番外編
「憧れのあの人を追え!」
「戻りましたー……」
感覚の揃った歩幅を少し崩して、テオフィールは背伸びをすると扉を開く。あちらこちらに佇むは個性豊かな美青年たち。テオフィールの帰りに、皆は艶やかな笑顔でおかえり、と言葉を返す。
仕事を終えたテオフィールは、業務内容を報告するために案内人本部へと訪れていた。一日の疲れが詰まった息を零しながら、青色の帽子を外す。脱いだ帽子でぱたぱたと扇ぎながら、開放的な気分が広がっていく。
この国「シュテルンタウン」は、元々戦地として荒れ果てていた場所であった。だが、トウカという少年が世界の救世主として現れたことにより、新たな国として穏やかな平和が生まれたのだ。その奇跡は僅か数年前の出来事で、シュテルンタウンは建国したてほやほやということになる。つまり、観光客が止まないのだ。
ここは他四カ国と違って気候が安定しており、ある意味シンプルで客も足を運びやすい。何より、突如誕生したニュータウンとなれば、誰だって行きたくなるだろう。勿論、沢山の人が来てくれるのは嬉しい。
けれども、テオフィールにもキャパというものがあって。自分の器用さは理解しているし、周りよりも優秀な方だとも分かっている。ただ、客が多すぎる。同期のソソは面倒になってくると棒読みで対応を始めるし、アンリーも懸命に接客しつつも努力が空回りして度々ずっこける。飄々スマイルがお得意のテオフィールも、勤務を終えればこの通りげっそりだ。帽子の裏側をぼうっと見つめながら、疲労で満たされた身体を何とか動かそうとする。
「テオフィールさん、お疲れ様です」
ふわりと目が覚めるような桜桃の香りがして、重たい瞼が勝手に開いた。一つずつ丁寧に紡ぐ音は、きっとあの人の声だ。
「ジョジュアさん!」
「はい、ジョジュアさんですよ」
ぱぁっと表情を輝かせて、テオフィールはこちらに歩んでくるジョジュアに駆け寄った。嬉しそうなテオフィールに、ジョジュアは伸びた背筋を屈めて柔らかに微笑む。
「今日は特にお客様が多かったとお聞きしました。体調は大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れましたけど……大丈夫です」
「そうですか、それなら安心です」
そう言って、さらりと髪を揺らす。初めて出会った時は肩くらいの長さだったジョジュアの髪は、胸の下辺りにまで伸びていた。テオフィールの故郷にも咲いていた、蒲公英を連想させる色が霞んだ瞳に優しい。
「ご報告の方は私がまとめておくので、簡単に教えていただけますか?」
「えっ悪いですよ、ジョジュアさんにもお仕事があるのに……」
「問題ありませんよ、先ほど済ませましたので」
「おぉ……じゃあ……」
完璧な上司に、驚きと感嘆が漏れ出る。正直今すぐにでもベッドに倒れ込みたかったので、お言葉に甘えて任せることにした。滅多に頼み事をしないテオフィールの頷きに、ジョジュアは鮮やかに笑みを彩っていた。
◆◆◆
「あ〜疲れた! 可愛い女の子とお喋りできるのは最高に嬉しいんだけど、何もかもが追いつかないよぉ! 泣いちゃう!」
「聞いて、俺の心はもうカラカラで涙も出なくなっちゃった。努力キツい。忍耐しんどい。カタツムリになりたい」
ベッドの上でわんわんと泣きべそをかくアンリーにソソが覆い被さる。カエルが踏み潰されるような声が聞こえたが、ソソは無視だ。自分のベッドに向かう気力すら湧き上がらなかった。なんせ疲れているので。
「明日もぞろぞろと来るからねー……」
「ひゃ〜っ‼︎ う、嬉しいのになぁ〜!?」
「そろそろ帰れって言っちゃうかも。みんなごめん」
「ソソ、もう少しの辛抱だから絶対に耐えて」
「出たよ辛抱、もう働きたくなーい……」
一室に三人分の悲鳴がハーモニーを奏でる。調和のないそれはさながら不協和音だろう。案内人の宿舎で暮らすテオフィールたちは、一日の終わりに疲労を嘆いた。
「……もっとスムーズに仕事をこなせたらいいんだけどな」
とんとん、とパンフレットを机の上で整えながら、テオフィールがそっと呟く。脳裏には、黄金色に煌めくあの人を思い浮かべながら。
「……ごめん、先に寝といてくれる?」
「うん? どうしたの?」
「ちょっと用事っていうか……」
「おけ、おやすみ」
「早いってソソくん! もう夜だし、あんまり遅くならないようにねぇ」
「ありがとう。また明日」
既に爆睡しているソソの下敷きになりながら、アンリーが手を振る。テオフィールも控えめに手を振り返すと、部屋を後にした。
「うぇっ」
「あ!?」
声が弾んで、前者を発したテオフィールがぐらりと後ろに倒れていく。後者を叫んだ男性は、焦ったようにテオフィールの腕を強く引いた。
「ドアの前でなにしてんだテメー!」
手袋の付けられた硬い右手でぎこちなくテオフィールを引き寄せると、男性は顰めっ面に怒りをこれでもかと漲らせている。これはノックするのに躊躇して扉の前で突っ立っていたテオフィールが悪いだろう。イライラしながらも、男性はぶつかった衝撃で赤く色づいたテオフィールの鼻を心配する。その後ろで、部屋にいた和やかな男性が不思議そうにこちらを覗き込んだ。
「あら、どうかなされましたか?」
「便所行こうとしたらテオフィールがいたんだよ。ぼけーっとしやがって、危ねぇだろうが」
「う、すみませんロミッツさん……ルスチェナさんも、起こしちゃいましたかね……」
「いえいえ、久しぶりにお会いできて嬉しいです」
赤色のストールを肩にかけながら、ルスチェナははんなりと笑む。テオフィールの鼻に怪我がないことを確認すると、ロミッツも呆れたようにため息をついた。
二人はテオフィールが軍人時代にお世話になった先輩で、ジョジュアとも深い交友のある人たちだ。眼帯の巻かれたルスチェナの左目と、義手をカバーするために手袋の付けられたロミッツの右手は、見る度に痛々しい。けれど、こうして生きてくれていてよかったと、テオフィールは思ってしまう。
役目を言い渡されていた戦いが終わった後、怪我で入院していた時期もあったが、今では無事治療も済んだようだった。暫くの間は案内人の宿舎の部屋を借りて過ごすらしく、二人はテオフィールたちの上の階でルームシェア中だ。
「で、なんか用か?」
「はい、ルスチェナさんに聞きたいことがあって」
「私ですか? まぁ、なんでも大歓迎です! よろしければ、お部屋でゆっくりお話ししようか」
「あっそ。じゃ、俺は便所行くわ」
くわ、と欠伸をしながら、適当に履いたスリッパを引き摺ってロミッツが廊下を歩いていく。彼の後ろ姿を見守ると、ルスチェナはどうぞとテオフィールを部屋へと招いた。
「ふふ、女子会みたいでわくわくするね! 枕投げとかもしちゃいますか? あ、恋バナもいいですねぇ〜」
こぢんまりとした一室にて、ルスチェナに手招きされたテオフィールはベッドの上に腰をかける。両手でコップを包みながら、ルスチェナがテオフィールに笑いかけた。彼のふんわりとした気遣いに笑顔を送り返して、テオフィールはふーふーと冷ましながら、振る舞われた飲み物に口をつける。
淡い緑色が揺らぐそれは、夏の国でよく売られている茶葉から作られたものらしい。紅茶のような鮮やかさはなく、どちらかといえば渋い味わいだ。けれど、疲れて鉛のように重かった身体に、じんわりと熱が染み渡っていく。喉に通った温かさの余韻にほっと息を漏らすと、ルスチェナも満足そうに茶を啜る。
