第一章「死神の館」

第十五話『我が家』


 ややひとけのない朝方の中央広場噴水前にて。テオフィールは隣に居座る人物を横目で見ると、何もなかったかのように手元の地図へと目線をずらした。

「もう少し遅れて来るべきでしたね」
「奇遇だね、僕もそう思っていたところさ」

 イライラと貧乏ゆすりをしながら、ルシアスはげんなりと、テオフィールの嫌味に同じよう返した。

 集合時間は九時。そして現在時刻はその十五分前。二人の几帳面さが不運にも合わさってしまったようだった。ルシアスはサロペットの紐を退屈そうに伸ばしては、ポニーテールをふわふわと揺らす。大して着飾ることもなくシンプルな着こなしのテオフィールと違って、ルシアスは洒落た服装を見せた。テオフィールの私服は一見地味にも感じられるが、彼の美麗な容姿に加わればそれも洗練されたものに変化する。これだから美人は、とルシアスはじとっとテオフィールを睨んだ。

「ルシアス、テオー! お待たせー!」

 少し遠くから声がよく通って、パタパタと足音を弾ませる桃色が視界に映った。少女は全速力でこちらに走ってくると、朝一番の太陽みたいににっかりと笑みを輝かせる。

「やっと来たかい。もう帰ろうかと悩んでいたよ」
「ごめんなさい、準備をしていたら遅れちゃって」

 ふん、とそっぽを向くルシアスに、カロンはにこやかに謝っている。ぱやぱやと頭上に花を咲かせる彼女に、ルシアスは呆れたように肩を竦めた。

「? テオ、固まっちゃってどうしたの?」

 おーいと手を振るカロンから、テオフィールはじっと目が離せなかった。
 彼女のアイデンティティでもある二つ結びは解かれてゆるくカーブを描いており、柔らかな白のワンピースを翻すと、微かに春の香りが流れてきた。普段の雰囲気とは打って変わった装いのカロンを見て、テオフィールは地図を落とすとただただ立ち竦んだ。開いた口は塞がらず、無性に汗がダラダラと落ちていく。ぱちぱちとまあるい瞳を瞬かせるカロンを見ながら、彼からはこんな音が鳴り響いた。

 きゅーん

「きゅーん?」
「え⁉︎ だっあっちっ違うんです‼︎ ほら、あそこの鳥の鳴き声かと‼︎」

 ぼっと顔を林檎のように染め上げて、テオフィールはあたふたとそこら辺にいた小鳥に指をさす。可愛い鳴き声ね! と笑うカロンに、ルシアスは疑問符を浮かべてテオフィールを見ていた。未だ鳴り止まない鼓動に、テオフィールは胸をぎゅっと押さえつけながら、カロンにちらりと目線を投げる。やけに彼女が眩しく見えて、う……と瞳を重たくさせた。

「おーもう三人も揃ってたか。まだ十分前だぜ?」

 相も変わらず飴玉を口に挟みながら、ライムントがやってくる。なんだかよく分からないが助かった、とテオフィールはガッツポーズをして、落ちた地図を拾う。ライムントは三人に準備周到だな、と笑いながらアホ毛を動かした。

「へぇ、二人の服良いな。オレ好きかも。なんか新鮮っつーか、すげー似合ってる」
「あら本当? 師匠が選んでくれたのよ!」
「まぁね! 僕のセンスはナンバーワンさ!」

 ドヤ顔を見せつけるルシアスに、スカートの裾を持ち上げて、くるくると回るカロンは喜びを伝える。最初は違う服で出かけようとしていたが、カロンのファッションセンスははっきり言ってイマイチである。クラウンベリーはそれをよーく理解していたので、彼女が外出する前にとっ捕まえてコーディネートを考えてくれたのだ。その結果、カロンの着こなしはばっちりと決まっており、ライムントもさらっと褒め言葉を贈る。
 特に他意もなく褒めるライムントに、テオフィールは目を疑った。なんてナチュラルで爽やかな男なんだ。いや、テオフィールにだって、街中の女の子が欲しい言葉は手に取るように分かる。けれど、カロンを相手にすると何故か上手く言葉が出ないのだ。もごもごして頭を抱えるテオフィールに、ルシアスは奇妙なものを見るみたいな視線を向けた。

「パーティーは十三時からだったよな?」
「えぇ!」

 今日はカロンの歓迎会が開かれる。支度をするからと半ば強制的にクラウンベリーから追い出されたカロンは、それまでの間に街で遊ぼうと皆を誘ったのだ。

「残りはあのお二人ですかね……」
「ねーえーっやっぱり帰らない⁉︎ お家帰ろうよ、ねっ⁇」

 テオフィールがそう言うのも束の間、慌ただしく説得する声が四人に届いた。

「ここまで来たのに何を言っているんだ。あと家は潰れただろう」
「誰が潰したんだっけ〜‼︎ よ〜く思い出してくれるかなぁ‼︎」

 ぐぎぎ、と踏ん張るジェシーを引っ張るレドナーが、カツンとハイヒールを鳴らしてこちらに歩む。ジェシーとお揃いの上質な白のブラウスを纏うレドナーは、いつ見ても品に溢れた身のこなしだ。

