Chapter1:Welcome to the White Garden
8 愛するべき家族
シャンデリアから落ちる明かりが、ここに住む家具を紹介するみたいにはっきりと色めいている。暖色じみたライトが降り注ぐ方向へと、ゆっくり首を回した。
艶を滑らせるセピアブラウンの壁には、叙情的で見事な絵画が数々飾られている。作品の趣深さへ力を添えるように囲む額縁でさえも、抜かりなく立派な光沢を湛えており、ただの芸術品としてその場に突っ立っているわけではないのだと、自慢げに教えてくる佇まいだ。
絵画の下には、彼らの態度とは真逆に、瞼を伏せた老年者のような落ち着きを備えた本棚が居座る。わたしが片手で持ち上げるには少し苦労しそうな厚みの書物が、指導者に点呼されて集まったかの如く、きっちりと列を乱さずに並んでいた。医学書の類だろうかと、わたしはふとヘレンさんを思い浮かべた。
「それでですね……」
ウキウキとした話し声が、すぐ横から流れてくる。あぁ、いけない。またぼうっとしていたかも。そう気づいて、わたしは彼女の方へ視線を投げた。
「お城までは、ボートで湖を渡ってきたんです。サナシアさんのことが心配で、じっくりと堪能できたわけじゃないんですけど……。でも、薔薇色に染まった湖には白鳥さんにイルカさんもいて、すっごく綺麗だったんですよ!」
二人掛けのソファに座って、仲良しこよしと引っ付いてくるミラージェンが、物語の主人公みたいに会話を盛り上げる。彼女の声はまっすぐとよく通るのに、茶葉を香るような安らぎをも齎す。だから不思議と、聞きたくなってしまう。こんなことを思うのは、わたしだけだろうか。
ミラージェンは、私が倒れている間のことを話してくれた。アクアリウムからここにくるまでの経緯や、目に映った景色、何より彼女の感情を。この部屋に訪れてから、ミラージェンはわたしにぎゅっとくっついて離れようとしない。話の節々から伝わってはきたけれど、心配や不安が、喉に小骨が刺さったのと同じみたいに、抜けきらないようだった。それでもこの子は、何度も無事でよかったと笑う。
「お気に召していただけたようで何よりだよ。私たちも、あの美しい景色を舟から眺めるのはいっとう好きなんだ」
静かなせせらぎのような目尻を下げて、ヴィクターさんは笑む。城の主である彼は、ミラージェンからの称賛に喜びと感謝を表して、胸元に滑らかな仕草で手を添えた。
目が覚めたときは自分のことしか頭になかったけれど、いざ改めて現状を整理すると、わたしは大きなお城にいる……らしい。外観を知らないから、大きいと言われても大して実感が湧かなかった。
だけれどよく考えれば、この部屋にも最初にいた部屋にもシャンデリアがある時点で、予想は立てられたのかもしれない。家具はどれも上質で如何にも高級品だ。
皺もなく敷かれたマットの質感が気持ちよくて、つい足裏を擦り付けたくなるけれど、ふんわりと足を包むスリッパが自制心を守ってくれている。きゅっと紐を結ぶみたいに、気を引き締めて脚を揃えた。
「我慢はよくないな」
「?」
「もっと身軽にね」
内心を見透かされたのかと、押し潰されるように肩が引き伸ばされる。けれど、ヴィクターさんは気遣いとして声を掛けてくれただけなのか、軽く瞬きをするとわたしから瞳の宿主を変えた。
「アリス、キミが櫂を漕いだのだろう? 羨ましいな、是非次は私たちも乗せてくれたまえよ」
「あら、それは素敵。彼と二人きりより、きっと心躍る旅路になることでしょうから」
上機嫌な声色が二つ、ワルツを踊るように運ばれる。それらは一人の少女宛だ。
「だから……だから来たくなかったのに……っ」
ローテーブルの先にあるソファの真ん中に座るアリスが、体だけに留まらず喉をも震わせて、果実を絞り出すよう声を零す。わたしはおずおずと彼女の姿を窺った。
「えぇやはり、ワタクシの目に狂いはありませんでした。海の泡のように白い肌に、小動物と見間違えるほど愛らしいお顔立ち……。アリスさんにはこちらのドレスがお似合いになると、ワタクシ確信しておりましたの」
アリスの右隣に座るヘレンさんは、つぶらな胡桃色をうるうると輝かせて、恍惚と魅了されたように満足げな息を吐く。
真っ白な生地に、何層も重ねられたフリルやレース。あちらこちらにと装飾を施されたリボンに、幼さを引き立たせるフリルカチューシャ。お砂糖を振りかけたようなふわふわに守られているアリスは、豊かな国の王妃さまに大層可愛がられている小さなお姫さまみたいだった。
「こんなおままごとみたいなファッション、誰が好んで着るのよ!」
アリスは信じられないといった顔つきで語気を強める。明確に苛立ちを突きつけたかったようだったけれど、ヘレンさんはときめきを隠さない眼差しでアリスを視界に閉じ込めて、熱烈なアプローチの如く両手で彼女の手を握った。
これは多分、聞いていないし効いてもいない。片眉を釣り上げるアリスは今すぐ逃げ出したいと距離を取ろうとした。
「ままごとだなんて、そう恥ずかしがらないでおくれ、アリス。瞳も蕩けてしまうかのように甘い繕い……あぁ、なんとも甘美だ……。これはキミにこそ纏える、特別な衣装じゃないか!」
だけれど、その些細な抵抗でさえも、ダンスで手を取り合うようにするりと受け止められる。アリスの両肩に手を乗せたヴィクターさんは、興奮冷めやらぬといった有様で彼女を離さなかった。
「あああもう! ベタベタ触んないで! 両隣から同時に意味分かんないこと喋らないで!」
我慢の限界だと、アリスは勢いよく、けれどもヘレンさんが跳ね返って背もたれにぶつからないように腕を払う。それから手持ち無沙汰になった指の先を拳に変えて、容赦なくヴィクターさんを殴った。
「おやおや」
「あらあら」
ピンと来ていないようでいて、ワクワクを隠さない夫婦の感嘆詞が揃う。ヴィクターさんは暴力を振るわれたとは微塵も思わせない仕草で、アリスの拳を花弁が閉じるように包んだ。彼の面持ちは依然として裏表なくにっこりと優しげで、その能天気とも取れる鈍さはますますアリスを徹底的に苦しめる。
「さぁ、踊りたまえ!」
「! ちょ、なによ……!」
ヴィクターさんはぐいっと、アリスの手を降ろす。すると、テーブルの下から小人たちが飛び跳ねて、アリスの指をがっちり掴むと強引に彼女を連れ去った。
けらけらと幼子らしい笑い声を奏でながら、小人はアリスを軽やかに弄ぶ。焦りと怒りがしっちゃかめっちゃかになりながら、文句を投げるアリスのドレスが綿毛のように揺れていた。
「アリスさん可愛い〜! ああいうお洋服を着こなせるなんて凄いなぁ」
嫌がるアリスをミラージェンは傍観する。わざわざ小人たちの行動を止めないあたり、この子もちゃっかりしているなと思う。それはわたしも……かもしれないけれど。
「……はっ! サナシアさんも絶対絶対似合います!! というか見たいですー!」
「うーん、そうかな……?」
