Chapter1:Welcome to the White Garden
6 目覚めも眠りも知らぬまま
掃除が終わって、エイプリルさんのところに戻ってきたそのとき、水槽の前で誰かが倒れ込むのが見えた。そこは、遠目からでも分かるほどに鮮やかな赤色が、薔薇の花びらが散るように落とされていて。
「サナシアさん!!」
どっと血の気が引いて、あたしは咄嗟に叫ぶと同時に駆け出していた。彼女の体を抱き寄せて、必死に呼びかける。だけど返答はなくて、あの美しい暁色は瞼の裏に隠されたままだった。
「っどきなさい!」
力強く肩を後ろに押しのけられて、交代するみたいにアリスさんがサナシアさんの容態を確かめる。彼女はサナシアさんの体を横向きに寝かせると、耳を近づけて呼吸音を探した。
「……息はあるわ、つまり死んでないってこと。ただ、出血が酷いわね。ったく、何がどうなったらこんなことに……」
緊張した様子のアリスさんだったけど、サナシアさんの安否が判明すると、深々とため息を吐き出して親指の爪を噛む。彼女はどこか思い悩んでいたけど、割り切ったように気怠さを脱ぎ捨てると、指を離して背後に清爽と振り向いた。
「エリィ、大丈夫よ。この子は生きてるわ、だから泣かないでちょうだい。アタシ、大好きなアナタの涙なんて耐えられないもの」
サナシアさんを助けようと何度もガラスを叩いていたエイプリルさんを、アリスさんは眉を下げて穏やかに宥める。頬と手を赤く染めながら、泡沫のような雫を溢れさせていたエイプリルさんは、アリスさんの言葉を聞くと混乱を鎮めた。
「アタシにはどうにもできないわ。素人がやれることにも限度がある。お医者サマはいませんかーだとか、叫んでみるのもアリかもね」
ワンピースの裾に染み付いた血を適当に払いながら、アリスさんは肩を竦める。こんなとき、気を利かせてハンカチでも渡せたら良かったけど、残念なことにあたしのポッケの中身はすっからかんだった。
「ユーちゃんなら、きっと違うのにな」
ユーちゃんはどんな状況だったとしても、即座に適応できる周到さを備えていて、冷静に物事を俯瞰できる。彼女なら、すぐにサナシアさんを横向きに寝かしただろうし、スマートにアリスさんへハンカチを手渡したはず。アリスさんの後ろでただ座り込んでる、あたしとは違って。
……ユーちゃんが隣にいてくれたらいいのに。
もしそうだったら、今の緊迫した雰囲気も、彼女の言動一つで和らいでいく。みんながユーちゃんに感謝を伝えて、彼女はそれらを重荷として背負うこともなく、自分の行動に特別な力なんてないと、凛とした微笑みを浮かべるのだろう。
――だってあの子は、夢みたいに完璧で可愛い女の子だから。
あたしの足りないものを、いっぱい補ってくれるはず。全くお前はって、ため息をつきながら手を引いてくれる。……そのはず、なのに。
「……だめ、です。あの子は、ユーちゃんは、あたしの夢の中にいてくれればいいんです……」
いて欲しいのは隣じゃない。あの子は、あたしの中にいてくれなきゃ、絶対にだめ。
「なんか言った?」
「い、いえ!」
アリスさんの不機嫌そうな問いかけに、あたしは思わず口元に左手を被せては、急いで答える。
……アリスさんとエイプリルさんに、ユーちゃんの名前を聞かれてはいないだろうか。ざわざわと噂話を囁かれるような不安感があたしに取り憑いたけど、二人はあたしが独り言を呟いていたことが気になっただけみたいで。だからそのまま、会話の流れを掴んで変化させた。
「でも、ここにはお医者さんなんていないですし……」
「お生憎様、それがいるのよ。アタシたちの求めるお医者サマがね」
「え……?」
「あーもうサイアク。あそこだけは行きたくなかったのに。でも、この状況だとやむを得ないわ」
諦めたようなアリスさんの発言に乗っかかっただけだったけど、彼女はお手上げだと見放したわけではなかったらしい。そんな都合のいいことがあるものなのかと、あたしはついびっくりして瞳を見開く。
