第一章「死神の館」
「改めて……」
「シュテルンタウンへようこそ!」
パンパン、とクラッカーが鳴って、紙吹雪が降り注ぐ。本日の主役ことカロンは、皆からの歓迎を心から喜んだ。
「まさかこんなに人が集まるだなんて……」
わいわいと賑わう人だかりに、クラウンベリーは圧倒されていた。当初はカロンとマナロイヤと自分の三人で行われるはずだったパーティーは大規模なものとなっている。肝心のマナロイヤは欠席だが。ついでにタルファーも欠席だ。ルシアスが誘っているのを目にしたが、顔を青ざめさせては首を左右に振りまくっていた。そんなに怖がらなくてもいいのに。マナロイヤは気分屋な老人なので、端から出席を期待なんてしていなかったけれど。話したいこともあったが、どうせあちらから会いに来るだろう。
こんな人数を店に呼べるわけもなく、歓迎会は崩壊したレドナーの館の前で開催されていた。無駄に面積のあるこの森は、今回の宴にうってつけの場所だったのだ。豪勢な料理が立ち並んで、皆は好きなものをそれぞれ口にしている。せっかく愛弟子とゆっくり話せると思ったのに、とクラウンベリーは拗ねたように頬を膨らませた。
「それでね、ライムったら私の話も聞かずに突っ走っていっちゃったのよ!」
「いやだから、あん時はオレも頭に血が上ってたっつーか……」
「ふざけんじゃねぇぞ~っ! ってレドナーにしがみついてね、お兄ちゃん失格だ! ってびっくりするくらい怒っていて……ふふ、思い出しただけでお腹が痛くなっちゃう! やっぱり貴方って最高ね!」
「忠実な再現やめろって! 何が面白いのか分かんねぇよ……」
カロンはライムントを連れてくると、クラウンベリーにぺらぺらとお喋りを繰り広げる。
実はあの時、カロンはライムントにも作戦を伝えようとしていた。だが、ジェシーに攻撃しようとしたレドナーを目にした途端、ライムントは血相を変えて疾走していってしまったのだ。彼はレドナーが呪術にかけられていたことも知らなかったし、ジェシーがぎょっと魂消たのも無理はない。
ちなみに、随分質素だったライムントの服装は、ジェシーのコーディネートによって小粋なものに移り変わっていた。冬の都生まれだと言っていたが、それにしては薄着すぎたように感じられる。風邪を引いては辛いので、これを機にしっかりと防寒して欲しい限りだ。
ライムントの真似をしては楽しそうにはしゃぐカロンを、本人は冷や汗を流しながら止めていた。
「……カロンのお墨付き、ということかしら?」
カロンは誰に対してもフレンドリーで人懐っこい。けれども、一人の人間に対して特別感を醸し出すことは滅多になかった。彼女は誰にでも愛情を振りまく、極めて博愛的な子だ。そんな弟子がお気に入りのこの青年は何者? じとっと、クラウンベリーはライムントを見定めるかの如く熟視する。
「あっあの! 今日の菓子って、クラウンベリーさんが作ったんですよね……?」
「えぇ、そうだけれど……」
クラウンベリーに見つめられて、ライムントはドギマギしながらも話しかける。彼の様子に疑問を持ちながらも、クラウンベリーは肯定した。
「オ、オレ……クラウンベリーさんの大ファンなんです!!!」
「……え?」
思いの丈を叫ぶライムントに、クラウンベリーは呆気にとられる。言っちまった、と恥ずかしそうに頭を掻く彼は、感情を高ぶらせて声を張った。
「レシピ本も全部持ってます! まさかクラウンベリーさんの作った菓子を食べられる日が来るなんて夢にも思わなくて……オレ、オレ……」
「今なら糖分と多幸感に溺れて死んでもいいなって」
「ちょっと、よだれが出ちゃってるわよ」
だらっと垂れたよだれをライムントは慌てて拭う。目が、目が怖い。この青年、本気で死んでもいいと思っている。自分のスイーツで死者を出すだなんて絶対に避けたい。ライムントの菓子に向ける異常な愛情に、クラウンベリーは些か背筋が凍るようだった。