さながら最強のアイデアが思いついたように、ミラージェンははっと息を飲み込むと、鼻息を荒くしてわたしに熱弁をふるう。
可愛らしい服装だけど、見ているだけならまだしも、自分が着るとなると勇気がいる。どこか遠い存在のように胸を高鳴らせるくらいが、わたしにはきっとぴったりだった。
「ミラージェンちゃんも着てみたら? きっと可愛い」
いつもはボーイッシュなコーディネートだけれど、少女らしく愛嬌のある彼女にも、女の子らしい雰囲気の洋服は似合いそうだ。
それに、アリスに目を凝らすミラージェンの真紅色は、どことなく憧れが溢れ出さないように膜が張られていた。
ヘレンさんにお願いすれば快く了承してくれるだろうし、ミラージェンも乗り気で賛同するだろう。そう考えて、わたしは提案した。
「まっさかぁ」
彼女の動きは口調とは不相応に、ちょっぴり大人びたみたいに静かで利口だった。瞬きの回数も、唇の描き方も、髪に触れる手つきでさえも、そのどれもが計算し尽くされた映像のように映る。
「サナシアさんってば褒め上手なんですから〜。あたし、ヘレンさんにもぴったりだと思います! 自分では着ないんですか?」
ミラージェンはわたしの提案をさらりと流すと、人当たりのいい笑顔を絶やさぬまま、元気よく手を挙げてヘレンさんに話題を振った。
「花にも咲き頃がありますから。ワタクシにはもう過ぎ去ったことですし、十分でございますことよ」
アリスと小人のダンスをじっと直視していたヘレンさんは、ミラージェンと視線を交わすと、淡々と答えを提示した。ヘレンさんらしく彩られた言葉に哀愁などは帯びておらず、むしろ秋の泉のように清々しく透き通っている。
「ヘレン、キミはなんと光風霽月で清らかなのだろう! だけれどね、キミの可憐さが朽ち果てることはないよ。キミの黄金の花弁はどんなときも、太陽の欠片を集めたかのように輝いているのだから」
穏和なヴィクターさんの声が偉大なる感動を訴える。彼は爽やかなヘレンさんの応答を否定することなく、古びた人形をありのまま抱きしめるように、ヘレンさんの全てを肯定した。
「ヴィクターさんとヘレンさんは、昔からのお付き合いなんですか?」
「あぁ、そうとも」
彼は深く頷いた。モノクルのチェーンがさら砂みたいに流れる。
「いたいけな彼女の姿だって、私の記憶から零れ落ちることはない。キミたちは今此処に咲き誇る彼女しか知らないだろうけれど、彼女は小さな蕾を眠らせていたころから、変わりなく英明で見目麗しかったのだよ」
ヴィクターさんは永久の愛を夢想するように眼を閉じる。瞼の裏にこびりついた思い出を、崇高にも懐かしむ。幾つもある扉の持ち手を捻って、描かれた風景に鮮やかな心を騒めかせ、初めましてと久しぶりを告げるみたいに。
再び現実に呼び起こした彼の瞳に濁りはない。いつまでもロマンに満ちた冒険へと連れ出してくれるようなからくりだ。
彼はアリスの残した空席の先に座るヘレンさんへ目を注いだけれど、それはごく僅かな間だった。不意にヘレンさんも彼を一瞥したようだったけど、二人の目線はすれ違う。
「ふむ、そうだね。ここで一つ昔話を。あれはヘレンが初めて、お菓子作りに挑戦した日のことだ……」
「……アナタ」
ヘレンさんは語り口調になり始めたヴィクターさんの袖を引くように呼びかける。けれど、その合図が彼には上手く伝達されなかった。
「キミも覚えているかい? あの日は愉快だったね。ワタシに任せてと胸を張るキミの頼もしさに、私は感激した! 未知なる世界へと邁進する少女の何たる気高さ! 彼女に介入することは禁忌のようにも思えたからね、私はただそばで見守っていたのさ。いやはや……しかし予想もつかなかったな。まさか、オーブンの中で行われる真っ暗闇な宴に招待されるだなんて!」
「ヴィクター」
「皆煤だらけになってしまったけれど、私たちは新たなファッションを発見することができたんだ。うむ、何度思い出しても素晴らしい。そういえば、最近はそういった催しを見かけないね。また招待してくれると嬉しいのだ――」
「ヴィクター」
「あぁ、ヘレン。過去も今も、キミは私を幸福へと導いてくれる。どうか感謝を伝えさせておくれ、いつもあり――」
「お黙りなさい」
ピシャリと、その場が凍りつく。人目など構わず踊っていた小人は、身を隠すみたいにアリスにしがみつき、ミラージェンも汗を浮かべている。冷気だけを詰め込んだヘレンさんの命令に、ヴィクターさんは雷にでも打たれたように固まっていた。
「クッキーが焼き上がっている頃合いでしょう。準備に参りますので、少々失礼致しますわ」
あらいけない、と腰を上げて、ヘレンさんは部屋から出ようとする。ヴィクターさんは急いで立ち上がると、彼女の小さな背中を必死に追いかけた。
「ヘ、ヘレン。私も同行しよう。あの量をキミ一人で運ぶのは、手間がかかってしまうだろうから」
「お客様を残して席を空けるだなんて礼儀を欠いた振る舞い、家主であるアナタがしてどうするのです?」
「それはそうだけれど……」
おどおどとたじろぐヴィクターさんの挙動は珍しいものだった。それとは対極に、ヘレンさんは平然としている。
「アナタの助けなど不要です。ワタクシにはこの子がいますのでお構いなく。それでは」
規律的な正しさを与えると、彼女は肩にいるネズミを撫でつける。灰色の小動物がちゅーと鳴いて、その声には勝気で子供らしい憎たらしさが見え隠れしていた。
肯定も否定も口出しさせず、ヘレンさんは扉を潜り抜けていく。彼女を引き止めようとしたヴィクターさんは、伸びた腕を更に伸ばすことはできなかったのか、ただ立ち尽くすだけだ。
「ヴィクターさんが悪いです……」
「なんと……!?」
若干申し訳なさを加えながらも、ミラージェンは事実を述べる。ヴィクターさんは飛び跳ねるように少女の方へと振り返った。
「自分の失敗談をぺらぺらと、しかも楽しそうに喋られちゃったら、そりゃ恥ずかしいじゃないですか!」
「失敗談などではないさ! 幼い彼女が初めて勇気の一歩を踏み出した、誇らしく健気な物語じゃないか!」
「そういう言い方だと尚のこと惨めで仕方ないんですってばー!!」
親に己の意見を主張するよう全力で体を動かし声を張るミラージェンに対抗して、ヴィクターさんもまたお腹の底からオペラを歌うように大きな声をあげる。まるで議論をぶつけあっているみたいな光景だった。
けれど、どうやら勝利はミラージェンの元に舞い降りたらしい。ヴィクターさんは大打撃を喰らって、がっくりと膝をついては項垂れてしまった。
「理解し難い……だが、考えなければ……。あぁ、ヘレン。愚かにも私の犯した間違いで、キミを傷つけてしまったというのならば、私は……」
ヘレンさんに厳しく突き放されたヴィクターさんは、愛してやまない恋人から別れを告げられたようで。笑い事ではないけれど、率直に言えば喜劇的な失恋の描写とそっくりだった。
