Chapter1:Welcome to the White Garden

プロローグ


 見栄えも味もしない、冷えたスープを胃に流し込んで、岩でも背負ったかのように項垂れた背筋にシャワーを浴びさせる。おおよそ生活だなんて呼べる暮らしは、とっくの昔に置き去ってしまったのかもしれない。
 地面を踏む気もないふらついた足で歩きながら、自室の扉を開いた。ほとんど本棚を置くために存在する一室には、小さなパレットベッド、そして窓際に面した机だけが配置されている。机上には、空っぽに佇む花瓶に、だらしなく中を曝け出す日記帳が横たわっていた。つい、鬱屈なため息が零れる。気を落とすみたいに腰をかけて、赤く悴んだ左手に万年筆を握った。
 特段綴ることなんてない。毎日毎日、同じような時を繰り返している。……いや、進んですらいないのか。俺は止まった指針という狭い場所に、体を無気力に預けているのかもしれない。

「もしそうだとしても、どうだっていい」

 二〇〇七年 十二月十一日
 今日こそは何か書き残そうと、久方ぶりに日付を記す。けれども、一行目にはいつも一点のインク溜まりが滲んでいくだけだ。こういう時は、と縋るように、今朝目に通そうと思っていた新聞紙に視線を落とした。だが、瞳に映る景色はノイズがかかったようにぼやけている。
 あぁ、失念していた。最近は細かい文字を読むのが億劫であるというのに、肝心の老眼鏡は洗面所に置いたままだ。少し太い眉頭を指で押さえたのち、諦め混じりに濁った眼球でも読めるものを探した。
 見出し程度の大きさの文字を適当に流し見ても、いたって平凡なことばかりで、今日も日記に記せるような出来事はない。書くことがないからと新聞に頼りきりなのも如何なものかと、相変わらず己には呆れるばかりだった。
 折り目も無視してそれを閉じようとするが、どうやら見落としていたらしい端の部分が目に入る。そして、淡々と並べられた文に、些か顔を歪めてしまった。

『海辺の村で三人の遺体が発見』
 
 確かにそう書かれていた。新聞紙を少し離して、まじまじと凝視する。
 そのうちの一人は、海の中で発見された。身元は行方不明だった大人気舞台女優らしく、記事にも大きく取り上げられている。知名度のある芸能人のようだが、生憎俗世に興味を持てない自分にはよく分からなかった。
 彼女は劇団内での陰湿ないじめや愛するファンからの誹謗中傷を受けていたようで、その果てに自死を選んでしまったのではないかと、詳しい調査が進められている。
 『痛ましい悲劇により幕を下ろした一等星エトワール』と、彼女の死を弔う言葉はたったの数文字で表されていた。
 残りは村の古びた屋敷に暮らす夫婦のようで、二人は住宅火災の焼け跡から見つかった。外部からの侵入や室内を荒らされた形跡はなく、現場の状況からも無理心中を図った可能性があるとのこと。
 というのも、司法解剖の結果、女性の死因が首を絞められたことによる窒息死だと明らかになったからだった。加えて彼女の体には、幾度となく痣や傷がつけられた痕があり、夫から日常的に暴力を受けていたかもしれない……と。

「……馬鹿馬鹿しい」

 くしゃりと一面を握りしめて、すぐさまくず入れに投げ込んだ。自殺や心中など、正気でない。海に身を投げた女優も、炎に身を焼き尽くされた妻も、間違いなく殺されたのだ。

 ――愛という、薔薇の棘のように鋭い痛みによって。

 またしても空白の埋まらないページを叩きつけるように閉じると、ぐっと机の隅へと滑らせる。真紅に彩られた表紙からどうしようもなく瞳を逸らしたくなって、堪らず窓の外を仰いだ。手入れの悪い庭を通り過ぎると、そこには水晶のように冷ややかな月が、俺を夜空から眼下に見下ろしている。夜明けを忘れて浮かび続ける白色に、何故だか胸を抉られて仕方がなかった。
 そっと、脱力した指先でカーテンを引いて、月影を遮断する。音も光も届かない部屋の中で、机の上に置かれた花瓶が一筋の涙を流すように輝いた。侘しい煌めきも束の間、一室は暗闇へと静まり返る。そしてとうとう、深く閉じこもるように机に伏した。泣き腫れた目元を何度も腕に擦り付けて、枯れを知らぬ雫をぼたぼたと惨めに落とすと、やがて固く瞼を瞑るのだ。


 愛は何も証明しない。
 真実でないことを我々に信じ込ませ、心に離れない傷をつけて死にまで追いやる。
 だから、俺は。

 決して愛を信じない。
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