第一章「死神の館」
第六話『師弟』
濃紺に無数の光が己を見つめては煌めいている。きらりと、無邪気に身体を照らす彼らはいつだって見守ってくれているような気がして、嬉しい反面どこか焦ったい。
ルシアスが館から出て行って向かった先は、薄暗く物音一つも聞こえない森林だ。木々でレドナーの屋敷を取り囲む森は、少し歩けばすぐに辿り着く。変に歩き回っても迷ってしまうだろうから、道順を覚えられる程度の場所に留まった。
「さぁもう一度……!」
目を閉じて、なるべく穏やかに息を吸い込み、心を浄化するように全てを吐き出した。己の意識に潜り込んで想像を巡らし、眩く降り注ぐ、夜空の子供たちを思い描く。ぱっと瞳を起こし、ルシアスは杖を高く掲げて呪文を唱えた。
ぽつぽつ、と光が浮かんで、明るい黄金を宵へと走らせた。一つ、二つ、三つ、とそれらは増えていき、やった! とルシアスは歓喜の声を上げる。が、その瞬間、突然流星群の灯りが失われて、ぽつりと地上へ落下していった。
「いっっっった‼︎」
ふふん、と余裕を見せつけていたルシアスの頭にこつんと星の欠片が命中する。その衝撃で倒れ込んだルシアスは、先程治りかけていたたんこぶに二重でダメージを喰らってしまい、ばたばたと短い脚を叩きつけて悶絶した。星はルシアスにぶつかると、ぽふんと効果音を鳴らして消えていく。もうっ! と星々に八つ当たりをするが、彼らは知ったこっちゃない。心做しかこちらをほくそ笑んでいるみたいに見えて、ルシアスは大きなため息をついた。
気でも紛らわすように魔女帽を外して、裏側の穴に腕を突っ込む。中は異空間のようになっており、所持品はほとんどこの中にしまっている。だが、何でもかんでも適当に入れる癖のあるルシアスは、なかなかお目当てのものに出会えない。
イライラしながら乱雑に腕を掻き回していると、ゴソ、と乾燥したものが擦れる感覚があった。それを掴んで帽子からすぽんと抜き出すと、パンのロゴが描かれた紙袋が目に映る。ルシアスは紙袋に手を探り入れ、昼食になる予定であったお気に入りのフレンチトーストに勢いよく齧り付く。噛み心地がパサパサと若干悪くなったものの、甘味の染みついたパンはいつもの味だ。なんだか情けなくて、はぁ、と不景気な顔を星々に向ける。
「今日もついカッとなってしまった……」
八つ当たりのせいで、ルシアスは惨事を思い出す。だが、あれには理由がしっかりある。自分の大事な昼食が盗まれたからだ。
このフレンチトーストは、パン屋の朗らかな店主であるお婆さんが作っている。いつものようにおまけだとカップケーキを添えてくれる彼女のことが、ルシアスは好きだった。
だからこそ、ライムントに余計なくらい攻撃魔法を連発したわけなのだが、関係のない商店街の人達に迷惑をかけてしまったこと、そして悪意の無さそうなライムントに怪我を負わせてしまったことは紛れもない事実だ。
「くそっこんなんだから僕は……」
ぎり、と歯軋りを鳴らしたルシアスだったが、はっとして紡ごうとした言葉を封じ込めるように唇をぐっと堪える。
「自分の未熟さを理解することと、自分を卑下することは別物だ」
いけないいけない、と気を取り直してフレンチトーストを放り込む。冷めても美味しいよ、と店主に感謝が届くように、最後に一口でカップケーキを平らげてから、ルシアスは手を合わせて完食した。
空になった左手を暫し見つめると、ゆっくりと暗闇色の空に伸ばして指を広げた。その隙間からちらちらと覗く星々だけが、自分の弱いところも情けないところもお見通しだ。くすりと微笑んで、ルシアスは呪文を唱える。
すると、ふわりと光が生まれて、小さな流れ星が楽しそうに駆け回っては指先をぐるぐると絡ませてくる。擽ったいな、と瞳を細めて見つめていたルシアスであったが、ぐん、と自分に重なるように影が夜空を隠す。自分の魔法から目を離して首をぐいっと見上げると、随分暗い時間帯だというのに、真昼間のような明るさを持ったサファイアがそこにあった。
「ルシアス! やっと見つけた!」
普段とは違って解いた桃色の髪を揺らして、カロンはにぱ! と大口を開けて破顔した。よいしょと許可もなく隣に座り込むカロンに、ルシアスは顔を顰める。
「こんなところまで来て何の用なんだい」
「突然どこかに行っちゃったから心配で。レドナーが教えてくれたの」
