番外編・短編

「君たちの授けた僕たちの色」


 木の葉がかけっこするみたいに、愛おしい音が聞こえた。かさかさかさって、特別な意味もなく微笑むことを望まれてる。まだ世界の善悪も知らない子供が、頭を撫でられているように。
 あいつがペンを持って原稿用紙に言葉を紡ぐときは、いつもそんな鼓動が聞こえるよ。

「兄さん……」

 はっとして、ドアを閉めた。井戸の底から吊り下げられた糸を引っ張るような呼びかけが、耳に入ってきたから。星明かりのなくなった空の中で、今にも消え入りそうな声が俺を呼んだ。
 この部屋に朝日が訪れたのは、随分昔のことのように思える。細長い小部屋の壁には、どこもかしこも本棚が背を預けていて、隙間もなく本が詰め込まれている。床すらも大きさの異なった本が塔みたいにぽつぽつ積み上げられていて、申し訳程度に木目がこちらを見上げていた。俺は室内の一番奥の方で、代わり映えしない眺めに目を凝らすばかりだ。

「どうした?」

 後ろに振り返って、彼女の目線に合わせるようぐっと屈む。少女の子供らしく愛嬌ある顔立ちは、びっくりして息が止まってしまうほど、俺と瓜二つだ。でもその姿は透けたりぼやけたりしていて、彼女を彩るものは白と黒など、無彩色に辛うじて濃淡がついた程度だった。
 少女はワンピースの裾を掴んで、視線をちょこちょこと迷わせる。不確かな脳内に存在する答えを探して、小人が一生懸命積み木を運ぶように、俺に伝えたいことを選んでる。不安そうな態度は消えなかったけど、彼女は僅かに唇を動かした。

「お父さんのそばに、いかないの?」

 俺の手首を握って、おとなしく尋ねた。転んで今にも泣き出しそうな、とにかくおぼこく可愛い声で。一気に鋏で紙を切るように空気を吸わされてしまったから、少女の耳に届かないようにと慎重に、とめどなく息を吐き出した。膝を伸ばして、もう一度あの音色に近づく。本当に、こっそりと。
 俺のいる暗闇には、光が齎されないわけじゃない。扉の取手を捻じれば、灯りなんて簡単に差し込んでくる。だけどこの眩い月光色は、あいつがこのドアを開けてくれない限り、俺の求めるものじゃない。だから俺は扉をほんの少しだけ、親に内緒でおもちゃ箱の中を覗くみたいに開いて、毎日あいつの後ろ姿を見つめてる。

「俺じゃ、駄目みたいなんだ」

 狭い洞窟で冒険家が見つけたお宝が、出会いの奇跡を謳って煌めきを放つみたいに、ドアの間から漏れ出た明かりが俺の外見をよく浮き上がらせる。少女は大きな瞳孔を広げて、俺を仰ぎ見た。

「兄さん、まっかっか。これも、兄さんのもの?」

 俺の手首を掴んだときに付着した手の赤色を、彼女はペタペタと興味深く触る。少女の純粋な好奇心を、俺は後ろ髪を引かれる思いでやんわりと止めたかったけど、この子を止めるためにはもう一度触れてやらなければならなかった。少女のパンみたいにふっくらとした手に、甘やかしすぎたくらいの量のジャムがつけられてしまう。俺はこの子の兄さんだから、駄目だよって叱ってあげなきゃならないのに、取り除こうとすればするほどその色は深みを帯びていく。
 こんなお揃いに、あいつは喜ばないというのに。

「うん。あいつがくれた、俺だけの色。俺にとっては、大事で誇らしいものだ。でも、あいつは違うんだってさ」

 大袈裟に肩をすくめてみる。あいつに悪態をついてるわけじゃない。ふざけてみたい気分だっただけだ。

「俺は、あいつがくれたものなら何でも嬉しいよ。だからこの色を貰ったときだって、凄く嬉しかった」

 俺の名前を初めて呼んで、生きる意味を与えてくれたのは、あいつだった。俺からしたら、あんな弱気な泣き虫は父親というよりも、世話のかかる弟みたいな子だったけど。でも、そんなちっぽけだったあいつが、俺にとっての全てだ。与えられた祝福をこの手で返せるなら、どんな夢も一緒に叶えてやりたかった。