「それで……私に聞きたいこと、というのはなんでしょう?」
こてんと首を傾げてルスチェナが問う。口内に残る微かな苦味をやけに感じながら、テオフィールは慌てたようにルスチェナから視線を外した。
「あ、えっと……」
「あぁ、急かしてしまったかな。ごめんね、ゆっくりで大丈夫ですよ」
ルスチェナはぽんぽん、と優しくテオフィールの肩を撫でる。ジョジュアもそうだが、彼もどことなく甘やかすのが上手い……気がする。
茶を飲んだ後のような安心感が身に溶けて、テオフィールは意を決してルスチェナに向き合った。
「ルスチェナさんに敬語を、教えて欲しくて……」
「敬語をですか?」
瞳を丸くするルスチェナに、テオフィールは肯定する。ぱちぱちと瞼を動かすルスチェナは、上品に口元へ手を寄せると、あまりピンとこないみたいに双葉のアホ毛を揺らした。
「すみません、いきなりすぎますよね……」
「いいえ……私でよろしければ、と言いたいところなのですが」
うーん、と目線を落としたのち、ルスチェナは申し訳なさそうなテオフィールに、ちょっとした疑問を向けた。
「それはジョシュくんの方が適任ではないでしょうか?」
「!」
びくりと肩が跳ねて、コップの中の海には小魚が飛んだような波が立つ。溢れそうになったそれを、テオフィールはじっと見つめた。
安らぐ黄緑色は、かつてのジョジュアの瞳を思い出させる。宝石を代わりに纏う黄金色も美しいが、春を象徴するみたいにそよぐあの色も、テオフィールは好きだった。
「……本当は、ジョジュアさんに聞こうと思ったんです。でも……」
「チッ、いちいち洒落くせぇな」
ダン、と雑に開けられた扉から、ロミッツが帰ってきたようだった。彼はお得意の仏頂面で、テオフィールをうざったらしく睨む。
「どーせ恥ずかしかったんだろ、お前」
吐き捨てるように言い放つロミッツの言葉はまさに図星で、テオフィールはうっ、と胸をぐさりと刺されてよろめいてゆく。力の抜けたテオフィールを、ルスチェナはあわあわ倒れないようにと包んだ。
「わ~テオフィールく〜ん! もうっロミッツくん、今のは言葉がまっすぐすぎますよ!」
「もごもご赤ん坊みてぇに口篭ってたら何も伝わんねぇだろうが。お前ってほんとジョシュのこと大好きだよな」
むーっと頬を膨らませるルスチェナはテオフィールを抱き締める。思春期の男の子の扱いは難しいのだ。どこからか入手したであろうスルメを口に挟みながら、ロミッツがテオフィールを揶揄う。悪意のあるそのにやけ面に、テオフィールは林檎に染めた頬をきゅっと強張らせた。
「……に」
「? んだって?」
「ロミッツさんも、ジョジュアさんのこと大好きなくせに……」
「アァン!? 今俺のこと関係ねぇだろうが!! 殴るぞテメー!!」
唇を尖らせながらそっぽを向くテオフィールに、ロミッツは青筋を立てて声を荒らげる。テオフィールは控えめそうな少年だが、もし気に食わないことがあれば、たとえ相手が歳上であれど口を出すくらいには案外負けん気が強い。
可愛げのないテオフィールの反論に、これまた同じく図星なロミッツは、ドアを乱暴に閉めてズカズカと早歩きでテオフィールに飛びかかろうとしていた。
「はいはい、落ち着こうねロミッツくん」
そんな彼をルスチェナはめっ、と子犬を躾けるように静止する。思いの外強い力でぐっと動きを止められたロミッツは、何かを思い出すように瞳を見開くと、納得いかないみたいに渋々と床に座り込んだ。
「ロミッツさんが素直だ……」
「ちげーよ。コイツ、こう見えて馬鹿力だから」
怪我でもしたら最悪だ、とロミッツは胡座をかきながらスルメを奥歯で噛む。あのルスチェナが……? と気になる話題ではあったが、ともかくロミッツがルスチェナに弱くて助かった。世話焼きなロミッツが弱くない相手なんていないのかもしれないけど。
「ねぇテオフィールくん。私、素敵なアイデアを思いついちゃいましたよぉ~」
「素敵なアイデア……?」
「はい、その名も……」
「憧れのジョシュくんを追え、名探偵テオフィールくんの一日尾行! です!」
◆◆◆
「ではこちらからお迎えに参りますので、少々お待ちください」
春風みたいに靡く声で心地の良い電話対応をしながら、受話器を持つ反対側の手ですらすらとペンを走らせる。桜の飾りがつけられたそれは、男の大切なものだ。
「いえいえ、ご心配には及びません。お客様にこの街を楽しんでいただくことが、我々の幸せですから。はい、それでは失礼致します」
物音が立たぬように受話器を戻す。綺麗にまとまった文字列が並べられた書類をファイルに入れると、男は席の離れた社員に渡すため自ら赴いていく。すみませんと感謝を伝える部下にも、彼は気にする素振りもなく、仕事への応援の言葉をかけて立ち去るだけだった。再び椅子に座った男は、優美な姿勢で書類整理を行っている。
「ジョジュアさん、流石だな……」
小柄な双眼鏡を覗き込みながら、テオフィールは上司に対しての感動を発する。
案内人本部を窓越しから眺められる木の上にて、テオフィールはオフの日をジョジュアの観察にあてている最中であった。木登りは小さい頃から慣れっこなので、誰にもバレないように高い位置から上司の行動をこっそりと学んでいる。
ジョジュアはテオフィールたちとは違って、直接街に出て接待することはない。基本的には本部で事務作業の処理などがほとんどだ。けれども、彼のおかげでストレスなく仕事を進められていることを全員が知っている。
細かい書類制作やちょっとした電話対応、更には掃除など……まさに縁の下の力持ち、そして痒いところに手が届く人なのだ。ジョジュアなしではやっていけないだろう。
「……でも、僕だって一人前になって、それこそジョジュアさんがいなくたって大丈夫なくらいに……!」
ジョジュアは頼り甲斐があって、みんなが彼を慕っている。けれど、それだけじゃ駄目だ。いつまでも彼に甘える子供ではなく、自分一人でもやっていけるような部下にならなくては。その為にも、この尾行はきっと必要なものだ。
拭えきれなかった罪悪感を投げ捨てて、今日は思いっきり観察しまくってやる! とテオフィールは握り拳を固めた。
パラパラと小さなメモ帳を捲りながら、中に記した内容を読み返す。お世辞にも綺麗とは言えない幼き文字は、最後のページまでぎっしりと詰められている。それらは全て、今日一日のジョジュアの行動を書き写したものだ。まさか使い切ってしまうとは、とテオフィールは改めてメモ帳を最初から振り返る。
まず、ジョジュアは電話対応が柔軟だ。お年寄りの人にも分かりやすいように説明を尽くすおかげで、折り返しの手間が省ける。
そしてクレーマー相手にも動じることはなく、どんな時でも穏便な解決へと自然に導いていくのだ。何より、彼の声には落ち着きがあって、聞いているだけで不思議と物柔らかな気持ちにさせてくれる。そのおかげで、ピリピリしている客も鬱憤晴らしなんて馬鹿馬鹿しい、と気づくことができているのかもしれない。
あくまで仕事のため、喧嘩を買うようなことはしないが、テオフィールならまず客以上の憤りが湧き上がってくるはずだ。だが、ジョジュアはそんな素振りを見せることは些かもなかった。