一方アリスさんは驚くあたしに見向きもせず、更に後ろにいたエイプリルさんとアイコンタクトを取っていた。瞬きもせずにじっくりと、二人は沈黙を送り合う。それから僅か数秒後、アリスさんが口を開いた。
「えぇ、任せて。すぐに帰ってくるわ」
端的にそう述べて、アリスさんは笑みにちょっとした頼もしさを加える。エイプリルさんも異論はないようで、信頼を表すみたいに優しく頷いた。
「ほら、さっさとして」
「はい!」
アリスさんは対話を終えると、手際よくサナシアさんを抱き上げて、一緒についてくるよう促した。あたしは全力で肯定を響かせると、手を使わず足だけに力を込めて、勢いよく立ち上がる。横目にあたしを確認すると、アリスさんは駆け足で水槽から遠ざかり、赤いカーテンを潜り抜けた。
「えーと、ちなみにどこに行くんですか?」
置いていかれないように、あたしはスニーカーを踏みしめる。隣は嫌がられるだろうから、斜め後ろにひょっこりと並んで、迷うことなく突き進むアリスさんに目的地を尋ねる。彼女はあたしの質問を聞くと、避けたい面倒ごとに直面してしまったみたいに、これまた大きなため息をわざとらしく落とす。それから少し間を開けてから、アリスさんは鬱陶しそうに言い捨てた。
「馬鹿みたいにデカいお城 よ」
◆◆◆
「ミラージェン?」
脳に語りかけられるような錯覚を受けて、不意に少女の名を零す。あの子が、私のことを呼んでくれた。そんな気がしてもう一度呼びかけたが、活発に浮かれた声色は姿を現さない。
「……気のせいか」
己の勘違いだと気がついた頃には、微かに生じた期待も薄れていく。
毎度毎度分かりきっているのに、何故新鮮な落胆を味わう羽目になるのだろう。あの子が此処にいないことが『普通』かつ『正しい』ことだというのに。
「……馬鹿馬鹿しい」
私は再度枕に顔を埋めると、ぎゅっと足を引き寄せて、小さく縮こまるが如く座り込んでいた。
正方形の一室に敷き詰められた、ミルクのように穢れのないシーツの上で、たった一人不格好に漂う。大方、頭上には夜空の真似事でもするみたいに、天体を飾ったベッドメリーが私を見下ろしているのだろう。
「いや、これはモビールだったか」
鈍い動作で顔を上げてみる。装飾品は、私の動きをそのまま再現したように、重々しく吊り下がっていて。
「……あの子がいたときは、もっと自由に振る舞っていただろう」
その目障りな態度に仕方がなくなって、枕でも投げ当ててやりたい気分だった。だがそれよりも先に、幼稚臭い己への嫌悪感が理性を締め付ける。
気を落ちつけたくて俯いてみると、シーツには私の感情を暴露するよう、乱れた皺が描かれていた。
「下手くそなラテアートみたいだな」
このベッドルームは、私一人には甘ったるすぎる。
鳥の羽のような眩さで我が身を包む天蓋も、瞳に安らぎを齎す紺色の天井も。
大好きなあの子が夢みたいと微睡んで微笑むこの世界は、あの子がいないと何もかもが不完全なんだ。
私の隣。空っぽな特等席に座るのは、絶対にあの子だけ。私が知らなかった私の名を教えて、無垢な音で呼んでくれるのも、きっとあの子だけ。
「私は、目覚めも眠りも知らぬままなんだ」
喉を通り切るように、もっと苦みを注いで。
甘美に犯されて舌が蕩けてしまう前に。醜く塩辛い一滴が誤って落とされてしまう前に。
だから、どうか。
「早く帰ってきて、ミラージェン」
――存在証明 がいないと、私は私でいられないのだから。
「……帰るべき場所は、此処ではないだろう」
ぐったりと、重力に押しつぶされるよう寝転ぶ。目先には、相も変わらず子供じみた星々が浮かんでいる。それらがやけに煩わしく映ったものだから、視線と共に体ごと横に向けた。
可愛らしいあの子の代わりに、虚しく居座る索漠。その飄々とした様が愁然として私の心臓を咎めるのだ。