「すまない、待たせたか。こいつがなかなか出ようとしなかったんだ」
「全然大丈夫よ。来てくれて良かった!」

 申し訳なさそうに眉を下げるレドナーに、カロンは気にする素振りもなく笑いかける。その一方で、ジェシーはフードのついた上着を深く被っては、きょろきょろと周りを見渡した。

「そんなにビビってどうしたんだよ?」
「だ、だってさぁ……死神が街なんかにいたら大騒ぎでしょ? やっぱり来るんじゃなかった〜……」

 彼女にしては珍しく弱気なようだった。尖った耳が見えないようにと気を配るジェシーに、ライムントはポッケから何かを一つ取り出す。

「ん」
「わっ!」

 ひょいっと投げられたものを、ジェシーは落ちないようキャッチする。手を開けると、そこには葡萄味の飴玉があった。

「今どき死神なんて知ってるヤツの方が少ねぇよ。だからそう暗い顔すんなって。あ、その味の飴は特別だからな」

 さっさと元気出せよと言って、ライムントはジェシーをふんわりと励ます。ジェシーは紫色の飴を目に入れると、ほっと緊張をほぐすように頬を緩めた。ほんの少しフードをあげて、からんと葡萄を口に含むと、先を歩く皆を追いかけて行った。


「じゃーん! どう?」
「よく似合っている」
「んじゃこっちは〜?」
「良いと思う」
「ならこれでどうよ!」
「あぁ、可愛いよ」

 洋服店にて、ジェシーはレドナーにファッションショーをお披露目している。店主に耳について指摘されたが、付け耳だとレドナーが適当に返せば難なく済む話であった。案外誰も気にしないのかも、と気づいたジェシーは早速はっちゃけては兄を付き合わせている最中だ。

「ていうか、同じような感想しか言わないじゃん。妹はもっと具体性を求めてるんだけどな〜?」
「お前はなんでも似合うから、それ以上言うことがない」

 真顔で淡々と述べるレドナーに、ジェシーはあんぐりと表情を浮かべた。すそそ……と兄から逃げるように試着室のカーテンに身を潜める。

「お兄ちゃんってこう……もっと口下手じゃなかったっけ?」

 返事は大抵相槌のみ。五文字以上でも会話が返ってきたら奇跡。そんな彼が、今日は異様に素直というか、よく話すなぁと思った。ジェシーはもじもじしながらレドナーに問う。兄は少々思考を巡らせてから、口を動かした。

「シーニャに、俺は素直で直球すぎると怒られた。だからなるべく黙ったほうが良いかと思っていたんだが……」

 やっぱり、俺には向いていなさそうだな。

 吹っ切れたように呟く。彼の表情は、どこか晴れやかだった。足を組んで座っていた姿勢から立ち上がって、隣に山積みに置かれた衣服をごっそりと抱える。

「服なんて幾らあっても困らないだろう。この店のもの全て貰っていこう」
「いやいや何言ってんの⁉︎ 金銭感覚馬鹿じゃん⁉︎」
「長らく使っていなかったから、有り余っているんだ。ほら、会計するぞ」
「ちょっとやめてくれる⁉︎ もうっ‼︎ 出てって‼︎」

 げしっと背中を足で押しながら、ジェシーはレドナーを外へと追い出す。

「ライムントくん! お兄ちゃんの代わりに選ぶの手伝って! ついでにきみの見窄らしい服ともおさらばしてあげるから!」
「んぁ⁉︎ おい待て今から限定チュロスを……」
「い! い! か! ら!」

 ライムントの必死な訴えは届かず、ジェシーにずるずると引っ張られていく。扉を閉めようとしたジェシーに、レドナーは一言声をかけた。

「ジェシー、すまないがこれも一緒に買っておいてくれ」

 そっと何かを渡すと、ジェシーは少し驚いたように息を漏らす。小さく微笑むレドナーに頷くと、交換するみたいにライムントのチュロスを渡して扉を閉じた。僅かに聞こえたライムントの嘆き声を、レドナーはチュロスのサクッとした咀嚼音で掻き消す。あ、美味しい。

「うーん……何を買うか悩みどころだな」

 チュロスを頬張りながら、ルシアスは財布と見つめ合う。金が足りない、というわけでもないが、しっかりと見定めて買いたい。魔導書など、修行に必要な品はたんまりとある。だが、一気に手にしたとて、今の未熟な自分には宝の持ち腐れだろう。身の丈にあったものを、必要な分のみ購入するのが賢明だと知っている。欲しいものなんて挙げ出したらキリがないのだから、自分で抑制しなければ。

