。

「ごめんなさい、わたし、いつもぼーっと、してしまうから、愛想が悪く、見えてしまった、のかも……!」

 わたしは声を張って、ぐるぐると混乱するエイプリルに呼びかけるが、彼女の耳にわたしの努力は届かない。段々と息も切れていって、呼吸をせねばと必死な喉が、詰まったように音を鳴らした。そのせいで、気管にひりついた乾きがべっとりと貼り付いて、思わず咳き込む。
 どうやら、追いかけっこのスタート地点であった、アクアリウムの中心に戻ってきていたようで。わたしはひとしきり咳を出し切ると、その場に留まった。

「羽が生えて空でも飛べたら、すぐに捕まえられるのに……って、水の中じゃそれも無理ね……」

 生き物は苦悩したとき、必然と空想に期待を寄せて、現実逃避をしてしまうのは何故なのだろう。
 目を背けたいような現実と立ち向かうのが恐ろしいから? 都合よく自分の理想を描いてくれるから?
 ……でも。どんな理由があったとしても、それらは等しく『空想』に他ならず、本当の意味でわたしたちを救うことは無い。
 ――それは、わたしが人間で、空を飛ぶことが不可能だというのが、紛れもない事実であるように。

「……どうすれば、エイプリルと話ができるのかしら」
 
 酸素の上手く回らない脳で、策を絞り出すように考えながら、左右を見渡してエイプリルを探した。
 眼球を巡らせると、左の奥で三角座りをしてこちらに背中を向ける彼女を発見する。その哀愁漂う気配は、穴があったら入りたい、といったようにころりと丸まって、体も気分も水の底に沈めてしまっていた。
 この調子では、先程のように声をかけても、彼女の元には辿り着かないだろう。わたしは考えもまとまらず思い倦ねた。

『サナシアさん、大丈夫ですよ』

 ふと、幼い声が過ぎる。水中へ入ることを恐怖したわたしに、優しい旋律を奏でてくれた、小さなあの子。彼女はわたしの手を抱きしめて、怯えた心臓に温もりを分け与えてくれた。
 ……そうだ。言葉じゃなくたって、想いを伝えることはできるはず。ミラージェンがわたしの手を握ってくれたように。エイプリルの意思をアリスが汲み取ったように。
 なら、わたしがすべきことは。

「――♪」

  静かに胸元へと手を当てて、瞼を閉ざす。そして、ゆったりと空気を吸い込むと、安らかなメロディーを口遊んだ。
 マリンブルーにぽつりと浮遊して、周りの景色を遮断するエイプリルに、ひっそりと寄り添うように。彼女の背に触れて、あなたの声を聞かせて欲しいと祈るように。わたしにしか作れない歌を、エイプリルに捧げる。

「……!」

 微かに瞼を開けると、エイプリルがわたしの歌に反応して、怖ず怖ずと後方を顧みる。鬱々としていた容色から、影が徐々に拭われてゆく。
 ゆらり、ゆらり。彼女はじっくりと、こちらに歩みを続ける。緊張を解きほぐすように歌を贈りながら、わたしも硝子の壁面に左手を委ねた。
 エイプリルが勇気を出して伸ばした指先と、わたしの手のひらが、そっと重なる。

「ありがとう、エイプリル。わたしね、あなたと話がしたいの。どうにも積極性がないものだから、盛り上がれるような話題を引き出せるかは分からないけれど……。エイプリルの声を、わたしにも聞かせてくれる?」

 自分の内情を吐露するのは、思っているよりもずっと難しい。だけれど、伝える手段はきっと沢山ある。言葉が通じなくても、会話ができなくても、壁を隔てられたとしても。だから、諦めてはならない。自分のありのままの本音を、届けきるまでは。

 きらりと弧を描いて、エイプリルの瞳に艶が戻る。感に堪えぬといった顔つきで、彼女は口元を細かく震わせると、力強く頷いた。

 ごんっ!

「あっ……」

 エイプリルの額が、勢いよくガラスにぶつかる。わたしのそばにまでやってきてくれたからか、距離感を見誤ってしまったみたいで。その不憫なアクシデントを可視化したように、彼女の顔面はまたしても紅潮していく。

「大丈夫……? あぁ、おでこも赤くなってしまって……」

 触ることは叶わないけれど、無色な板の上から、エイプリルの額を撫でつけた。恥ずかしそうにおでこを隠していたけれど、彼女はもう逃げたりせず、わたしを見つめる。それから、降り積もった不安が溶けたように、照れ笑いを浮かべた。

「……ふふ。あ、これは可笑しいから笑っているわけではなくて。……あなたの笑顔を見られたことが嬉しくて、わたしも笑っているの」

 またまた誤解を招いては悲しいので、わたしは改まって自分の感情を口にする。エイプリルは長いまつ毛を瞬かせると、円かな黄金色を三日月に移り変わらせた。その移ろいは、彼女がわたしを信じてくれた証のようで。だからわたしも、真横に伸びてばかりの口角が、自然とあがっていく。
 エイプリルはわたしから目線をずらすと、人差し指で何かを描いていく。彼女がガラスに触れた途端、引かれた線に光が灯って、形が浮かび上がった。それは、水晶の一部が欠けた細長いマーク。やけに見覚えがあったから、あの少女の名前を我知らず発していた。

「アリスのこと?」

 甘酸っぱい三日月を印象付けるのは、エイプリルと同じようにこの色を輝かせる彼女しかいないと思ったから、そう尋ねてみた。エイプリルは穏やかに首を縦に振る。自ら作り出した若月を愛おしげに眺めていたけれど、どこか煩うようにまた指を動かしていく。
 月の斜め上には、新たにクエスチョンマークが並べられた。憶測でしかないけれど、彼女はわたしがアリスをどう思っているのかを、知りたがっているのではないだろうか。二人の親密な間柄において、分からないようなことなどないように見えたから。