縋り付くかの如く両腕で枕にしがみついて、ぐっと眼を閉ざす。それから、空っぽに佇む空白を精一杯埋めるように、ベッドの上をぐるぐると回った。
大層可愛らしげに乙女心を踊らせる、フリルの施された漆黒のドレスを全身で踏みつける。この格好ではどうにも動きづらく、冷気を吸ったみたいに息が詰まる心地だった。それでも窮屈な思いを忍ばせて、四角形の中を転がっていく。
「きゃっ!」
突然のことだった。地面に落ちた。
此処には降りる場所などなく、寝台がびっしりと四方に広がっているはず。そうだというのに、たった今、私は床に頽れていた。
「う……あの子の夢に他の空間があると知っていれば、こんな間抜けなことはしないというのに……」
偶然にも抱いていた枕のおかげで衝撃は防げたものの、少々痛みの残る体をむくりと起き上がらせる。そうして、私は辺りの光景を目の当たりにした。
重苦しい空気の密閉された細長い一本道が、薄気味悪くグロテスクな赤色に蠢いている。じめりとした湿り気は汗を滴らさせ、偏狭な小部屋に閉じ込められているようだった。あのせせこましく思えていたベッドルームが、こんなにも恋しくなってしまうくらいには。
「断じて、あの子の夢の世界ではない」
断言してみせよう。このようなおどろおどろしい景色を、あの子が作り出すはずがない。彼女が私に携えてくる土産話は、あの部屋の甘々とした夢心地と瓜二つなのだ。
あの子は寝ても覚めても、あどけない少女性を体現したかのように夢見がちで。馬鹿げた寝言をぺらぺらと駄弁っては、遠慮もなく腹を抱えて歯を見せる。
赤の他人が耳にすれば、下手の長談義に違いないだろう。だが私にとっては、愛着のある絵本の読み聞かせと何ら変わりない。
いつまでも、あの子の声を聞いていたかった。
「……では、此処は何処なんだ」
思案に行き交じる脳内を、疑問の出発点へと引き戻らせる。
転がり落下した先が此処だというのならば、私は壁を通り抜けたことになるだろう。にわかに信じがたい現象だが、あくまでこの世界は『夢』の中だ。まず一般常識など通用しない。それは夢の世界のみに生きる私という存在が何よりの証拠だった。
恐らく右の壁の向こう側が、あの子と私の小部屋だろう。ならば左の壁の向こう側も、何処かに繋がっているのだろうか。
私は黒のロンググローブを纏った左手で、未知なる境界へと触れようとする。伸ばさずとも、すぐに届く距離だった。手のひらを乗せる、ただそれだけのこと。そのはずだった。
「……駄目、だ……出来ない……」
――手が、震えていた。恰も目眩でも起こしたかのように、大袈裟なくらいの動作を披露して。聞こえもしないはずなのに、大きな警報音が身体中に鞭を打ちつけては、膨大に襲いかかる恐怖心が私を逃すことはなかった。
私は従順にその手を引っ込めて枕を包むと、木陰に身を潜めるみたいに顔を下げる。地面には、足裏を十分に覆う程度の水が揺らめいていた。タイツ越しに生ぬるい温度がじんわりと込み上げてきて、形容しがたい不快感が蟠る。
靴でもあればと表情を歪めたが、ベッドの上以外の居所を知らない私にとっては、どうせ不必要な品であることは明白だった。後味の悪さをこれでもかと染み込ませながらも、私はようやく頭を上げる。
「……? あれは……」
まっすぐな道の遥か先。ぽつんと、至って静かに、白い何かが置かれている。
ゆらゆらと春風に遊ばれるよう傾くその姿は、目もあやな儚さで。感極まって泣き出したくなってしまう。そんな抱きしめたいあたたかさを、真っ白で清純な箱は放っていた。
「何故、こんなところに揺り籠が」
あの子の世界しか知らぬ私には分からない。道筋通り前に進むべきなのか、振り返って後ろを歩いていくのか。
それは、この相対する二つの行動に『選択』という文字が結びつくからだ。先程左手の壁に触れようとしたときの、鼓膜を破るようなあの警報音。あれは、私が物事を選ぼうとしたことに由来するのだと、今しがた理解した。
――ならば、私には何ができるというのだろうか?
