Chapter1:Welcome to the White Garden

4 あの子の偶像だから


「ハァ。なんでアタシがこんなお荷物背負わなきゃなんないのよ。あの胡散臭男、次会ったらタダじゃおかないわ」
 
 先導して進むアリスが、ぶつぶつと独り言をぼやく。伸びやかな後ろ姿から発されているとは思えない鬱憤の数々は、言葉の通りわたしたちに向けられたものではあったけれど、最終的な矛先はシェイヴィに転じたようだった。苦笑いを浮かべながらも、ほっと胸を撫で下ろす。それから、右隣にやや目線を下げた。
 そこには、少女――ミラージェンがわたしの腕に抱きついている。彼女の丸っこくつぶらな赤と、ぱっちり時が重なり合った。……まさか、ずっとこちらに視線を注ぎ続けていたのだろうか。内心で驚くわたしとは対照的に、ミラージェンは麗らかな笑みを輝かせている。

「ついに見つけました……。あたし、ずっとサナシアさんを探してたんですから!」
「えぇと……ミラージェン、ちゃん。それって、何かの間違いじゃ……」
「いーえ! 間違いありません。あたしが探していたのは、きっとサナシアさんです!」

 わたしの困惑もお構いなしに、ミラージェンは調子よく黄色い声をあげては、抱きしめる力をより強める。
 この少女の、少しばかり頓狂な発言により、一触即発としていたあの場は予想外にも穏便に収まった。『あたしはきみの運命の人』。そう言って、ミラージェンはどこか浮ついた様子でわたしの手を取った。
 正直、わたしには飲み込めない内容だったものだから、あまり期待に沿うような反応は与えられなかっただろう。けれど、そんなことは気にもしていないのか。ミラージェンはわたしを、まるで何千年も待ち侘びた愛おしい人と再会したみたいに、その手をぎゅっと離さなかった。
 道案内ならあたしがと、彼女は意気揚々としてわたしを引っ張る。だけれど、どうやら彼女にも土地勘はないようで、あらぬ方向を目指そうとするばかりだった。あちらこちらと当てずっぽうに突き進むミラージェンを止めたのは、堪えに堪えて奔り出された、アリスの大きなため息で。
 「アタシが適任って、こういうことってわけ」と諦め混じりに落胆したアリスは、嫌らしげにも納得したのか、わたしたちを案内してくれるようだった。彼女の不満いっぱいで、お世辞にも楽しいとは言えないツアーガイド付きで。

「聞くまで名前も知らなかったクセに、何が運命の人よ」
「分かってないですねぇ、アリスさん。たとえ名前や存在を忘れてしまったとしても……大切なものはきっと心に残り続けて、覚えていられる。ほら、あたしとサナシアさんが巡り会ったことで、それを証明してますから!」

 ねー? と同意を求められて、わたしはどう反応するべきなのか分からず、ただ浅く笑いかける。そんなわたしたちのやり取りに、アリスはげんなりしながら「気持ちわる」と呟く。そのせいで、ミラージェンは空から降ってきたバケツが頭に直撃したように酷く落ち込んでしまったものだから、慰め程度のフォローを早急にせざるを得なかったのだけれど。
 
「ところで、アリスさん。今はどこに向かってるんですか?」

 特に丁寧な道案内をされているわけでもなく、わたしたちはアリスの背中を追っていた。薄く漂う水面の上を歩いていたけれど、不思議と濡れるような感覚はない。ぴちゃぴちゃと愉快に足音を立てるミラージェンをよそに、アリスは行き先を伝えることもなく、ただ歩を進めるだけだった。わたしも同じ疑問を抱いていたから、ミラージェンと共にアリスの返答を待ってみる。

「どこって、家に決まってるでしょ」

 当たり前のことを聞かれて、そのままを答えるような口ぶりで、アリスは返事を一言で済ませた。それ以上もそれ以下もない、といった風に。ミラージェンはその回答に合点がいったのか、質問を繰り返すようなことはなかった。だからなんとなくわたしも、もう一度問いを投げかける気は起きなくて。

「あたしたちにもお家があるんですよ。あとで一緒に帰りましょうね! 道が分からないので、アリスさんに教えてもらわないとですが……」

 ミラージェンは申し訳なさそうに眉を下げながらも、ちゃっかりとアリスの同行は決定事項のようだった。アリスは大層嫌がるだろうけれど、彼女はわたしたちをここから早く追い出したいだろうから、渋々受け入れるのだろう。
 お家。その響きに心覚えのないわたしは、相変わらず嬉しそうな笑顔を送るミラージェンに、ぎこちなく微笑むことしかできなかった。