でも、気の弱った彼から流れ出る感情は、見返りを求めるにはあまりにも一途だ。ハートを真っ二つに割られた悲しみではなく、自ら心臓に何本もの針を刺すような、献身的な愛情。
わたしの胸が、誰かに直接人差し指で触れられたように、どくんと動く。
「あの……」
「おっと……すまないね、お客人の前だというのに。これではヘレンに合わせる顔もなくなってしまうな」
「そんなこと、ないですよ。ちゃんと自分の気持ちを伝えれば、ヘレンさんも耳を傾けてくれます」
ちらりと顔をあげたヴィクターさんは、面目ないと笑った。彼は軽々しさを忘れた身を起こして、素早く身なりを整える。
帽子を被り直して、モノクルをあげて、長い襟足の毛先を揃えていく。最後にフロックコートについた汚れを綺麗に払うと、普段通りのヴィクターさんがいた。ヘレンさんの夫であり、この大きなお城の主人である彼が。
「……魔法みたい」
愛する人のための、とっておきのマジック。
それはもしかしたら、本物の自分を潜めてしまうかもしれない。だけれど、その健気さが優しかった。
ヴィクターさんがヘレンさんを愛したいという言動に、妥協や諦観は一切含まれていない。ただ彼女を大切にしたいだけだ。けれど、上手くいかずに空回っている。
「ヴィクターさん」
「何だね、サナシアくん」
彼がこちらに歩み寄った。わたしと目線を合わせるヴィクターさんは、緩やかに小首を傾げて返答を待ってくれている。寛容な人だった。その懐の広さに甘える形で、だけれど自分自身の意思で、わたしは唇を開く。
「その……おもてなしのことだったりは、あまり気にしないでください。ヴィクターさんの立場だと、こんなこと言われても困らせちゃうかもしれませんが……。わたしたちは主と客というよりも、対等な友達になれるような、そんな気がするんです」
ここがもし御伽話の中だったら、王さまになんて不敬極まりないのだと、わたしは捕まってしまうかもしれない。
でも、城を守る王さまにだって、悩みはある。その悩みが実は、大好きなお姫さまに喜んでほしくて頑張っているけれど失敗ばかりだとか、そういうものだったりもするのだ。
きっと誰だって、息抜きが必要。王さまが気兼ねなく話せるような友達に、わたしはなりたい。
椅子から立って向き合うと、わたしはもう一度彼に手を差し伸べた。
「……そうだったね。私もそんな予感がしていたんだ。そう……さながら春風が運ばれるように」
合点が行ったように頷いて、ヴィクターさんは気が抜けたみたいに染まった頬に笑みを含ませた。
ヴィクターさんの手が、わたしの手を握る。彼の手は変わらず硬かったけれど、最初の握手のときよりも愛着が湧いた。
手を離して、わたしは席につく。彼は自分の椅子に戻ろうとしていたけれど、空けておいたわたしの隣を見やると、嬉しそうに腰をかけた。
「ヴィクター、ちょっとした我儘を聞いてくれる? わたし、あなたとヘレンさんの出会いの話が聞きたくて」
「わー! はいはい、あたしも聞きたいです!」
「はは、勿論だとも。いざ物語るとなると、些かばかり照れくさいのだけれど」
横にいる彼を覗き込みながら、少し無邪気に強請ってみる。ヴィクターならどんな欲張りだって受け入れてくれると、わたしは知ったから。
甘えたお願いに、ミラージェンも分かりやすく同調した。歳下の少女二人からの要望に、ヴィクターは不満を醸すことなく愉快そうに応じる。それから彼は言葉の通りにはにかんだ。
「一目惚れさ、互いにね。ひと目見て、彼女は私のことを「大好き」だと、慈愛に満ちた表情で囁いてくれたんだ。傷だらけで、見窄らしくて、醜さだけを授けられたような私に、ヘレンはまっすぐな愛を与えてくれたのさ。私の表現する言語では、彼女を語り切ることなど出来まい」
ヴィクターはわたしたちから目を逸らして、愛する人だけを想う。一言一句に、これでもかと幸せが溢れていた。収まりきらないことを分かっているからわざと溢れさせて、けれどもその幸福が滴らないよう大切に包んでいる。
彼には支配欲がなかった。貰ったものを自分の中だけで、お守りのように大事にしている。それを他人に見せることに躊躇がないし、むしろ知って欲しいのだと見せびらかす。
「あのあの! プロポーズってどっちからですか……!?」
「彼女だったかな。私はこの通り軟弱者だからね」
「ひゃ~っそうなんですね!? ヘレンさんかっこいい……。もうあたし、どきどきが止まらないです!」
心臓を押さえつけながら、ミラージェンは乙女心をはつらつに放つ。ヴィクターさんは馬鹿にするわけでもなく、にこりと微笑んだ。
「……こんな私だけれど、ヘレンを心から愛しているんだ。彼女のためなら、何だってしてやりたい。わざわざヘレンが苦労することはない、私が全てを引き受けよう。だから彼女は、お菓子を作ったり、小人たちと遊んだり、キミたちとお喋りをしたり……そのように楽しいことだけしてくれればいいんだよ」
声色が、静寂に響いた。その振動によって、ふっとマッチ棒の火が消えてしまうみたいに。
「暖炉の灯火のよう緩やかに揺らめき、重たい煤の色も報われるこの感情は、きっと本物さ」
――またこの感覚だ。
酷く窮屈で、呼吸することができない不自由さ。ヴィクターの純真で自由なはずの愛が、囚われている。
それは、アリスがエイプリルに向けるものと瓜二つだ。二人の愛情は決して支配的ではないのに、必ず不自由だった。
「その長話、まだ続くわけ?」
ため息を交えながらアリスが横槍を入れた。小人たちは彼女を気に入ったのか、愛でるように手を繋いでいる。振り解く気も失せたらしいアリスは、そのままこちらに戻ってきた。
「こんなにも大らかな指針の歩みに、私たちが急かされるようなことはないだろう? うっかり頬が緩んでしまうくらいに、面白可笑しい話を沢山しようじゃないか」
誰もいないソファにどっしりと身を沈める彼女を、ヴィクターは気さくな口調で宥める。それから彼はアリスの隣に馴れ馴れしく座り込んだ。ヴィクターの態度の全てが気に入らないのか、アリスは見せつけるようにそっぽを向いている。
そういえば、今は何時なのだろう。わたしが倒れて、ヘレンさんから看病を受けて、みんなと集まって。一時間はとっくに経っている、はず。
……いや、どうだろう。意外にも物事は淡々と進んで、一時間程度に収まっているのかもしれない。わたしの体内時計は応答しなかった。
だから部屋を見渡して、時計を探した。けれど、どこにもない。秒針の音が息絶えた空間は、こんなにも無が蔓延るものなのかと、わたしは一種の恐れを覚えた。
針が時を刻む足音は、己が生きていることの証でもあるのだ。ほんの小さな音色を忘れるだけで、わたしたちは簡単に生きる意味をも無に奪われてしまう。
「どうかしたのかい?」
ヴィクターの声だ。無音に囲まれて途方もないような気分に陥ったわたしに、彼の和やかな声はよく沁みる。でも、垂れ始めた冷や汗は止まらなかった。
わたしは何をしていたのだろう。こんなところで道草を食っている場合ではないのに!
