Chapter1:Welcome to the White Garden

2 あたしの運命の人


『――』

 誰かの声が聞こえる。
 落ち着いた優しさに、心を溶かしちゃうみたいな愛おしい声。
 音の主は、あたしに呼びかける。でも、聞こえないフリをした。それでも、この音色が鳴り止むことはなくて。

『――う――ア』

 あぁもう、静かにして。
 あたしはまだ、眠たいの。何も知らないのだと、眠っていたい。
 だからどうか、ここで夢を見させて――


「おい。さっさと起きろ、ミラージェン」
「ん……夢……ですか……?」
「はぁ……全く」

 ぺち!

「いたぁ!」

 突然衝撃が襲いかかり、飛び跳ねるようにベッドから起き上がった。ひりひりと痛むおでこを手で押さえる。こんなところにたんこぶなんてできたら洒落にならないのに。胡座をかきながら、あたしは情けなく悶えた。

「デコピン程度で痛がってどうするんだ」

 はぁ、とため息が隣から零れた。聞き覚えのあるそれにはっとして、そちらに顔を向ける。すると、予想通りの人物が視界に入ってきた。あたしは嬉しくて堪らなくて、先ほどまでの痛みも、おでこのたんこぶへの不安も、すっかり忘れてしまった。

「ユーちゃん!」

 横で枕を抱きながら、ちんまり三角に座り込む彼女の名前を、大きく口を開けて呼んだ。

「だからユゼと呼べ。お前がそう教えたというのに、相変わらずなんだ、その変なあだ名は」

 呆れた様子の少女――ユーちゃんは、むっと機嫌が悪そうに眉を寄せる。
 薄い紺色のさらさらな髪に大きなリボンで結ばれたハーフツインテール。幼いのにどこか神秘的な雰囲気を漂わせる顔立ちに、真っ黒でふりふりなゴシック調のドレス。
 まるで夢みたいに完璧で可愛い女の子。そして、あたしの大好きな唯一のお友達。
 彼女はくるくるとストレートの髪をいじりながら、にっこり満面の笑みを溢れさせるあたしを見つめる。また一つ息を落とすと、暁みたいな青の瞳をジトっと下げた。

「それに、夢かだなんて問うな。ここはお前の夢の中なんだぞ」
「え、あたしそんなこと言ってましたか?」
「お前、覚えていないのか?」

 あっけらかんとするあたしに、ユーちゃんはやれやれと肩を落とす。まぁ、それはいつものことではあるけど。
 あたしは眠ると、決まってユーちゃんのいるここに訪れるのだ。部屋いっぱいに大きなベッドが広がっていて、上の方には白いベッドカーテンがあたしたちを包んでいる。低い天井には、きらきらとお星様やお月様のモビールが泳いでいて、夜空を眺めてるみたいだった。
 ここはあたしとユーちゃんが会える、たった一つの、二人だけの夢の世界。

「すみません。ユーちゃんと会えたのが嬉しくて、全部飛んでいっちゃったのかも」
「その台詞は何度も聞いた。それに、どうせいつだって会える。……はぁ、もういい。次から気をつけろ。そういう発言は、夢の中では御法度だ。もし夢から覚められなくなったりでもしたら困るだろう」
「は、はいぃ……」

 いつにも増して、彼女の刺々しい言葉が胸を貫く。あたしは結構忘れっぽいし、頭もそんなに良くない。けど、ユーちゃんは違う。きっともの凄く賢いから、なんだって上手にこなすのだろう。
 あたしにないものを持っている彼女を、あたしは尊敬してる。そして何より、この子の優しいところを知っている。実はデコピンの加減を気にしているのも、あたしとの些細な会話を覚えていてくれているのも、あたしはちゃんと分かってる。だから、そんな彼女のことが、とっても大好きなのだ。

「……お前、何故今笑っているんだ?」
「ひひ。あたしはユーちゃんといると、勝手に笑顔になっちゃうのです」
「意味が分からん」

 ユーちゃんは心底意味不明、と書いた顔をプイッと背けると、枕に顎を埋める。

「大体、お前はここに来すぎだ。呑気に寝こけているから、現実と夢の判断も曖昧になる」
「いやぁ、なんかずっと眠くて。しかも抗えなくてですね、気がついたらここに来ちゃってるんですよ」
「はぁ……ミラージェン。お前は本当に、夢見がちな寝坊助だな」