「なのにさ、俺の新しい姿を見るなり、あいつ突然泣き出してさ……」

 あいつと出会ったあの日の俺とはガラリと格好が変化してたけど、これもこいつがそう願ったからなのだろうと、俺は深く考えなかった。くっきりと鮮明な赤色のマントもお気に入りだったけど、フードのついた黒いパーカーだってクールでイケてる。あいつの子供じみた趣味も、背伸びをしたセンスだって、可愛げがあって俺は好きだった。だから、どちらの方がよかった、と比較する必要はない。
 俺は当然、あいつが喜んでくれるに違いないって、そこそこ単純だから疑わずに見せびらかしたさ。「お子ちゃまっぽいのは卒業かなって」と笑い声を立ててくれるって勝手に思ってた。
 けど、結果は外れた。「ごめん」「僕のせいなんだ」「君はこんな子じゃないのに」って、他にもいっぱい、落とした涙とおんなじ数ほどの否定を繰り返して。そしてあいつは、項垂れたまま起き上がれなくなってしまった。

「あいつがそう望んだから、俺はいつだって応えてやりたいだけなのに、どうしてだろうね」

 誰も受け止めてくれやしない独り言を零す。少し困ったみたいに眉を下げて微笑むあいつの笑顔が大好きで、大人になってもそうやって笑ってくれればいいと祈ってた。あいつが選んだことじゃないなら、悲しむ顔なんてさせたくない。
 でも、そんな表情をさせてしまったのは、他でもない俺だった。長い時間を使って思考しても、理由は分からない。あいつのことを一番に理解してるのは俺のはずなのに、分かってやれないことが苦しかった。ヒーローである俺は、どんな敵も倒して、あいつを救ってやらなきゃならないのに。

「お前は知ってる?」

 独り言っていうのには、大概終わりがない。最悪なことに、面倒な愚痴もそう。つまり、妹に醜態を晒してるのが惨めで笑けてきたから、無理矢理方向転換して質問をしてみる。彼女は俺の話を静かに聞いてくれてたのに、変化球のように分かるはずもない問いを投げかけられたから、わたわたと小鳥が歩き回るみたいに困惑を示した。

「意地悪だったな。ごめんね」

 ぽん、と少女の頭に手を乗せる。赤色が移らないように気を配ったから、ぎこちない仕草にはなってしまったけど、本当だったら兄さんらしく撫で付けてやりたかったのが本音だ。愚痴を聞かせた挙句意地悪をするような兄さんなんて、兄として失格なんだろうけど。

「あいつの隣にいるのは、俺じゃないんだ」

 少女から目を離す。その代わり、もっとこっちにおいでと手を仰いだ。彼女は俺の指に掴まろうとしたけど、敢えて知らなかったフリをする。宙を泳いだ少女の腕は、水底に潜る亀のように深く沈む。彼女は俺の隣に立つと、気配を密やかにして扉の向こう側を覗いた。
 かさかさかさと、優しく擽ったい音。ただ紙とペン先が擦れ合ってるだけだけど、この音はあいつの呼吸であり心音だった。年季の入った羽ペンを細かく動かす様子は相変わらずで、つい口角が緩む。横にいる少女も、あいつを認識するなり、きらきらと無邪気な魔法にかけられたよう頬を染めた。色がないから、俺が何となくそう読み取っただけだけど、間違いない。だってこの子も、俺と同じだから。

「あ」

 猫背がちな背中の奥から、ころんと一文字が呟かれた。あいつはペンを机に置いて、そばにある小瓶を手に取る。あぁ、インクが切れたんだ。だからこまめに入れ替えろって、あれほど言ったのに。

「はい」

 ふと、低くて安らかで、讃美歌が流れているような声色が響く。その歌声の持ち主である少年は、空のボトルにとくとくと、器用にインクを入れていった。少年はあいつの肩にそっと、華奢で真っ白い手を乗せる。するとあいつは、人の影にようやく気がついて、ゆっくりと顔を上げた。