「帰るの……わたし、帰らないと……」
早くここから出なければ。何としてでも、必ず。そう意思を固めているはずなのに、目まぐるしく動かされた眼球に精神すらも振り回されて、乗り物酔いでもしたみたいに気持ちが悪い。それでも何とかと会話を紡ぐ。
ヴィクターなら、助けてくれる。わたしは懸命に、奥底へと落としてしまいそうだった真意を引っ張り上げた。
「というと?」
「……え……?」
でも。彼は温厚な相好を、わたしのために崩してはくれない。不可思議を尋ねる物腰にしては独特だった。
「キミは私たちと同じように、望んで此処に来たのだろう? それに、帰る家だって此処にある。サナシアくん、たとえばこの花園から出たとして、一体キミは何処に帰るというのかね」
社会、教養、知識、そればかりか世の理を熟知したように、ヴィクターは告げる。なだらかな言い回しに波が立つことはないけれど、彼の温顔がそこはかとなく真面目さに偏っているように思えた。ヴィクターの隣で肘掛けに頬杖をつくアリスも、何も言わずわたしを横目に見つめる。
反論を展開しなければ。微睡んだ空気に飲み込まれてはならない。時針も分針も秒針も、わたしが指し示すものなのだから。
呼吸をすると上半身が震えたけれど、黙らせるように拳を握った。わたしはヴィクターとアリスに向き直る。
だけれど、わたしの手を引く存在は他にもいた。ミラージェンが真紅の瞳で真摯に懇願してきて、腕を掴む力を強める。彼女が口を開きかけた。
「そ……」
「その通り」
頭上から、知らない声が降り落ちる。それから、大きく長細い指先がわたしの両頬を包んだ。導かれるように、顔を仰ぐ。
わたしを覗き込む、美しい人がいた。うねった茶髪は樹木の根のようで、ぼんやりとした灰色の眼には犯し難い貴さがある。女性的な見た目だけれど、父のように貫禄の備わった雰囲気から、この人物が男なのだと理解させられた。
「やっと見つけた」
麻痺でもしているのかというほどに固定された顔のパーツのうち、唇だけが微かながらに動かされる。
彼の呟いたそれは機械的だったけれど、わたしと触れ合う肌は、あたたかすぎるほどの熱を持っていた。どうしてか、わたしはその温度を涙のようだと、連想せずにはいられなかった。
「うえっ誰ですか!?」
「どちらサマ?」
「招かれざる客のようだ。私は大歓迎だがね」
突如現れた男に対して、三人はそれぞれの反応を示す。男は周囲から浴びる注目など気に掛ける理由もないのか、初めからそこにいないもののように扱って、ただわたしだけを認識していた。
彼はゆっくりとした足取りでソファの前までやってくると、ミラージェンをわたしから引き剥がす。その動作は弱々しい婦人のようだったのに、ミラージェンはされるがままに端へと追いやられる。男はわたしとミラージェンの間に、堂々と姿勢を正して浅く座した。
「……この身はいつ何時も、待つばかりでしたから、迷子探しは不得手なのです。それゆえ、無駄な時を要してしまいました。貴方は……無鉄砲なところがありますから……」
一息ついてから、彼はわたしを凝視しながらぼそぼそと小言を続けていく。最初は独り言かと勘違いして困惑してしまったけれど、どうやらわたしのために用意された発言だったようで。
まだ状況を把握しきれていないわたしに気がつくと、男ははっとして、口を塞ぐために綺麗な手を唇に当てた。
「……油を絞っている場合では、ありませんでしたね」
ばつが悪そうに瞳を伏せたけれど、彼は何事にも動じることなく起き上がる。
男はわたしの真正面に位置すると、長いレースヴェールを神秘的にはためかせて、迷い子に明かりを灯すよう腕を差し伸ばした。
「さぁ、私の手をよく握りなさい。決して離さないで。もう貴方が、道などに迷わぬように」
男はわたしのために、腰を屈めたり跪くことは決してないだろう。だけれど、まるで大樹のように佇むその姿が、この男には素晴らしいくらいに相応しいのだった。
わたしは休まった沈黙のままに、謎へと包まれた男の手を取る。すると彼は、どこか安堵したみたいに灰色を細めて、わたしの手をぎゅっと握りしめた。
「ま、待ってください!」
狼狽えた叫びが聞こえたけれど、わたしの耳には入り込まず遠のいていく。わたしは男に手を引かれて、客間を出ていった。
扉の先は、当然城の廊下だった。けれど、その眺めは霞んで消えていく。お湯を掻き混ぜるようにぐにゃりと歪みを作って、わたしたちを強制的に、じっくりと吸い込む。次に意識が明確となった瞬間には、もうそこは城の中ではなかった。
柔らかな芝生が陽だまりに照らされて、エメラルドのように煌めく。そよそよ吹く温風は、機嫌のよい少年が奏でる口笛を思わせた。晴天は千切れ雲を運ばせながら、正午のぬくもりに欠伸を広げている。そんな空の下で、こぢんまりとした一軒家がわたしを待っていた。
男は革製のサンダルで芝生を踏みしめて、わたしを連れ出していく。大きな背中を、わたしは追いかけていた。その刹那、ふと彼が首を後ろに回す。
「己の名を、声に出してご覧なさい」
「あ、えっと、サナシア……です……」
初対面で交わすには当たり前の質問なのに、わたしは戸惑った。この人なら知っているのではないかと、勝手に思い込んでいたらしい。可笑しな話だ。
「……そう……」
彼は特にといった返しはせず、わたしの名前を受け取るだけだった。
やがて、男は足を止める。そよ風よりも落ち着いた様子でわたしに振り返った。彼はわたしの手を離さず、慈しむように両手で抱え込む。それから、名残惜しそうに片手を離すと、家のドアを開いていった。
「私の名はクエルクス。貴方の父であり、愛するべき家族。私たちは、貴方の帰りを待っていました」
おかえりなさい。
温もった声が、わたしに幾つも届いた。
◆◆◆
あの子の声が聞こえる。
あどけない清純さに、心を癒すように円やかな囀り。
撫子色に染まった髪が靡いて、こちらを見返った。彼女が手を伸ばす。僕も、その小さな手を握ろうとした。
握ろうとした? 違う。僕は、掴もうとした。あの子を、繋ぎ止めようとした。何度も何度も何度も、虚弱に組み立てられた骨が砕けてしまいそうなほどに、強く、この手を伸ばす。
でも、僕の手のひらには、中途半端に溶けた雪の一欠片が残るだけだった。淡い吹雪は、いつだってあの子を連れ去っていく。こんな世界に、僕を置き去りなんかにして。
あの子を奪う冬が大嫌いだった。冬なんてこなければいいのにと、気分屋に舞い降りる純白な結晶たちを一つも逃さず恨んだ。僕から溢れた哀しみや憤りの一筋すらも、彼らの凍えた体に撫でられてしまえば、まんまと吸い取られていく。
呆気のない理不尽に、僕たちは諦めて笑えばいいのか。眼を掻きむしって痛めつければいいのか。全てを忘れて、なかったことにすればいいのか。
そのどれもが、僕にとっては有象無象に等しい。
冬があの子を攫っていくのならば、永久なる春を作ればいいのだから。そこには雪なんて身勝手な罪は降り注がない。麗らかな陽だまりだけが、彼女を守ってくれる。
