番外編
「クワイエットエレベーター」
子供たちが夢の世界へと旅立って、穏やかな月光がシュテルンタウンを見守る。ポツポツと街灯の光が消えていくと、あくびをするみたいに暗闇が広がっていった。そんな様子を、レイは月にも届きそうなくらい高い塔から適当に眺める。一つ深呼吸して、真っ直ぐに手を伸ばした。
ゴーンゴーン
零時を知らせる鐘の音が鳴り響く。レイにとっては愛おしい人の歌声のようでもあった。良い子も悪い子も、黙って寝る時間だ。そのまま起きなくてもいいけど、だなんて捻くれたことを考えながら、本日の仕事を終えて一段落つく。お気に入りのスニーカーの爪先をとんとんと地面に当てて、ちょっぴり名残惜しそうに踵を返した。
「良い音だな」
「まぁ、そうですね」
わざと低く発音される声に、レイは素っ気なく返す。昇降機の扉に背を預けてこちらを待っていた少年――レドナーは、ゆっくり瞼を起こして、真っ暗な景色の中で朱色を目立たせた。血のような悍ましさを放つその赤はレイを映すと、我が子を見つめるように優しく細まる。レドナーが扉に手を当てると、彼の魔力により自動で開かれていく。手入れの整った白髪をさらりと靡かせて、扉の先へと足を運びながらヒールを鳴らした。
「帰ろうか」
◆◆◆
沈黙の漂う昇降機に二人きり。微かな揺れを足底に感じながら、それに急かされるような思いがレイを徐々に蝕む。その一方でレドナーはというと、上品に腕を組んでは口と目を閉ざしている。どちらも開くことはまぁないだろう。レイは会話が上手な方ではないことに加えて、静けさによって発生する気まずさが苦手だ。どうしてかと理由を聞かれれば、きっと口篭ってしまう。
まず友達と呼べる人がいないことは前提として、おおもとはレイの家庭事情にある。家で周りの機嫌を窺って暮らしているレイは、人の感情の変化には敏感だった。故意に立てられた大きな物音も、冷えた視線が襲う空間も、全部自分がこの家にいるから。居心地の悪さを察知すれば、それは「自分のせい」だと勝手に思い込んでしまう。己が悪くないことは、とっくに分かっている。理解していてもなお、歪んだ認識が離れない。ねちっこく虐めてくる継母も、無様な自分も大嫌いだ。ここにお喋り好きなあの子がいてくれたら――と桃色のツインテールを揺らす彼女を思い浮かべた。
「いや違うから」
ブンブンと虫を追い払うように手を振る。ただの雑念だ。別に会いたいだなんて思っちゃいない。はぁ、と気疲れしてため息を吐いた。
「何が違うんだ?」
「うわっ聞こえてたんですか……」
「子供の声はよく響く」
子供って……と言いかけて、やっぱりやめた。ヒールを除けばレイと大した身長差のないレドナーは、容姿からも年齢は近く見える。十代の少年であることは明らかだ。けれど、レイの知人によれば彼はれっきとした大人の男性らしい。やけにレイを子供扱いして保護者面してくるのも、見た目にそぐわない貫禄が溢れているのも、つまりはそういうことなのだろう。未だ信じられない話だが。
「それにしても……」
そう呟いて、レドナーは天井を見上げる。ちょこっと申し訳程度に飾られた電球を視界に入れながら、ゆったりと瞬きをすると再び目を瞑った。
「この塔、高すぎないか」
日頃ですら足りない覇気を薄めた声色で、レイに問いかけた。
確かにこの時計塔は、シュテルンタウンの中でも特に高い建物だろう。毎日ここに通っていたレイにとっては、気にするようなことでもなかったのだが。だからこそ、レドナーがわざわざ高さについて言及してきたことに、少々疑問を抱いた。
「……あの、もしかして」
如何にも言いづらそうに、そうではないと答えてくれと、レイは淡い願いを混ぜて尋ねた。
「高いとこ、怖いんですか」
「……」
「な、なんか言ってよ」
「……怖くはない。少し、苦手なだけだ」
淡々と述べるレドナーの顔色が、じんわりと悪くなっていく。彼の遠回しなアンサーに、レイも似たような色を顔に塗りたくっていた。