また、ジョジュアは客相手だけではなく、仕事仲間にも懇篤な心遣いを見せる。
彼は案内人の職長であり、この役職を作ったトウカの次にはお偉い方だ。トウカが指名したのでそれ以上の理由もないのだろうが、最初から決めていたみたいにトウカが笑っていたのはよく覚えている。
そのくらいに立場としては上であるジョジュアだが、彼は上下関係を固く縛るような態度で接することはなかった。部下のミスも難なくカバーしてしまうし、先日テオフィールの仕事を受け持ってくれたように、自分の業務の範囲外にまで手を伸ばしてしまうような人だ。しかも無理にではなく、本心から喜んで行っている。
彼が人から頼られることが好きなのは皆が皆百も承知だが、何もそこまでやらなくていいのだ。隙のない働き者なジョジュアを思い出して、テオフィールは悶々とため息を吐き出す。
「そろそろ本部も閉まる時間かな」
器用に枝へと乗っかって、木に背を預けながら双眼鏡の中を眺める。社員の姿も少なくなっていく中、ジョジュアは変わらずいつもの席に座っていた。
最後の一人がドアに手をかけてお辞儀をすると、ジョジュアは手を振りながら別れの挨拶を交わす。誰もいなくなった扉の前を見届けてから一息つくと、机の下にある紙袋の中身を何やら探っているようだ。なんだろう? とテオフィールは前のめりになってその様子を熟視する。
「……あ」
現れたのは、色とりどりの飴玉たちだった。ジョジュアはまるで一輪の花を摘むみたいに、それらを大切そうに手に包む。
ゆったりと椅子を引いて立ち上がると、彼は社員の机の引き出しに一つ一つ菓子を忍ばせていった。どこか楽しそうに蒲公英色を揺らして、テオフィールの机にも同じように飴玉を潜ませる。両手がすっかり空になると、ジョジュアは自分の机の前からオフィス全体を見渡しながら、ふんわりと金色の目を細めた。そうして腕を後ろに回すと、オジギソウが葉を閉じるように腰を曲げる。
ふわりと体を起こして、ほんのり名残惜しそうに一室を見つめてから、ゆっくりと扉にまで歩んでドアノブを捻った。
ガチャリと帰りの合図が響いて、事務所には悄々とした空気が流れる。けれども、その空間には確かな温もりが残っていた。
「今日、仕事出れば良かった」
ガッチリと双眼鏡を握っていた指の力が緩んで、そのまま胸元にまで落ちる。テオフィールはジョジュアが立っていた場所を、ただまっすぐに見入った。
「一緒に仕事したかったな」
そう思わずにはいられなかった。
朝引き出しを開けたら、「今日も一日頑張りましょう」って綺麗なメッセージ付きのお菓子が入ってあって。お世辞なんかじゃないと分かる褒め言葉が嬉しくて。彼から貰う、行ってらっしゃいとお疲れ様が大好きで。
どれだけ業務が忙しかったとしても、ジョジュアがいてくれるのなら、彼のために頑張ろうだなんて張り切ってしまう。こんなことを言ったら、あの人はきっと困ったみたいに眉を下げて頭を撫でてくれるのだろう。
「結局ジョジュアさんがいなきゃ駄目じゃんか!」
我ながら恥ずかしい、と誤魔化すようにメモ帳を開ける。たった数百円ぽっちの紙束には憧れの上司の観察記録。元が取れすぎたな、だなんてちょっぴり肩を揺らした。
「……こんなに書いたのに、ジョジュアさんのことは何も分からなかったな」
大体八十枚はあるページの厚みを全部埋めてみても、彼自身に纏わる情報はこれっぽっちも掴めなかった。初っ端からストーキングまがいなことをしている時点で、下心がないと弁明するつもりはさらさらない。一つでもジョジュアのことを知りたいと思ったのも事実だ。まぁ、案の定の結果だったわけだが。
メモ帳を閉じて、ポケットに入れ込む。ふと顔を上げると、視界には大きな円を描く橙色が目の前を覆っていた。じわじわと侵食するように広がっていく熱に、どっと冷やせが残酷に滴ってくる。
――あぁそうだ、もうそんな時間だった。
今更独りぼっちだったことに気がついて、きゅっと双眼鏡を掴んだ。吸い込まれるようなこの色が、テオフィールは大嫌いだった。
カァカァ。
カラスがお家に帰る時間だと伝えるように鳴いて、はっと意識を取り戻す。テオフィールは急かすように立ち上がると、木の枝から俊敏に飛び降りた。
「はぁ……早く戻ろう」
「おや、お帰りになられるのですね。お勉強は捗りましたか?」
「あ、はい、結構……ん……?」
聞き覚えのある声が聞こえて、青ざめた顔色でばっとそちらへと視線を動かした。勢いよく振り返ると、すぐそばにはあの甘酸っぱい香りが華やいで、キラキラと輝くシトリンがテオフィールを照らしている。
「うわ!? ジョ、ジョジュアさ……」
あわあわと即座に双眼鏡を後ろに隠した。気まずそうなテオフィールを覗き込むように、ジョジュアは腕を後ろに組みながらなるべく姿勢を低く保つ。彼は相変わらず秀麗な面立ちで悠々と口角を上げていた。
「よろしければ、ご一緒に復習などいかがでしょう」
ジョジュアはそう提案して、にこりとお茶目に綻んだ。
もう遅いので帰ります、一人でも大丈夫です、と適当にはぐらかして逃げれば良かったのかもしれない。けれど、彼の眩しい黄金色が靡いた瞬間に、自分を焼き尽くしてしまうようなあの橙色が隠れていって。
どうしようもない感情の置き場を失ってしまったから、恥だとかは一旦忘れて小さく頷いてみたのだった。
◆◆◆
カラン、と軽やかにドアベルが傾く。シックで洒落た店内には、聞いたことのないジャズがレコードから流れている。店主が客にいらっしゃいませ、と出迎える光景を横目に、テオフィールは正面に座るジョジュアを見つめ直した。
普段の制服とは違って、今の彼はタートルネックにコートを羽織っている。値段が飛び跳ねるような上質さではないのだろうが、ジョジュアが身につければなんだって高級そうなものに見えた。
メニュー表に瞳を凝らしていたジョジュアは、テオフィールが見えやすいようにくるりと逆向きに回して品書きを置いてくれる。スマートな気遣いに簡潔な感謝を述べて、テオフィールはメニューを確かめた。恐らく喫茶店であろうこの店は、種類豊富な珈琲やレトロ漂うスイーツが自慢の一品らしい。
「どうぞ遠慮なく、お好きなものを選んでくださいね」
悩ましく眉を顰めるテオフィールに、ジョジュアは朗らかに微笑みかける。じゃあ、とこの店イチオシのカラメルプリンを指すと、ジョジュアは了承して店主に注文を頼んだ。
「さて、それでは復習を始めましょうか」
「う……すみません! 悪気がなかったと言えるわけでもないんですけど……」
テオフィールはガバっと頭を振り下げて正直に白状する。この調子だと、最初からお見通しだったのだろう。
風の噂で聞いた話によると、ジョジュアは怒ると怖い……らしい。誰も見たことがないのだから、それこそただの噂なのだろうけど。だが、テオフィールは別に怒られることが怖くて怯えているのではない。幾ら彼に憧憬を抱いていたとはいえ、プライベートに首を突っ込むような真似をして、嫌われてしまうことを恐れているのだ。
ぺこぺこと必死に謝るテオフィールだったが、ジョジュアは拍子抜けといった表情できょとんとしていた。自分のことで脳内が一杯一杯なテオフィールはそれに気づくこともなく、重たい唇を動かす。