前にも進めず、後ろにも進めない。もしかしたら、前だと認識している方が後ろで、その逆は前という可能性だってあるのではないか。
……そうだ。選択というものは、最も恐ろしい。
己の選んだたった一つの意思により、結末は時を待たずして決まっていく。そしてそのエンディングは、自分の望んだ物語になるとは限らないのだから、これほどまでに残酷なことはない。
「私には、何も選べない」
あの輝かしい籠の元に行くことが正解かだなんて、分かるはずがない。今はただ、ヒビが割れていくような脳で錯乱する思考を投げ捨てたかった。
あの部屋に戻って、大好きなあの子と永遠に続く幸せを過ごしたい。私にはそれだけだった。
「ミラージェン……」
前も後ろも、どうだっていいのではないか。私の気持ちは、ずっとあの子の世界に置いてきたのだから。
早くあそこに帰ろう。私は正面から目を逸らして、心許なく枕を抱きしめた。体を右に向けると、ぴちゃぴちゃと音を鳴らす予定を立てて、脚を動かしていく。
だが、私の耳に飛び込んできたのは、がたりと何かが当たったような物音だった。私は違和感を覚えて、また右に視線を傾けた。
ぽとり、と。あれほど力強く抱いていた枕が、私の眼に現れたそれ の中に落っこちていく。
拾わなければ。そう思って、手を伸ばす。落ちたものを拾う、誰もがそうするであろう行為。
だがその無意識な行いには、宇宙の奈落に飲み込まれるかの如く、生き物には扱うことのできない壮大なる強制力が働いていた。
時空が捻じ曲げられるよう、指針の歩みがスローモーションになっていく。私の手が、身体が、魂が、それ に辿り着きそうになった。
「っ!」
置き去りになっていた右手が、突如強引に引かれる。私はそのまま横に倒れるようにして、左側の壁に吸い込まれていった。
掃除が終わって、エイプリルさんのところに戻ってきたそのとき、水槽の前で誰かが倒れ込むのが見えた。そこは、遠目からでも分かるほどに鮮やかな赤色が、薔薇の花びらが散るように落とされていて。
「サナシアさん!!」
どっと血の気が引いて、あたしは咄嗟に叫ぶと同時に駆け出していた。彼女の体を抱き寄せて、必死に呼びかける。だけど返答はなくて、あの美しい暁色は瞼の裏に隠されたままだった。
「っどきなさい!」
力強く肩を後ろに押しのけられて、交代するみたいにアリスさんがサナシアさんの容態を確かめる。彼女はサナシアさんの体を横向きに寝かせると、耳を近づけて呼吸音を探した。
「……息はあるわ、つまり死んでないってこと。ただ、出血が酷いわね。ったく、何がどうなったらこんなことに……」
緊張した様子のアリスさんだったけど、サナシアさんの安否が判明すると、深々とため息を吐き出して親指の爪を噛む。彼女はどこか思い悩んでいたけど、割り切ったように気怠さを脱ぎ捨てると、指を離して背後に清爽と振り向いた。
「エリィ、大丈夫よ。この子は生きてるわ、だから泣かないでちょうだい。アタシ、大好きなアナタの涙なんて耐えられないもの」
サナシアさんを助けようと何度もガラスを叩いていたエイプリルさんを、アリスさんは眉を下げて穏やかに宥める。頬と手を赤く染めながら、泡沫のような雫を溢れさせていたエイプリルさんは、アリスさんの言葉を聞くと混乱を鎮めた。
「アタシにはどうにもできないわ。素人がやれることにも限度がある。お医者サマはいませんかーだとか、叫んでみるのもアリかもね」
ワンピースの裾に染み付いた血を適当に払いながら、アリスさんは肩を竦める。こんなとき、気を利かせてハンカチでも渡せたら良かったけど、残念なことにあたしのポッケの中身はすっからかんだった。
「ユーちゃんなら、きっと違うのにな」