僕は背もたれに軽く体重を乗せて、目先に浮かび上がるスクリーンに描かれた映像を眺めた。
可憐な少女――サナシアが帰るべき家に辿り着いたらしい。彼女の驚いた表情に、くすりと口角が上がった。
ようこそ、ホワイトガーデンへ。
始まりも終わりもないこの箱庭で、幸せな夢を見続けよう。
そして、僕たちの望んだ夢は、やがて現実になる。
ぷつり。画面が暗闇に切り替わる。
僕は膝に掛けていた真紅色のタオルケットを畳むと、シアターの席から立ち上がった。
シャンデリアから落ちる明かりが、ここに住む家具を紹介するみたいにはっきりと色めいている。暖色じみたライトが降り注ぐ方向へと、ゆっくり首を回した。
艶を滑らせるセピアブラウンの壁には、叙情的で見事な絵画が数々飾られている。作品の趣深さへ力を添えるように囲む額縁でさえも、抜かりなく立派な光沢を湛えており、ただの芸術品としてその場に突っ立っているわけではないのだと、自慢げに教えてくる佇まいだ。
絵画の下には、彼らの態度とは真逆に、瞼を伏せた老年者のような落ち着きを備えた本棚が居座る。わたしが片手で持ち上げるには少し苦労しそうな厚みの書物が、指導者に点呼されて集まったかの如く、きっちりと列を乱さずに並んでいた。医学書の類だろうかと、わたしはふとヘレンさんを思い浮かべた。
「それでですね……」
ウキウキとした話し声が、すぐ横から流れてくる。あぁ、いけない。またぼうっとしていたかも。そう気づいて、わたしは彼女の方へ視線を投げた。
「お城までは、ボートで湖を渡ってきたんです。サナシアさんのことが心配で、じっくりと堪能できたわけじゃないんですけど……。でも、薔薇色に染まった湖には白鳥さんにイルカさんもいて、すっごく綺麗だったんですよ!」
二人掛けのソファに座って、仲良しこよしと引っ付いてくるミラージェンが、物語の主人公みたいに会話を盛り上げる。彼女の声はまっすぐとよく通るのに、茶葉を香るような安らぎをも齎す。だから不思議と、聞きたくなってしまう。こんなことを思うのは、わたしだけだろうか。
ミラージェンは、私が倒れている間のことを話してくれた。アクアリウムからここにくるまでの経緯や、目に映った景色、何より彼女の感情を。この部屋に訪れてから、ミラージェンはわたしにぎゅっとくっついて離れようとしない。話の節々から伝わってはきたけれど、心配や不安が、喉に小骨が刺さったのと同じみたいに、抜けきらないようだった。それでもこの子は、何度も無事でよかったと笑う。
「お気に召していただけたようで何よりだよ。私たちも、あの美しい景色を舟から眺めるのはいっとう好きなんだ」
静かなせせらぎのような目尻を下げて、ヴィクターさんは笑む。城の主である彼は、ミラージェンからの称賛に喜びと感謝を表して、胸元に滑らかな仕草で手を添えた。
目が覚めたときは自分のことしか頭になかったけれど、いざ改めて現状を整理すると、わたしは大きなお城にいる……らしい。外観を知らないから、大きいと言われても大して実感が湧かなかった。
だけれどよく考えれば、この部屋にも最初にいた部屋にもシャンデリアがある時点で、予想は立てられたのかもしれない。家具はどれも上質で如何にも高級品だ。
皺もなく敷かれたマットの質感が気持ちよくて、つい足裏を擦り付けたくなるけれど、ふんわりと足を包むスリッパが自制心を守ってくれている。きゅっと紐を結ぶみたいに、気を引き締めて脚を揃えた。
「我慢はよくないな」
「?」
「もっと身軽にね」
内心を見透かされたのかと、押し潰されるように肩が引き伸ばされる。けれど、ヴィクターさんは気遣いとして声を掛けてくれただけなのか、軽く瞬きをするとわたしから瞳の宿主を変えた。
「アリス、キミが櫂を漕いだのだろう? 羨ましいな、是非次は私たちも乗せてくれたまえよ」
「あら、それは素敵。彼と二人きりより、きっと心躍る旅路になることでしょうから」
上機嫌な声色が二つ、ワルツを踊るように運ばれる。それらは一人の少女宛だ。
「だから……だから来たくなかったのに……っ」
ローテーブルの先にあるソファの真ん中に座るアリスが、体だけに留まらず喉をも震わせて、果実を絞り出すよう声を零す。わたしはおずおずと彼女の姿を窺った。
「えぇやはり、ワタクシの目に狂いはありませんでした。海の泡のように白い肌に、小動物と見間違えるほど愛らしいお顔立ち……。アリスさんにはこちらのドレスがお似合いになると、ワタクシ確信しておりましたの」
アリスの右隣に座るヘレンさんは、つぶらな胡桃色をうるうると輝かせて、恍惚と魅了されたように満足げな息を吐く。
真っ白な生地に、何層も重ねられたフリルやレース。あちらこちらにと装飾を施されたリボンに、幼さを引き立たせるフリルカチューシャ。お砂糖を振りかけたようなふわふわに守られているアリスは、豊かな国の王妃さまに大層可愛がられている小さなお姫さまみたいだった。
「こんなおままごとみたいなファッション、誰が好んで着るのよ!」
アリスは信じられないといった顔つきで語気を強める。明確に苛立ちを突きつけたかったようだったけれど、ヘレンさんはときめきを隠さない眼差しでアリスを視界に閉じ込めて、熱烈なアプローチの如く両手で彼女の手を握った。
これは多分、聞いていないし効いてもいない。片眉を釣り上げるアリスは今すぐ逃げ出したいと距離を取ろうとした。
「ままごとだなんて、そう恥ずかしがらないでおくれ、アリス。瞳も蕩けてしまうかのように甘い繕い……あぁ、なんとも甘美だ……。これはキミにこそ纏える、特別な衣装じゃないか!」
だけれど、その些細な抵抗でさえも、ダンスで手を取り合うようにするりと受け止められる。アリスの両肩に手を乗せたヴィクターさんは、興奮冷めやらぬといった有様で彼女を離さなかった。
「あああもう! ベタベタ触んないで! 両隣から同時に意味分かんないこと喋らないで!」
我慢の限界だと、アリスは勢いよく、けれどもヘレンさんが跳ね返って背もたれにぶつからないように腕を払う。それから手持ち無沙汰になった指の先を拳に変えて、容赦なくヴィクターさんを殴った。
「おやおや」
「あらあら」
ピンと来ていないようでいて、ワクワクを隠さない夫婦の感嘆詞が揃う。ヴィクターさんは暴力を振るわれたとは微塵も思わせない仕草で、アリスの拳を花弁が閉じるように包んだ。彼の面持ちは依然として裏表なくにっこりと優しげで、その能天気とも取れる鈍さはますますアリスを徹底的に苦しめる。
「さぁ、踊りたまえ!」
「! ちょ、なによ……!」
ヴィクターさんはぐいっと、アリスの手を降ろす。すると、テーブルの下から小人たちが飛び跳ねて、アリスの指をがっちり掴むと強引に彼女を連れ去った。
けらけらと幼子らしい笑い声を奏でながら、小人はアリスを軽やかに弄ぶ。焦りと怒りがしっちゃかめっちゃかになりながら、文句を投げるアリスのドレスが綿毛のように揺れていた。
「アリスさん可愛い〜! ああいうお洋服を着こなせるなんて凄いなぁ」
嫌がるアリスをミラージェンは傍観する。わざわざ小人たちの行動を止めないあたり、この子もちゃっかりしているなと思う。それはわたしも……かもしれないけれど。