「っ俺散々言いましたよね、ついてこなくて結構だって!」
シュテルンタウンに佇むこの時計塔は、それぞれ昼と夜の零時を伝える鐘の音が奏でられる。鐘は街の子供たちが交代制で鳴らすことが決まりだ。けれど、訳あってその役目はレイが一人で果たしている。まだ十二歳の彼が、こんな夜中にたった一人で、だ。レイには夜闇に手を繋いでくれるような家族はいなかったし、自分が行かなければ鐘は零時を伝えられない。仕方のないことだった。
だが、とある少女からこの事を知ったレドナーは、毎晩レイに付き添うようになった。結構です、迷惑なんで、とどれだけ嫌味をぶつけても、レドナーは全く気にする様子もなく隣を歩いてくる。何度も繰り返したやり取りに飽き飽きしたレイは、お好きにどうぞと放っておくことにしたのだった。
「チビ一人で危ないだろう。この時間帯に出歩くなら、大人が同行して当たり前だ」
「怖いくせに意地張んないでって言ってるんですよ」
「だから怖くはない」
「震えた声で言われても説得力ないんですってば!」
頑なに認めようとしないレドナーに惨敗したレイは、ぜえぜえと呼吸を乱す。どうして自分はこう他人に振り回されてばかりなんだ、子供にそう思われて恥ずかしくはないのか、と小腹が立っていった。
「嫌なら来なくていいのに、馬鹿みたい」
本当は、嬉しかった。夜道を一人で歩いていることを心配されたのは初めてだったから。レドナーは何故だか、時々本物のお父さんみたいに見えるときがあって、幼いというのに不思議な人だった。だから、そのせいで余計に甘えてしまったのだ。彼は無理をしてついてきていたというのに。
「……レイ」
元々高いのをわざと低く発するレドナーの声が、いつもよりほんのり柔らかくなる。ぬくもりの滲んだ音だった。
「嫌だなんて思ってないよ」
「……嘘でしょ」
「慎重なんだな」
ぽん、とか弱く細った左手がレイの頭に乗せられる。彼の薬指に飾られた指輪が、鈴がころころと笑うみたいに輝いた。
「楽しそうに鐘を鳴らすお前を見ていると、微笑ましいんだ」
あぁ、ほら。またそうやって笑ってくれるから、勘違いしてしまう。レイは何かを言い返そうとしたけれど、瞳に張った膜をどうにか隠したくて、ただ唇を噛んだ。レドナーは相変わらずで、そっと頭を撫でるだけだった。
「帰ったらピーチティーでも飲もうか。体が温まればすぐに眠れるだろう」
「……毎回お邪魔しても迷惑でしょ」
レドナーは必ず、レイに帰ろうと呼びかけてくれる。彼はレイの事情を知らない。知る気も探る気もないと、レイの隔てた壁を壊すような言動は取らなかった。普段は真面目にボケを叩き出すくせに、肝心なところは見透かしてくる。いや、見透かした上でレイを安心させようとしてくれているのか。
帰る家があるだけ恵まれていると思って生きてきた。でも、耐えなければならないことが多すぎた。もう、あの建物に帰りたくない。
『いざというときに、逃げる場がないのは苦しいはずだ』
いつしか、レドナーがレイに向けた言葉を思い出す。そして、いつでもうちに来いと誘ってくれた。現状は簡単に変えられない。子供なら尚更だ。だけれど、そんな中でも、僅かに掴める幸せがある。諦めるなと、教えてくれているようだった。こうは言っていたものの、レドナーの家はボロボロに崩壊しているのだが。レイはその原因を知らないが、関係のないことなので下手に首は突っ込んでいない。今は建て直している最中らしく、それまでの間は案内人の宿舎で世話になっているのだとか。つまり、レイもそこに居座らせてもらっているわけだ。
寮に住まう者は皆揃いに揃って見目麗しい青年ばかりで、溢れ出る美貌に目眩を起こしそうになる。でも、隣の部屋の仲良しな三人組……マブダチトリオと名乗っていたか。彼らはレドナーと違って完全にお邪魔であろうレイにも、フレンドリーに話しかけてくれた。そして通りがかる人々は、笑顔で手を振って挨拶を交わしてくれる。レドナーの部屋に行けば、甘いピーチティーと菓子が用意してあって。ダージリンを嗜みながらくつろぐレドナーの隣で、彼の娘……らしいノエルの手作りスイーツをつまむ。お菓子の食べカスを落としてしまっても、椅子の引く音が響いても、怒られたことはなかった。その体験は、レイにとってはあり得ないことで。