「ありがとう」

 照れ臭そうにはにかんだ横顔を見た。子供の頃と、何にも変わりやしない。馬鹿みたいに、可愛い笑顔。
 あいつは再び机に向き直って、作業を再開した。原稿用紙と見つめ合うあいつに割り込めるやつは、そうそういない。それを少年は把握してるのか、必要以上に言葉をかけることなく、ふらりと気ままに立ち去っていく。あいつの独りぼっちな後ろ姿は、もう寂しさの象徴ではなくなっていた。

「俺がいなくても、もう大丈夫なんだよ」

 無意識に発する。安堵と解放の印か、それとも後悔の証なのか。自分にしか分解できない感情を探るのは、どうにも心が抉れてしまいそうだから、一緒くたにしてしまおう。今となっては、真意なんてどうでもよくて、並べられた文字だけが俺の想いだった。

「でも、俺はあいつの兄さんで、相棒で、ヒーロー……だからさ。やっぱり世話焼くのは、やめられないんだよな。だから……」

 扉から、少しずつ遠ざかる。あいつの後ろ影が、酷く懐かしい記憶のように、高熱に囚われた視界の如くぼやけていく。ぬくもりで満ちた光景が潤んでしまったから、区切りをつけるみたいに瞳を逸らす。ドアの近くに棒立ちで佇む少女に、俺は英雄気取りで笑ってみせた。

「ワゾブルーのこと、お前に任せてもいい?」

 彼女のガラス玉みたいに丸い目玉が、亀裂を生じて傷口が開いたように見開かれる。小さな女の子が、そんな痛々しい表情をしていいわけがない。こんなことをあいつが知ったら、俺はこっぴどく説教されるんだろうな。だなんて、起こりもしない架空の日常風景に脳を眩ませて、空想に渇望した揺らぎのまま振り返ろうとした。
 少女は兄さん、と甲高く叫ぶ。可哀想に。俺の名前を知らないから、呼び止めることは不可能なのだと、あの子は予感してる。それでも、首を絞められたみたいに、必死に、か細く、兄さんと呼んだ。

「ケイン」

 背部に、果てしない銀河が巡る。混乱する間もなく、大いなる力で一挙に。空白の常闇に誘われるような、そういう感覚に襲われた。焦りというよりも、本能的に、俺は首を回す。

「トウカ、お前。俺たちが見えるのか」

 一室に、アイボリー色の光彩が放たれる。それらの主であるかのように、少年――トウカは立っていた。彼は俺の疑問に答えを返さず、優雅な微笑を湛えるだけだ。光と闇の境界線に位置する少年は、俺と少女を交互に一瞥すると、さながら福音を齎すように、まっすぐと説いた。

「お前たちの代わりなど、何処にもいない。だってお前たちは、彼の愛そのものなのだから」

 トウカは俺を、二つのサファイアに映す。心なしか、俺と似た青だった。俺のは宝石みたいにギラギラはしてないけど、彼の生まれ持ったものは、この世界の幸福を集めたように輝いている。

「その子はそうに違いない。でも、俺は違う。もう終わったことなんだ。今のあいつの隣には、トウカがいてくれるだろ」
「疎いな。謙遜するだなんて、兄さんらしくないというのに」
「お前は俺の弟じゃないだろ。こんな可愛げのない弟なんてごめんだ」
「あはは。お前、身内贔屓が見事だな」

 真剣に述べてるのに、この少年ときたら、けらけらと無配慮に腹を撫でた。こいつ、デリカシーってやつを教えられずに育ったらしい。わざとでもわざとじゃなくても、年相応な愛らしさに欠ける子供だ。もしくは、俺にはそういう対応を取ってもいいと、勝手に決めつけてるかだろう。許可もなく生意気になられても鬱陶しいだけだ。
 俺は不満を眉に込めるが、そのねじれはトウカの良心にチクリと棘を刺せるような攻撃力は持たない。はぁ、としょうがなくため息を吐く。振り回され切った俺を視界で捉えると、彼はふんわりとした心地で唇を和らげた。

「彼と、本当にそっくり」

 愛おしげに、彼は囁いた。刹那、つい自分の腕に縋ってしまう。むずむずしてきて、袖をくしゃっと引っ張った。なんでかって、それは、抱きしめられたような気がしたから。そんなわけないのに、そうだったと錯覚して醒めない。
 でもこの熱は、少年お得意の、超人的な博愛とは少し異なっているようにも思えた。俺は負けじと、トウカを注視する。彼はしなやかに、湖でバレエを踊るような丁寧さを込めて、口元に人差し指を用意させた。それから、吐息と勘違いしてしまいそうなほどに儚い口調で、言の葉を紡ぐ。