ユーちゃんはどんな状況だったとしても、即座に適応できる周到さを備えていて、冷静に物事を俯瞰できる。彼女なら、すぐにサナシアさんを横向きに寝かしただろうし、スマートにアリスさんへハンカチを手渡したはず。アリスさんの後ろでただ座り込んでる、あたしとは違って。
……ユーちゃんが隣にいてくれたらいいのに。
もしそうだったら、今の緊迫した雰囲気も、彼女の言動一つで和らいでいく。みんながユーちゃんに感謝を伝えて、彼女はそれらを重荷として背負うこともなく、自分の行動に特別な力なんてないと、凛とした微笑みを浮かべるのだろう。
――だってあの子は、夢みたいに完璧で可愛い女の子だから。
あたしの足りないものを、いっぱい補ってくれるはず。全くお前はって、ため息をつきながら手を引いてくれる。……そのはず、なのに。
「……だめ、です。あの子は、ユーちゃんは、あたしの夢の中にいてくれればいいんです……」
いて欲しいのは隣じゃない。あの子は、あたしの中にいてくれなきゃ、絶対にだめ。
「なんか言った?」
「い、いえ!」
アリスさんの不機嫌そうな問いかけに、あたしは思わず口元に左手を被せては、急いで答える。
……アリスさんとエイプリルさんに、ユーちゃんの名前を聞かれてはいないだろうか。ざわざわと噂話を囁かれるような不安感があたしに取り憑いたけど、二人はあたしが独り言を呟いていたことが気になっただけみたいで。だからそのまま、会話の流れを掴んで変化させた。
「でも、ここにはお医者さんなんていないですし……」
「お生憎様、それがいるのよ。アタシたちの求めるお医者サマがね」
「え……?」
「あーもうサイアク。あそこだけは行きたくなかったのに。でも、この状況だとやむを得ないわ」
諦めたようなアリスさんの発言に乗っかかっただけだったけど、彼女はお手上げだと見放したわけではなかったらしい。そんな都合のいいことがあるものなのかと、あたしはついびっくりして瞳を見開く。
一方アリスさんは驚くあたしに見向きもせず、更に後ろにいたエイプリルさんとアイコンタクトを取っていた。瞬きもせずにじっくりと、二人は沈黙を送り合う。それから僅か数秒後、アリスさんが口を開いた。
「えぇ、任せて。すぐに帰ってくるわ」
端的にそう述べて、アリスさんは笑みにちょっとした頼もしさを加える。エイプリルさんも異論はないようで、信頼を表すみたいに優しく頷いた。
「ほら、さっさとして」
「はい!」
アリスさんは対話を終えると、手際よくサナシアさんを抱き上げて、一緒についてくるよう促した。あたしは全力で肯定を響かせると、手を使わず足だけに力を込めて、勢いよく立ち上がる。横目にあたしを確認すると、アリスさんは駆け足で水槽から遠ざかり、赤いカーテンを潜り抜けた。
「えーと、ちなみにどこに行くんですか?」
置いていかれないように、あたしはスニーカーを踏みしめる。隣は嫌がられるだろうから、斜め後ろにひょっこりと並んで、迷うことなく突き進むアリスさんに目的地を尋ねる。彼女はあたしの質問を聞くと、避けたい面倒ごとに直面してしまったみたいに、これまた大きなため息をわざとらしく落とす。それから少し間を開けてから、アリスさんは鬱陶しそうに言い捨てた。
「馬鹿みたいにデカい
◆◆◆
「ミラージェン?」
脳に語りかけられるような錯覚を受けて、不意に少女の名を零す。あの子が、私のことを呼んでくれた。そんな気がしてもう一度呼びかけたが、活発に浮かれた声色は姿を現さない。
「……気のせいか」
己の勘違いだと気がついた頃には、微かに生じた期待も薄れていく。
毎度毎度分かりきっているのに、何故新鮮な落胆を味わう羽目になるのだろう。あの子が此処にいないことが『普通』かつ『正しい』ことだというのに。
「……馬鹿馬鹿しい」
私は再度枕に顔を埋めると、ぎゅっと足を引き寄せて、小さく縮こまるが如く座り込んでいた。