「本当に失礼なことをしてしまいました、ごめんなさい。僕はまだまだです……ジョジュアさんみたいに上手な敬語で話せないし、クレーマー相手にスルーとか出来る自信もなくて。きっと自分のことに精一杯で、周りに迷惑をかけてしまってるかも……」
ぽろぽろと零れていく弱音は、海の底へ溺れてしまうみたいに、テオフィールの顔を俯かせていく。憧れの人と己は、こんなにも程遠い。
「……テオフィールさん、そちらのメモ帳を見せていただけますか?」
「あ、はい……」
ありがとうございます、としなやかに返答して、ジョジュアは大事にそれを受け取る。一ページ一ページの重みを身体全体で感じるように紙を捲る彼の表情は真剣だ。丁寧に、それでいて素早くメモ帳を読み切り、静かにページを閉じていく。
彼は目線をテオフィールに向けた。すると、慈しみの詰まった笑みが、ひっそりと桜のように咲き誇る。あまりにも優しいその笑顔の意味が理解出来なくて、テオフィールはぱちぱちと瞬きを繰り返した。ジョジュアはあどけない部下の反応に、くすりと可笑しそうに笑う。
「この枚数を全て埋めるだなんて、普通は出来ないんですよ。貴方にとっては当然のことだったかもしれませんけれど」
「いや、勝手に埋まっていったっていうか……ジョジュアさんが凄いからですよ」
「書こうと思っていないのなら尚更です。貴方の志はいつだって高くて、羨ましくなってしまいますね。……ですが」
ほんの少し、理想が高いとも言えます。
ジョジュアは人差し指を立てて、恰も先生みたいに解答を与えた。びっくりして目を丸めるテオフィールをよそに、ジョジュアは会話を続けていく。
「貴方は非常に賢しく小才の利く子です。それゆえに出来ることが多くて、粗削りなものは許せないのでしょう」
違いますか? と尋ねるように首を傾けるジョジュアに、テオフィールは魚のように口をぱくぱくさせる。
「どうして分かるんですか? 僕のこと、何でも知ってるみたいに……」
「分かりますよ。貴方を目で追う度に、繊細な努力が伝わってきますから」
「えー……なんか恥ずかしいです……」
「あら、恥ずかしがることなんてありませんのに」
急に照れ臭くなってもじもじするテオフィールに、ジョジュアはやっぱり楽しそうに言葉を弾ませる。ささやかに喜色を浮かべる上司を見て、彼を敬慕するテオフィールも悪い思いはしない。釣られるように朗笑して、テオフィールは林檎色の瞳にジョジュアを映した。
「ジョジュアさんみたいになりたいって、高望みかもだけど思ってるんです。……でも」
僕はジョジュアさんのこと、なんにも知らないや。
ぼそりと呟かれた音は、きっと草原に走るそよ風よりも心細い。高めのソファに座る自分の、まだ地に着くことのない足をぼんやり見下ろした。
「お待たせいたしました」
カチャリ。皿と机の触れ合う音色が耳に届いて、ぱっとそちらに方角を変える。
ぷるんと艶を目立たせて自慢げに光沢を湛えるは、この店の看板メニューことプリンだ。その後ろには、ジョジュアの頼んだスイーツにカフェオレが並んでいる。しっとりとした丈夫なタルトのお城には、色鮮やかな宝石みたいに瑞々しい果物たちが詰まっていた。
「フルーツタルトだ……!」
「えぇ、とても美味しいんですよ。ぜひ、最初の一口はテオフィールさんが頂いてください」
「えっ! いやいや、嬉しいですけど……」
「あぁ、これはご迷惑をおかけしてしまったようで……私はなんと申し訳のないことを……」
「ちょ、えぇ……もーうっ! 分かりましたっ食べますから、そんな悲しい顔するのやめてくださいよ!」
わざとらしく雅やかな面貌に悲傷を上手く混ぜるジョジュアに、テオフィールはついお労しいだなんて思わずにはいられない。まんまと彼の巧妙な策略にひっかかって、されるがままにあーんを享受した。
「お、美味しい……」
サクサクの生地に香ばしい甘さが染み渡って、その甘味をフルーツたちが緩和している。もぐもぐと咀嚼するテオフィールは、美味しさを隠すことなく伝えた。故郷ではスイーツよりも果物をそのまま食べることが多かったため、手間が積み重ねられたそれらに人一倍胸を打たれたのだ。しみじみと感極まるテオフィールを、ジョジュアはそばで見守る。
「あっ僕のプリンの一口目! ジョジュアさん、どうぞ!」
タルトに意識を奪われていたテオフィールは、名案を思いついたみたいにプリンを掬う。ほら! と短い腕をプルプル震わせながら差し伸べるテオフィールに、ジョジュアは何かを言いかけた。けれども、ふっと隠すかの如く笑むと、体重をテーブルに預けてテオフィールの近くに寄りかかる。横髪を耳にかけて、プリンが崩れてしまわないようにそっと口内へと運んでいった。
「ど、どうですか……?」
「……えぇ。口どけも滑らかで、優しい味わいですよ」
「! 良かった……」
同じように一口目を貰ってくれたことが嬉しくて、テオフィールぽやぽやと頬を緩める。だが、ジョジュアはどこか歯切れが悪そうで。不安そうにスプーンを両手で持つテオフィールに、ジョジュアはふわりと目尻を下げる。
「……このお店にはよく来るんです。どのメニューも頂いてきましたが、プリンだけは選んだことがなくて」
「……? なんでですか?」
はてなマークを頭上に乗せるテオフィールは、純粋にその理由を求めてみた。ジョジュアはちょいちょい、と手招きをしてやる。よいしょと前のめりの姿勢で体を引き寄せたテオフィールに、ジョジュアは密やかに近づいた。そして、誰にもバレないように秀麗な唇を解く。
「実は、あまり苦いものが得意ではないのです」
テオフィールの耳元で、静々と囁いた。
「え!?」
「おや、そこまで驚かれるとは」
「だ、だって知らなかったんですもん! カラメルが駄目なら先に言ってくださいよ……」
これでは相手の気も知らずに無理矢理食べさせたことになってしまった。よりにもよって、カラメルばかりな一口目を。自分のばかばか! とテオフィールは鬱々と頭を抱える。
「すみません。けれど……可愛らしい部下からのお願いを断ることなんて、私には出来ないんです」
ジョジュアは机に両肘をついて、重ねた手の甲に顎を乗せる。瞼を閉じながら、歌を口遊むみたいに温情を奏でた。テオフィールを想う彼の声は、いつだって陽春のようにあたたかい。
「それに……」
――苦味が得意ではない私を知っているのは、貴方だけですよ。
そう言って、ジョジュアは瞳を開く。宿された宝石眼が、ただ眩く光った。細められたシトリンの奥には、情けをかけたようなものは秘められていない。
今だけは本当に、ほんの少しだけ、上司と部下という関係性が薄れた気がして。テオフィールは込み上げてくる喜びを、相好を崩して横溢させた。
「ジョジュアさん、もう一口どうぞ! 次はちゃんとカラメルじゃないところです」
「ふふ、よろしいのですか? ではもう一度、あーんでお願いしますね」
「自分で食べてくださいよ……」
おろおろ尻込みするテオフィールに対して、ジョジュアはお構いなしに要求する。これはどう断っても詮無いことだな、と断念してスプーンから落ちかけるくらいにたっぷりな二口目を贈った。
「美味しいですか?」
「はい、とても」
「えへへ」
じゃあもう一口、では私のもどうぞ、と二人の掛け合いが店内で繰り返される。
交換すればいいのに、だなんて野暮ったい。この時間は、彼らだけのものなのだから。