「チビ、何が欲しいんだ」
「だっっっれがチビだって⁉︎」
「お前だ」

 すっかり食べ終えたチュロスの袋を綺麗に折りたたみながら、レドナーはルシアスのそばに寄る。ぷんすかと腹を立てるルシアスに、レドナーはそのままの言葉を告げた。
 君だってヒールで盛ってるだろ、とでも言ってやりたかったが、彼にそこまで口を叩く度胸がルシアスにはなかった。見た目だけなら恐らくルシアスの方が歳上なのだが、目の前の少年はうん百年と生きた死神だ。彼は多分、というか凄く優しいが、なんとなく圧がある。ぐぬ、と言い淀むルシアスの内心なんてレドナーは知らない。

「欲しいものがあるなら言え。何でも買ってやる」
「はぁ? いきなりどうしたんだい……」
「金が思いの外余った」
「自分に使えよ……」

 意味不明、とルシアスはうんざりしながら、レドナーとの会話に難航する。不貞腐れた態度のルシアスを見ると、レドナーは静かに瞳を細めた。

「うおあ⁉︎ おいっやめろよ‼︎」

 癖のついたルシアスの頭を、レドナーは撫でてやる。大声をあげて反抗するルシアスに、レドナーは子供を可愛がるよう手を動かす。二人の絡みを見て、テオフィールはぼそっと一言零した。

「……反抗期の孫とお爺ちゃん、みたいですね」
「ふふっ本当ね! 微笑ましいわ」
「らしいぞ。ならお前には色々買ってやるべきだな、ほらおいで」
「ワー!!! 離せー!!!」

 軽々とルシアスを小脇に抱えて、レドナーはどこか楽しそうに足を進めていった。段々と遠のくルシアスの叫び声に、テオフィールはざまぁないと心の中で嘲笑う。バレないように営業スマイルを貼り付けて、行ってらっしゃいと手を振ってやった。

「まぁ、すっかり二人っきりになっちゃったわね」

 六人いたというのに、いつの間にか二人だった。自由奔放な奴ばかりだな……とテオフィールは苦笑する。カロンが発した「二人きり」というワードをさらっと流していたテオフィールであった。が。じわじわと現状を理解していく。
 ガツンと、殴られたみたいな衝撃で頭が真っ白に染まった。硬直した体からはまたしても汗が垂れて、小刻みな震えが止まらない。ついさっき見放したルシアスに、今更ながら帰って来いだなんて思うほど、テオフィールは反省していた。
 二人きり? 自分と、カロンが? おかしい、六人いただろ! どいつもこいつも結っっ局馬鹿ばっかり! とテオフィールは脳内で理不尽な文句を繰り広げる。

「あ、あ、あの……っ私とじゃ、楽しむものも楽しめない、と思うので……他の方を! 連れてきましょう……!」

 ばっと悩ませていた頭を上げて、テオフィールは息をつく間もなくカロンに伝えると、洋服店の扉に手をかけようとした。だが、カロンはテオフィールを引き止めるよう手を掴む。心臓が飛び出そうになって、つい変な声が出てしまったテオフィールだったが、そんな彼にカロンは明るく破顔した。

「せっかくだし、ちょっと二人っきりで遊ばない?」
「え……ええぇっー⁉︎」
「テオのお仕事もオフだし……今日は案内人としてじゃなくて、プライベートとして思いっきり羽を伸ばしましょう!」
「あっえぇっいやあのそのえっと……ってうわっ!」

 カロンの提案に、いつもの飄々フェイスも崩れて、テオフィールは狼狽を露わにする。カロンはテオフィールの返答も待たずに、ぐいっと手を強く引く。驚く彼の林檎みたいな瞳が可愛らしくて、街中に陽気な足音を二人分響かせた。


◆◆◆

 
 朝から混み合う待合室で、ソソは本棚から適当に選んだ本を読みながら、隣にちょこんと座るノエルと順番を待っていた。いつものメイド服とは印象が異なって、彼女の私服はパンツスタイルとスマートだ。
 もう何度も目を通した本をぱらぱらと流すように捲るソソとは違って、ノエルはじっくりと内容を読み込んでいる。ノエルはページを進めるごとに、ぱっと嬉しそうに綻んだり、うるうると悲しそうに瞳を潤わせたりと、表情を見ているだけでどんな展開なのか予想がつく。読書をするより彼女を観察している方が面白い。だなんて思っていたら、受付の人に名前を呼ばれて、二人は席を立った。

「すみません、お手を煩わせてしまって」
「いや、ついでなんで別に煩ってないっす。俺は銃の修理に関しては分かんないですけど、あの人ならすぐに直してくれると思うんで」