 ズバッと正論を言い捨てるユーちゃんに、ぐうの音も出ない。夢見がちな寝坊助。あたしを表すのに、こんなにも最適な表現はあっただろうか。流石はユーちゃん、とつい感心してしまう。

「間違いないですねぇ……。でも、だからこそ、こうやってあたしたち会えるんじゃないかなって思うんです」

 ユーちゃんとは、目が覚めたらお別れだ。理由は単純で、彼女は夢の中に生きる女の子で、あたしは現実を生きてるから。
 あたしはユーちゃんの言う通り、夢見がちな寝坊助に違いない。けど、そのおかげで、あたしたちの異なる世界が繋がったんじゃないかって。そんな夢みたいなことを、あたしは信じてる。

「あたしたちにはきっと、何か特別な繋がりがある……そんな気がするんです。ね、素敵なことだと思いませんか?」

 ぐいっと近づいて、彼女の顔を覗き込む。ユーちゃんは常に気薄な顔色を晴らさない。だけど、あたしとぱっちり目が合うと、大きなつり目を少しだけ安らげる。
 彼女は何も答えなかったけど、あたしには十分伝わったから、言葉なんて必要ない。この気持ちが届くようにと、ユーちゃんの肩に寄りかかった。

「重い」
「重くない重くない」

 鬱陶しいと言いたげに不満そうな彼女が、本当は満更でもないことなんてお見通しだ。笑い声の尽きないあたしに、ユーちゃんはまたため息をついている。けどそれは「やれやれ、仕方がない」と言っているのと同じなのである。
 ユーちゃんはあたしの背後に置かれた枕を小さな両手で取って、ほらと無愛想に差し出した。

「それで、今日はどんな土産話を持ってきたんだ?」

 そう尋ねながら、ユーちゃんは仄かに微笑む。あたしは大はしゃぎに枕を受け取って、彼女と同じように抱き抱えた。
 大好きなこの子に、聞いて欲しい話が沢山ある。
 早速何を話そうかと悩むあたしを、ユーちゃんは黙って見守る。

「うーん、どうしましょう。ユーちゃん、一から十の中で好きな数字ってなんですか?」
「ニか五……っておい、土産が多すぎるんじゃないのか」
「ユーちゃんなら全部聞いてくれますから。じゃあ二個目からいきます!」

 彼女のツッコミをしれっと躱して、あたしは鮮やかに会話を切り出す。何か文句の一つでも投げかけてやろうかといった視線を送るユーちゃんだったけど、あたしが口を動かし始めるとそれもどうでもよくなったようで。こてんと枕に頭を預けながら、密やかに耳を傾けている。
 そんな心優しい彼女に笑って欲しくて、あたしは用意したとびきり面白い話を繰り広げていった。


◆◆◆


 ぱちりと、目が覚める。覆うつもりもなく、くわ、と欠伸を広げる口元に手を添えた。両指を絡めて、手の甲を天井に上げながら、固まった体からポキポキと音を鳴らす。
 というのも、あたしはユーちゃんと別れて現実に戻ってくると、決まってこの座席に座っているのだ。座面や背もたれには少し硬さを感じるけど、こうして居眠りできるくらいにはふんわりとした座り心地をしてる。
 繋がれた眠りから手を離したあたしを迎えたのは、瞼を瞑っていたときと何ら変わりない真っ暗闇。これじゃ、起きたか寝てるかの判別も難しい。でもその暗がりは、あたしの目覚めと同時に明けていく。
 白い光が、細い縦幅から徐々に長方形へと伸びていって、やがてあたしの目先に現れる。それは、大きなスクリーンだった。枠の中に閉じ込められた世界が、段々とこちらに映し出されていく。

 最初のシーンは、綿毛のように白く落ちていく、まろい雪。青みのかかった灰色の空を見上げては、ひらり降りゆく雪花を眺めていた。
 数回、瞳が瞬いて、目線が下がる。とある看板の前に、人だかりが目白押しに詰め寄っていた。大体が若い学生のようで、騒音にも近い人々の声が、まるですぐそこから聞こえるみたい。
 一体、何を見てるんだろう。あたしは気になって仕方がなかったけど、映画の向こうの主人公は、そこから動く気配がなかった。そして遂には、視線が真下へと落っこちる。その先では、小さな両手が握られていて。隙間には、しわくちゃになった紙切れが挟まっていた。ぽつ、ぽつ、と雪片が乗っかって、赤くなった肌にしんみりと溶け込む。
 きっと、酷く冷たい。だってその子の手は、小刻みに震えていた。どうしようもなく、逃げたくて堪らないと怯えてる風に。