「戻りましたー……」
感覚の揃った歩幅を少し崩して、テオフィールは背伸びをすると扉を開く。あちらこちらに佇むは個性豊かな美青年たち。テオフィールの帰りに、皆は艶やかな笑顔でおかえり、と言葉を返す。
仕事を終えたテオフィールは、業務内容を報告するために案内人本部へと訪れていた。一日の疲れが詰まった息を零しながら、青色の帽子を外す。脱いだ帽子でぱたぱたと扇ぎながら、開放的な気分が広がっていく。
この国「シュテルンタウン」は、元々戦地として荒れ果てていた場所であった。だが、トウカという少年が世界の救世主として現れたことにより、新たな国として穏やかな平和が生まれたのだ。その奇跡は僅か数年前の出来事で、シュテルンタウンは建国したてほやほやということになる。つまり、観光客が止まないのだ。
ここは他四カ国と違って気候が安定しており、ある意味シンプルで客も足を運びやすい。何より、突如誕生したニュータウンとなれば、誰だって行きたくなるだろう。勿論、沢山の人が来てくれるのは嬉しい。
けれども、テオフィールにもキャパというものがあって。自分の器用さは理解しているし、周りよりも優秀な方だとも分かっている。ただ、客が多すぎる。同期のソソは面倒になってくると棒読みで対応を始めるし、アンリーも懸命に接客しつつも努力が空回りして度々ずっこける。飄々スマイルがお得意のテオフィールも、勤務を終えればこの通りげっそりだ。帽子の裏側をぼうっと見つめながら、疲労で満たされた身体を何とか動かそうとする。
「テオフィールさん、お疲れ様です」
ふわりと目が覚めるような桜桃の香りがして、重たい瞼が勝手に開いた。一つずつ丁寧に紡ぐ音は、きっとあの人の声だ。
「ジョジュアさん!」
「はい、ジョジュアさんですよ」
ぱぁっと表情を輝かせて、テオフィールはこちらに歩んでくるジョジュアに駆け寄った。嬉しそうなテオフィールに、ジョジュアは伸びた背筋を屈めて柔らかに微笑む。
「今日は特にお客様が多かったとお聞きしました。体調は大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れましたけど……大丈夫です」
「そうですか、それなら安心です」
そう言って、さらりと髪を揺らす。初めて出会った時は肩くらいの長さだったジョジュアの髪は、胸の下辺りにまで伸びていた。テオフィールの故郷にも咲いていた、蒲公英を連想させる色が霞んだ瞳に優しい。
「ご報告の方は私がまとめておくので、簡単に教えていただけますか?」
「えっ悪いですよ、ジョジュアさんにもお仕事があるのに……」
「問題ありませんよ、先ほど済ませましたので」
「おぉ……じゃあ……」
完璧な上司に、驚きと感嘆が漏れ出る。正直今すぐにでもベッドに倒れ込みたかったので、お言葉に甘えて任せることにした。滅多に頼み事をしないテオフィールの頷きに、ジョジュアは鮮やかに笑みを彩っていた。
◆◆◆
「あ〜疲れた! 可愛い女の子とお喋りできるのは最高に嬉しいんだけど、何もかもが追いつかないよぉ! 泣いちゃう!」
「聞いて、俺の心はもうカラカラで涙も出なくなっちゃった。努力キツい。忍耐しんどい。カタツムリになりたい」
ベッドの上でわんわんと泣きべそをかくアンリーにソソが覆い被さる。カエルが踏み潰されるような声が聞こえたが、ソソは無視だ。自分のベッドに向かう気力すら湧き上がらなかった。なんせ疲れているので。
「明日もぞろぞろと来るからねー……」
「ひゃ〜っ‼︎ う、嬉しいのになぁ〜!?」
「そろそろ帰れって言っちゃうかも。みんなごめん」
「ソソ、もう少しの辛抱だから絶対に耐えて」
「出たよ辛抱、もう働きたくなーい……」
一室に三人分の悲鳴がハーモニーを奏でる。調和のないそれはさながら不協和音だろう。案内人の宿舎で暮らすテオフィールたちは、一日の終わりに疲労を嘆いた。
「……もっとスムーズに仕事をこなせたらいいんだけどな」
とんとん、とパンフレットを机の上で整えながら、テオフィールがそっと呟く。脳裏には、黄金色に煌めくあの人を思い浮かべながら。
「……ごめん、先に寝といてくれる?」
「うん? どうしたの?」
「ちょっと用事っていうか……」
「おけ、おやすみ」
「早いってソソくん! もう夜だし、あんまり遅くならないようにねぇ」
「ありがとう。また明日」
既に爆睡しているソソの下敷きになりながら、アンリーが手を振る。テオフィールも控えめに手を振り返すと、部屋を後にした。
「うぇっ」
「あ!?」
声が弾んで、前者を発したテオフィールがぐらりと後ろに倒れていく。後者を叫んだ男性は、焦ったようにテオフィールの腕を強く引いた。
「ドアの前でなにしてんだテメー!」
手袋の付けられた硬い右手でぎこちなくテオフィールを引き寄せると、男性は顰めっ面に怒りをこれでもかと漲らせている。これはノックするのに躊躇して扉の前で突っ立っていたテオフィールが悪いだろう。イライラしながらも、男性はぶつかった衝撃で赤く色づいたテオフィールの鼻を心配する。その後ろで、部屋にいた和やかな男性が不思議そうにこちらを覗き込んだ。
「あら、どうかなされましたか?」
「便所行こうとしたらテオフィールがいたんだよ。ぼけーっとしやがって、危ねぇだろうが」
「う、すみませんロミッツさん……ルスチェナさんも、起こしちゃいましたかね……」
「いえいえ、久しぶりにお会いできて嬉しいです」
赤色のストールを肩にかけながら、ルスチェナははんなりと笑む。テオフィールの鼻に怪我がないことを確認すると、ロミッツも呆れたようにため息をついた。
二人はテオフィールが軍人時代にお世話になった先輩で、ジョジュアとも深い交友のある人たちだ。眼帯の巻かれたルスチェナの左目と、義手をカバーするために手袋の付けられたロミッツの右手は、見る度に痛々しい。けれど、こうして生きてくれていてよかったと、テオフィールは思ってしまう。
役目を言い渡されていた戦いが終わった後、怪我で入院していた時期もあったが、今では無事治療も済んだようだった。暫くの間は案内人の宿舎の部屋を借りて過ごすらしく、二人はテオフィールたちの上の階でルームシェア中だ。
「で、なんか用か?」
「はい、ルスチェナさんに聞きたいことがあって」
「私ですか? まぁ、なんでも大歓迎です! よろしければ、お部屋でゆっくりお話ししようか」
「あっそ。じゃ、俺は便所行くわ」
くわ、と欠伸をしながら、適当に履いたスリッパを引き摺ってロミッツが廊下を歩いていく。彼の後ろ姿を見守ると、ルスチェナはどうぞとテオフィールを部屋へと招いた。
「ふふ、女子会みたいでわくわくするね! 枕投げとかもしちゃいますか? あ、恋バナもいいですねぇ〜」
こぢんまりとした一室にて、ルスチェナに手招きされたテオフィールはベッドの上に腰をかける。両手でコップを包みながら、ルスチェナがテオフィールに笑いかけた。彼のふんわりとした気遣いに笑顔を送り返して、テオフィールはふーふーと冷ましながら、振る舞われた飲み物に口をつける。
淡い緑色が揺らぐそれは、夏の国でよく売られている茶葉から作られたものらしい。紅茶のような鮮やかさはなく、どちらかといえば渋い味わいだ。けれど、疲れて鉛のように重かった身体に、じんわりと熱が染み渡っていく。喉に通った温かさの余韻にほっと息を漏らすと、ルスチェナも満足そうに茶を啜る。