「ワゾが最も愛するのは、お前たちだけだ。僕が世界をひっくり返したとて、この愛は不変だろう」

 煌々とした流れ星が夜空を滑るように、きらりと瞬いたサファイアが細まる。愛の告白みたいに宣われた二つのセンテンスに対して、俺は無意識に薄っすらと開いていった口の動きと、役割を果たして抜け落ちようとする歯にも等しい眼球の反応が返事となった。

「信じられないのかい? ふふ。これが真実だと、断言してあげようか」

 トウカは「ん?」とわざとらしく首を傾げる。やけに挑発的な物言いだった。

「……お前……」

 こんな子供のことを怖いだなんて弱腰になる俺じゃないけど、うっかりフードを被ってしまう行動原理にも、それなりに解明しようがある。
 なんせ、この少年の発言に不正解など導き出されない。全部が正解だ。お気楽に「まさか〜」だとか、茶化してはいられない。だから、見て見ぬフリをしてきた逃避に、呆気なく正しさを突きつけられる。その答えが自分にとって、どんなに耐え難いものだとしても。まぁつまり、彼が断言した時点で、曖昧に放置した心情の何もかもが決定されてしまうということだ。

「実は性格悪いだろ。もしくはおっかないな……」

 事件の犯人に目星をつけた探偵みたいに、怪しむ眼差しでトウカを追い詰める。けど彼は、やっぱり笑ってた。控えめに、さながら礼儀を弁えた御曹司のように。
 ……この少年の体には、高尚なる血液など駆け巡ってはいないが、一般人とは想像もつかない気品が匂い立つ。そればかりか、神とも見間違えるほどの神々しさを啓示している。
 だが、そんな壮大なるオーラを纏いながらも、トウカには少年らしく活発な面も窺えるのだ。可憐な花束がお似合いの貴公子のようにもてなしたかと思えば、村から離れた森の奥で熊にでも育てられた野生児みたいに走り回る。彼に下品さは微塵もないけど、上品を極めているかというと悩みどころだ。それなら、俗世に生まれ育ちながらも、笑むときには口に手を添えるあいつの方が相当慎ましいだろう。
 ――トウカの笑い方は、こんなに落ち着いてなんかない。もっと豪快に腹を抱えるほど、清々しいはずだ。
 もう一度、彼を凝視する。そんな顔をされたら、俺は、居ても立っても居られないんだ。これでも色んな奴に「ヒーロー」って、沢山呼ばれてきたから。変わらぬ憂いを溶かしてやりたくて、鉄の塊のような一歩を、何とか踏み出そうとした。

「ここにいるよ」

 一人の平凡な女の子が、たった一人特別な少年に語りかける。

「お父さんも、兄さんも、私も。貴方のそばに、ずっといるよ!」

 彼女はぎゅっと、少年の手と自分の手を結ぶ。
 儚い口約束のようだと、嘲られるかもしれない。子供同士の、思いあがった一時の手品でしかないと。いつの日か忘れ去られて、この世界から居場所をなくしてしまうかもしれないと。
 でもね。その小指に絡まれた真情は、お前たちが見返りなく与えて、心から信じてくれたから、俺たちはいつまでもここにいる。無責任な契りなんかじゃない。俺たちだからこそ、幾重にも繋ぐことの出来る絆だ。

「知っているよ。僕はなんでも、分かってる」
「いーや、知らないね」

 少女に握られた指先を、彼は解こうとした。彼女を安心させてやろうと、頭を撫でるつもりだ。俺は、羽根を広げるよう歩幅を大きくして、トウカの元に近づく。それから、二人の手に俺の手を重ねて、ぎゅっと握りしめた。

「さっきは言いすぎた、ごめん。だって、全員甘やかしたら、大変なことになるだろ。でもまぁ、可愛げのない弟も可愛がってあげるのが、兄さんの務めだからな……」

 ふっと、呆れた風に片方の口角を上げてやる。小生意気な弟には、小生意気な兄が丁度いい。彼は握られた手元を見下ろしたあとにこちらを向くと、不思議そうに首を傾けたけど、段々面白可笑しそうに破顔した。