「僕がどこに行こうが勝手だろう。心配無用さ、今この通り忙しいからもうお行き」
しっし、と犬でも追い払うように手を動かすルシアスに忙しさは伺えない。むしろ寝転がってリラックスしているように見えるのだが。
「その魔法、とっても綺麗ね!」
「げ……見ていたのかい」
「えぇ! 小さな流れ星かしら、貴方に懐いているみたいで可愛らしかったわ」
ルシアスの人差し指にまとわりつく星の子に、カロンはこんばんはと挨拶を交わす。ひゅん、とこちらに駆け寄っては踊るように宙を舞う姿があどけなくて、カロンは頬を綻ばせる。
「ここで何をしていたの?」
流れ星と触れ合いながらカロンは問いかける。夕食時も過ぎた夜遅くに、わざわざ森へと訪れた理由が知りたかった。
「……修行」
「修行?」
ルシアスは視線を夜空から変えることなく、渋々といった様子で答えた。その単語はカロンにも聞き馴染みのあるもので、ついオウム返しをする。
「ちょっとの時間でも無駄にしたくないんだ。お分かりかい?」
ルシアスは不貞腐れながら述べる。そんなルシアスで遊ぶように、星がちょんちょんとほっぺたを突く。呆れたように指で優しく押し返すルシアスは、それ以上言葉を続けようとはしなかった。
「まぁ……」
カロンは感嘆を漏らし、口元に両手を添えてあんぐりしている。なんだよ、と気になってカロンの方へと目線をやったルシアスだったが、即座にその判断を見誤ったと悟った。彼女に会話を終わらせるなんて発想は無いというのに。
「凄いわ! 努力家なのね、憧れちゃう!」
わぁっと声を弾ませて、カロンは大きな瞳を輝かせる。そんなカロンの反応に、ルシアスは瑠璃に柘榴と異なった目の色を驚かせながら、ぐいっと近寄ってきたカロンを映した。
「私はちょっとくらい良いかって、たまに手を抜いてしまうの。だからストイックに物事を継続出来る人は尊敬しちゃうわ!」
「うおいっ君っ近いんだよ!! 距離感ってものをまるで知らないのかい!?」
「あ、でも夜ご飯を抜いたら駄目よ。体が持たないし太りやすくなっちゃうもの」
「僕の話を聞けよもう!!」
ぐいーっとカロンの肩を押しながら、それに伴ってルシアスは身を起こす。全く、と愚痴を呟きながら胡座をかいて、口を尖らせた。
「言っておくけれど、僕は褒められたくて毎日鍛錬を積んでいるわけではないからな」
ビシッとカロンに指を向けて、ルシアスははっきりと注意する。
「この努力は僕が僕のためにやっていることだ。僕だけが知っていればよろしい」
お分かりかい? とお決まりの台詞をカロンに投げかける。ルシアスにとって、努力は褒められるものでも見せ物でもない。言わば自分にとっての誇りであり、宝物なのだ。ルシアスがやけに不機嫌なのは、修行する姿を見られてしまったことが原因だろう。それは小さな魔法使いと世界に広がる星々だけの秘密なのだ。
「まぁ、努力の結果で物を言わすのは最高に気持ちが良いけれどね」
にしし、と意気揚々に話すルシアスは相変わらず幼い子供のようだ。そんなルシアスを微笑ましく思うカロンだが、ルシアスはどこか気を落としたようにため息を吐く。
「肝心のそれが出来ていないんじゃ、お話にもならないんだけどさ」
「……落ち込んでいるの?」
「そんなわけないだろう。自分の未熟さを弁えているだけだ」
フン、と鼻を鳴らしてそっぽ向くルシアスだが、暗澹とした表情は上手く隠せていない。
「大丈夫よ! ルシアスは天才魔法使い様、なんでしょう?」
天が曇ってしまえば星だって見えない。ルシアスの魔法にはあんなにも愛が込められていたのに、どこまでも自分自身に厳しい言葉は少し勿体無いと思った。ルシアスの口癖を真似してみせるが、当の本人はほんのり顔を引きづらせている。
「と、当然さ。その、よ、予定だ……」
「?」
ギクシャクと並びを悪く発音するルシアスに、カロンは首を傾げる。その純粋な空色の瞳がこれでもかと良心を痛めつけてきて、ルシアスは端を発するように大声を張り上げた。
「悪かったな‼︎ お生憎、僕はまだ魔法使いじゃないよ‼︎ お分かりかい‼︎」
びくっと流れ星が跳ねてカロンの背後に隠れる。声を荒げたルシアスは、ぜぇぜぇと息も落ち着かないようだった。カロンはぽかんと腑抜けてルシアスを見つめている。ちょっとの沈黙すら居た堪れなくて、いつになくルシアスから会話を次いだ。