「こう、上手く言えないんですけど……クラウンベリーさんの菓子、本当にうまくて。オレ、大好きです」
ライムントは八重歯を見せて、あどけなくはにかんだ。クラウンベリーは、生き肝を抜かれるような思いをぶつけられる。あらやだどうしましょう、凄く良い子。カロンにとって害悪な存在ではないのかと、少しでも疑った自分が情けない。
「もう食べられる機会もないと思うんで……今日はこんなに豪華な菓子を無料で、ありがとうございます」
礼儀正しく腰を折る彼に、クラウンベリーはまたしても驚いて、けれどもどこか柔らかく微笑む。
「食べ盛りなんだから、沢山食べてちょうだい。それに、もう機会がないだなんて勿体無いこと言わないで」
「あ、いや……食べたい気持ちは山々なんですけど」
なはは、と困ったように言葉を濁す。何か事情があるのだろうか。まぁ、何はともあれ、こんな良い子が遠慮する必要は何処にもない。
「ライムントくん」
「はい?」
「いつでもお店にいらっしゃい。歓迎するわ」
ふわりと三つ編みを揺らして、クランベリーのように優美な笑みを送る。クラウンベリーからの招待状に、ライムントはわぁと歓喜を溢れさせては、アホ毛をぴょこぴょこと動かした。
「カロン」
爽やかで落ち着いた声がカロンを呼ぶ。コツンと彼の音色が聞こえて、カロンは目線を移した。
「まぁ……! レドナー、その髪……!」
彼の肩にまで伸びていたセミロングが、すっきりとしたボブヘアに変わっていた。後ろには大きなロイヤルブルーのリボンが飾られている。そのリボンは、先程店で購入した品のようだ。慣れないといった風に、レドナーは髪をくるくると弄った。背後には、鋏を持ってどばっと涙を垂れ流しながら、レドナーを拝むノエルが立っている。
「……どう、だろう。俺には、不釣り合いだったかもしれない」
「そんなことあるわけないじゃない! とっても素敵、レドナーにピッタリよ」
不安そうに問うレドナーに、カロンは彼の心配を挽回するようまっすぐな感想を述べる。カロンの嘘偽りない言葉を貰うと、レドナーはくすりと口角を上げた。
「お前のおかげで、あの子を……大事な人を思い出せたんだ」
俺と出会ってくれてありがとう。
左手の薬指に新しく宿された宝石が煌めく。ささやかな声色で、レドナーは目一杯の感謝を伝えた。彼の気持ちを全面に受け取るように、カロンははつらつな笑顔を返す。
「レドナー、何か飲み物はいかがかしら? 一応お酒もあるけれど……」
「酒は飲めないんだ。歳は無駄に重ねたが……体はチビのままで、耐性がまるでない」
「あら、なるほど……なら、葡萄ジュースでお酒気分にしましょう!」
「あぁ、頂くよ」
ワイングラスを片手に持って上品に嗜むレドナーの仕草には、うっかり見惚れてしまう。どこからどう見ても少年なのに、やっぱり大人びた風格がある。今の容姿ですらこんなに艶めいているのだから、もし彼が大人だったのなら立派な色男になっていたかもしれない。カロンは空想で描いた大人レドナーに想いを馳せる。あれま、これはこれは格好良い。結構好みかも、とカロンは心を躍らせた。
「あ! レドナー、あの子を呼んでくるわ。ちょっと待ってて!」
「あぁ」
「お待たせー!」
「早いな」
かけっこでカロンに勝てる者はいるのだろうか。自分なら無理な気がする、とレドナーは敗北を認める。全力ダッシュで戻ってきたカロンは、一人の少年を連れてきた。急に連れ出されたであろう少年は、額に汗を浮かべながらきょろきょろしている。
「この子がレイよ!」
「そうか。俺はレドナーだ」
「あ、どうも……レイです」