正方形の一室に敷き詰められた、ミルクのように穢れのないシーツの上で、たった一人不格好に漂う。大方、頭上には夜空の真似事でもするみたいに、天体を飾ったベッドメリーが私を見下ろしているのだろう。
「いや、これはモビールだったか」
鈍い動作で顔を上げてみる。装飾品は、私の動きをそのまま再現したように、重々しく吊り下がっていて。
「……あの子がいたときは、もっと自由に振る舞っていただろう」
その目障りな態度に仕方がなくなって、枕でも投げ当ててやりたい気分だった。だがそれよりも先に、幼稚臭い己への嫌悪感が理性を締め付ける。
気を落ちつけたくて俯いてみると、シーツには私の感情を暴露するよう、乱れた皺が描かれていた。
「下手くそなラテアートみたいだな」
このベッドルームは、私一人には甘ったるすぎる。
鳥の羽のような眩さで我が身を包む天蓋も、瞳に安らぎを齎す紺色の天井も。
大好きなあの子が夢みたいと微睡んで微笑むこの世界は、あの子がいないと何もかもが不完全なんだ。
私の隣。空っぽな特等席に座るのは、絶対にあの子だけ。私が知らなかった私の名を教えて、無垢な音で呼んでくれるのも、きっとあの子だけ。
「私は、目覚めも眠りも知らぬままなんだ」
喉を通り切るように、もっと苦みを注いで。
甘美に犯されて舌が蕩けてしまう前に。醜く塩辛い一滴が誤って落とされてしまう前に。
だから、どうか。
「早く帰ってきて、ミラージェン」
――
「……帰るべき場所は、此処ではないだろう」
ぐったりと、重力に押しつぶされるよう寝転ぶ。目先には、相も変わらず子供じみた星々が浮かんでいる。それらがやけに煩わしく映ったものだから、視線と共に体ごと横に向けた。
可愛らしいあの子の代わりに、虚しく居座る索漠。その飄々とした様が愁然として私の心臓を咎めるのだ。
縋り付くかの如く両腕で枕にしがみついて、ぐっと眼を閉ざす。それから、空っぽに佇む空白を精一杯埋めるように、ベッドの上をぐるぐると回った。
大層可愛らしげに乙女心を踊らせる、フリルの施された漆黒のドレスを全身で踏みつける。この格好ではどうにも動きづらく、冷気を吸ったみたいに息が詰まる心地だった。それでも窮屈な思いを忍ばせて、四角形の中を転がっていく。
「きゃっ!」
突然のことだった。地面に落ちた。
此処には降りる場所などなく、寝台がびっしりと四方に広がっているはず。そうだというのに、たった今、私は床に頽れていた。
「う……あの子の夢に他の空間があると知っていれば、こんな間抜けなことはしないというのに……」
偶然にも抱いていた枕のおかげで衝撃は防げたものの、少々痛みの残る体をむくりと起き上がらせる。そうして、私は辺りの光景を目の当たりにした。
重苦しい空気の密閉された細長い一本道が、薄気味悪くグロテスクな赤色に蠢いている。じめりとした湿り気は汗を滴らさせ、偏狭な小部屋に閉じ込められているようだった。あのせせこましく思えていたベッドルームが、こんなにも恋しくなってしまうくらいには。
「断じて、あの子の夢の世界ではない」
断言してみせよう。このようなおどろおどろしい景色を、あの子が作り出すはずがない。彼女が私に携えてくる土産話は、あの部屋の甘々とした夢心地と瓜二つなのだ。
あの子は寝ても覚めても、あどけない少女性を体現したかのように夢見がちで。馬鹿げた寝言をぺらぺらと駄弁っては、遠慮もなく腹を抱えて歯を見せる。
赤の他人が耳にすれば、下手の長談義に違いないだろう。だが私にとっては、愛着のある絵本の読み聞かせと何ら変わりない。
いつまでも、あの子の声を聞いていたかった。
「……では、此処は何処なんだ」
思案に行き交じる脳内を、疑問の出発点へと引き戻らせる。