 ……なんて情けないんだろう。

 あろうことか、あたしはこの人物へ、同情なんかよりも先に、漠然とした軽蔑を抱いてしまった。どうしてかは、分からない。でも、あたしの胸の奥には、振り払ったって手に負えないような靄が、湿っぽく絡みついた。
 さっさと、顔を上げてくれればいいのに。焦ったさが足先から脳に、アルコールが回るように、ぐわりと気持ち悪く運ばれる。目眩。吐き気。熱気。寒気。不快感。息が、途切れる。最悪の気分だった。それは多分、この子も一緒なのだろう。だから、弥が上にも、青臭い忌まわしさが肥大していった。
 早く、早く。たかがフィクションを演じる役者に、無駄な感情移入をした。

『――』

 ふっと。悴んだ手に、優しく手が重なる。細くしなやかで、雪が被さったって気づかないような、白雪色。有象無象を突き放しても適切だと言い切れるくらいに、冷ややかな風采で。でも何故だか、触れられてもいないのに、あたしは感じ取ってた。
 この人は、誰よりもあたたかい、光みたいな人なんだって。
 呼びかけた声は、囂しい周りの話し声で紛れてしまっていたけど、どこか鮮明な音をしている。だから主役もあたしも即座に心づいて、隣を窺おうとした。
 だけど、次はあたしの番だったのか。――そっちを見たくない、だなんて。そんな不可解な衝動に襲われる。否定がしたいわけじゃない。拒絶がしたい。重ねられた温度も呼びかけも、全部全部、なかったことにしてしまえたらいいのに!

 情景がゆったりと、起き上がっていく。
 きっと真隣にいるあの人の元へ、首を右に回す。
 止まらない。止まれない。止まってはいられない。
 
 だって、そういう運命だから。


 終幕。
 馬鹿みたいに、呆気なかった。
 
 スクリーンには、もう何も映ってない。再び訪れた暗闇に、あたしの輪郭も馴染んでいく。張り詰めた神経が解けていって、心許なく背もたれに体を預けた。
 次第にライトが照らされて、周辺の様子がぼんやりと浮かび上がっていく。前方には、数十列の座席がある。どの椅子にも人は座っておらず、後ろに残された数列を確認しても同じようだった。あたしが座っているのは、横から数えて丁度真ん中くらい。ここなら首も痛めないし、画面と正面から向き合ってるから、見やすいし凄くいい席だなと思う。……でも。

「もー、いないじゃないですかぁ」

 がらんどうな空間に独り言を零す。あたしの右隣は、当然だというように空席で。なんとなくそうだと察してはいたけど、無闇な期待に恥ずかしくなって、にへらと頬を上げて誤魔化した。
 いてほしかったのか、いてほしくなかったのか。そんなこと、考えたって意味がない。だから、席から目を逸らした。

「? なんでしょう、これ」

 つい、首を斜めに傾ける。その拍子に、襟にかけられたサングラスも傾く。疑問の向こうに見つめられていたのは、あたしの両手。祈るみたいに握られた隙間には、紙切れが挟まっている。組まれた指を抜いて、角の端っこを左手でつまむ。ちょっぴりしわの集まったそれを、矯めつ眇めつ眺めた。
 色は白。形は長方形。触り心地はするっと滑らか。ひらひらと薄っぺらくはあったけど、裂こうとでもしなければ破れることはないだろう。ここがシアターだというのも影響してるけど、名称をつけるならチケットと呼んでもよさそう。そして、恐らく表であろう面には、『90/11/1999』と数字が刻まれていた。 
 
「ん〜……?」

 更に首が傾いていって、終いには真横になりかけたけど、破れるような関節の鈍い音が聞こえたから焦って体勢を戻す。
 この数字以外には、何も表記されていない。例えば、さっき見た映像のタイトルだとか、開始時間だとか、何シアターなのかだとか。そういった詳細が一切省かれていて。下部にはチケットの点線と、上には日付らしきものだけ……なんだけど。