レイは状況を飲み込めず、曖昧に自己紹介をした。せっかくスイーツを食べようとしていたのに、カロンに引っ張られておあずけとなったため、ほんの少しご機嫌斜めだ。
「レイ。家に帰るのは嫌か?」
「……なんでそんなこと聞くんですか」
むすっと怪訝そうに反問する。警戒するみたいに睨むレイに、レドナーは冷静な面持ちで会話を続けた。
「お前の事情は詳しく知らないし、聞き出すつもりもないよ。だが……いざというときに、逃げる場がないのは苦しいはずだ」
レイの心に過度に触れないよう、けれども寄り添うように、レドナーは話しかける。ちらりと背後を覗いて、崩れた館を視界の端に映す。
「今はああだが……元は俺たちの家だった。いずれ建て直すつもりだ」
顔をこちらに戻すと、レドナーはレイを見つめて控えめに笑いかけた。
「来たくなったら、いつでもおいで。部屋は空けておく」
パン屋であった家に行き場のない人々を招いたように、レドナーは館の再築後、住居者を探すことにしたらしい。街には戦災孤児も沢山いて、レイみたいに逃げ場を求めている子だって少なくないはずだ。広々とした館で三人暮らし、というのも物寂しいだろう。レドナーはこう見えて、賑やかな方が好きだった。
もう、死の神が住む館なんかじゃない。ここはあたたかな我が家だ。
「……ご飯って、一日何食、ですか」
「三食に決まっているだろう。三時のおやつもあるから、心配無用だ」
「フーン……」
パン耳だけじゃないんだ。
こっそりそう囁いて、二人に見えないよう頬にえくぼを作った。
「寝る前は本でも読み聞かせてやろう。俺は子守唄も歌える」
「一人で寝れますけど……? というか、子供扱いやめてくれる? 君だって子供じゃん」
「ふふ、こう見えてレドナーは立派な大人なの! だからいーっぱい甘えていいのよ!」
「あぁ。もし眠れなかったら、一緒に寝ようか」
「いいですいいですほんと結構なんで」
真剣な眼差しのレドナーに、レイは必死に拒否をアピールする。例え彼が本当に大人だったとしても、風貌が幼すぎる。ほぼ少年としか思えないレドナーにお父さん面されるだなんて、なんだか変な気持ちだ。プライドが許さないとも言う。レイのあからさまな拒絶に、レドナーはちょっぴり残念そうにしている。え、なんで落ち込むの? そんな顔されたら、こっちが悪いみたいじゃん……とレイは段々と居た堪れなくなっていく。
「……俺、童話とか御伽噺とか……好きなんですけど。まぁ、また家から持ってくるので、そのときはその、勝手に読めばいいんじゃないんですか? 知りませんけど……」
気まずそうに二つの瞳を逸らしながら、ぐだぐだと垂れる。じんわりと色づくほっぺたに気がついて、レドナーは愛おしげに瞳を細めると、レイの頭にぽんっと手を乗せてやった。
「素直じゃないな、可愛い奴」
「うわ‼︎ その謎の父親面やめてくれます⁉︎ 許可もなく頭触るなんて心外、最悪‼︎」
うりうりとレイを撫でるレドナーは幸せそうだ。相反してレイは悪態を吐きながらも、照れているのがバレバレである。ツンデレだ、とカロンは心の中で呟いた。
「腹が減ってはいないか? これでも食べるといい」
レドナーは机から適当に選び取ったピザトーストをレイに与える。彼の言う通り、胃袋は寂しい思いをしていたので、渋々齧った。
「…………」
「はは、よかった。口に合ったみたいだ」
「レイってば、結構分かりやすいわよね!」
「う、うるさ……」
否定してやりたかったのに、焼きたてなおかげで熱いわ、チーズはみょんみょん伸びるわで、レイは咀嚼を止めることが出来ない。保護者みたいな視線で己を見守る二人が腹立たしかった。
でも初めて、耳だけじゃない食パンを食べた。トーストされているけれど、ふわふわしていて、仄かに甘い。あんなに不味かったパン耳も、不思議と頬張ってしまう。