「……はっ! サナシアさんも絶対絶対似合います!! というか見たいですー!」
「うーん、そうかな……?」
さながら最強のアイデアが思いついたように、ミラージェンははっと息を飲み込むと、鼻息を荒くしてわたしに熱弁をふるう。
可愛らしい服装だけど、見ているだけならまだしも、自分が着るとなると勇気がいる。どこか遠い存在のように胸を高鳴らせるくらいが、わたしにはきっとぴったりだった。
「ミラージェンちゃんも着てみたら? きっと可愛い」
いつもはボーイッシュなコーディネートだけれど、少女らしく愛嬌のある彼女にも、女の子らしい雰囲気の洋服は似合いそうだ。
それに、アリスに目を凝らすミラージェンの真紅色は、どことなく憧れが溢れ出さないように膜が張られていた。
ヘレンさんにお願いすれば快く了承してくれるだろうし、ミラージェンも乗り気で賛同するだろう。そう考えて、わたしは提案した。
「まっさかぁ」
彼女の動きは口調とは不相応に、ちょっぴり大人びたみたいに静かで利口だった。瞬きの回数も、唇の描き方も、髪に触れる手つきでさえも、そのどれもが計算し尽くされた映像のように映る。
「サナシアさんってば褒め上手なんですから〜。あたし、ヘレンさんにもぴったりだと思います! 自分では着ないんですか?」
ミラージェンはわたしの提案をさらりと流すと、人当たりのいい笑顔を絶やさぬまま、元気よく手を挙げてヘレンさんに話題を振った。
「花にも咲き頃がありますから。ワタクシにはもう過ぎ去ったことですし、十分でございますことよ」
アリスと小人のダンスをじっと直視していたヘレンさんは、ミラージェンと視線を交わすと、淡々と答えを提示した。ヘレンさんらしく彩られた言葉に哀愁などは帯びておらず、むしろ秋の泉のように清々しく透き通っている。
「ヘレン、キミはなんと光風霽月で清らかなのだろう! だけれどね、キミの可憐さが朽ち果てることはないよ。キミの黄金の花弁はどんなときも、太陽の欠片を集めたかのように輝いているのだから」
穏和なヴィクターさんの声が偉大なる感動を訴える。彼は爽やかなヘレンさんの応答を否定することなく、古びた人形をありのまま抱きしめるように、ヘレンさんの全てを肯定した。
「ヴィクターさんとヘレンさんは、昔からのお付き合いなんですか?」
「あぁ、そうとも」
彼は深く頷いた。モノクルのチェーンがさら砂みたいに流れる。
「いたいけな彼女の姿だって、私の記憶から零れ落ちることはない。キミたちは今此処に咲き誇る彼女しか知らないだろうけれど、彼女は小さな蕾を眠らせていたころから、変わりなく英明で見目麗しかったのだよ」
ヴィクターさんは永久の愛を夢想するように眼を閉じる。瞼の裏にこびりついた思い出を、崇高にも懐かしむ。幾つもある扉の持ち手を捻って、描かれた風景に鮮やかな心を騒めかせ、初めましてと久しぶりを告げるみたいに。
再び現実に呼び起こした彼の瞳に濁りはない。いつまでもロマンに満ちた冒険へと連れ出してくれるようなからくりだ。
彼はアリスの残した空席の先に座るヘレンさんへ目を注いだけれど、それはごく僅かな間だった。不意にヘレンさんも彼を一瞥したようだったけど、二人の目線はすれ違う。
「ふむ、そうだね。ここで一つ昔話を。あれはヘレンが初めて、お菓子作りに挑戦した日のことだ……」
「……アナタ」
ヘレンさんは語り口調になり始めたヴィクターさんの袖を引くように呼びかける。けれど、その合図が彼には上手く伝達されなかった。
「キミも覚えているかい? あの日は愉快だったね。ワタシに任せてと胸を張るキミの頼もしさに、私は感激した! 未知なる世界へと邁進する少女の何たる気高さ! 彼女に介入することは禁忌のようにも思えたからね、私はただそばで見守っていたのさ。いやはや……しかし予想もつかなかったな。まさか、オーブンの中で行われる真っ暗闇な宴に招待されるだなんて!」
「ヴィクター」
「皆煤だらけになってしまったけれど、私たちは新たなファッションを発見することができたんだ。うむ、何度思い出しても素晴らしい。そういえば、最近はそういった催しを見かけないね。また招待してくれると嬉しいのだ――」
「ヴィクター」
「あぁ、ヘレン。過去も今も、キミは私を幸福へと導いてくれる。どうか感謝を伝えさせておくれ、いつもあり――」
「お黙りなさい」
ピシャリと、その場が凍りつく。人目など構わず踊っていた小人は、身を隠すみたいにアリスにしがみつき、ミラージェンも汗を浮かべている。冷気だけを詰め込んだヘレンさんの命令に、ヴィクターさんは雷にでも打たれたように固まっていた。
「クッキーが焼き上がっている頃合いでしょう。準備に参りますので、少々失礼致しますわ」
あらいけない、と腰を上げて、ヘレンさんは部屋から出ようとする。ヴィクターさんは急いで立ち上がると、彼女の小さな背中を必死に追いかけた。
「ヘ、ヘレン。私も同行しよう。あの量をキミ一人で運ぶのは、手間がかかってしまうだろうから」
「お客様を残して席を空けるだなんて礼儀を欠いた振る舞い、家主であるアナタがしてどうするのです?」
「それはそうだけれど……」
おどおどとたじろぐヴィクターさんの挙動は珍しいものだった。それとは対極に、ヘレンさんは平然としている。
「アナタの助けなど不要です。ワタクシにはこの子がいますのでお構いなく。それでは」
規律的な正しさを与えると、彼女は肩にいるネズミを撫でつける。灰色の小動物がちゅーと鳴いて、その声には勝気で子供らしい憎たらしさが見え隠れしていた。
肯定も否定も口出しさせず、ヘレンさんは扉を潜り抜けていく。彼女を引き止めようとしたヴィクターさんは、伸びた腕を更に伸ばすことはできなかったのか、ただ立ち尽くすだけだ。
「ヴィクターさんが悪いです……」
「なんと……!?」
若干申し訳なさを加えながらも、ミラージェンは事実を述べる。ヴィクターさんは飛び跳ねるように少女の方へと振り返った。
「自分の失敗談をぺらぺらと、しかも楽しそうに喋られちゃったら、そりゃ恥ずかしいじゃないですか!」
「失敗談などではないさ! 幼い彼女が初めて勇気の一歩を踏み出した、誇らしく健気な物語じゃないか!」
「そういう言い方だと尚のこと惨めで仕方ないんですってばー!!」
親に己の意見を主張するよう全力で体を動かし声を張るミラージェンに対抗して、ヴィクターさんもまたお腹の底からオペラを歌うように大きな声をあげる。まるで議論をぶつけあっているみたいな光景だった。
けれど、どうやら勝利はミラージェンの元に舞い降りたらしい。ヴィクターさんは大打撃を喰らって、がっくりと膝をついては項垂れてしまった。
「理解し難い……だが、考えなければ……。あぁ、ヘレン。愚かにも私の犯した間違いで、キミを傷つけてしまったというのならば、私は……」
ヘレンさんに厳しく突き放されたヴィクターさんは、愛してやまない恋人から別れを告げられたようで。笑い事ではないけれど、率直に言えば喜劇的な失恋の描写とそっくりだった。