「誇らしい役目だな。お前にしか、務まらないだろう」
「全くね。世界のヒーローなんかより、よっぽど手がかかる」
「兄さんすごい!」
「だろー?」

 自慢げに歯を見せると、二人は天真爛漫な笑顔を満開にさせる。花弁がはらはらとはしゃいで舞い上がるように、紙吹雪がひらひらと歓を尽くしてはためくみたいに。俺はこの子たちを瞳から逃したくなくて、あたたかいミルクを飲みこむよう、じっくりと瞼で覆った。
 ――俺たちの笑い顔はよく似てるね。
 そう心の中で呟いて、大事に大事にしまい込んだ。

「ほら、俺たちを連れてって」

 瞼を捲って、幼い手を包む力を、ほんの少し強める。俺はもう、あいつの求めたヒーローじゃないから、誰の手も引っ張ってはやれない。みんなをハッピーエンドまで連れていくことは、一生叶わない。
 だからこれは、ちょっぴりずるいおねだりだ。贅沢に塗りたくられた夕焼け色がトウカについてしまったとしても、俺はこの手を離さない。初めから正しいままこの世に舞い降りた、天使みたいに純白で無垢な少年。そんな彼に他の色をつけてやるのも、俺たちの役目だ。

「あぁ、行こうか」

 トウカは頷くと、左手に少女を、右手に俺を捕まえて、闇から光へと俺たちを導いた。三人で一緒に、扉を潜り抜ける。すると目が霞むほどの閃光が走って、次第にグラデーションがかかるよう俺たちを囲んだ。
 反射的に瞑った空色を、恐る恐る皮膚から剥がす。ふわりと、懐かしい気配がした。あいつが気に入ってるインクのケミカルな匂いに、この家を組み立てるおっとりと落ち着いた木の香。そして、人柄を滲ませたような、穏やかでぽかぽかとしたあいつの――ワゾブルーの、香り。それらを一斉に取り込むだなんて無理をしてしまったから、じわじわと熱が顔にせり上がってきて、終いに俺の双眼へと襲い掛かった。室内の温さも相まって、目の前が波に巻き込まれ不甲斐なく歪む。
 木の葉のかけっこが聞こえた。俺のすぐ、そばで。激しい感動を押し殺す代わりに、トウカの手を握りしめる。俺の内情を察して、彼もまた俺の手を握り返す。そうして、混じり合った指の重みが孤独になった。
 トウカはワゾブルーのところまで歩いていくと、机の縁にもたれて隣へと並ぶ。真剣な面持ちで文字を連ねる彼の邪魔にはならない程度に、机上を人差し指でとんとんと鳴らした。間もなくして、ワゾブルーは筆を止めると、丸まった背骨をよいしょと伸ばす。

「読みたい本は見つかった?」

 彼は小さくか細い声でトウカに尋ねた。そのささやかな囀りを耳の中に収めたくて、俺もトウカに続いて脚を動かす。少女も小柄な体で駆けていた。俺はワゾブルーにバレないよう、トウカとは反対側の隣に留まる。ここはかつての特等席だ。少女はどこにいればいいのか迷ってたけど、密やかに手招きをしたトウカに飛びつくと、赤子のよう彼に抱き上げられた。

「ありすぎて、選べなかったな。君のおすすめが知りたい」
「トウカが少しでも気になった子に、触れてあげるだけでいいんだよ。それに、僕の勧めたいものとなると、尚更選べなくなるからね……」

 苦笑いを浮かべて頬をかく。たしかに、ワゾブルーが勧めるとなると、最低でも十冊は選出されるだろう。構わないのに、と平気そうに返すトウカは、テーブルをノックした人差し指で紙を指す。

「作業の調子は悪くなさそうだね」
「うん。おかげさまで」

 手元に置かれた原稿用紙には、びっしりと文字が敷き詰められている。ワゾブルーの字は、かくっとしてて古風だから、少し読みにくい。でも、繊細で真心が伝わってくるから、惹きつけられるものがあった。
 彼はゆったりとした素振りで、周辺に散らかった紙を集めて揃える。用紙の他にも、ラフな設定の記されたメモ帳だったり、参考用の資料などがあちこちに彩られていた。トウカはメモ帳を手に取り、加えてペン立てから数本の色鉛筆を、同じ手の余った指に挟む。