「これじゃ、九十月ってことになっちゃいますね。印刷ミスでしょうか」

 うーん、と頭を捻る。そんな間違いをするだろうか。ここにはあたししかいないんだから、これといった支障はないけど。

「というか、そもそも今って――」

 無意識に漏れた言葉は、ぷつりと途切れる。後ろから、扉の開いた音がしたから。

「……何を考えてたんでしたっけ? ま、いっか!」
 
 チケットをポッケに突っ込んで、あたしは颯爽と立ち上がると、座面は役目を終えて折り畳まれた。いつも通り、ハイカットスニーカーの爪先を揃えようと、足元に視界を滑らせる。
 ぶかぶかとふくらはぎを覆うルーズソックスの下には、スニーカーがあるはずだった。けどそこには、一枚の布が被さっていて。起き上がった弾みに、滑り落ちてしまったのだろうか。不思議に思考を染めながら、その布を拾う。
 ふわふわとした質感をしていて、肌寒さを凌ぐにはぴったりなタオルケットだった。真っ赤っかなカラーリングが、毛布には珍しい。なんとなく、あたしの目の色と似ているなぁって思ったりもした。
 さっきまでは暗くてよく見えなかったけど、立った勢いで落ちてしまったのなら、膝にかけられていたのかも。……でも、これはあたしのじゃない。まぁ、あったらありがたいけど、わざわざ持ってきたりはしない。じゃあ、だとしたら――

「誰かが、あたしにかけてくれた……?」

 どくり。息の上がるような鼓動が、体内で何回も響く。心臓が、破裂しちゃいそう。今、冗談でも針なんかで突かれたら、あたしはきっと死んでしまうだろう。これは冗談なんかじゃない。何もかもがどうでもよくなるくらいに、あたしは本気。だから、もう一度右に振り向いた。
 もしかしたら、いたかもしれない。いいや、きっといたに違いない。あたしの隣で、この手を優しく重ねて、甘く呼びかけてくれる――あたしの『運命の人』が。
 改めてタオルケットを見つめてみる。ただの布だけど、あたしにとってはもう、愛おしいものに他ならない。秘め事を胸の内に隠すよう、ぎゅっと赤色を抱きしめた。

「……さて。映画も終わっちゃったし、もう行かないとですね」

 とっくに終映時間は過ぎてる。次の上映が始まる前に、早くここから出なきゃ。名残惜しいけど、お別れの時間だった。
 毛布を四つ折りに畳んで、あたしの特等席にそっとかける。数秒間ぼうっと立ち尽くすと、瞳をスライドさせて、隣の席と目を合わせた。あたしはほんのり口角をあげると、そこを駆け足で通り過ぎて、座席の列を抜ける。
 通路に出てからちらりと横を見れば、両開きのドアが制限なく口を広げて、あたしを待っていた。きらきらと輝き溢れるその先へと、鍵盤の上で長音階を奏でるようにステップを踏んでいく。
 すると、あっという間に扉をくぐり抜けて、最後に着地したときには外だった。雪みたいに真っ白な薔薇で埋め尽くされた庭園。見慣れた風景だ。いつもなら、そこら辺を適当にぶらぶらと歩き回るんだけど……今はなんだか、そういう気分じゃなかった。キャスケットのつばの向きを意味もなく整えたり。レンガの敷き詰められた地面に何度も爪先を当ててみたり……。

「……よし、ひとっ走りでもしましょう」

 そう決意して、両頬を思いっきり挟みつける。景気付けにはばっちりだった。反射的に瞑った眼を持ち上げると、大幅に一歩を踏み出して、一本道に足底のリズムを繰り返した。長い五線譜の終わりに、誰かが立っていると信じて。
 ――そして、あたしはついに見つけた。
 大好きなあの子にそっくりな、暁色の朧げな瞳を持った、可憐で美しい小鳥のような少女を。
 彼女はあたしに気がついていないのか、こちらに見向きもせず、何かに吸い込まれるよう歩んでいく。薄い撫子色に結ばれたリボンが、ひそかにはためいた。触れてしまえば壊れてしまいそうな、儚いその横姿は、あたしの視界から消えかかる。
 しまった、うっかりと見入ってしまっていた。あたしはより一層スピードを加速すると、急いでその子を追いかけた。
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