「……」

 ふと、アリスが立ち止まる。何も言わず、水底を眺めるように俯く。空漠としたホリゾンブルーの大海にしんと佇む彼女の姿は、水彩画で絵空事を描いたように幻想的なタッチだった。
 アリスはワンピースからひっそりと足を出すと、その細い指を鏡水に浸していく。彼女の足裏は地につくかと思われたが、わたしのありふれた想定は打ち消された。
 するりと吸い込まれるように、アリスの体は沈んでいく。無抵抗に、されるがまま。彼女は焦る素振りなんて一瞬たりとも見せず、波の引き寄せに身を任せていた。ようやくアリスはこちらを尻目に見ると、わたしたちに呼びかける。

「さっさとして。置いてくわよ」

 つっけんどんに言い放つと、再度前を向き直して、アリスは海底へと赴いていく。
 
「行きましょ、サナシアさん!」

 ミラージェンはわたしの腕から離れて、ぎゅっと手を引いた。観覧車を目の前にして、わくわくとはしゃぐ子供のように、わたしを引っ張っていく。けれど……わたしはその動きを抑えてしまった。

「? どうしましたか?」
「……泳げない。それに海だなんて、溺れてしまう。あなたも、わたしも……」

 純粋に尋ねる彼女へ、なるべく自然な会話を紡ぎたかった。それなのに、わたしの声は不甲斐ないほどか細く、次第に迷子のようにもたついていく。水中で息なんてできないし、大空を羽ばたくことだって叶わない。そんな閉鎖的な空間に、踏み入れられる気がしなかった。
 
「サナシアさん、大丈夫ですよ」

 たん、と足音が鳴る。わたしの腕を引き伸ばしていたミラージェンが、すぐそばにまでやってきていた。彼女はわたしの手を、両手で目一杯に握る。強くではなく、極めて弱く。けれど、そこに包まれたのは、確かな安堵だった。親しみある姿勢を崩さず、ミラージェンはわたしを覗き込む。

「あたし知ってます。水の中って、凄くあったかいんです。だから、怖くありませんよ」

 瞼を閉じて、ミラージェンは思い耽る。深海に仕舞われた、遠い出来事を追憶するように。彼女に触れられた手元が、段々とあたたかくなっていくのを、ひしひしと感じる。
 わたしの平静さを確認するために開かれたミラージェンの瞳が、朗らかに和らいだ。彼女はもう一度わたしの手を引く。けれど、わたしの前を歩くのではなく、今度は隣り合って。無意識に揃う歩幅がなんだか愛おしくて、小さな笑い声が漏れた。
 ……もう怖くない。深呼吸するようゆるやかに息を吐くと、水色の表面にパンプスを落としていった。すると、ぽちゃりと雫の滴る音が聞こえて、波紋が広がっていく。足先に、腰に、首元にと、海面が穏やかに揺らめきを寄せる。最後にはすとんと、瞬く間に身体が沈んでいった。
 清澄とした青が染まる。辺りは少し暗くて、隣にいるであろうミラージェンの形も捉えにくい。けれど、空いた背中の無防備さも、浮遊した足の不安定さも、恐ろしくはなかった。ミラージェンの言う通り、水中はあたたかい世界だった。もしこのままここに居続ければ、こっくりと深い眠りに陥ってしまうくらいに。
 
「ミラージェンちゃんは、水の中に入ったことがあるの?」

 確信めいたように、わたしを勇気づけてくれた彼女。理想を信じるというよりも、過去に経験したことがあるといった物言いだったから、聞いてみたくなった。ミラージェンはにこやかさを絶やさず、水の底を見つめながら唇を開く。
 
「はい、ずっと昔に」

 小さな気泡が、彼女の口から零れていく。上に浮かんでいくそれらは、しゃぼん玉のような身軽さで宙を舞う。水泡は、見る間に一面を充満させていく。ぶくぶくぶくぶく。幻想曲を奏でるみたいに音を立てながら、やがてわたしの視界を埋め尽くした。

 ひたりと足の裏に張り付く感触。右手に繋がれたぬくもりある温度。安心感を胸にして、閉ざされた眼を開けた。

「わ……」

 二酸化炭素を置き去りにして吐き出されたのは、丸裸なままの感嘆だった。
 薄暗く配色された一帯に、ぽつぽつと、淡い光が灯される。さながらスポットライトのような明かりは、円柱に伸びる水槽から照らされていた。ガラスケースはそこかしこに設置されており、じんわりと滲むライトは、真っ暗であろうこの場所の道標代わりにもなっている。
 隣にいたミラージェンは、きょろきょろ周りを見渡すと、表情を無邪気に生き生きとさせていった。