「俺、いいのかな。幸せを溢したくない……とか、贅沢な考えがあるんだけどさ」
もし、幸せというものがあるのなら、自分は貰いすぎたのではないだろうか。すっからかんだった箱から、溢れてしまうのではないか。
「子供みたいで呆れる……でも……」
嫌だなぁ。
我儘で贅沢者すぎた。だから、これくらいしないとなって、自ら幸福を溢すみたいにぽつりと零す。
「……自分の気持ちを、受け入れられるようになってきたんだな」
レドナーはレイの頭から手を離すと、そのまま下へと腕を動かした。レイの吐き捨てた空気を逃さないように、きゅっと両手を包み込む。
「お前の箱はまだ小さくて、これから慣れないようなことも沢山あるだろう。だが、溢れそうになれば箱ごと大きくするんだ。もし足りなくなったら、また一つ新しい箱を作っていく」
両手をレイの目の前に持ってくると、花が蕾を咲かせるようにその手を開く。ふわふわと子守唄みたいに優しい彼の魔力が、レイの身体に広がっていった。
「年寄りになるまで何度も繰り返して、お前は生きていけばいい」
レドナーは嬉しそうに控えめな笑みを湛える。けれど、その表情にはあどけない悪戯さが重なっているようにも感じて。ロイヤルブルーのリボンがふわりと揺れた。
チーンと音がして、ガラガラと扉が開かれる。どうやら地上に辿り着いたらしい。ぼうっとしていたレイは、ハイヒールの弾む音が聞こえてはっと意識を取り戻す。置いて行かれないように慌てて駆け出すレイに、レドナーは振り返って手を差し伸べた。
「置いて行かないよ」
「……分かってますけど」
不貞腐れながらも握り返す。レドナーの手は、彼の心がそのまま宿ったように温かかった。
子供たちが夢の世界へと旅立って、穏やかな月光がシュテルンタウンを見守る。ポツポツと街灯の光が消えていくと、あくびをするみたいに暗闇が広がっていった。そんな様子を、レイは月にも届きそうなくらい高い塔から適当に眺める。一つ深呼吸して、真っ直ぐに手を伸ばした。
ゴーンゴーン
零時を知らせる鐘の音が鳴り響く。レイにとっては愛おしい人の歌声のようでもあった。良い子も悪い子も、黙って寝る時間だ。そのまま起きなくてもいいけど、だなんて捻くれたことを考えながら、本日の仕事を終えて一段落つく。お気に入りのスニーカーの爪先をとんとんと地面に当てて、ちょっぴり名残惜しそうに踵を返した。
「良い音だな」
「まぁ、そうですね」
わざと低く発音される声に、レイは素っ気なく返す。昇降機の扉に背を預けてこちらを待っていた少年――レドナーは、ゆっくり瞼を起こして、真っ暗な景色の中で朱色を目立たせた。血のような悍ましさを放つその赤はレイを映すと、我が子を見つめるように優しく細まる。レドナーが扉に手を当てると、彼の魔力により自動で開かれていく。手入れの整った白髪をさらりと靡かせて、扉の先へと足を運びながらヒールを鳴らした。
「帰ろうか」
◆◆◆
沈黙の漂う昇降機に二人きり。微かな揺れを足底に感じながら、それに急かされるような思いがレイを徐々に蝕む。その一方でレドナーはというと、上品に腕を組んでは口と目を閉ざしている。どちらも開くことはまぁないだろう。レイは会話が上手な方ではないことに加えて、静けさによって発生する気まずさが苦手だ。どうしてかと理由を聞かれれば、きっと口篭ってしまう。