「それで……私に聞きたいこと、というのはなんでしょう?」
こてんと首を傾げてルスチェナが問う。口内に残る微かな苦味をやけに感じながら、テオフィールは慌てたようにルスチェナから視線を外した。
「あ、えっと……」
「あぁ、急かしてしまったかな。ごめんね、ゆっくりで大丈夫ですよ」
ルスチェナはぽんぽん、と優しくテオフィールの肩を撫でる。ジョジュアもそうだが、彼もどことなく甘やかすのが上手い……気がする。
茶を飲んだ後のような安心感が身に溶けて、テオフィールは意を決してルスチェナに向き合った。
「ルスチェナさんに敬語を、教えて欲しくて……」
「敬語をですか?」
瞳を丸くするルスチェナに、テオフィールは肯定する。ぱちぱちと瞼を動かすルスチェナは、上品に口元へ手を寄せると、あまりピンとこないみたいに双葉のアホ毛を揺らした。
「すみません、いきなりすぎますよね……」
「いいえ……私でよろしければ、と言いたいところなのですが」
うーん、と目線を落としたのち、ルスチェナは申し訳なさそうなテオフィールに、ちょっとした疑問を向けた。
「それはジョシュくんの方が適任ではないでしょうか?」
「!」
びくりと肩が跳ねて、コップの中の海には小魚が飛んだような波が立つ。溢れそうになったそれを、テオフィールはじっと見つめた。
安らぐ黄緑色は、かつてのジョジュアの瞳を思い出させる。宝石を代わりに纏う黄金色も美しいが、春を象徴するみたいにそよぐあの色も、テオフィールは好きだった。
「……本当は、ジョジュアさんに聞こうと思ったんです。でも……」
「チッ、いちいち洒落くせぇな」
ダン、と雑に開けられた扉から、ロミッツが帰ってきたようだった。彼はお得意の仏頂面で、テオフィールをうざったらしく睨む。
「どーせ恥ずかしかったんだろ、お前」
吐き捨てるように言い放つロミッツの言葉はまさに図星で、テオフィールはうっ、と胸をぐさりと刺されてよろめいてゆく。力の抜けたテオフィールを、ルスチェナはあわあわ倒れないようにと包んだ。
「わ~テオフィールく〜ん! もうっロミッツくん、今のは言葉がまっすぐすぎますよ!」
「もごもご赤ん坊みてぇに口篭ってたら何も伝わんねぇだろうが。お前ってほんとジョシュのこと大好きだよな」
むーっと頬を膨らませるルスチェナはテオフィールを抱き締める。思春期の男の子の扱いは難しいのだ。どこからか入手したであろうスルメを口に挟みながら、ロミッツがテオフィールを揶揄う。悪意のあるそのにやけ面に、テオフィールは林檎に染めた頬をきゅっと強張らせた。
「……に」
「? んだって?」
「ロミッツさんも、ジョジュアさんのこと大好きなくせに……」
「アァン!? 今俺のこと関係ねぇだろうが!! 殴るぞテメー!!」
唇を尖らせながらそっぽを向くテオフィールに、ロミッツは青筋を立てて声を荒らげる。テオフィールは控えめそうな少年だが、もし気に食わないことがあれば、たとえ相手が歳上であれど口を出すくらいには案外負けん気が強い。
可愛げのないテオフィールの反論に、これまた同じく図星なロミッツは、ドアを乱暴に閉めてズカズカと早歩きでテオフィールに飛びかかろうとしていた。
「はいはい、落ち着こうねロミッツくん」
そんな彼をルスチェナはめっ、と子犬を躾けるように静止する。思いの外強い力でぐっと動きを止められたロミッツは、何かを思い出すように瞳を見開くと、納得いかないみたいに渋々と床に座り込んだ。
「ロミッツさんが素直だ……」
「ちげーよ。コイツ、こう見えて馬鹿力だから」
怪我でもしたら最悪だ、とロミッツは胡座をかきながらスルメを奥歯で噛む。あのルスチェナが……? と気になる話題ではあったが、ともかくロミッツがルスチェナに弱くて助かった。世話焼きなロミッツが弱くない相手なんていないのかもしれないけど。
「ねぇテオフィールくん。私、素敵なアイデアを思いついちゃいましたよぉ~」
「素敵なアイデア……?」
「はい、その名も……」
「憧れのジョシュくんを追え、名探偵テオフィールくんの一日尾行! です!」
◆◆◆
「ではこちらからお迎えに参りますので、少々お待ちください」
春風みたいに靡く声で心地の良い電話対応をしながら、受話器を持つ反対側の手ですらすらとペンを走らせる。桜の飾りがつけられたそれは、男の大切なものだ。
「いえいえ、ご心配には及びません。お客様にこの街を楽しんでいただくことが、我々の幸せですから。はい、それでは失礼致します」
物音が立たぬように受話器を戻す。綺麗にまとまった文字列が並べられた書類をファイルに入れると、男は席の離れた社員に渡すため自ら赴いていく。すみませんと感謝を伝える部下にも、彼は気にする素振りもなく、仕事への応援の言葉をかけて立ち去るだけだった。再び椅子に座った男は、優美な姿勢で書類整理を行っている。
「ジョジュアさん、流石だな……」
小柄な双眼鏡を覗き込みながら、テオフィールは上司に対しての感動を発する。
案内人本部を窓越しから眺められる木の上にて、テオフィールはオフの日をジョジュアの観察にあてている最中であった。木登りは小さい頃から慣れっこなので、誰にもバレないように高い位置から上司の行動をこっそりと学んでいる。
ジョジュアはテオフィールたちとは違って、直接街に出て接待することはない。基本的には本部で事務作業の処理などがほとんどだ。けれども、彼のおかげでストレスなく仕事を進められていることを全員が知っている。
細かい書類制作やちょっとした電話対応、更には掃除など……まさに縁の下の力持ち、そして痒いところに手が届く人なのだ。ジョジュアなしではやっていけないだろう。
「……でも、僕だって一人前になって、それこそジョジュアさんがいなくたって大丈夫なくらいに……!」
ジョジュアは頼り甲斐があって、みんなが彼を慕っている。けれど、それだけじゃ駄目だ。いつまでも彼に甘える子供ではなく、自分一人でもやっていけるような部下にならなくては。その為にも、この尾行はきっと必要なものだ。
拭えきれなかった罪悪感を投げ捨てて、今日は思いっきり観察しまくってやる! とテオフィールは握り拳を固めた。
パラパラと小さなメモ帳を捲りながら、中に記した内容を読み返す。お世辞にも綺麗とは言えない幼き文字は、最後のページまでぎっしりと詰められている。それらは全て、今日一日のジョジュアの行動を書き写したものだ。まさか使い切ってしまうとは、とテオフィールは改めてメモ帳を最初から振り返る。
まず、ジョジュアは電話対応が柔軟だ。お年寄りの人にも分かりやすいように説明を尽くすおかげで、折り返しの手間が省ける。
そしてクレーマー相手にも動じることはなく、どんな時でも穏便な解決へと自然に導いていくのだ。何より、彼の声には落ち着きがあって、聞いているだけで不思議と物柔らかな気持ちにさせてくれる。そのおかげで、ピリピリしている客も鬱憤晴らしなんて馬鹿馬鹿しい、と気づくことができているのかもしれない。
あくまで仕事のため、喧嘩を買うようなことはしないが、テオフィールならまず客以上の憤りが湧き上がってくるはずだ。だが、ジョジュアはそんな素振りを見せることは些かもなかった。