「む、難しいんだよ、人間が魔法使いになるのは……試験だとか儀式だとか色々あってさ……」
すすすと瞳を端に寄せ、ルシアスは苦り切った表情でつらつらと言い訳を述べている。そんなルシアスに、カロンははいはい! と質問を投げかけた。
「魔法使いになるのは簡単なことではないの?」
「当たり前だろう。そんなことも知らないのかい?」
ルシアスはやれやれ、と大袈裟に肩を竦めた。ぱちんと左手の指で音を奏でると、カロンの目の前に薄らと四つの光が灯り、左から赤、青、緑、茶、と彩られている。
「そもそも魔法使いっていうのは、人間から魔法使いになった者の総称だ。そして魔法使いになるためには、純魔法使いからの認定と儀式が必要となる」
ルシアスはそっと光のうちの一つ、茶色を手のひらの上に浮かばせる。
「純魔法使いは、この世界を作った神の手によって生まれた存在だ」
火、水、風、地、とそれぞれ四元素を司る四人の純魔法使いたちは、世界を構築する自然物の結晶でもあるという。人間が魔法使いになるためには、長年の鍛錬を重ねることが大前提だ。だが純魔法使いたちには必要がない。その所以はいたってシンプルだ。
「僕たちは自分の身体にあるエネルギーを変換して魔力として生み出すけれど、純魔法使いたちはエネルギーそのものが魔力なのさ」
人間には生きるために備わった筋肉や臓器があるが、純魔法使いは我々と身体の構造がまるで違う。彼らは臓器もなければ血液も流れない。言うなれば、魔力で身体を動かしている。人間なら疲れてしまえば魔力切れになるが、身体が魔力で出来ており、かつ世界と共に生きてきた彼らのパワーはある意味無尽蔵だ。自分たちとは比べ物にならないくらいの魔力が蓄えられていることになる。
「魔法に長けた純魔法使いに認めてもらえれば、相応の実力ということだね」
なるほど、とカロンは頷く。つまり魔法使いを名乗る者は、想像を絶するような修行の日々を歩んだのだろう。あまり魔法使いに出会ったことはないが、等しく言えるのは、きっとルシアスみたいにいつ何時でも努力を惜しまない人々だということだ。改めてカロンはルシアスに敬意を詰めた眼差しを送る。
「だから僕も未熟さは身に染みているよ。実力が足りていないのも分かっている。けれどね……」
星の子がすっとカロンから離れて、ふに、とルシアスの頬を撫でた。その子なりにルシアスを励ましているようで、カロンはあたたかな光景に心がほぐれる。だが、それが合図かのようにルシアスはカッと大きな瞳を更に広げた。
「あんのジジイいつになっても僕の話を聞こうともしないんだ!! 仮にも僕は弟子だろうが!! 今の実力だって実践してみないと分かんないのにさぁ!! このナルシストジジイが!!」
ルシアスはふつふつと溢れ出てくる鬱憤を饒舌に張り上げる。普段の紳士的な口調が崩れて品が損なわれているようだ。怒号渦巻くルシアスに星はぴょんと弾んで、逃げるようにその場から消え去ってしまった。一方カロンは、ルシアスの発したある単語に反応して声を掛ける。
「! ルシアスにもお師匠さんがいるの?」
「は? うーん……いや、まぁそんな感じか……?」
「まぁ! そうなのね」
ぱんっと両手を合わせて、カロンは喜悦満面の笑みを漲らす。
「私もね、とっても自慢の師匠がいるの! この街に来たのも、師匠に会うためでね」
肝心の師匠とは出会えていないのだが。これも旅の醍醐味だよね! とカロンは楽観的な思考で塗り替える。
ルシアスはそんなカロンにへぇ、とほんの少し感興を催す。カロンは瞳を伏せて、師匠ことクラウンベリーに思いを馳せた。
「師匠はね、カリスマパティシエって呼ばれるくらい美味しいお菓子を作るの」
ふわりと羽のように頬を包むブッシュドノエル、サクサクと脆くて香ばしいバタークッキー、オレンジピールの爽やかさが広がるパウンドケーキなどなど……どれも選べないが、カロンはちょこんとさくらんぼを頂点に輝かせたカラメルプリンが特にお気に入りだ。店に着いたら絶対に買って帰ろうと決めている。想像するだけでついよだれが垂れてしまいそうだ。
「けれど指導はスパルタなの! まるで舌が焼けちゃうような激辛料理を食べている気分になるわ」
クラウンベリーは百パーセントと断言していいほど、お世辞を言わないタチだ。はっきりと嘘偽りなく伝える彼の講評にはカロンも何度泣かされそうになったか定かではない。
