Chapter1:Welcome to the White Garden

1 その薔薇を赤に染めてはならない


 静かな軽風に吹かれて、細長い草がさわさわと揺らめく。草が撫でるように頬を触るものだから、少しだけ擽ったい気がした。緑の子供たちに包まれながら、ぼんやりと瞼を起こす。
 すると、空からやっと、朝日が溢れてくる様子が見えた。あまりの眩さに視界はすっかり霞んでしまって、輪郭を捉える程度しか叶わなかったけれど、それでも構わない。待ちに待った輝きに、夢心地に浸るよう目が和らぐ。

 ようやく、この庭にも夜明けが訪れる。

 そしてあの人は、ここから出てあの角を曲がるのだろう。鼓動も聞こえないくらい平らかな心に、再び瞼を瞑ろうとした。

 ポツリ。

 哀しい音が、頬に伝う。
 生温かさのなぞった道には、胸が張り裂けてしまいそうなほどの悲傷が残されている。ポツポツと、それは降り止むことを知らず、さめざめと雫を落としていくばかりだった。
 どうして? そう問いかけたくても、声を出すことはできなくて。でも、でも。わたしはあなたに、伝えなければならないことがあるの。

 ――どうか泣かないで。

 あの人に、この想いが届きますように。
 そう祈りながら懸命に腕を伸ばそうとして、ぷつりと意識が途切れた。


「!」

 はっとして、息を呑む。伸ばされた指の先には何もなくて、開いた拳を段々と緩める。腕を下ろすと、横たわる身を起こして、その場に座り込みながら辺りを見渡した。
 ぐるりと首を回しても、ただ真っ白な世界がわたしを取り囲むだけだった。何故だか打ち拉がれるような事実を突きつけられたみたいで、じっとりと顔が沈む。そのまま力無く、手のひらを見つめた。

 あの人の涙の理由を知りたい。この手で、あの人の哀しみの全てを拭いたい。

 焦がれる願いをぎゅっと握りしめ、乞うように両手を胸元に近づけた。

 ふと、顔を上げる。遠く遠く、無機質に静寂が支配する空間に一点の光が見えて、呆然と凝視した。まるで暁に明かりが差し込むような煌めきに、わたしは喜悦して感動の息を漏らす。
 いつの間にか身体は勝手に動いていて、すぐさまその場を立ち上がると、迷うことなくまっすぐに駆け出した。


 どうか待っていて。
 狭くて冷たい鳥籠から、幼い小鳥のようにこの羽を広げて、わたしは必ずあの人に会いに行く。

 たとえそれが間違いだと否定されたとしても。
 現実をも忘れるような甘い夢に誘われたとしても。
 この身に傷をつけられ朽ち果てたとしても。
 
 わたしは、自分の信じた愛を信じて、あの人の元にきっと羽ばたいてみせる。


 ◆◆◆


 長い夢を見ていた。そんな気がした。ずっと昔のことのようにも思えたし、今この時のようにも感じられて。どこまでも穏やかな心地が流れていく。そう。この穏やかさは、不変と表すに相応しかった。眼には、薄らと粒子の散らばる黒が被さっている。
 このまま深い闇に浮かんだままでもよかった。けれど、わたしの瞳は目覚めを求めるみたいに、自然と開いていって。孤独だった暗がりに、じんわりと光彩が滲んでいった。
 重く、瞼を引き上げる。すると、ぐわりと宵が白く晴れていく。慣れない眩しさが痛くて、ぎゅっと堪えるように瞬きをした。ぼやけた世界はやがて元の形を成して、正面の景色をはっきりと映す。
 周囲を窺ってみる。左にも右にも、わたしを包むみたいに白い薔薇が緑に絡み合っていた。それらは天を仰いでもなお連なっており、アーチ状となって建っている。骨組みが見えないように万遍なく覆われた花々の隙間からは、淡い木漏れ日が僅かにちらついた。
 顔を下げると、上品な茶葉の香りが鼻腔を満たし、机には薔薇の柄のついたティーセットが並べられている。わたしは白いガーデンチェアに座っていて、ティーテーブルを挟んだ先には、一人の男が座していた。彼はわたしが目覚めたことを確認すると、口元に添えられていたカップを優しくソーサーに乗せる。そして、わたしをじっと見つめると、慎ましく微笑した。