また、ジョジュアは客相手だけではなく、仕事仲間にも懇篤な心遣いを見せる。
彼は案内人の職長であり、この役職を作ったトウカの次にはお偉い方だ。トウカが指名したのでそれ以上の理由もないのだろうが、最初から決めていたみたいにトウカが笑っていたのはよく覚えている。
そのくらいに立場としては上であるジョジュアだが、彼は上下関係を固く縛るような態度で接することはなかった。部下のミスも難なくカバーしてしまうし、先日テオフィールの仕事を受け持ってくれたように、自分の業務の範囲外にまで手を伸ばしてしまうような人だ。しかも無理にではなく、本心から喜んで行っている。
彼が人から頼られることが好きなのは皆が皆百も承知だが、何もそこまでやらなくていいのだ。隙のない働き者なジョジュアを思い出して、テオフィールは悶々とため息を吐き出す。
「そろそろ本部も閉まる時間かな」
器用に枝へと乗っかって、木に背を預けながら双眼鏡の中を眺める。社員の姿も少なくなっていく中、ジョジュアは変わらずいつもの席に座っていた。
最後の一人がドアに手をかけてお辞儀をすると、ジョジュアは手を振りながら別れの挨拶を交わす。誰もいなくなった扉の前を見届けてから一息つくと、机の下にある紙袋の中身を何やら探っているようだ。なんだろう? とテオフィールは前のめりになってその様子を熟視する。
「……あ」
現れたのは、色とりどりの飴玉たちだった。ジョジュアはまるで一輪の花を摘むみたいに、それらを大切そうに手に包む。
ゆったりと椅子を引いて立ち上がると、彼は社員の机の引き出しに一つ一つ菓子を忍ばせていった。どこか楽しそうに蒲公英色を揺らして、テオフィールの机にも同じように飴玉を潜ませる。両手がすっかり空になると、ジョジュアは自分の机の前からオフィス全体を見渡しながら、ふんわりと金色の目を細めた。そうして腕を後ろに回すと、オジギソウが葉を閉じるように腰を曲げる。
ふわりと体を起こして、ほんのり名残惜しそうに一室を見つめてから、ゆっくりと扉にまで歩んでドアノブを捻った。
ガチャリと帰りの合図が響いて、事務所には悄々とした空気が流れる。けれども、その空間には確かな温もりが残っていた。
「今日、仕事出れば良かった」
ガッチリと双眼鏡を握っていた指の力が緩んで、そのまま胸元にまで落ちる。テオフィールはジョジュアが立っていた場所を、ただまっすぐに見入った。
「一緒に仕事したかったな」
そう思わずにはいられなかった。
朝引き出しを開けたら、「今日も一日頑張りましょう」って綺麗なメッセージ付きのお菓子が入ってあって。お世辞なんかじゃないと分かる褒め言葉が嬉しくて。彼から貰う、行ってらっしゃいとお疲れ様が大好きで。
どれだけ業務が忙しかったとしても、ジョジュアがいてくれるのなら、彼のために頑張ろうだなんて張り切ってしまう。こんなことを言ったら、あの人はきっと困ったみたいに眉を下げて頭を撫でてくれるのだろう。
「結局ジョジュアさんがいなきゃ駄目じゃんか!」
我ながら恥ずかしい、と誤魔化すようにメモ帳を開ける。たった数百円ぽっちの紙束には憧れの上司の観察記録。元が取れすぎたな、だなんてちょっぴり肩を揺らした。
「……こんなに書いたのに、ジョジュアさんのことは何も分からなかったな」
大体八十枚はあるページの厚みを全部埋めてみても、彼自身に纏わる情報はこれっぽっちも掴めなかった。初っ端からストーキングまがいなことをしている時点で、下心がないと弁明するつもりはさらさらない。一つでもジョジュアのことを知りたいと思ったのも事実だ。まぁ、案の定の結果だったわけだが。
メモ帳を閉じて、ポケットに入れ込む。ふと顔を上げると、視界には大きな円を描く橙色が目の前を覆っていた。じわじわと侵食するように広がっていく熱に、どっと冷やせが残酷に滴ってくる。
――あぁそうだ、もうそんな時間だった。
今更独りぼっちだったことに気がついて、きゅっと双眼鏡を掴んだ。吸い込まれるようなこの色が、テオフィールは大嫌いだった。
カァカァ。
カラスがお家に帰る時間だと伝えるように鳴いて、はっと意識を取り戻す。テオフィールは急かすように立ち上がると、木の枝から俊敏に飛び降りた。
「はぁ……早く戻ろう」
「おや、お帰りになられるのですね。お勉強は捗りましたか?」
「あ、はい、結構……ん……?」
聞き覚えのある声が聞こえて、青ざめた顔色でばっとそちらへと視線を動かした。勢いよく振り返ると、すぐそばにはあの甘酸っぱい香りが華やいで、キラキラと輝くシトリンがテオフィールを照らしている。
「うわ!? ジョ、ジョジュアさ……」
あわあわと即座に双眼鏡を後ろに隠した。気まずそうなテオフィールを覗き込むように、ジョジュアは腕を後ろに組みながらなるべく姿勢を低く保つ。彼は相変わらず秀麗な面立ちで悠々と口角を上げていた。
「よろしければ、ご一緒に復習などいかがでしょう」
ジョジュアはそう提案して、にこりとお茶目に綻んだ。
もう遅いので帰ります、一人でも大丈夫です、と適当にはぐらかして逃げれば良かったのかもしれない。けれど、彼の眩しい黄金色が靡いた瞬間に、自分を焼き尽くしてしまうようなあの橙色が隠れていって。
どうしようもない感情の置き場を失ってしまったから、恥だとかは一旦忘れて小さく頷いてみたのだった。
◆◆◆
カラン、と軽やかにドアベルが傾く。シックで洒落た店内には、聞いたことのないジャズがレコードから流れている。店主が客にいらっしゃいませ、と出迎える光景を横目に、テオフィールは正面に座るジョジュアを見つめ直した。
普段の制服とは違って、今の彼はタートルネックにコートを羽織っている。値段が飛び跳ねるような上質さではないのだろうが、ジョジュアが身につければなんだって高級そうなものに見えた。
メニュー表に瞳を凝らしていたジョジュアは、テオフィールが見えやすいようにくるりと逆向きに回して品書きを置いてくれる。スマートな気遣いに簡潔な感謝を述べて、テオフィールはメニューを確かめた。恐らく喫茶店であろうこの店は、種類豊富な珈琲やレトロ漂うスイーツが自慢の一品らしい。
「どうぞ遠慮なく、お好きなものを選んでくださいね」
悩ましく眉を顰めるテオフィールに、ジョジュアは朗らかに微笑みかける。じゃあ、とこの店イチオシのカラメルプリンを指すと、ジョジュアは了承して店主に注文を頼んだ。
「さて、それでは復習を始めましょうか」
「う……すみません! 悪気がなかったと言えるわけでもないんですけど……」
テオフィールはガバっと頭を振り下げて正直に白状する。この調子だと、最初からお見通しだったのだろう。
風の噂で聞いた話によると、ジョジュアは怒ると怖い……らしい。誰も見たことがないのだから、それこそただの噂なのだろうけど。だが、テオフィールは別に怒られることが怖くて怯えているのではない。幾ら彼に憧憬を抱いていたとはいえ、プライベートに首を突っ込むような真似をして、嫌われてしまうことを恐れているのだ。
ぺこぺこと必死に謝るテオフィールだったが、ジョジュアは拍子抜けといった表情できょとんとしていた。自分のことで脳内が一杯一杯なテオフィールはそれに気づくこともなく、重たい唇を動かす。