まず友達と呼べる人がいないことは前提として、おおもとはレイの家庭事情にある。家で周りの機嫌を窺って暮らしているレイは、人の感情の変化には敏感だった。故意に立てられた大きな物音も、冷えた視線が襲う空間も、全部自分がこの家にいるから。居心地の悪さを察知すれば、それは「自分のせい」だと勝手に思い込んでしまう。己が悪くないことは、とっくに分かっている。理解していてもなお、歪んだ認識が離れない。ねちっこく虐めてくる継母も、無様な自分も大嫌いだ。ここにお喋り好きなあの子がいてくれたら――と桃色のツインテールを揺らす彼女を思い浮かべた。
「いや違うから」
ブンブンと虫を追い払うように手を振る。ただの雑念だ。別に会いたいだなんて思っちゃいない。はぁ、と気疲れしてため息を吐いた。
「何が違うんだ?」
「うわっ聞こえてたんですか……」
「子供の声はよく響く」
子供って……と言いかけて、やっぱりやめた。ヒールを除けばレイと大した身長差のないレドナーは、容姿からも年齢は近く見える。十代の少年であることは明らかだ。けれど、レイの知人によれば彼はれっきとした大人の男性らしい。やけにレイを子供扱いして保護者面してくるのも、見た目にそぐわない貫禄が溢れているのも、つまりはそういうことなのだろう。未だ信じられない話だが。
「それにしても……」
そう呟いて、レドナーは天井を見上げる。ちょこっと申し訳程度に飾られた電球を視界に入れながら、ゆったりと瞬きをすると再び目を瞑った。
「この塔、高すぎないか」
日頃ですら足りない覇気を薄めた声色で、レイに問いかけた。
確かにこの時計塔は、シュテルンタウンの中でも特に高い建物だろう。毎日ここに通っていたレイにとっては、気にするようなことでもなかったのだが。だからこそ、レドナーがわざわざ高さについて言及してきたことに、少々疑問を抱いた。
「……あの、もしかして」
如何にも言いづらそうに、そうではないと答えてくれと、レイは淡い願いを混ぜて尋ねた。
「高いとこ、怖いんですか」
「……」
「な、なんか言ってよ」
「……怖くはない。少し、苦手なだけだ」
淡々と述べるレドナーの顔色が、じんわりと悪くなっていく。彼の遠回しなアンサーに、レイも似たような色を顔に塗りたくっていた。
「っ俺散々言いましたよね、ついてこなくて結構だって!」
シュテルンタウンに佇むこの時計塔は、それぞれ昼と夜の零時を伝える鐘の音が奏でられる。鐘は街の子供たちが交代制で鳴らすことが決まりだ。けれど、訳あってその役目はレイが一人で果たしている。まだ十二歳の彼が、こんな夜中にたった一人で、だ。レイには夜闇に手を繋いでくれるような家族はいなかったし、自分が行かなければ鐘は零時を伝えられない。仕方のないことだった。
だが、とある少女からこの事を知ったレドナーは、毎晩レイに付き添うようになった。結構です、迷惑なんで、とどれだけ嫌味をぶつけても、レドナーは全く気にする様子もなく隣を歩いてくる。何度も繰り返したやり取りに飽き飽きしたレイは、お好きにどうぞと放っておくことにしたのだった。
「チビ一人で危ないだろう。この時間帯に出歩くなら、大人が同行して当たり前だ」
「怖いくせに意地張んないでって言ってるんですよ」
「だから怖くはない」
「震えた声で言われても説得力ないんですってば!」
頑なに認めようとしないレドナーに惨敗したレイは、ぜえぜえと呼吸を乱す。どうして自分はこう他人に振り回されてばかりなんだ、子供にそう思われて恥ずかしくはないのか、と小腹が立っていった。
「嫌なら来なくていいのに、馬鹿みたい」
本当は、嬉しかった。夜道を一人で歩いていることを心配されたのは初めてだったから。レドナーは何故だか、時々本物のお父さんみたいに見えるときがあって、幼いというのに不思議な人だった。だから、そのせいで余計に甘えてしまったのだ。彼は無理をしてついてきていたというのに。
「……レイ」
元々高いのをわざと低く発するレドナーの声が、いつもよりほんのり柔らかくなる。ぬくもりの滲んだ音だった。
「嫌だなんて思ってないよ」
「……嘘でしょ」
「慎重なんだな」
ぽん、とか弱く細った左手がレイの頭に乗せられる。彼の薬指に飾られた指輪が、鈴がころころと笑うみたいに輝いた。