「おはよう。ようやくお目覚めかな?」
 
 喉通りのいい、滑らかな声が耳に入る。その瞬間、わたしはぞっと肌が粟立って、漫ろと目を逸らした。彼はただ、わたしに笑いかけただけ。それだけのはずなのに、未だ男から感じた薄気味悪さを払拭することはできなかった。けれど、こう思ってしまうのはきっと――今一度、彼と視線を合わせてみる。
 赤子の魂ように無垢な純白の髪。それと同じ色で縁取られた、長く垂れ下がったまつ毛には、薔薇の茎とよく似た濃い青緑色が隠されている。わたしがどれだけ熟視しても、男は困るどころか不審さすら覚えないようで。見透かすみたいに首を微かに傾けると、丁寧に飾られた青緑のリボンが髪と一緒にさらりと揺れる。あぁ、やっぱり。

 この男は美しすぎる。それも、恐ろしいほどに。

 端的だけれど、わたしの感じた寒気は、これだけで事足りるだろう。この世のものとは到底考えられない、作りもののように脆い耽美だけを組み込まれた男だった。
 呼びかけに応答しないままのわたしに、彼は大して気にする素振りもなく、小さな唇を動かす。

「君は望まれてここにやってきた。そして、君自身が望んできたんだよ。そう、ここ……」

 ――ホワイトガーデンに。

「……ホワイト、ガーデン」

 彼の言葉を繰り返す。それから、不意に後ろを振り返った。

「……!」

 思わず、息が止まった。ガタリと椅子から立ち上がり、小走りに足を急がせる。フラワーアーチを出た先にある階段の上から俯瞰して、目の前へと広がる光景に二の句が継げなかった。
 あたたかな陽だまりに、余すことなく照らされる薔薇園が、わたしを迎え入れる。純朴に咲き誇る白薔薇たちは、わたしを待ち侘びたように嫋やかな花弁を曝した。
 夢の世界にでも迷い込んでしまったのかと錯覚するくらい、壮大で典麗な花園。ここが、ホワイトガーデン。
 瞠目して立ち尽くすわたしの隣に、真っ白な男は音もなく立っていた。彼の手には、善良に降り注ぐ日光から己を守るように、レースのついた白い日傘が握られている。整いすぎたとも言えるほど美々しい庭を見下ろしながら、彼は影の落とされた顔に円やかな表情を浮かべた。

「……あなたは誰?」

 聞きたいことはきっと山ほどあったけれど、最初に選んだ質問は、まず彼についてのことだった。この庭に生きる白薔薇のように、誰よりも美しくて、不気味な男。
 彼は横目でわたしを眺めたあと、ふんわり瞳を細める。蕾が風に揺られるように、ゆったりと体をこちらへ向けた。

「僕はシェイヴィ。ホワイトガーデンの管理人みたいな感じ」

 そう言って、男――シェイヴィはにこりと笑う。

「君の名前も教えてくれる?」

 顔がよく見えるようにくいっと日傘を後ろに傾けると、彼は涼しげにわたしの返答をじっくりと待つ。
 ――名前。その単語を聞いて、思考が固まる。相手に名乗らせたというのに、自分のことはさっぱり思い浮かばなかった。
 ……でも、大丈夫。根拠なんてものはないけれど、わたしには希望ともいえる確信があったから。落ち着いて深呼吸をすると、意を決してシェイヴィに答えた。