『アタシはあの子の偶像だからよ』

 ……でも、もしかしたら。互いを愛し合い全てを理解しているつもりでも、知らないことはあるのかもしれない。いや、むしろ……愛しているからこそ、心の奥に隠したい秘密があるのかもしれない。アリスがエイプリルを、この広大なアクアリウムに閉じ込めているように。

「わたしはアリスのことを知らないから、何と言えばいいのか分からないけれど……」

 少々俯いて、脳裏にアリスを浮かべる。初めに出会った時から、随分刺々しい物言いだったけれど、波に連れ去られそうだったわたしを助けてくれた。いつでも見捨てられたのに、わたしとミラージェンを案内してくれて。時に粗野な振る舞いに及ぶことはあれど、それらの言動はきっと、エイプリルのためだった。

「世話焼きで、まっすぐで、可愛い女の子。そして、あなたのことを愛している」

 無知だからこそ、好き勝手に語ってしまえるだろう。けれど、わたしにとってのアリスは、そんな少女だった。

「アリスを悪い人だなんて思っていないわ。だから安心して」

 彼女はあの通り、エイプリル以外にはぶっきらぼうだけれど……。警戒色を強めて、無差別に攻撃しているわけではないと、わたしにも十二分に把捉できた。
 だから、わたしは顔を起こすと、目の前にいるエイプリルへ微笑みかける。自信を表すわたしに、彼女は深甚な喜びを露わにして、すっかり一安心したようだ。
 エイプリルは再び、ガラス面に指を走らせる。三日月の下に置かれたのは、今にも弾みそうな音符マークだった。

「それは……あ、分かった。ミラージェンね? 可愛い記号だったから、すぐに分かっちゃった」

 明るく飛び跳ねるような符号に、くすりと笑みが滲んだ。エイプリルも楽しそうに肩を揺らしている。わくわくと興が乗った調子で、彼女は魔法杖を操るみたいに、筆をすらすらと滑らせた。

「これは……わたし?」

 確信を固められなくて疑点を残しつつも、わたしは釘付けになった。
 ――綿毛のように軽やかな、鳥の羽根。
 曖昧に小首を捻ったわたしだったけれど、エイプリルは花が咲くみたいに朗笑するだけだった。恰も「そうに決まっている」と言うかのように。
 エイプリルは満足気に、隣り合った音符と羽根をちょんちょんと突く。そのイラストに感情なんてものはないのに、何故だか生き生きとして見えた。二つの絵は、仲睦まじく肩を寄せては、ぎゅっと手を握っているみたいで。
 そう、まるで――家族のように。

「ミラージェンとわたしは姉妹じゃないわ。どうしてそう思ったの?」

 わたしのはっきりとした否定に、エイプリルは大いに吃驚する。どうやら彼女は、わたしたちが本当に姉妹だと勘違いしていたらしい。
 ……けれど、一体何故なのだろう。強いて挙げるとするのならば、撫子色に揃ったこの髪だろうか。髪色が被るだなんて、ほんの偶然にすぎないと思うのだけれど。
 毛先を手の甲にかけて、ぼんやりと視界に捉えた。程なくして、とんとん、と音がしたので、そちらに目を遣る。エイプリルは桜色の爪で、己の長い喉元を指してみせた。

「……声?」

 弱気に呟くが、妙に納得している自分がいた。ミラージェンは活発で賑やかな子だけれど、彼女から発される音色は、いつだって夢を見るようにおっとりとしている。彼女特有の温和な音は、わたしの歌声を受け継いだようでもあった。
 エイプリルはころっと笑顔を湛えると、いそいそしながら控えめにハートマークをわたしに描いてくれた。

「ふふ、ありがとう。声なんて、自分では気にしたことがなかったから……」

 自分から流れる音を認識しながら、左手を喉元に当てる。脈がどくどくと波を打っては、温い体温が広がっていく。誉め言葉をしかと受け取ったわたしに、エイプリルは嬉々として何度も頷いた。
 すっと、エイプリルの体がわたしから遠のいていく。彼女は清らかに瞳を細めると、ふわりと宙に舞い上がった。ワンピースをカーテンのように靡かせて、ワルツを踊るみたいに回転する。そのまま体勢を変えると、思うが儘アクアリウムの中を泳ぎ回った。
 その姿は、さながら舞台でスポットライトに照らされる一等星エトワールのよう。誰もいない観客席でたった一人、美しく煌めく彼女に視線を凝らす。
 もし、このワルツに歌をつけるのなら、どんな曲が相応しいだろうか。まったりと目を瞑って、想念の中に沈潜する。
 煌びやかさはいらない。わたしたちを導く星の少女が、無垢に笑っていられるように。至って素朴で、それでいて毛布にくるまったときのような、あたたかい愛情を。

「――♪」

 分からないことだらけのわたしにも、分かったことがある。
 わたしは、歌が好き。自分の感じ取った愛を歌にして、誰かに送り届けたい。ようやく自分の大切なものが一つ、掴めた気がした。深呼吸をしてもう一度声を出そうと、喉を開いたその刹那。

「……っ!」

 首を絞めつけられるような息苦しさと、喉を掻っ切られたような痛みがわたしに襲いかかった。口元を押さえて、げほげほと激しく咳き込む。
 呼吸もままならず、意識が霞んでいく最中に見えたのは、手にべっとりと付着した赤色だった。涙のように滴っていく血だまりが、真紅のスカートに染み込んでいく。
 水槽の壁が叩かれる音と、遠くから叫び声が聞こえるような気がする。朧げなその情景を最後に、わたしは積み木が崩れ落ちるように倒れ込んだ。
6/9ページ