「ふふ、私はそんなところが好きなの! ストイックで、自然体を恥じない姿を尊敬しているわ」
辛口で子供相手にも手厳しい己の師匠を浮かべながら、カロンはお菓子でも食べたみたいににっこりと顔をとろけさせる。
彼はいつだって正直で、自分の軸を揺らがすことのない人だ。誰かに嫌われたって仕方がないしそもそも関係もないだなんて、美しく纏められた若紫色の三つ編みを揺らす彼が格好良かった。
「私ね、どうしても作れない料理があるの」
「……聞いてもいいのかい?」
言いたくないのなら構わない、と幼い瞳で返されるが、カロンは肯定を伝える。ルシアスはじっとカロンの言葉に耳を傾けていた。
「ハンバーグ。これだけは、何回挑戦しても上手く出来なくて」
クラウンベリーに教えて貰った通りに調理を進めていくが、蓋を開けて煙の中に見えるのは黒くこびりついた焦げだった。あぁ、またやってしまった、と顔を沈めて悲嘆に暮れるカロンだったが、クラウンベリーはカロンと目線が合うようにしゃがみこむ。顔を上げなさい、としなやかな手が頬に触れて、彼の黄緑色の瞳が優しくこちらを見つめてくれていた。クラウンベリーは乱れないように頭を撫でながらカロンの名を呼んで、人差し指を立てた。
「師匠はこう言ってくれたの。苦手なことの一つや二つあったほうが愛される、ってね」
だから、出来ないことを責めて、それをコンプレックスだなんて足枷にはしないで。得意不得意なんてあって当たり前で、欠点だけに視野を向けてしまうのなら、貴方の良いところを沢山教えてあげる。
クラウンベリーはふふ、と蝶々が花から羽ばたくようにふわりと微笑んでくれた。それをカロンはずっと覚えている。自分にとって大切で残したいものを収める引き出しに、クラウンベリーの言葉は仰山とあるのだ。
「ありのままの自分を愛して、私も深く愛してくれた。師匠は私の一番の憧れの人なの!」
あどけなく笑ったカロンは、金色燦爛と眩い星屑と似ていた。違えた瞳をゆらめかせながらカロンの話を窺っていたルシアスは、頬を少しばかり緩ませる。
「そう。いい師を持ったね」
「えぇ! ルシアスのお師匠さんも、きっと良い人に違いないわ!」
「どうかな。アイツは自分のことしか興味のないろくでなしの年寄りだ」
はぁ、と呆れながらも、ルシアスはどこか機嫌が良さそうに空を眺めた。
「目指す先は違えど、君の努力が功を成すことを祈っているよ」
流れ星にお願いごとをする子供みたいに、ルシアスは目を柔らかく細めた。それが嬉しくて、カロンも遥か先に浮かぶ星々と目を合わせる。
「ルシアスが魔法使いになれますように!」
「君に願われなくともなるに決まっているだろう。なんてったって僕は天才魔法使い様だからな!」
「あら! そうだったわね。ふふ、応援しているわ」
誇らしげなルシアスに笑いかけるカロンを、夜の空の子供たちはきらきらぴかぴかとはしゃぎながら見守っている。彼らは、小さな人の子のまっすぐな願いを大事に抱きしめて、濃く色づいた青の世界をゆったりと走っていった。また会おうね、と手を振るように。
◆◆◆
窓から燦々と降り注ぐ一閃を見つめていた。欣然として人々の願いを抱きしめ駆け巡る彼らが煩わしく思えて、帽子を深く被り込んで視線を落とす。小さい桃色と水色がわいわいとこちらに戻ってくるのが見えて、そっと窓辺に手を置いた。
「ねぇ、私のお願いも叶えてくれますか?」
流れ星が願い事を叶えてくれる、だなんて夢物語みたいな話、これっぽっちも信じちゃいない。それなのに、藁をも掴む思いで枯れた笑みを貼り付けて渇望する。らしくないと自分で分かっていた。でも、縋るものも信じられるものだってなんにもないのに、誰が救ってくれるというのか。それこそ綺麗事ばかり並べる夢物語くらいだ。
御伽噺で心が洗われるような無垢であれば、どんなに良かっただろう。今ではもう、全てが馬鹿らしく思えてしまって、絵本も小説も大嫌いになった。叶えられない幻想に、なんの価値がある。愚にもつかない話だと嘲笑ってやった。
片手に包まれた、軽く優しい青い羽をぐしゃりと握りつぶす。それは意図も容易く、音も立てずに消えていった。
「大空を舞う鳥だって、羽がなければ意味がない」
そうでしょう、カロンさん。
どうか届きませんように、だなんて望みながら、テオフィールは林檎を濁らせた。