転がり落下した先が此処だというのならば、私は壁を通り抜けたことになるだろう。にわかに信じがたい現象だが、あくまでこの世界は『夢』の中だ。まず一般常識など通用しない。それは夢の世界のみに生きる私という存在が何よりの証拠だった。
恐らく右の壁の向こう側が、あの子と私の小部屋だろう。ならば左の壁の向こう側も、何処かに繋がっているのだろうか。
私は黒のロンググローブを纏った左手で、未知なる境界へと触れようとする。伸ばさずとも、すぐに届く距離だった。手のひらを乗せる、ただそれだけのこと。そのはずだった。
「……駄目、だ……出来ない……」
――手が、震えていた。恰も目眩でも起こしたかのように、大袈裟なくらいの動作を披露して。聞こえもしないはずなのに、大きな警報音が身体中に鞭を打ちつけては、膨大に襲いかかる恐怖心が私を逃すことはなかった。
私は従順にその手を引っ込めて枕を包むと、木陰に身を潜めるみたいに顔を下げる。地面には、足裏を十分に覆う程度の水が揺らめいていた。タイツ越しに生ぬるい温度がじんわりと込み上げてきて、形容しがたい不快感が蟠る。
靴でもあればと表情を歪めたが、ベッドの上以外の居所を知らない私にとっては、どうせ不必要な品であることは明白だった。後味の悪さをこれでもかと染み込ませながらも、私はようやく頭を上げる。
「……? あれは……」
まっすぐな道の遥か先。ぽつんと、至って静かに、白い何かが置かれている。
ゆらゆらと春風に遊ばれるよう傾くその姿は、目もあやな儚さで。感極まって泣き出したくなってしまう。そんな抱きしめたいあたたかさを、真っ白で清純な箱は放っていた。
「何故、こんなところに揺り籠が」
あの子の世界しか知らぬ私には分からない。道筋通り前に進むべきなのか、振り返って後ろを歩いていくのか。
それは、この相対する二つの行動に『選択』という文字が結びつくからだ。先程左手の壁に触れようとしたときの、鼓膜を破るようなあの警報音。あれは、私が物事を選ぼうとしたことに由来するのだと、今しがた理解した。
――ならば、私には何ができるというのだろうか?
前にも進めず、後ろにも進めない。もしかしたら、前だと認識している方が後ろで、その逆は前という可能性だってあるのではないか。
……そうだ。選択というものは、最も恐ろしい。
己の選んだたった一つの意思により、結末は時を待たずして決まっていく。そしてそのエンディングは、自分の望んだ物語になるとは限らないのだから、これほどまでに残酷なことはない。
「私には、何も選べない」
あの輝かしい籠の元に行くことが正解かだなんて、分かるはずがない。今はただ、ヒビが割れていくような脳で錯乱する思考を投げ捨てたかった。
あの部屋に戻って、大好きなあの子と永遠に続く幸せを過ごしたい。私にはそれだけだった。
「ミラージェン……」
前も後ろも、どうだっていいのではないか。私の気持ちは、ずっとあの子の世界に置いてきたのだから。
早くあそこに帰ろう。私は正面から目を逸らして、心許なく枕を抱きしめた。体を右に向けると、ぴちゃぴちゃと音を鳴らす予定を立てて、脚を動かしていく。
だが、私の耳に飛び込んできたのは、がたりと何かが当たったような物音だった。私は違和感を覚えて、また右に視線を傾けた。
ぽとり、と。あれほど力強く抱いていた枕が、私の眼に現れた
拾わなければ。そう思って、手を伸ばす。落ちたものを拾う、誰もがそうするであろう行為。
だがその無意識な行いには、宇宙の奈落に飲み込まれるかの如く、生き物には扱うことのできない壮大なる強制力が働いていた。
時空が捻じ曲げられるよう、指針の歩みがスローモーションになっていく。私の手が、身体が、魂が、
「っ!」
置き去りになっていた右手が、突如強引に引かれる。私はそのまま横に倒れるようにして、左側の壁に吸い込まれていった。