「これ、借りてもいいかい?」

 顔の横で、ゆらゆらと文具を揺らす。粘土に小枝が五本刺さっただけような不安定さが心配になるほど、彼の指は酷くほっそりとしている。なのに、先ほどの滑らかな所作は奇妙なくらいに器用だった。おまけにトウカは、少女を抱き抱えている。力比べで負けたくはないなと、変な意地が芽生えた。

「いいよ、好きに使って」

 トウカの頼みに、彼は手短に了承する。互いに信頼し合っているのだろうと、些細な会話だけで俺にもよく届いた。
 トウカはありがとうと感謝を述べると、ワゾブルーの後ろに回り込みその場で胡座をかいて、椅子の背もたれに体重を委ねる。癖のついたメモ帳を開いて、ワゾブルーの使っていたページを捲ると、まっさらな面に何かを描き始めた。少女は彼の胸に寄りかかりながら、関心を持つように眺めている。そんな彼らの様子を見守ったあと、俺は真横へと景色を移動させた。
 ワゾブルーはちらりと横目で背後を見やって微かに綻ぶと、両手を組み手のひらを上に伸ばしていく。そのおかげでぼきぼきと音が鳴って、「う……」と情けなく声を漏らしたものだから、俺も釣られて愉快な声が漏れ出た。自分がストレッチをしたわけじゃないけど、張り詰めていた緊張がみるみる抜けて、そのままの気軽さで机に肘を預ける。この角度からだと、彼の顔をしっかり確かめることができる。だから、特等席。
 一通り体をほぐし終えたのか、ワゾブルーは姿勢を戻すと、正面に設置された窓を仰いだ。そのガラスの横幅は広く、テーブルの左隣にあるベッドからも、外の小景を楽しめる。
 今日も星々は、こちらに手を振っていた。彼らは紺色の舞台上で、毎日バリエーション豊かな衣装をお披露目する黄金色の彼女の次に、立派なほど目立ちたがり屋で。俺もワゾブルーも、ここから輝きの一族である彼らに手を振り返すのが好きだった。
 時に星たちはファンサービスのように全速力で走っていくことがあって、それに感激しながら「きっと誰かが、この世界にやってきたんだよ」とワゾブルーが喜んでいたのも、昨日のことみたいに覚えてる。俺のアルバムには、彼ばかりが映ってた。

「よし、こんなものだろう」

 物音が響いて、そちらに目を配る。立ち上がったトウカが、少女を包みながら微笑んでいた。彼は軽快な足取りでワゾブルーの隣に移動すると、メモ帳を原稿用紙の横に並べる。

「その子は、こんな子?」

 そう問いかけて、ワゾブルーを覗き込んだ。俺も気になって、身を乗り出す。コンパクトなメモ帳には、どうやらイラストが描かれている。フードが視界を遮ってしまうから、渋々片手で下ろす。開放的な空気を味わいながら、その絵に注目した。
 鉛筆特有のざらざらとしたタッチで、端正な線により形取られていたのは、子供らしく愛嬌ある顔立ちをした小さな少女。彼女の二つ結びは春の都に咲き誇る桜色、まん丸と転がった瞳は昼下がりの空色に染まっていた。

「これは……」

 言葉にならないような言葉を、ワゾブルーは発する。不健康に痩せ細った指が、優しく手帳に触れる。彼は瞬きを置き去りにして、画面上に存在する少女を直視した。それから暫く口を閉ざしていたけど、ようやく息を吸い込んだかと思えば、また時計の針が停止する。かち、かち、とおぼつかないスピードで、秒針が目覚めていく。ワゾブルーは絵の中の少女を撫でるみたいに紙面をなぞると、林檎の実った眼球を細めて、困り果てたように眉を下げた。