でも、気の弱った彼から流れ出る感情は、見返りを求めるにはあまりにも一途だ。ハートを真っ二つに割られた悲しみではなく、自ら心臓に何本もの針を刺すような、献身的な愛情。
わたしの胸が、誰かに直接人差し指で触れられたように、どくんと動く。
「あの……」
「おっと……すまないね、お客人の前だというのに。これではヘレンに合わせる顔もなくなってしまうな」
「そんなこと、ないですよ。ちゃんと自分の気持ちを伝えれば、ヘレンさんも耳を傾けてくれます」
ちらりと顔をあげたヴィクターさんは、面目ないと笑った。彼は軽々しさを忘れた身を起こして、素早く身なりを整える。
帽子を被り直して、モノクルをあげて、長い襟足の毛先を揃えていく。最後にフロックコートについた汚れを綺麗に払うと、普段通りのヴィクターさんがいた。ヘレンさんの夫であり、この大きなお城の主人である彼が。
「……魔法みたい」
愛する人のための、とっておきのマジック。
それはもしかしたら、本物の自分を潜めてしまうかもしれない。だけれど、その健気さが優しかった。
ヴィクターさんがヘレンさんを愛したいという言動に、妥協や諦観は一切含まれていない。ただ彼女を大切にしたいだけだ。けれど、上手くいかずに空回っている。
「ヴィクターさん」
「何だね、サナシアくん」
彼がこちらに歩み寄った。わたしと目線を合わせるヴィクターさんは、緩やかに小首を傾げて返答を待ってくれている。寛容な人だった。その懐の広さに甘える形で、だけれど自分自身の意思で、わたしは唇を開く。
「その……おもてなしのことだったりは、あまり気にしないでください。ヴィクターさんの立場だと、こんなこと言われても困らせちゃうかもしれませんが……。わたしたちは主と客というよりも、対等な友達になれるような、そんな気がするんです」
ここがもし御伽話の中だったら、王さまになんて不敬極まりないのだと、わたしは捕まってしまうかもしれない。
でも、城を守る王さまにだって、悩みはある。その悩みが実は、大好きなお姫さまに喜んでほしくて頑張っているけれど失敗ばかりだとか、そういうものだったりもするのだ。
きっと誰だって、息抜きが必要。王さまが気兼ねなく話せるような友達に、わたしはなりたい。
椅子から立って向き合うと、わたしはもう一度彼に手を差し伸べた。
「……そうだったね。私もそんな予感がしていたんだ。そう……さながら春風が運ばれるように」
合点が行ったように頷いて、ヴィクターさんは気が抜けたみたいに染まった頬に笑みを含ませた。
ヴィクターさんの手が、わたしの手を握る。彼の手は変わらず硬かったけれど、最初の握手のときよりも愛着が湧いた。
手を離して、わたしは席につく。彼は自分の椅子に戻ろうとしていたけれど、空けておいたわたしの隣を見やると、嬉しそうに腰をかけた。
「ヴィクター、ちょっとした我儘を聞いてくれる? わたし、あなたとヘレンさんの出会いの話が聞きたくて」
「わー! はいはい、あたしも聞きたいです!」
「はは、勿論だとも。いざ物語るとなると、些かばかり照れくさいのだけれど」
横にいる彼を覗き込みながら、少し無邪気に強請ってみる。ヴィクターならどんな欲張りだって受け入れてくれると、わたしは知ったから。
甘えたお願いに、ミラージェンも分かりやすく同調した。歳下の少女二人からの要望に、ヴィクターは不満を醸すことなく愉快そうに応じる。それから彼は言葉の通りにはにかんだ。
「一目惚れさ、互いにね。ひと目見て、彼女は私のことを「大好き」だと、慈愛に満ちた表情で囁いてくれたんだ。傷だらけで、見窄らしくて、醜さだけを授けられたような私に、ヘレンはまっすぐな愛を与えてくれたのさ。私の表現する言語では、彼女を語り切ることなど出来まい」
ヴィクターはわたしたちから目を逸らして、愛する人だけを想う。一言一句に、これでもかと幸せが溢れていた。収まりきらないことを分かっているからわざと溢れさせて、けれどもその幸福が滴らないよう大切に包んでいる。
彼には支配欲がなかった。貰ったものを自分の中だけで、お守りのように大事にしている。それを他人に見せることに躊躇がないし、むしろ知って欲しいのだと見せびらかす。
「あのあの! プロポーズってどっちからですか……!?」
「彼女だったかな。私はこの通り軟弱者だからね」
「ひゃ~っそうなんですね!? ヘレンさんかっこいい……。もうあたし、どきどきが止まらないです!」
心臓を押さえつけながら、ミラージェンは乙女心をはつらつに放つ。ヴィクターさんは馬鹿にするわけでもなく、にこりと微笑んだ。
「……こんな私だけれど、ヘレンを心から愛しているんだ。彼女のためなら、何だってしてやりたい。わざわざヘレンが苦労することはない、私が全てを引き受けよう。だから彼女は、お菓子を作ったり、小人たちと遊んだり、キミたちとお喋りをしたり……そのように楽しいことだけしてくれればいいんだよ」
声色が、静寂に響いた。その振動によって、ふっとマッチ棒の火が消えてしまうみたいに。
「暖炉の灯火のよう緩やかに揺らめき、重たい煤の色も報われるこの感情は、きっと本物さ」
――またこの感覚だ。
酷く窮屈で、呼吸することができない不自由さ。ヴィクターの純真で自由なはずの愛が、囚われている。
それは、アリスがエイプリルに向けるものと瓜二つだ。二人の愛情は決して支配的ではないのに、必ず不自由だった。
「その長話、まだ続くわけ?」
ため息を交えながらアリスが横槍を入れた。小人たちは彼女を気に入ったのか、愛でるように手を繋いでいる。振り解く気も失せたらしいアリスは、そのままこちらに戻ってきた。
「こんなにも大らかな指針の歩みに、私たちが急かされるようなことはないだろう? うっかり頬が緩んでしまうくらいに、面白可笑しい話を沢山しようじゃないか」
誰もいないソファにどっしりと身を沈める彼女を、ヴィクターは気さくな口調で宥める。それから彼はアリスの隣に馴れ馴れしく座り込んだ。ヴィクターの態度の全てが気に入らないのか、アリスは見せつけるようにそっぽを向いている。
そういえば、今は何時なのだろう。わたしが倒れて、ヘレンさんから看病を受けて、みんなと集まって。一時間はとっくに経っている、はず。
……いや、どうだろう。意外にも物事は淡々と進んで、一時間程度に収まっているのかもしれない。わたしの体内時計は応答しなかった。
だから部屋を見渡して、時計を探した。けれど、どこにもない。秒針の音が息絶えた空間は、こんなにも無が蔓延るものなのかと、わたしは一種の恐れを覚えた。
針が時を刻む足音は、己が生きていることの証でもあるのだ。ほんの小さな音色を忘れるだけで、わたしたちは簡単に生きる意味をも無に奪われてしまう。
「どうかしたのかい?」
ヴィクターの声だ。無音に囲まれて途方もないような気分に陥ったわたしに、彼の和やかな声はよく沁みる。でも、垂れ始めた冷や汗は止まらなかった。
わたしは何をしていたのだろう。こんなところで道草を食っている場合ではないのに!