知らなかったのに、知ってしまった。誰かの愛情が込められたご飯が、こんなにも美味しいだなんて。あぁもう、知るんじゃなかった。だって、幸福の味を噛み締めてしまった今、降りかかる不幸に耐えられる気がしないんだ。こうなってしまうのが怖くて、可哀想な自分を可愛がっていたというのに、こんなのあんまりじゃないか。駄目だって理解してるのに、夢中で食べてしまう。空いた腹が満たされていくのが、嬉しくて仕方がなかった。
「……パンは逃げたりしないわ。ゆっくり食べて」
「分かんないじゃん。逃げちゃうかもじゃん……」
「大丈夫だ。そのパンには、俺の魔法がかかっているんだ。お前の腹が、美味しさではち切れるように、と」
「死ぬって……勘弁してよ……」
声を震わせるレイの背中を、カロンとレドナーは優しく摩る。二人の手のひらが嫌なくらいにあったかくて、ずっとそこにいて欲しいと思った。
◆◆◆
「うんまぁ〜! 甘くて酸っぱくてサクサクで、さいっこう……」
「アンリーさん、下手な食レポどうも。んーおいしー」
「ほーら、テオぴも食べようよ! あーんしてあげる!」
「もう五切れ食べちゃったからいいかなって」
「五切れ……?」
「五切れ……?」
「同じ反応するのやめてよ」
双子のように行動を揃えるソソとアンリーに、テオフィールは思わずツッコミを入れる。自分が大食漢なことくらい知っているくせに、毎度今知りました……みたいな反応を取る二人にほとほと呆れる。よく飽きないものだ。
「ジョジュアさんも来て欲しかったねぇ。チェリーパイを届けるだけだなんて……正直かっこよ〜い!」
アンリーはぱくっと、ジョジュアお手製チェリーパイを放り込む。プロか、美味しすぎる。
「ジョジュアさんは仕事が恋人みたいなもんだし。逆に休んでるとこ見たことない」
「それそれ~! 今も仕事してるのかなぁ……」
ほわほわと本部で書類をまとめている上司を思い浮かべる。想像の中でも、彼は美しい笑顔を輝かせていた。ジョジュアはアンリーたちに向けて、上品に手を振っている。あれ、なんかこのジョジュアさん、自我持ってない? どゆこと? 怖いんですけど⁉︎ 勝手に怯えるアンリーの隣で、ソソは小さく手を振り返す。本日も大変麗しゅうございますな。
「今日はジョジュアさんも休みって言ってたけど」
「あれぇそうなんだ⁉︎ 珍しい〜でも良かったぁ。過労死してほしくないもんね」
「ジョジュアさんって死ぬのかな。なんかイメージないや」
「ジョジュアさんのこと何だと思ってるの……」
無敵? と適当にパイを咀嚼するソソに、テオフィールはツッコむのを諦めた。いやまぁ、そう言われれば納得はしてしまうけれども。
「久々にロミッツさんと会う約束してるらしいよ」
「そうなんだぁ! ロミちゃん先生嬉しいだろうな〜良かったねぇ〜」
「ロミッツさん、ガミガミキレつつも、ジョジュアさんのこと大好きだし」
「はは、確かに……ルスチェナさんも元気にしてるといいな」
「ね〜! また会いたいなぁ〜」
「指が無事なことを祈る。主にロミッツさんが」
三人は切り株に座りながら、かつての先輩をダシにしてくだらない話を広げた。
「そろそろ夕方かぁ〜」
そうアンリーが呟いて、テオフィールは空を見つめる。澄んだ青はすっかり橙に色を変えて、身に染み込むような熱を帯びていた。
「おれ、お腹ぺこりんちょだよ〜食事制限しないとなのに〜」
「なんで? 好きなだけ食べたらいいじゃん」
「リバウンドしたら即解雇になっちゃうでしょうが! おれまだソソくんたちと一緒にいたいよう!」
「俺はどんなアンタでも好きだけど」
「え……どきっ……この高鳴りって……もしかして、恋……?」
「病院へレッツラゴー」
「ロミちゃん先生〜っ! 純情乙女のアンリーをどうか助けてっ!」