「本当に失礼なことをしてしまいました、ごめんなさい。僕はまだまだです……ジョジュアさんみたいに上手な敬語で話せないし、クレーマー相手にスルーとか出来る自信もなくて。きっと自分のことに精一杯で、周りに迷惑をかけてしまってるかも……」
ぽろぽろと零れていく弱音は、海の底へ溺れてしまうみたいに、テオフィールの顔を俯かせていく。憧れの人と己は、こんなにも程遠い。
「……テオフィールさん、そちらのメモ帳を見せていただけますか?」
「あ、はい……」
ありがとうございます、としなやかに返答して、ジョジュアは大事にそれを受け取る。一ページ一ページの重みを身体全体で感じるように紙を捲る彼の表情は真剣だ。丁寧に、それでいて素早くメモ帳を読み切り、静かにページを閉じていく。
彼は目線をテオフィールに向けた。すると、慈しみの詰まった笑みが、ひっそりと桜のように咲き誇る。あまりにも優しいその笑顔の意味が理解出来なくて、テオフィールはぱちぱちと瞬きを繰り返した。ジョジュアはあどけない部下の反応に、くすりと可笑しそうに笑う。
「この枚数を全て埋めるだなんて、普通は出来ないんですよ。貴方にとっては当然のことだったかもしれませんけれど」
「いや、勝手に埋まっていったっていうか……ジョジュアさんが凄いからですよ」
「書こうと思っていないのなら尚更です。貴方の志はいつだって高くて、羨ましくなってしまいますね。……ですが」
ほんの少し、理想が高いとも言えます。
ジョジュアは人差し指を立てて、恰も先生みたいに解答を与えた。びっくりして目を丸めるテオフィールをよそに、ジョジュアは会話を続けていく。
「貴方は非常に賢しく小才の利く子です。それゆえに出来ることが多くて、粗削りなものは許せないのでしょう」
違いますか? と尋ねるように首を傾けるジョジュアに、テオフィールは魚のように口をぱくぱくさせる。
「どうして分かるんですか? 僕のこと、何でも知ってるみたいに……」
「分かりますよ。貴方を目で追う度に、繊細な努力が伝わってきますから」
「えー……なんか恥ずかしいです……」
「あら、恥ずかしがることなんてありませんのに」
急に照れ臭くなってもじもじするテオフィールに、ジョジュアはやっぱり楽しそうに言葉を弾ませる。ささやかに喜色を浮かべる上司を見て、彼を敬慕するテオフィールも悪い思いはしない。釣られるように朗笑して、テオフィールは林檎色の瞳にジョジュアを映した。
「ジョジュアさんみたいになりたいって、高望みかもだけど思ってるんです。……でも」
僕はジョジュアさんのこと、なんにも知らないや。
ぼそりと呟かれた音は、きっと草原に走るそよ風よりも心細い。高めのソファに座る自分の、まだ地に着くことのない足をぼんやり見下ろした。
「お待たせいたしました」
カチャリ。皿と机の触れ合う音色が耳に届いて、ぱっとそちらに方角を変える。
ぷるんと艶を目立たせて自慢げに光沢を湛えるは、この店の看板メニューことプリンだ。その後ろには、ジョジュアの頼んだスイーツにカフェオレが並んでいる。しっとりとした丈夫なタルトのお城には、色鮮やかな宝石みたいに瑞々しい果物たちが詰まっていた。
「フルーツタルトだ……!」
「えぇ、とても美味しいんですよ。ぜひ、最初の一口はテオフィールさんが頂いてください」
「えっ! いやいや、嬉しいですけど……」
「あぁ、これはご迷惑をおかけしてしまったようで……私はなんと申し訳のないことを……」
「ちょ、えぇ……もーうっ! 分かりましたっ食べますから、そんな悲しい顔するのやめてくださいよ!」
わざとらしく雅やかな面貌に悲傷を上手く混ぜるジョジュアに、テオフィールはついお労しいだなんて思わずにはいられない。まんまと彼の巧妙な策略にひっかかって、されるがままにあーんを享受した。
「お、美味しい……」
サクサクの生地に香ばしい甘さが染み渡って、その甘味をフルーツたちが緩和している。もぐもぐと咀嚼するテオフィールは、美味しさを隠すことなく伝えた。故郷ではスイーツよりも果物をそのまま食べることが多かったため、手間が積み重ねられたそれらに人一倍胸を打たれたのだ。しみじみと感極まるテオフィールを、ジョジュアはそばで見守る。
「あっ僕のプリンの一口目! ジョジュアさん、どうぞ!」
タルトに意識を奪われていたテオフィールは、名案を思いついたみたいにプリンを掬う。ほら! と短い腕をプルプル震わせながら差し伸べるテオフィールに、ジョジュアは何かを言いかけた。けれども、ふっと隠すかの如く笑むと、体重をテーブルに預けてテオフィールの近くに寄りかかる。横髪を耳にかけて、プリンが崩れてしまわないようにそっと口内へと運んでいった。
「ど、どうですか……?」
「……えぇ。口どけも滑らかで、優しい味わいですよ」
「! 良かった……」
同じように一口目を貰ってくれたことが嬉しくて、テオフィールぽやぽやと頬を緩める。だが、ジョジュアはどこか歯切れが悪そうで。不安そうにスプーンを両手で持つテオフィールに、ジョジュアはふわりと目尻を下げる。
「……このお店にはよく来るんです。どのメニューも頂いてきましたが、プリンだけは選んだことがなくて」
「……? なんでですか?」
はてなマークを頭上に乗せるテオフィールは、純粋にその理由を求めてみた。ジョジュアはちょいちょい、と手招きをしてやる。よいしょと前のめりの姿勢で体を引き寄せたテオフィールに、ジョジュアは密やかに近づいた。そして、誰にもバレないように秀麗な唇を解く。
「実は、あまり苦いものが得意ではないのです」
テオフィールの耳元で、静々と囁いた。
「え!?」
「おや、そこまで驚かれるとは」
「だ、だって知らなかったんですもん! カラメルが駄目なら先に言ってくださいよ……」
これでは相手の気も知らずに無理矢理食べさせたことになってしまった。よりにもよって、カラメルばかりな一口目を。自分のばかばか! とテオフィールは鬱々と頭を抱える。
「すみません。けれど……可愛らしい部下からのお願いを断ることなんて、私には出来ないんです」
ジョジュアは机に両肘をついて、重ねた手の甲に顎を乗せる。瞼を閉じながら、歌を口遊むみたいに温情を奏でた。テオフィールを想う彼の声は、いつだって陽春のようにあたたかい。
「それに……」
――苦味が得意ではない私を知っているのは、貴方だけですよ。
そう言って、ジョジュアは瞳を開く。宿された宝石眼が、ただ眩く光った。細められたシトリンの奥には、情けをかけたようなものは秘められていない。
今だけは本当に、ほんの少しだけ、上司と部下という関係性が薄れた気がして。テオフィールは込み上げてくる喜びを、相好を崩して横溢させた。
「ジョジュアさん、もう一口どうぞ! 次はちゃんとカラメルじゃないところです」
「ふふ、よろしいのですか? ではもう一度、あーんでお願いしますね」
「自分で食べてくださいよ……」
おろおろ尻込みするテオフィールに対して、ジョジュアはお構いなしに要求する。これはどう断っても詮無いことだな、と断念してスプーンから落ちかけるくらいにたっぷりな二口目を贈った。
「美味しいですか?」
「はい、とても」
「えへへ」
じゃあもう一口、では私のもどうぞ、と二人の掛け合いが店内で繰り返される。
交換すればいいのに、だなんて野暮ったい。この時間は、彼らだけのものなのだから。