濃紺に無数の光が己を見つめては煌めいている。きらりと、無邪気に身体を照らす彼らはいつだって見守ってくれているような気がして、嬉しい反面どこか焦ったい。
ルシアスが館から出て行って向かった先は、薄暗く物音一つも聞こえない森林だ。木々でレドナーの屋敷を取り囲む森は、少し歩けばすぐに辿り着く。変に歩き回っても迷ってしまうだろうから、道順を覚えられる程度の場所に留まった。
「さぁもう一度……!」
目を閉じて、なるべく穏やかに息を吸い込み、心を浄化するように全てを吐き出した。己の意識に潜り込んで想像を巡らし、眩く降り注ぐ、夜空の子供たちを思い描く。ぱっと瞳を起こし、ルシアスは杖を高く掲げて呪文を唱えた。
ぽつぽつ、と光が浮かんで、明るい黄金を宵へと走らせた。一つ、二つ、三つ、とそれらは増えていき、やった! とルシアスは歓喜の声を上げる。が、その瞬間、突然流星群の灯りが失われて、ぽつりと地上へ落下していった。
「いっっっった‼︎」
ふふん、と余裕を見せつけていたルシアスの頭にこつんと星の欠片が命中する。その衝撃で倒れ込んだルシアスは、先程治りかけていたたんこぶに二重でダメージを喰らってしまい、ばたばたと短い脚を叩きつけて悶絶した。星はルシアスにぶつかると、ぽふんと効果音を鳴らして消えていく。もうっ! と星々に八つ当たりをするが、彼らは知ったこっちゃない。心做しかこちらをほくそ笑んでいるみたいに見えて、ルシアスは大きなため息をついた。
気でも紛らわすように魔女帽を外して、裏側の穴に腕を突っ込む。中は異空間のようになっており、所持品はほとんどこの中にしまっている。だが、何でもかんでも適当に入れる癖のあるルシアスは、なかなかお目当てのものに出会えない。
イライラしながら乱雑に腕を掻き回していると、ゴソ、と乾燥したものが擦れる感覚があった。それを掴んで帽子からすぽんと抜き出すと、パンのロゴが描かれた紙袋が目に映る。ルシアスは紙袋に手を探り入れ、昼食になる予定であったお気に入りのフレンチトーストに勢いよく齧り付く。噛み心地がパサパサと若干悪くなったものの、甘味の染みついたパンはいつもの味だ。なんだか情けなくて、はぁ、と不景気な顔を星々に向ける。
「今日もついカッとなってしまった……」
八つ当たりのせいで、ルシアスは惨事を思い出す。だが、あれには理由がしっかりある。自分の大事な昼食が盗まれたからだ。
このフレンチトーストは、パン屋の朗らかな店主であるお婆さんが作っている。いつものようにおまけだとカップケーキを添えてくれる彼女のことが、ルシアスは好きだった。
だからこそ、ライムントに余計なくらい攻撃魔法を連発したわけなのだが、関係のない商店街の人達に迷惑をかけてしまったこと、そして悪意の無さそうなライムントに怪我を負わせてしまったことは紛れもない事実だ。
「くそっこんなんだから僕は……」
ぎり、と歯軋りを鳴らしたルシアスだったが、はっとして紡ごうとした言葉を封じ込めるように唇をぐっと堪える。
「自分の未熟さを理解することと、自分を卑下することは別物だ」
いけないいけない、と気を取り直してフレンチトーストを放り込む。冷めても美味しいよ、と店主に感謝が届くように、最後に一口でカップケーキを平らげてから、ルシアスは手を合わせて完食した。
空になった左手を暫し見つめると、ゆっくりと暗闇色の空に伸ばして指を広げた。その隙間からちらちらと覗く星々だけが、自分の弱いところも情けないところもお見通しだ。くすりと微笑んで、ルシアスは呪文を唱える。
すると、ふわりと光が生まれて、小さな流れ星が楽しそうに駆け回っては指先をぐるぐると絡ませてくる。擽ったいな、と瞳を細めて見つめていたルシアスであったが、ぐん、と自分に重なるように影が夜空を隠す。自分の魔法から目を離して首をぐいっと見上げると、随分暗い時間帯だというのに、真昼間のような明るさを持ったサファイアがそこにあった。
「ルシアス! やっと見つけた!」
普段とは違って解いた桃色の髪を揺らして、カロンはにぱ! と大口を開けて破顔した。よいしょと許可もなく隣に座り込むカロンに、ルシアスは顔を顰める。
「こんなところまで来て何の用なんだい」
「突然どこかに行っちゃったから心配で。レドナーが教えてくれたの」