きゃあ〜っ! と煩うアンリーに、テオフィールは苦笑いを零した。間違いなく殺されるぞ、ロミッツに。彼の苦労は、いつまで経っても絶えないみたいだ。それが自分に回ってこなくてよかった、と安堵する。すみません、ロミちゃん先生。なんちゃって。
「そろそろ夜ご飯も出来るだろうし、ナーさんのところに行こっか」
「うん」
「テオぴはどうする〜?」
「私は……もう少し、此処にいようかな」
「おっけ〜い! 待ってるよぉ」
後でね、と元気よく手を振るアンリーに腕を組まれながら、ソソは引っ張られていく。マブダチたちに暫しの別れを告げて、テオフィールは気が抜けたように背伸びをする。
というか、ナーさんってまさかレドナーのことだろうか。あの彼にあだ名をつけるだなんて、流石はアンリー。恐るべきコミュニケーション能力だ。なんやかんや、レドナーも気に留めていなさそうではあるのだが。テオフィールが思っているより、レドナーは寛容で子供がとびきり好きだ。ロミッツと比べれば、彼の短気さも薄れることだろう。
「テーオっ!」
「ひゃい!!!」
油断しきっていたテオフィールに、ひょこっと桃色が上から覗く。肩を跳ね飛ばして可笑しな返事をしたテオフィールに、カロンはふふっと微笑する。今すぐ土に埋まって消えたい。テオフィールは切に願った。
「お隣、失礼してもいいかしら?」
「ははははいどうぞ」
やった、と声を弾ませると、空いた木株にワンピースの裾を押さえながら腰を下ろす。その一つ一つの動作が、こう、なんと言うか。包み隠さずに言ってしまえば、凄く可愛らしかった。すぐそばに、カロンがいる。テオフィールは居ても立っても居られなくて、もじもじと体を縮こませた。
「わぁ……綺麗な夕焼けね」
遥か先で落ちていく陽の光に、カロンは感嘆を漏らす。彼女に釣られて、目線を動かした。
かつて自分を閉じ込めていた、恐ろしいオレンジ色。けれど、今はもう違う。テオフィールは、この色の温もりを教えてもらった。宝石のように眩い瞳を持つ、隣の少女に。
「……こんなにこの景色が美しかっただなんて、知らないままだったかも」
丸く微笑む太陽に、テオフィールも微笑みを返す。
「貴方が私と……そして僕と、一緒にあの帰り道を歩いてくれたおかげだよ」
ありがとう。
ちょっぴり照れ臭そうに、テオフィールは幼気な表情を綻ばせる。彼の子供らしい笑顔が、カロンは好きだった。
「……はっ! す、すみません! つい、敬語が抜けていましたね……」
あわわ、と焦って口元を手で押さえる。この夕焼けを目の前にすると、どうも感覚が幼くなってしまう。それに加えて、カロンが相手だと尚更だった。
「全然! むしろ嬉しいわ、もっとテオと仲良くなりたいもの。せっかくだし、私のこともカロンって、呼び捨てで呼んでちょうだい!」
「えええええ⁉︎ そ、それは少し、ハードルが高いって言いますか……」
「あら、無茶を言ってしまったかしら……?」
「無茶じゃないです喜んで!!!」
反射的に肯定を叫ぶ。しまった、やらかした、とテオフィールは頭を抱える。だって、ずるいじゃないか。そんな丸くてきらきらの目で訴えかけられたら、誰だってはいと答えるしかないに決まってる。ちなみにこれはテオフィールの完全な自論であり、対クラウンベリーなら容赦なく跳ね除けているのだが。
うぅ、と頭を押さえる。いつもなら帽子を深く被れば、表情を上手く伏せられるのに。待ち侘びるみたいに、ワクワクと体を揺らす彼女を見て、テオフィールはどうにでもなれ、と深く瞼を瞑った。
「カ、カ、カロン……」
「‼︎ えぇ、えぇ‼︎」
ぱん! と両手を合わせて、カロンは喜悦で満ちた笑みをテオフィールに向けた。その笑顔を喰らった瞬間、テオフィールの心臓は矢に撃ち抜かれたように、ドッと鼓動を響かせる。そしてもうお分かりの通り、あの音も鳴った。
きゅーーーん!