「わぁ綺麗! アリスさんのお家って、水族館みたいですね」
「おっそい。アタシ、早くしてって言ったわよね? おかげでムダな時間を過ごす羽目になったんだけど?」
「いたたた! わーんすみません! そんなに怒らないでくださいよぉ!」

 どうやら先に到着していたらしいアリスは、いつの間にかミラージェンの横に立っていた。なんだかんだ、わたしたちを待ってくれていたようだ。
 彼女は苛立ちをぶつけるように、容赦なくミラージェンの頬をつねる。柔らかなミラージェンのほっぺたは、これでもかと引き伸ばされていた。涙目で謝罪を訴えるミラージェンに対しても、アリスは我関せずといった態度で、そのまま彼女を引っ張っていく。

「アンタも。ぼんやりしてないで着いてきて。知らないことがうんざりするくらいあるんでしょ」

 目が合いそうになったけれど、アリスはぷいっと顔を背けてしまった。彼女は圭角の多い性格をしているけれど、どことなく面倒見の良さが見え隠れしているような……そんな気がする。それはそれとして、言葉遣いには問題があるかもしれないけれど。

「サナシアさーん……行かないでください……一緒じゃないと嫌です……」
 
 はっとして、思考を戻す。ずるずると力無く連れられていくミラージェンが助けを乞うていたから、それに応えるよう二人の後ろ姿を着いていった。


◆◆◆


 森閑と冷えたような水景色に囲まれながら、三人分の足音がこだまする。
 白花のような肌を曝して、ひたひたと音を立てずに進むアリス。やんちゃな子供心を表したみたいに、ハイカットスニーカーでスキップを刻むミラージェン。そして、黒色のパンプスで最後尾を歩くわたし。
 ホワイトガーデンと同じように、このアクアリウムもそっと口を閉ざしている。けれど、なんだかそれが心地良かった。
 薔薇園での静けさにはどこか不安を煽られる感覚があったけれど、ここには誰かに見守られているような、寡黙な慈しみによる安らぎが満ちている。ミラージェンの好んだ水の中のあたたかさは、こういうものだったのだろうか。

「それにしても、どの水槽にもお魚さんがいませんね」

 わたしの前を歩むミラージェンが、周囲を眺め回しながら不思議そうに述べる。ぽつんと、置き去りにされたように展示されるアクアリウムの中には、時々泡が浮かぶだけで何もいなかった。

「あたし、水族館とかに行くとお腹が減ってきちゃうんですよねぇ」
「それは……魚が美味しそうに見えるってこと?」
「はい! つい、フィッシュバーガーとか食べたくなっちゃって……」

 ひひ、と照れくさそうにはにかむ。見事な食い意地の強さに、うっかり笑ってしまう。彼女の前にいるアリスからは、白けたため息が聞こえた。
 フィッシュバーガーにうっとりと想いを馳せていたミラージェンは、妄想上で無事食べ終えたのか、ひょっこりと意識を戻す。

「だからここにいたお魚さんも、ばくっーと食べられちゃったのかもしれませんね」

 すらりと後ろに振り返ったミラージェンと目が合う。彼女は開いた左手を、包んで閉じるみたいにして、五本の指先を一点に集める。大きな口が獲物を捕らえて、まるっと飲み込んでしまった。

「でも、残った骨は誰が拾ってくれるんでしょうか」

 ぱっと、再び手を広げて、ミラージェンは至って質朴に呟く。彼女の手のひらから、何かがこぼれ落ちていくようで、わたしの視線は流れるように下がっていく。
 筆で掬った絵の具を混ぜもせずに、べたりと直塗りしたような濃い青。そこには、水面の揺らぎが反射して薄らと輝いている。だけれど、乾いた絵の具の奥底には、きっと光は届かない。この輝きは、表面的なものでしかなかった。

「誰も拾いやしないわ」

 黙りこくっていたアリスが、ふと言葉を落とす。わたしは発作的に顔をあげた。

「美味しい部分だけ根こそぎ喰らい尽くして、それで終わり」

 しゃきりと姿勢を正すアリスの後ろ姿が、やるせなく項垂れているように見えた。日光や水分を失って前屈みになってもなお、その場に倒れることを許されず、大地に根を張り続ける植物のように。