「僕がどこに行こうが勝手だろう。心配無用さ、今この通り忙しいからもうお行き」
しっし、と犬でも追い払うように手を動かすルシアスに忙しさは伺えない。むしろ寝転がってリラックスしているように見えるのだが。
「その魔法、とっても綺麗ね!」
「げ……見ていたのかい」
「えぇ! 小さな流れ星かしら、貴方に懐いているみたいで可愛らしかったわ」
ルシアスの人差し指にまとわりつく星の子に、カロンはこんばんはと挨拶を交わす。ひゅん、とこちらに駆け寄っては踊るように宙を舞う姿があどけなくて、カロンは頬を綻ばせる。
「ここで何をしていたの?」
流れ星と触れ合いながらカロンは問いかける。夕食時も過ぎた夜遅くに、わざわざ森へと訪れた理由が知りたかった。
「……修行」
「修行?」
ルシアスは視線を夜空から変えることなく、渋々といった様子で答えた。その単語はカロンにも聞き馴染みのあるもので、ついオウム返しをする。
「ちょっとの時間でも無駄にしたくないんだ。お分かりかい?」
ルシアスは不貞腐れながら述べる。そんなルシアスで遊ぶように、星がちょんちょんとほっぺたを突く。呆れたように指で優しく押し返すルシアスは、それ以上言葉を続けようとはしなかった。
「まぁ……」
カロンは感嘆を漏らし、口元に両手を添えてあんぐりしている。なんだよ、と気になってカロンの方へと目線をやったルシアスだったが、即座にその判断を見誤ったと悟った。彼女に会話を終わらせるなんて発想は無いというのに。
「凄いわ! 努力家なのね、憧れちゃう!」
わぁっと声を弾ませて、カロンは大きな瞳を輝かせる。そんなカロンの反応に、ルシアスは瑠璃に柘榴と異なった目の色を驚かせながら、ぐいっと近寄ってきたカロンを映した。
「私はちょっとくらい良いかって、たまに手を抜いてしまうの。だからストイックに物事を継続出来る人は尊敬しちゃうわ!」
「うおいっ君っ近いんだよ!! 距離感ってものをまるで知らないのかい!?」
「あ、でも夜ご飯を抜いたら駄目よ。体が持たないし太りやすくなっちゃうもの」
「僕の話を聞けよもう!!」
ぐいーっとカロンの肩を押しながら、それに伴ってルシアスは身を起こす。全く、と愚痴を呟きながら胡座をかいて、口を尖らせた。
「言っておくけれど、僕は褒められたくて毎日鍛錬を積んでいるわけではないからな」
ビシッとカロンに指を向けて、ルシアスははっきりと注意する。
「この努力は僕が僕のためにやっていることだ。僕だけが知っていればよろしい」
お分かりかい? とお決まりの台詞をカロンに投げかける。ルシアスにとって、努力は褒められるものでも見せ物でもない。言わば自分にとっての誇りであり、宝物なのだ。ルシアスがやけに不機嫌なのは、修行する姿を見られてしまったことが原因だろう。それは小さな魔法使いと世界に広がる星々だけの秘密なのだ。
「まぁ、努力の結果で物を言わすのは最高に気持ちが良いけれどね」
にしし、と意気揚々に話すルシアスは相変わらず幼い子供のようだ。そんなルシアスを微笑ましく思うカロンだが、ルシアスはどこか気を落としたようにため息を吐く。
「肝心のそれが出来ていないんじゃ、お話にもならないんだけどさ」
「……落ち込んでいるの?」
「そんなわけないだろう。自分の未熟さを弁えているだけだ」
フン、と鼻を鳴らしてそっぽ向くルシアスだが、暗澹とした表情は上手く隠せていない。
「大丈夫よ! ルシアスは天才魔法使い様、なんでしょう?」
天が曇ってしまえば星だって見えない。ルシアスの魔法にはあんなにも愛が込められていたのに、どこまでも自分自身に厳しい言葉は少し勿体無いと思った。ルシアスの口癖を真似してみせるが、当の本人はほんのり顔を引きづらせている。
「と、当然さ。その、よ、予定だ……」
「?」
ギクシャクと並びを悪く発音するルシアスに、カロンは首を傾げる。その純粋な空色の瞳がこれでもかと良心を痛めつけてきて、ルシアスは端を発するように大声を張り上げた。
「悪かったな‼︎ お生憎、僕はまだ魔法使いじゃないよ‼︎ お分かりかい‼︎」
びくっと流れ星が跳ねてカロンの背後に隠れる。声を荒げたルシアスは、ぜぇぜぇと息も落ち着かないようだった。カロンはぽかんと腑抜けてルシアスを見つめている。ちょっとの沈黙すら居た堪れなくて、いつになくルシアスから会話を次いだ。