「うるっさいな!!! 静かにしろよ!!!」
顔面を真っ赤にしながら、骨が折れるんじゃないかという力で胸を叩きつける。一体なんなんだこのIQの低そうな音は。苛立ちをどすどすと己にぶつける。
「そんな! 酷いわテオ、鳥さんの可愛らしい声なのに」
「えっあっち、違うんだ……! 鳥じゃなくて自分自身にっていうか……!」
墓穴を掘るとはこのことか。悲しそうに鳥を想うカロンに、テオフィールは死に物狂いで言い訳をする。彼女に嫌われたくない。その一心で、テオフィールは精一杯だった。一人で慌ただしく動き回るテオフィールに、カロンはころりと笑う。
「私、動物の中だと鳥が一番好きなの」
カロンは手のひらに息を吹く。するとそこには、彼女の魔法によって青い鳥が生まれた。慈しむよう包んで、カロンは人刺し指でその子を撫でる。
「この子みたいな青い鳥、あとは……」
――ツバメ。
小さく、唇を動かした。はっとして、テオフィールは彼女を見つめる。まるで最愛の人に囁くみたいな声色だった。カロンはどこか切なげに、何かを探すみたいに天を仰ぐ。
「……カロンに、謝らないといけないことがある」
「? 改まってどうしたの?」
テオフィールは肩身が狭そうに、幸福で彩られた小鳥を視界に入れた。
「前に、クラウンベリーさんへの手紙を、その子に頼んだでしょ?」
「えぇ……」
「……届いてなかったんだよ、手紙」
片手で頭を押さえながら、テオフィールは消え入りそうな声で告げる。
「私はその子を、矢で殺した。自分の計画に邪魔が入らないように」
あの日の晩、カロンが鳥に伝達を頼むところを見かけた。レドナーが喰らうための魂はあればあるほど困らないが、これ以上増えてしまっては計画が妨害されるというのも、万が一あり得た。だからテオフィールは、悩む余地もなく小鳥を矢で貫いたのだ。彼女の気持ちも知らないで。
「貴方にとって大切な存在であったその子を、私は我欲に振り回されて殺した」
たかが魔法。本物のように生きているわけでもない。何度でも作り直せる。でも、純粋な少女の愛が籠った、そんな魔法だった。
「ごめんなさい。どうか私を、許さないで」
切り株から降りて、地に片膝をつけると、深く深く頭を下げた。
嫌われたくないだなんて、馬鹿みたい。そもそも、嫌われるようなことしかしていないくせに。誰にどう思われたって、どうでもよかったんだ。全員を馬鹿だと見下して、興味なんてこれっぽっちもなかった。そんな、投げやりな人生。
失望されたくない。見捨てられたくない。でも、許さないで欲しい。矛盾した感情が混ざり合っていた。
「……いいえ」
軽やかな否定だった。やっぱり、そうだよな。こんな自分を、嫌いにならないほうがおかしいのだから。松葉色の髪を傾けて、顔を隠した。
「許しちゃう!」
「ほえ」
むに、とカロンの両手で頬を持ち上げられる。小鳥はぱっと消えていった。
「わざわざ言わなくてもよかったことを、私の為に教えてくれたのでしょう?」
「貴方の為だなんて……自分の為だよ、きっと」
「それも大切なのよ。相手のことも、自分のことも想える。そんな貴方は……」
とっても優しい。
ガラスのように繊細な青年の、春の日向みたいにぽかぽかしているほっぺたを、丸ごと包み込む。カロンはテオフィールの額に自分の額もくっつけると、近距離でにぱっと笑顔を咲き誇らせた。
「そんなテオが大好き! だから、自分を嫌って、一人になろうとなんてしないで。私はずっと、貴方のそばにいるわ」
清白なサファイアが、赤い果実だけを照らす。その輝きは、青年にとっての一筋の光だった。魔法から生まれたみたいに無垢な少女は、閑やかに微笑んでいる。彼女の空色に心を掴まれて、瞳を逸らせない。残陽に照らされながら、二人はただ見つめ合った。
「ウワーッ!!! だ、誰かーッ!!!」
阿保っぽい悲鳴が耳を劈いた。先に目線を変えたカロンは、叫び声の主を見るとあらっと目をぱちくりさせる。疑問に思って、テオフィールもそちらを向いた。
「おい、目を開けろよアホ毛頭!」
「ごめんな、ルシアス……オレ、もう……」
「待て待て待て死ぬなァー!!!」