「帰るの……わたし、帰らないと……」
早くここから出なければ。何としてでも、必ず。そう意思を固めているはずなのに、目まぐるしく動かされた眼球に精神すらも振り回されて、乗り物酔いでもしたみたいに気持ちが悪い。それでも何とかと会話を紡ぐ。
ヴィクターなら、助けてくれる。わたしは懸命に、奥底へと落としてしまいそうだった真意を引っ張り上げた。
「というと?」
「……え……?」
でも。彼は温厚な相好を、わたしのために崩してはくれない。不可思議を尋ねる物腰にしては独特だった。
「キミは私たちと同じように、望んで此処に来たのだろう? それに、帰る家だって此処にある。サナシアくん、たとえばこの花園から出たとして、一体キミは何処に帰るというのかね」
社会、教養、知識、そればかりか世の理を熟知したように、ヴィクターは告げる。なだらかな言い回しに波が立つことはないけれど、彼の温顔がそこはかとなく真面目さに偏っているように思えた。ヴィクターの隣で肘掛けに頬杖をつくアリスも、何も言わずわたしを横目に見つめる。
反論を展開しなければ。微睡んだ空気に飲み込まれてはならない。時針も分針も秒針も、わたしが指し示すものなのだから。
呼吸をすると上半身が震えたけれど、黙らせるように拳を握った。わたしはヴィクターとアリスに向き直る。
だけれど、わたしの手を引く存在は他にもいた。ミラージェンが真紅の瞳で真摯に懇願してきて、腕を掴む力を強める。彼女が口を開きかけた。
「そ……」
「その通り」
頭上から、知らない声が降り落ちる。それから、大きく長細い指先がわたしの両頬を包んだ。導かれるように、顔を仰ぐ。
わたしを覗き込む、美しい人がいた。うねった茶髪は樹木の根のようで、ぼんやりとした灰色の眼には犯し難い貴さがある。女性的な見た目だけれど、父のように貫禄の備わった雰囲気から、この人物が男なのだと理解させられた。
「やっと見つけた」
麻痺でもしているのかというほどに固定された顔のパーツのうち、唇だけが微かながらに動かされる。
彼の呟いたそれは機械的だったけれど、わたしと触れ合う肌は、あたたかすぎるほどの熱を持っていた。どうしてか、わたしはその温度を涙のようだと、連想せずにはいられなかった。
「うえっ誰ですか!?」
「どちらサマ?」
「招かれざる客のようだ。私は大歓迎だがね」
突如現れた男に対して、三人はそれぞれの反応を示す。男は周囲から浴びる注目など気に掛ける理由もないのか、初めからそこにいないもののように扱って、ただわたしだけを認識していた。
彼はゆっくりとした足取りでソファの前までやってくると、ミラージェンをわたしから引き剥がす。その動作は弱々しい婦人のようだったのに、ミラージェンはされるがままに端へと追いやられる。男はわたしとミラージェンの間に、堂々と姿勢を正して浅く座した。
「……この身はいつ何時も、待つばかりでしたから、迷子探しは不得手なのです。それゆえ、無駄な時を要してしまいました。貴方は……無鉄砲なところがありますから……」
一息ついてから、彼はわたしを凝視しながらぼそぼそと小言を続けていく。最初は独り言かと勘違いして困惑してしまったけれど、どうやらわたしのために用意された発言だったようで。
まだ状況を把握しきれていないわたしに気がつくと、男ははっとして、口を塞ぐために綺麗な手を唇に当てた。
「……油を絞っている場合では、ありませんでしたね」
ばつが悪そうに瞳を伏せたけれど、彼は何事にも動じることなく起き上がる。
男はわたしの真正面に位置すると、長いレースヴェールを神秘的にはためかせて、迷い子に明かりを灯すよう腕を差し伸ばした。
「さぁ、私の手をよく握りなさい。決して離さないで。もう貴方が、道などに迷わぬように」
男はわたしのために、腰を屈めたり跪くことは決してないだろう。だけれど、まるで大樹のように佇むその姿が、この男には素晴らしいくらいに相応しいのだった。
わたしは休まった沈黙のままに、謎へと包まれた男の手を取る。すると彼は、どこか安堵したみたいに灰色を細めて、わたしの手をぎゅっと握りしめた。
「ま、待ってください!」
狼狽えた叫びが聞こえたけれど、わたしの耳には入り込まず遠のいていく。わたしは男に手を引かれて、客間を出ていった。
扉の先は、当然城の廊下だった。けれど、その眺めは霞んで消えていく。お湯を掻き混ぜるようにぐにゃりと歪みを作って、わたしたちを強制的に、じっくりと吸い込む。次に意識が明確となった瞬間には、もうそこは城の中ではなかった。
柔らかな芝生が陽だまりに照らされて、エメラルドのように煌めく。そよそよ吹く温風は、機嫌のよい少年が奏でる口笛を思わせた。晴天は千切れ雲を運ばせながら、正午のぬくもりに欠伸を広げている。そんな空の下で、こぢんまりとした一軒家がわたしを待っていた。
男は革製のサンダルで芝生を踏みしめて、わたしを連れ出していく。大きな背中を、わたしは追いかけていた。その刹那、ふと彼が首を後ろに回す。
「己の名を、声に出してご覧なさい」
「あ、えっと、サナシア……です……」
初対面で交わすには当たり前の質問なのに、わたしは戸惑った。この人なら知っているのではないかと、勝手に思い込んでいたらしい。可笑しな話だ。
「……そう……」
彼は特にといった返しはせず、わたしの名前を受け取るだけだった。
やがて、男は足を止める。そよ風よりも落ち着いた様子でわたしに振り返った。彼はわたしの手を離さず、慈しむように両手で抱え込む。それから、名残惜しそうに片手を離すと、家のドアを開いていった。
「私の名はクエルクス。貴方の父であり、愛するべき家族。私たちは、貴方の帰りを待っていました」
おかえりなさい。
温もった声が、わたしに幾つも届いた。
◆◆◆
あの子の声が聞こえる。
あどけない清純さに、心を癒すように円やかな囀り。
撫子色に染まった髪が靡いて、こちらを見返った。彼女が手を伸ばす。僕も、その小さな手を握ろうとした。
握ろうとした? 違う。僕は、掴もうとした。あの子を、繋ぎ止めようとした。何度も何度も何度も、虚弱に組み立てられた骨が砕けてしまいそうなほどに、強く、この手を伸ばす。
でも、僕の手のひらには、中途半端に溶けた雪の一欠片が残るだけだった。淡い吹雪は、いつだってあの子を連れ去っていく。こんな世界に、僕を置き去りなんかにして。
あの子を奪う冬が大嫌いだった。冬なんてこなければいいのにと、気分屋に舞い降りる純白な結晶たちを一つも逃さず恨んだ。僕から溢れた哀しみや憤りの一筋すらも、彼らの凍えた体に撫でられてしまえば、まんまと吸い取られていく。
呆気のない理不尽に、僕たちは諦めて笑えばいいのか。眼を掻きむしって痛めつければいいのか。全てを忘れて、なかったことにすればいいのか。
そのどれもが、僕にとっては有象無象に等しい。
冬があの子を攫っていくのならば、永久なる春を作ればいいのだから。そこには雪なんて身勝手な罪は降り注がない。麗らかな陽だまりだけが、彼女を守ってくれる。
僕は背もたれに軽く体重を乗せて、目先に浮かび上がるスクリーンに描かれた映像を眺めた。
可憐な少女――サナシアが帰るべき家に辿り着いたらしい。彼女の驚いた表情に、くすりと口角が上がった。
ようこそ、ホワイトガーデンへ。
始まりも終わりもないこの箱庭で、幸せな夢を見続けよう。
そして、僕たちの望んだ夢は、やがて現実になる。
ぷつり。画面が暗闇に切り替わる。
僕は膝に掛けていた真紅色のタオルケットを畳むと、シアターの席から立ち上がった。
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