「む、難しいんだよ、人間が魔法使いになるのは……試験だとか儀式だとか色々あってさ……」
すすすと瞳を端に寄せ、ルシアスは苦り切った表情でつらつらと言い訳を述べている。そんなルシアスに、カロンははいはい! と質問を投げかけた。
「魔法使いになるのは簡単なことではないの?」
「当たり前だろう。そんなことも知らないのかい?」
ルシアスはやれやれ、と大袈裟に肩を竦めた。ぱちんと左手の指で音を奏でると、カロンの目の前に薄らと四つの光が灯り、左から赤、青、緑、茶、と彩られている。
「そもそも魔法使いっていうのは、人間から魔法使いになった者の総称だ。そして魔法使いになるためには、純魔法使いからの認定と儀式が必要となる」
ルシアスはそっと光のうちの一つ、茶色を手のひらの上に浮かばせる。
「純魔法使いは、この世界を作った神の手によって生まれた存在だ」
火、水、風、地、とそれぞれ四元素を司る四人の純魔法使いたちは、世界を構築する自然物の結晶でもあるという。人間が魔法使いになるためには、長年の鍛錬を重ねることが大前提だ。だが純魔法使いたちには必要がない。その所以はいたってシンプルだ。
「僕たちは自分の身体にあるエネルギーを変換して魔力として生み出すけれど、純魔法使いたちはエネルギーそのものが魔力なのさ」
人間には生きるために備わった筋肉や臓器があるが、純魔法使いは我々と身体の構造がまるで違う。彼らは臓器もなければ血液も流れない。言うなれば、魔力で身体を動かしている。人間なら疲れてしまえば魔力切れになるが、身体が魔力で出来ており、かつ世界と共に生きてきた彼らのパワーはある意味無尽蔵だ。自分たちとは比べ物にならないくらいの魔力が蓄えられていることになる。
「魔法に長けた純魔法使いに認めてもらえれば、相応の実力ということだね」
なるほど、とカロンは頷く。つまり魔法使いを名乗る者は、想像を絶するような修行の日々を歩んだのだろう。あまり魔法使いに出会ったことはないが、等しく言えるのは、きっとルシアスみたいにいつ何時でも努力を惜しまない人々だということだ。改めてカロンはルシアスに敬意を詰めた眼差しを送る。
「だから僕も未熟さは身に染みているよ。実力が足りていないのも分かっている。けれどね……」
星の子がすっとカロンから離れて、ふに、とルシアスの頬を撫でた。その子なりにルシアスを励ましているようで、カロンはあたたかな光景に心がほぐれる。だが、それが合図かのようにルシアスはカッと大きな瞳を更に広げた。
「あんのジジイいつになっても僕の話を聞こうともしないんだ!! 仮にも僕は弟子だろうが!! 今の実力だって実践してみないと分かんないのにさぁ!! このナルシストジジイが!!」
ルシアスはふつふつと溢れ出てくる鬱憤を饒舌に張り上げる。普段の紳士的な口調が崩れて品が損なわれているようだ。怒号渦巻くルシアスに星はぴょんと弾んで、逃げるようにその場から消え去ってしまった。一方カロンは、ルシアスの発したある単語に反応して声を掛ける。
「! ルシアスにもお師匠さんがいるの?」
「は? うーん……いや、まぁそんな感じか……?」
「まぁ! そうなのね」
ぱんっと両手を合わせて、カロンは喜悦満面の笑みを漲らす。
「私もね、とっても自慢の師匠がいるの! この街に来たのも、師匠に会うためでね」
肝心の師匠とは出会えていないのだが。これも旅の醍醐味だよね! とカロンは楽観的な思考で塗り替える。
ルシアスはそんなカロンにへぇ、とほんの少し感興を催す。カロンは瞳を伏せて、師匠ことクラウンベリーに思いを馳せた。
「師匠はね、カリスマパティシエって呼ばれるくらい美味しいお菓子を作るの」
ふわりと羽のように頬を包むブッシュドノエル、サクサクと脆くて香ばしいバタークッキー、オレンジピールの爽やかさが広がるパウンドケーキなどなど……どれも選べないが、カロンはちょこんとさくらんぼを頂点に輝かせたカラメルプリンが特にお気に入りだ。店に着いたら絶対に買って帰ろうと決めている。想像するだけでついよだれが垂れてしまいそうだ。
「けれど指導はスパルタなの! まるで舌が焼けちゃうような激辛料理を食べている気分になるわ」
クラウンベリーは百パーセントと断言していいほど、お世辞を言わないタチだ。はっきりと嘘偽りなく伝える彼の講評にはカロンも何度泣かされそうになったか定かではない。