わーん! とルシアスが泣き喚く。魔法使いの膝元で、ライムントはぱたりと意識を失う。彼の口元にはスイーツの食べカスがついていた。あぁなるほど、食べ尽くした挙句、幸せすぎて倒れてしまったのだろう。本気で心配しているルシアスが気の毒である。心配しないで、その人は糖分が好きすぎてちょっとおかしいだけだから。テオフィールはうんざりとため息を出す。馬鹿の茶番劇か。
「ライム、ほら起きて。ルシアスが泣いちゃってるわ」
二人に近寄って、カロンはライムントに呼びかける。だが、多幸感に沈む彼にそれは届かないようだ。もう、とカロンはライムントのアホ毛をちょんと触る。
「フライパン、持ってこようかしら」
「ヒッッッッ」
「あら起きたのね、よかった!」
「は、はい……」
おっかねぇ……と飛び起きたライムントは両腕を摩る。この恐怖、レドナーならきっと分かってくれるはず。この僕に心配をかけさせるなんていい度胸だね! と早口で憤るルシアスにぺこぺこ謝った。よっと身を起こして、食べカスをぺろりと舌で拭う。むすっと気分を損ねているルシアスに手を差し伸べると、鬱陶しそうにその手を握った。
「ライムはもうご実家に帰っちゃうのよね?」
「おう。用済ましたら、明日には帰るつもりだぜ」
「そう……寂しくなっちゃうわね。手紙、いっぱい送るわ!」
ライムントはルシアスたちと違って、シュテルンタウンには住んでおらず、故郷である冬の都へと戻ってしまう。せっかく仲良くなれたけれど、もうお別れだ。毎回返せるかは分かんねぇけど、と手紙を喜ぶライムントに、カロンは早速新しい便箋を買いに行こうと脳内で予定を立てた。
「お前らはこの後どうするんだ?」
「暫くはシュテルンタウンにいるつもり! 師匠の家にお邪魔させてもらうわ」
「僕はいつも通りだよ。天才への道を突き進むだけさ、お分かりかい?」
誇らしげに尋ねるルシアスに、カロンとライムントは見守るように笑う。可愛い末っ子感が否めない。
「テオは?」
「私は……案内人の仕事の幅を、更に広げていきたいなって」
眉を下げて、テオフィールは慎ましく頬を和らげる。
「今は観光客も少なくて、街も活気が失われてるけど……シュテルンタウンの良さを、みんなにもっと知って欲しいんだ。此処は素晴らしい国だから」
遠慮がちに発言するテオフィールであったが、彼の表情からは喜色が滲んでいた。
「ふふっ素敵なアイディアね! 私もシュテルンタウンについて、あとは他の国についても……ううん、この世界のことをもっと知りたいわ」
カロンがそう語ると、ぶわりとそよ風が四人を包んで、何処からか小鳥の鳴き声が聞こえたような気がした。風はカロンの言葉を乗せるように、宙を踊っていく。
「必ずまた集まりましょうね!」
決定事項だと言うように、カロンは嬉々として三人に笑いかける。彼女の満面の笑みに、一同は惹きつけられるように、異なった微笑みを見せた。
「またこっちに来ることになったら連絡するぜ」
「仕方ないね! 君がどうしてもって言うなら、僕が足を運んであげないこともないよ」
「あ、この馬鹿はいいです」
「なんだと!?!?」
憤然として髪をぶわぶわと逆立てるルシアスに、ケッと疎ましそうにするテオフィール、二人の喧嘩を仲裁しようと懸命にアホ毛を動かすライムント。賑やかに戯れる彼らを見て、カロンは愉悦の声をあげた。
「おい、チビたち。夕食の時間だ、さっさとしろ」
「早く早く! ジェシーちゃんのお腹の虫が鳴りまくりだぜ〜?」
仲良しな兄妹に呼ばれて、一斉に元気よく返事を伝える。美味しそうな香りが漂ってきて、四人はうきうきと足早に走っていった。
◆◆◆
紙を捲る心地よい音が、部屋に染み込む。微睡んだ空間で、男は木組みの椅子に腰を掛ける。セットで購入した机の上には、ほかほかと湯気を立てるアップルパイにホットミルクが並んでいた。ふーふーと息を吹きかけて、コップに口をつける。まだ少し熱かったようで、男は口内にじわじわと広がる痛みに、舌先を噛んで紛らわせた。気を取り直してパイを口に入れて、生地の食感を享受する。ぽろぽろと落っこちていく生地に、情けなく笑みを零した。
ふと、男は窓辺を見やる。濃紺の空には、可愛らしく光る星の子が、ひらひらと流れていた。穏やかな波音に耳を傾けると、本に栞を挟む。ゆったりと席を立つと、青いニットコートを床に引き摺らせながら、扉に手を伸ばした。