「もう。僕の頭の中、勝手に覗いちゃったの?」

 恐れや警戒に影響された質問ではなく、普段通りな世間話のように、コミカルな物言いだった。

「まさか」

 期待に応えて、トウカも似通った返事をワゾブルーによこす。少年は揶揄い上手であるが、嘘つきではない。だから、ワゾブルーのジョークを混えた疑問にも、否定したんだろう。だってトウカは、俺たちを認知して、心を通わせてくれたから。

「……! お前、それは……」

 咄嗟に、喉から驚きが上ってきたから、俺は吐き出さずにいられなかった。しまったと、腕で口を塞ぐ。でもそれは、単なる応急処置にしかならない。力が失われたように、かっくりと腕が落下する。
 春めく桜色と、澄んだ空色が、目の前にあった。それらの色彩は、少女に触れるトウカの指先から、浸透するみたいに染み込んでいく。白と黒しか知らなかった少女に、俺とそっくりな色が授けられた瞬間だった。まるで産声のようだと、耳たぶがじんじん熱くなっていく。
 彼女はワンピースが晴天の爽やかさに色づいたことへ気がつくと、嬉しそうに短い脚をじたばた揺らした。

「わあ! ふふ、あはは! お父さん、お父さん、見て!」

 大喜びを隠さずに、むしろ見せびらかす勢いで、少女は最愛の人を呼ぶ。だが、ワゾブルーが呼びかけに応じることはない。もう彼に、俺たちの存在は見えなくなってしまったから。少女は自分の声が届かないことを知らしめられると、ぷらりと無気力に脚を吊り下げて、心細くトウカの胸元にしがみついた。

「……ごめんね」

 悲壮な思いが、溢れる。若々しい声色は、トウカのものじゃなかった。恰も少女に、ぴったりと返答をしたようなタイミングだったけど、彼の目線は手帳に固定されたままで。机に座る大きな青年は、蹲るようにして少女の絵を抱きしめながら、絞り出すみたいに必死な呪文を唱えてた。

「罪滅ぼしだなんて、未練がましいにも程があるんだ」

 なで肩を極端に上げて、小刻みに震わせる。青のニットコートは職務を全うできず、ただ彼に乗っかっているだけらしかった。さぞかし惨めだろう。俺も同じ気持ちだった。

「あの子のためだと言いながら、こんなもの自己満でしかない。僕はあの時から、ずっと夢想してる……」

 ワゾブルーはまだ、俺のことで悲しんでる。俺には永遠に突き止めることのできない、何らかのしがらみによって。
 どうか、頭を上げてほしい。肩を揺らすのは、笑うときだけでいい。声が震えるのは、喜びが抑えきれないときだけでいいんだよ。そう叫んでやりたかったけど、やっぱり、俺じゃ駄目なんだ。彼の苦しみの根源が、俺である限りは。
 もう、やめよう。あの日交わした約束も、鮮やかでかけがえのない日常も、俺の存在も。

「全部、忘れてくれ」

 神様にそう祈って、フードを被り直す。この世界は、俺に眩しすぎた。あの薄暗い物置きで、十分だった。
 手を広げると、いつも通りの赤色が溜まっている。その濁った泉から、一滴の雫がぽとりと落ちていく。やがて垂れ下がった運命の糸は、ころころとした両手のひらに受け止められた。結んだ小指を、永遠に離さないように。少女はぐっと背を伸ばすと、俺の手を懸命に握る。
 彼女はワゾブルーの方へと首を見上げた。俺は少女の後に続く。テーブルが雨粒に濡れてる。だけど、そこにワゾブルーは伏せていない。既に、体を起こしてた。しばしば瞬きを繰り返して水滴を追い出すと、頬の温度で涙で溶かしながら、少女の絵を見つめている。乾いた唇に塩気が入ってきたのを踏ん切りとして、彼は徐に口を開いた。

「でも、やっぱり、あの子のことを誰よりも愛してるよ」

 何十年と束ねられたページを、破り捨てることのなかった、諦めきれない慈しみ。何かを愛することには責任が伴うのだと、魂に業火を灯した彼の重みだった。

「人も、世界も、自分でさえも、軽々しく呪い生きてしまった。……でも、僕はこの愛を、呪いにはしたくないんだ。僕の愛は、僕の愛以外の何者でもない。だから、もう一度……」