「アリス」

 気がつけば、彼女の名前を呼んでいた。

「わたしは……この手から零れ落ちないように、必ず拾うわ」

 こちらを向いて欲しいわけでも、呼びかけに応えて欲しいわけでもない。
 ただ、聞いて欲しい。そう願った。
 だから、まっすぐに堂々と声を伸ばした。
 
「……何それ。バカみたい」
「……!」

 後ろ向きになって足を動かしていたミラージェンが、突然立ち止まったアリスの背とぶつかる。
 アリスは何かを微かに囁いていたけれど、わたしの耳には口惜しくも運ばれなかった。
 彼女と背中合わせになったミラージェンには、聞こえていたのだろうか。でも、わたしの声はアリスに届いたようだった。

「ここから先は黙ってて。足音も、呼吸も、なるべく無くして。分かったら入ってもいいわ」

 ひっそりとカーテンを捲って、アリスはわたしたちに忠告を与える。
 彼女がカーテンを潜ったのは、これで三回目だ。コーナーが切り替わる度、通路の最後には青色の布が垂れていた。けれど、今アリスが触れているのは赤色。深い重苦しさを纏うそれが、終着を告げるには最適な華やかさのように思えた。
 無言で頷くわたしと、にっこり微笑みを返すミラージェンを確認すると、アリスは幕を上げるように赤色を広げる。

 初めに感じたのは、この息を秘密にしなければならないという、刷り込みの如く命じられた緊張。だけれど、恐れを抱かせられているわけではなかった。呼吸を止めても、わたしの胸からはどきどきと、期待の高まった音色が叩かれている。
 そう。わたしは、高揚しているのだ。目の前に映る景色によって捧げられる感動を、今か今かと待ち焦がれている。
 じわりと黒で静まった場所が、徐々に明るさを手に入れていった。わたしはぎゅっと、両手を握る。

 日の出が地平線から顔を出すみたいに、ゆっくりと、穏やかに、灯りが射し込んだ。すると、不自由を味わわせないほどに大きな水槽が、そこにはあった。それこそ、自然界で丈夫に育った鯨一匹が入りそうなくらいには。
 眼一面に沈む、長閑なマリンブルー。そして、木漏れ日のようなスポットライトが中心を指す先には、一人の少女が浮かんでいた。
 アリスはその少女の元へと、軽やかに歩を進めていく。その足取りは、今にも駆け出したくて堪らないと、無邪気な心を押し殺すようでもあった。

「この子はエイプリル」

 ――アタシの恋人よ。

 そう言って、アリスは水槽のガラス面に手のひらを重ねる。彼女の目線の向こう側には、身を丸くして眠る少女――エイプリルがライトに照らされていた。
 アリスの紫色の瞳に染まりかけていた、朝の海のような水色。その色を持つ髪が、はらはらと波に揺蕩う。柔らかなパニエを連想させるボリューミーなワンピースは、彼女の足元を覆い隠している。
 水の透明感など、比べ物にならない。そう断言できるくらいに、エイプリルの放つ美しさは、どこまでも清らかに澄んでいた。瞬きを一度してしまうだけで、海の中に溶け込んでいってしまうのではないかと、心配になってしまうほどに。
 だからだろうか。エイプリルを見つめるアリスは、一度だって瞼を瞑らなかった。慈愛と、庇護と、温情と、特別。それらが混ざり合った視線は、目を閉じて眠りにつくエイプリルへと注がれる。
 わたしたちの会話を鬱陶しそうに聞き流すアリスとそこにいる彼女が、同一人物だとは到底思えなかった。でも、どれだけアリスが皆の心を奪ってしまうような月光の少女だとしても、そんなことは関係がなくて。
 最愛の人を心の底から想う彼女は、この世界で誰よりも、一番可愛い女の子だった。

「エリィはアクアリウムの中でしか生きられないの」
「外には、出られないってこと?」
「そう。外では上手く息ができないから。あと、眩しいところも苦手よ」

 エイプリルのいるここに辿り着くまでには、随分と時間がかかった。展示品の飾られた長い通路を渡ってはカーテンを捲る動作を、三度も繰り返した程度には。
 それは多分、エイプリルが光を不得意とするからだったのだろう。……けれどもっと、分かりやすい言い方がある。