男を歓迎して、海洋は音色を奏でる。ぽつりと浮かぶ小舟には、船乗りの男がこちらを待っていたように微笑んでいる。本を携える男は、彼に話しかけた。
「こんばんは。呼ばれた気がしたんだけど……」
「正解。暇だから、付き合ってくれるかな」
「あ……うん。僕なんかでいいのなら、喜んで」
船乗りの男の誘いを、男はくすりと綻ぶと快く応諾する。さらさらと宝石みたいな砂浜を、裸の足で進んでいった。
「靴はいいの?」
「うん。僕には、必要のないものだから」
「……そういえばそうだったね」
男の透けた足元を目に映すと、ひっそりと瞳を閉じる。落ちないよう慎重に乗り込む彼に、大丈夫だよ、と言葉をかけてやると、男は恥ずかしそうに眉尻を下げた。
小舟は行く当てもなく、水面を滑らせる。どれだけ渡ったとて、男がこの夜空から出られることはないのだが。此処に閉じ込められている男は、じっくりと本の続きの世界に浸っているようだった。
「それ、何回も読み返しているね」
「ふふ、そうだね。今は丁度、一章を読み終えたところだよ」
分厚い本に注目した船乗りに、男は嬉しそうに答えた。一ページを我が子のように、慈愛の眼差しで見つめては、頭を撫でるように触れる。
「旅の始まりって、胸が躍るようで……昔から大好きなんだ」
ぱたりと本を閉じて、感傷にふける。潮風が男の紺と赤で染まった髪を靡かせた。
「一人一人の選択によって、物語は紡がれる。それは誰かに決められたものなんかじゃない。自分だけが選べるものなんだよ」
男は本をきゅっと胸に抱き締めながら唄う。紺の中に林檎のように美しく実った瞳は、愛と優しさでうんと満ちていた。
「彼らが選んだ結末を、僕は愛してる。君も……だよね、ポントスさん」
安らぐように尋ねられると、ポントスは海を宿した瞳をするりと細める。波が歓喜するみたいに体を動かして、舟を大きく揺らした。わぁっと驚いて姿勢を崩した男を傍観しながら、満足そうに微笑する。その妖麗さは、人間の持つものではない。この世界に広がる大洋こそが、彼そのものだ。
「ガイアが君を気に入る理由が、何となく分かったよ」
「そんなことないと思うけどな……恐れ多い……」
「俺が君を気に入らなければ、今ここで沈めてあげようとしていたけれど」
「え⁉︎ ぶ、物騒なこと言うのやめてよ……」
はわわ……と男は怯えながら冷や汗を滴らせる。発言に冗談など混じっていないので、ポントスはただ彼に向けて笑いかけるだけだ。どうせ沈めたとてこの男には意味がないのだが。母なる海だとか、海のように懐が広いだとかいう言葉が存在するが、間違っても彼を指す表現ではないだろう。男は本で視界をガードしては、ポントスと目が合うのを怖がった。それを面白がられているなんてつゆ知らずに。
「あ……着いちゃったね」
小舟は自然と進みを遅くしていき、男の家の前に止まった。ほとんど脅されただけなのに、男は残念そうに別れを惜しむ。こういうところが、この男らしかった。よっこいしょ、と舟から身を降ろして、男は遍く星空をあどけない顔色で仰いだ。
「……あの子に会えることが、待ち遠しい?」
男の大きな後ろ姿に、質問を投げる。それを聞くと、男はふわりと振り向いた。長い幸福色のニットコートが、鳥の翼のように羽ばたく。男の小さな唇が、静かにほどけた。
「うん、とっても」
そう返した男は、誰よりも幸せそうに微笑んだ。
「僕はずっと待ってる。この家に、あの子が帰ってくるのを」
首元にかけられたペンダントを、愛おしげに手に取った。そこに飾られた尊いサファイアは、男の大好きで堪らない色だ。再び夜の空に目線を注ぐと、長い前髪がさらりと垂れ下がる。純粋無垢に輝く星々に、男は細い手を差し伸べた。
「僕の大切な星の子たち。この物語は、君たちの選んだかけがえのない幸福だ。だから、歩むことを恐れないで。自分という存在を、どうか認めてあげて」
男は、最愛に柔らかく語りかけた。一つ、星のような瞬きをすると、ペンダントを胸元で握る。宝石にそっと、羽のように軽やかな口付けを与えた。
「僕は君たちを、この世界で一番に愛してる」
ツバメの鳴き声が、祈りのように囁いた。
男の願いを抱きしめるみたいに、流れ星はぱちぱちと光を照らして、深い青の海を泳いでいった。