「ふふ、私はそんなところが好きなの! ストイックで、自然体を恥じない姿を尊敬しているわ」
辛口で子供相手にも手厳しい己の師匠を浮かべながら、カロンはお菓子でも食べたみたいににっこりと顔をとろけさせる。
彼はいつだって正直で、自分の軸を揺らがすことのない人だ。誰かに嫌われたって仕方がないしそもそも関係もないだなんて、美しく纏められた若紫色の三つ編みを揺らす彼が格好良かった。
「私ね、どうしても作れない料理があるの」
「……聞いてもいいのかい?」
言いたくないのなら構わない、と幼い瞳で返されるが、カロンは肯定を伝える。ルシアスはじっとカロンの言葉に耳を傾けていた。
「ハンバーグ。これだけは、何回挑戦しても上手く出来なくて」
クラウンベリーに教えて貰った通りに調理を進めていくが、蓋を開けて煙の中に見えるのは黒くこびりついた焦げだった。あぁ、またやってしまった、と顔を沈めて悲嘆に暮れるカロンだったが、クラウンベリーはカロンと目線が合うようにしゃがみこむ。顔を上げなさい、としなやかな手が頬に触れて、彼の黄緑色の瞳が優しくこちらを見つめてくれていた。クラウンベリーは乱れないように頭を撫でながらカロンの名を呼んで、人差し指を立てた。
「師匠はこう言ってくれたの。苦手なことの一つや二つあったほうが愛される、ってね」
だから、出来ないことを責めて、それをコンプレックスだなんて足枷にはしないで。得意不得意なんてあって当たり前で、欠点だけに視野を向けてしまうのなら、貴方の良いところを沢山教えてあげる。
クラウンベリーはふふ、と蝶々が花から羽ばたくようにふわりと微笑んでくれた。それをカロンはずっと覚えている。自分にとって大切で残したいものを収める引き出しに、クラウンベリーの言葉は仰山とあるのだ。
「ありのままの自分を愛して、私も深く愛してくれた。師匠は私の一番の憧れの人なの!」
あどけなく笑ったカロンは、金色燦爛と眩い星屑と似ていた。違えた瞳をゆらめかせながらカロンの話を窺っていたルシアスは、頬を少しばかり緩ませる。
「そう。いい師を持ったね」
「えぇ! ルシアスのお師匠さんも、きっと良い人に違いないわ!」
「どうかな。アイツは自分のことしか興味のないろくでなしの年寄りだ」
はぁ、と呆れながらも、ルシアスはどこか機嫌が良さそうに空を眺めた。
「目指す先は違えど、君の努力が功を成すことを祈っているよ」
流れ星にお願いごとをする子供みたいに、ルシアスは目を柔らかく細めた。それが嬉しくて、カロンも遥か先に浮かぶ星々と目を合わせる。
「ルシアスが魔法使いになれますように!」
「君に願われなくともなるに決まっているだろう。なんてったって僕は天才魔法使い様だからな!」
「あら! そうだったわね。ふふ、応援しているわ」
誇らしげなルシアスに笑いかけるカロンを、夜の空の子供たちはきらきらぴかぴかとはしゃぎながら見守っている。彼らは、小さな人の子のまっすぐな願いを大事に抱きしめて、濃く色づいた青の世界をゆったりと走っていった。また会おうね、と手を振るように。
◆◆◆
窓から燦々と降り注ぐ一閃を見つめていた。欣然として人々の願いを抱きしめ駆け巡る彼らが煩わしく思えて、帽子を深く被り込んで視線を落とす。小さい桃色と水色がわいわいとこちらに戻ってくるのが見えて、そっと窓辺に手を置いた。
「ねぇ、私のお願いも叶えてくれますか?」
流れ星が願い事を叶えてくれる、だなんて夢物語みたいな話、これっぽっちも信じちゃいない。それなのに、藁をも掴む思いで枯れた笑みを貼り付けて渇望する。らしくないと自分で分かっていた。でも、縋るものも信じられるものだってなんにもないのに、誰が救ってくれるというのか。それこそ綺麗事ばかり並べる夢物語くらいだ。
御伽噺で心が洗われるような無垢であれば、どんなに良かっただろう。今ではもう、全てが馬鹿らしく思えてしまって、絵本も小説も大嫌いになった。叶えられない幻想に、なんの価値がある。愚にもつかない話だと嘲笑ってやった。
片手に包まれた、軽く優しい青い羽をぐしゃりと握りつぶす。それは意図も容易く、音も立てずに消えていった。
「大空を舞う鳥だって、羽がなければ意味がない」
そうでしょう、カロンさん。
どうか届きませんように、だなんて望みながら、テオフィールは林檎を濁らせた。