「わたしは……サナシア。この名前だけは忘れるはずがないって、そう思うの」

 どうしてそう思うのかは分からない。わたしにとって、この名前が何を意味するのか、どんな存在なのか。それらの価値を探しても、霧の中をさ迷うだけ。
 だけど、わたしはもうこの名の価値を知っている。既にゴールに辿り着いているのだと、そんな自信だけが背中を押した。
 シェイヴィはわたしの解答を聞くと、「綺麗な名前だね」とささやかに賞する。そして、髪色にも劣らないほど色白い手をわたしの頬にひやりと当てた。

「サナシア。ホワイトガーデンは、君の願いをなんだって叶えてくれる。だから怖がることはないよ。君を脅かすものは、もうどこにもいない。難しいことなんて考えず、思うままに過ごせばいい」

 淡々と緩急のない話し方だけれど、彼は砂糖菓子みたいに甘い声でわたしに語りかける。ぽろぽろ崩れ落ちないようにと発される言葉には、どこか重みが乗せられている風にも感じられて。直接心臓へと響かせるような真摯な音色に引き寄せられる。

「……だけど」
 
 時が止まったかの如く動作を止めるわたしに、シェイヴィはぽつりと呟くと、綺麗な顔を近づけた。瞬きをすれば、その長いまつ毛がわたしの頬に触れてしまう。そのくらいの距離に彼はいたけれど、切れ長の瞳はわたしから目線を外さなかった。
 冷めた温度の纏わりついた指先がするりと遠のいて、流れるようにわたしの手を取る。シェイヴィはほんの少し眉を下げて、きゅっとか弱く握ると、宙に舞うみたいに引き上げた。そして、わたしの手は彼の口元にまで運ばれる。シェイヴィは瞼を閉じて、口を開いた。

「絶対にその薔薇を赤に染めてはならないよ」

 断定的な忠告をすると、彼はわたしの手の甲にそっと口づけをした。まるで、誓いを結ぶみたいに。
 接吻が引き金となって、わたしは恰もコントロールされていたかのようだった意識を取り戻す。ばっと掴まれていた手を払って数歩後ろに下がり、シェイヴィとの間隔を置いた。
 先ほどから、彼の言うことは謎めいたものばかりだ。やけに抽象的で、それなのにどこまでも寄り添うような口ぶり。やっぱり、この男はどう考えても怪しい。己の本能は危険信号を鳴らしていた。
 シェイヴィに触れられた手を、片手でぎゅっと抱きしめる。そのとき、とある違和感が与えられた。急いで手元に視線を投げると、わたしは目を見開く。
 そこには一輪の白い薔薇があって、気がついたわたしに花は微笑みかけているみたいだった。
 わたしは顔を起こして、無意識にシェイヴィの姿を求めた。彼はそれ以上告げることもないのか、艶やかに含み笑う。その悠然な態度が厭わしくて、不愉快に眉を顰める。
 警戒心を隠さないわたしに笑顔を返すシェイヴィだったけれど、ふと何かを思い出したのか、くるりと日傘を回転させた。

「せっかくだし、ガーデンを回っておいで。道案内ならアリスが適任だろうから、探してみるといいよ」
「アリス?」
「うん。多分すぐに見つかるよ。彼女は皆を照らし導く、偶像アイドルみたいな女の子だから」

 傘を回す手を止めると、どうやら会話にも終止符が打たれたようで。シェイヴィは「行ってらっしゃい」と細い手を振ると、踵を返してフラワーアーチの中へと戻って行った。足音も立てずに歩く彼の後ろ姿を暫く眺めた後、わたしは再度ホワイトガーデンを見晴らす。
 この箱庭に望まれ、自らここを望んだわたし。そして、この白薔薇。いくら考えても、分からないことばかりだった。けれど、ここで立ち止まってはいられない。二つの手に収められた薔薇の茎に、意志を捧げるよう力を込めた。
 心して前を向くと、一歩を踏み出し、黒色のパンプスで階段を下りていく。軽々とした足取りは、さながら小鳥の羽音のようだった。
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