「楽しそうに鐘を鳴らすお前を見ていると、微笑ましいんだ」
あぁ、ほら。またそうやって笑ってくれるから、勘違いしてしまう。レイは何かを言い返そうとしたけれど、瞳に張った膜をどうにか隠したくて、ただ唇を噛んだ。レドナーは相変わらずで、そっと頭を撫でるだけだった。
「帰ったらピーチティーでも飲もうか。体が温まればすぐに眠れるだろう」
「……毎回お邪魔しても迷惑でしょ」
レドナーは必ず、レイに帰ろうと呼びかけてくれる。彼はレイの事情を知らない。知る気も探る気もないと、レイの隔てた壁を壊すような言動は取らなかった。普段は真面目にボケを叩き出すくせに、肝心なところは見透かしてくる。いや、見透かした上でレイを安心させようとしてくれているのか。
帰る家があるだけ恵まれていると思って生きてきた。でも、耐えなければならないことが多すぎた。もう、あの建物に帰りたくない。
『いざというときに、逃げる場がないのは苦しいはずだ』
いつしか、レドナーがレイに向けた言葉を思い出す。そして、いつでもうちに来いと誘ってくれた。現状は簡単に変えられない。子供なら尚更だ。だけれど、そんな中でも、僅かに掴める幸せがある。諦めるなと、教えてくれているようだった。こうは言っていたものの、レドナーの家はボロボロに崩壊しているのだが。レイはその原因を知らないが、関係のないことなので下手に首は突っ込んでいない。今は建て直している最中らしく、それまでの間は案内人の宿舎で世話になっているのだとか。つまり、レイもそこに居座らせてもらっているわけだ。
寮に住まう者は皆揃いに揃って見目麗しい青年ばかりで、溢れ出る美貌に目眩を起こしそうになる。でも、隣の部屋の仲良しな三人組……マブダチトリオと名乗っていたか。彼らはレドナーと違って完全にお邪魔であろうレイにも、フレンドリーに話しかけてくれた。そして通りがかる人々は、笑顔で手を振って挨拶を交わしてくれる。レドナーの部屋に行けば、甘いピーチティーと菓子が用意してあって。ダージリンを嗜みながらくつろぐレドナーの隣で、彼の娘……らしいノエルの手作りスイーツをつまむ。お菓子の食べカスを落としてしまっても、椅子の引く音が響いても、怒られたことはなかった。その体験は、レイにとってはあり得ないことで。
「俺、いいのかな。幸せを溢したくない……とか、贅沢な考えがあるんだけどさ」
もし、幸せというものがあるのなら、自分は貰いすぎたのではないだろうか。すっからかんだった箱から、溢れてしまうのではないか。
「子供みたいで呆れる……でも……」
嫌だなぁ。
我儘で贅沢者すぎた。だから、これくらいしないとなって、自ら幸福を溢すみたいにぽつりと零す。
「……自分の気持ちを、受け入れられるようになってきたんだな」
レドナーはレイの頭から手を離すと、そのまま下へと腕を動かした。レイの吐き捨てた空気を逃さないように、きゅっと両手を包み込む。
「お前の箱はまだ小さくて、これから慣れないようなことも沢山あるだろう。だが、溢れそうになれば箱ごと大きくするんだ。もし足りなくなったら、また一つ新しい箱を作っていく」
両手をレイの目の前に持ってくると、花が蕾を咲かせるようにその手を開く。ふわふわと子守唄みたいに優しい彼の魔力が、レイの身体に広がっていった。
「年寄りになるまで何度も繰り返して、お前は生きていけばいい」
レドナーは嬉しそうに控えめな笑みを湛える。けれど、その表情にはあどけない悪戯さが重なっているようにも感じて。ロイヤルブルーのリボンがふわりと揺れた。
チーンと音がして、ガラガラと扉が開かれる。どうやら地上に辿り着いたらしい。ぼうっとしていたレイは、ハイヒールの弾む音が聞こえてはっと意識を取り戻す。置いて行かれないように慌てて駆け出すレイに、レドナーは振り返って手を差し伸べた。
「置いて行かないよ」
「……分かってますけど」
不貞腐れながらも握り返す。レドナーの手は、彼の心がそのまま宿ったように温かかった。