 しとしとと、遣らずの雨が降るみたいに、発音する。けど、冷たさが繁吹く前に、湿った哀調は躓いてしまう。正気と現実に引き戻されたように、ワゾブルーの相好は青ざめていく。
 でも、その瞬間。青年の非力そうな手に、しなびやかな少年の手が添えられる。

「その子はきっと、沢山愛されるよ。だって、君から愛されて生まれたのだから」

 纏綿たる情愛を込めて、トウカは断言した。それはまさに至言で、ワゾブルーは認めざるを得ないと、下手くそににっこりと笑む。

「この子たちからしたら、余計なお節介なのにね。過保護な親は、嫌われちゃうなぁ……」

 浅ましそうにほろほろと泣くワゾブルーだったけど、自然体で喋る姿は、どこか胸の痞えが下りたようだった。トウカは悠々閑々と、指先で彼の雨垂れを拭ってやると、ついでにふんわりと頬を撫で付ける。ワゾブルーは恥ずかしそうにしながら、少年の手首を容易く捕らえて、するりと手を繋ぎ合った。

「ねぇ、素敵なアイデアを思いついたんだ」
「ほう。お聞かせ願えるかな、オスカー先生」

 トウカはワゾブルーをペンネームで呼ぶと、待ち遠しそうにアホ毛を動かす。小説家は原稿用紙の上に手帳を置くと、少女のイラストに指を向けた。

「トウカに挿絵を描いて欲しい。このお話は、お母さんが小さなお子さんの誕生日プレゼントにとお願いしてくれて。せっかくなら、イラスト付きの方が分かりやすくていいんじゃないかなって思ったんだけど……」

 ワゾブルーの提案は、いつまでも失われない童心がくっついてくれるように、幼気で円やかなものだった。
 俺と少女は空色を見交わすと、星が煌めくように笑い合う。トウカに目配せをすると、彼もまたサファイアをきらきらときめかせて、俺たちにお茶目なウインクを送った。

「それは、僕らの合作……ということにもなるね? あはは、心が躍るな! ワゾには絵心がないからね、僕が一肌脱ごうじゃないか」
「やったー! ありがとう、トウカ」

 高らかに元気で調子のいい回答を、トウカはしてみせる。ワゾブルーも同様、年甲斐もなく喜びを露わにした。俺と少女も、やったねと顔を合わせる。
 トウカはワゾブルーと談笑しつつ俺たちを静観していたけど、キリのいいところで会話を終わらせると、宝石眼を後方に逸らした。

「そろそろ夕食の支度をするとしよう。僕が空腹に対して忍耐力がないことを、君はよく理解しているだろうから」
「はいはい。ふふ、トウカには料理心がないもんね」
「整ったレシピに対抗心が湧いてきてしまうだけさ」
「僕だって手本通り描くのに抵抗があるだけだし……」

 冗談に冗談を返しながら、控えめな笑い声と豪快な笑い声が奏でられる。ワゾブルーはトウカに手を引かれて席を立つと、足並みを揃えて一階へと降りる階段まで歩んでいく。扉の閉まる音が耳に聞こえてくるまで、俺たちは二人の後ろ姿を見守った。
 室内はすっかりと静まり返り、俺はワゾブルーの椅子を引くと、空いたそこに腰をかける。それから、希望を跳躍力に変換させて「抱っこ抱っこ!」と腕を掲げる少女を、大切に持ち上げた。彼女はすっぽりと脚の間に座りメモ帳を抱えると、夜空に惹かれるよう顎を上げて、ちょっぴり背中を反らせながら俺を仰視する。

「お揃いだね、兄さん!」

 大きく口を開けて、満開の桜のように、あるいは快晴に昇った太陽みたいに、明るい笑顔を輝かせた。
 彼らの授けた、彼女だけの色。

「うん、お揃いだな」

 少女の柔らかいほっぺたに、そっと両手を包ませる。桃色が夕日のように滲んだ頬には、もうあの赤色はくっつかない。少女は、唯一無二の存在になった。
 俺は手を滑らせて、思いっきり頭を撫でてやる。くしゃくしゃと、子犬と戯れるみたいに。そして、楽しそうにこちらを振り返った愛らしい己の片割れを、強く強く、祝福を分け与えるように抱きしめた。
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