「アリスは、エイプリルを守っているの?」

 アリスの隣に並んで、そう尋ねる。彼女が煌めく三日月をこちらに向けることはない。ただひたむきに、アリスはアクアリウムの中で生きる少女だけに瞳を凝らしていたから。

「アンタたちを連れてきたのは、エリィを紹介するためじゃないわ」

 ガラス面から手を離して、アリスはやっとわたしと向き合う。だけれど、彼女の眼差しは、わたしが想像していたものよりずっと、冷酷な敵意が滲んでいた。

「今後一切、エリィに関わらないでちょうだい」
「……え……」

 アリスから言い渡されたのは、明確で隙を与えない、はっきりとした拒絶。思いがけない発言に唖然としたわたしは、驚きを隠しきれずに声が漏れ出る。

「エリィは見せ物じゃない。それを教えるために、わざわざ連れてきてあげたの」

 わたしに口を挟ませまいと、アリスは矢継ぎ早に声を被せる。
 いつまでも幼い初恋を抱きしめるように、エイプリルを愛するアリス。そんな可愛らしい一人の女の子の顔が、悲しいほどに痛々しく映った。
 エイプリルだけを瞳に宿していたあのぬくもりには、そこはかとなく憂いがあって。その僅かにも存在しているようだった哀感が、しみのようにじわじわと広がっていく。

「どうしてそこまでするの」

 わたしは、悲しかった。だって、アリスがエイプリルに抱いたあの感情は、紛れもない『愛』だった。なのにその愛は、どこか不自由で、歪で、苦しくて。わたしの知っている愛は、そんなものではなかった。

 ――愛なんて、誰から教えられたのかも分からないのに?

 不明瞭な自問が、脳裏に大きく響く。わたしはすぐさま顔を振って、忘れようとした。答えることが、できなかったから。
 思考を薄めると、訴えかけるが如く、アリスに問いかけた。でも、彼女がわたしの質問に揺るがされることはない。

「アタシはあの子の偶像だからよ」

 生まれた瞬間からそうであるというように、アリスは淡々と潤んだ唇を動かした。
 清く、正しく、美しく。一つの間違いも、許されない。望まれた夢を、永遠のように魅せて与える。理想とは、そういうものだ。『偶像』である少女の、存在意義だ。


「あ、あの〜……」

 穏やかな声色が、か細く呼びかけた。はっとして、隣に目を配る。

「も、もう息を吸っても、いいですか……? そろそろ、限界で……うっ……」

 おぼこい顔を蒼白に染め上げて、ミラージェンはぷるぷると寒いわけでもないのに体を震わせる。その要因は、恐らく……。
 
「……アンタ、今の今まで息を止めてたっていうの?」

 頭に浮かんだ文字がそのまま喉へと転がって、アリスは二色を馴染ませた双眼を丸くさせた。彼女が魂消るのも無理はない。何故なら、ミラージェンは口元を両手で覆いながら、先刻の問いを投げたから。
 やけに静かだったけれど、どうやら彼女はわたしとアリスが会話していた間、ずっとこの調子だったのだろう。この子は空気が読めるのか読めないのか、絶妙なバランスをぐらぐらと無自覚に傾けていた。
 気分が悪いと途切れ途切れな息遣いで、ミラージェンはアリスの疑問にちょいと頷く。

「もうっ何してんのよこの馬鹿娘! さっさと離しなさい!」
「ア、アリスさんが怖い顔してそう言ったんじゃないですかぁ……!」
「誰が呼吸をするなだなんて言ったのよ! そんなことしたら簡単に死ぬってのに、アンタってほんとにバカ!」

 信じがたかったから、わたしも勿論驚いたけれど、アリスはそれ以上に狼狽えたようで。彼女が分かりやすく動揺を引き起こす姿は珍しかった。
 敏活な動きでわたしを通り過ぎると、アリスはミラージェンのそばに近づいていく。張り付くように押さえられたミラージェンの手を剥がすと、アリスはあーだこーだと声高に叱りつけた。
 想像を絶する怒りっぷりに、ミラージェンはあたふたと平謝りに詫びるが、それでもアリスの憤りは収まらない。わたしは急いで、仲裁に入ろうとした。

 とん。
 
 音。何かが壁に当たったみたいに鈍く曇った音が、間近に鳴った。わたしはそちらに振り向こうとする。けれど、それよりもいち早く、冷静さの乱れたアリスの声がぐらりと宙に泳いだ。
 彼女は波の花みたく白い顔を、さながら嵐が渦巻く波濤のように、より一層真っ青にこわばらせる。そこでようやく、わたしはアリスと同じ方向へと目線を変えた。

「エ、エリィ……」

 彼女の発した愛おしい人の名前は、寂々たる深海へと落とされていく。
 甘酸っぱくて、どこか切ない、初恋に満ちた色。胸が跳ね上がりときめく彩りを星のように煌めかせた明眸が、わたしたちの心を捕まえて離さなかった。
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