 木製の床を足の裏で踏みしめながら、係の人に案内された道を辿る。窓から差し込む陽の光に目を細めながら、二人は「診察室」と看板の下げられた扉の前に立ち止まると、コンコンと分かりやすい音でノックをした。けれども、それに答える声が返ってこない。首を傾げるノエルだったが、ソソはさっさと用事を済ませたいのか躊躇なくドアを開けた。

「失礼しまー……」
「センセイってばなんてカッコイイの! 今日もアタシの、ファーリンの愛の籠った花束を受け取ってくれるっ? 溢れ出るこの気持ちは抑えられないの! ねぇ、結婚式はいつにしましょうか! ハネムーンが待ち遠しいわ!」
「だーっっ!!! やめろウザい帰れストーカー女ー!!!」
「あ、お邪魔しました」

 ガチャリと無情にも扉を閉める。花束を抱えた女性に馬乗りで押し倒される男がいた。いけないものを見てしまった気がする。隣の純粋な少女に見えていなかったことがこれ幸いだ。ソソは別日にしましょうと謝って、そそくさに帰ろうとした。

「おいコラテメー何帰ろうとしてんだ」
「え、流石にあれは教育に悪いでしょ」

 ぜぇぜぇと息を切らしながら扉にしがみつく男は、ソソの潔い帰宅を立腹しながら止める。男の腰に絡みついてメロメロと好意を隠さないファーリンは、ソソたちを見ると瞳を丸くさせた。

「患者さんがいらっしゃってたのね、お邪魔してごめんなさい。それじゃあセンセイ、また明日! ウォーアイニー!」

 花柄の刺繍の施された青緑のチャイナドレスをひらひらと華やがせて、ファーリンは駆け足で去っていく。その元気な後ろ姿を眺めながら、センセイと呼ばれた男は大きなため息を吐いた。ギロリと人相の悪い目つきで二人を睨むと、顎をクイッと動かす。部屋に入れ、ということだろうか。おどおどするノエルは、面倒臭そうに欠伸をするソソの後に続いていった。


 くるくると椅子を回しながら、男の綺麗に染まった白い髪が揺れる。机はカルテなどの資料で散らかっており、ファーリンから押し付けられていた花束は、ご丁寧に花瓶へと飾られていた。男は無意識に歯軋りを鳴らして、ソソに目線を投げる。

「定期健診だけはサボるなって言ったよな? お前が前回来たのいつだったか覚えてるか?」
「びっくりするほど記憶にないって正直に言えば怒んなかったりする?」
「半年前だボケ!! 何度も手紙送ったのに無視しやがって‼︎ 律儀に来てるアンリーを見習え!! チェナがいねぇから俺が見てやんないといけないんだよ!!」
「どっちにせよ怒ってたっぽいな。すみません、ロミッツさん。でもあれは手紙というより脅迫状だったから」

 大きな文字で「来い」とだけ記された手紙が何通届いたかだなんて数えていない。それを見る度に、アンリーが怖がって泣きついてきたのは面白かったので、さほど気にしてもいなかったが。

「はぁー……で、そっちのは」

 診察簿をノエルに向けて、ロミッツは要件を尋ねる。ノエルは慌てた様子でカバンから荷物を取り出した。

「いきなり申し訳ございません。ソソくんからロミッツ先生のことをお聞きしまして……」
「ロミッツさん、銃の修理とか得意だったよね? 彼女の銃が壊れちゃったみたいで。頼める?」

 ソソはノエルから袋を預かると、そのままロミッツに手渡す。

「銃って……んな物騒なモン子供が持ち歩くなよ」
「あっえっと……」

 訝しげな表情を深めるロミッツに、ノエルはブンブンと手を振って弁解を始める。

「これは僕のお守りで……ロミッツ先生が懸念されるようなことには使用していません」

 控えめに微笑むノエルをよそに、ロミッツは袋の中身を確認した。本物の銃を握ったのはいつぶりだったろうかと、注意深く隅々まで観察する。

「……!」

 はっとして、ロミッツは銃の一部をまじまじと凝視していた。

「おい、これはお前のモン……じゃねぇよな? 誰から貰った?」
「は、はい。昔に軍人の方から……その方は、僕の命の恩人なんです」
「……そう」

 胸ポケットにぶら下がる眼鏡をかけて、再度それを見ると確信を得たように頷く。ロミッツは立ち上がると、カルテで埋まった机から何かを探していた。彼の焦りをぶつけてられて椅子はくるりと回転している。

「修理には数週間かかる。だが……もしお前が良いなら、もう少し時間をくれねぇか」
「……? 分かりました、大丈夫ですよ」

 封筒を発見すると、ロミッツは便箋にボールペンを走らせながら、ノエルにそう求めた。彼の誠実な申し出に、ノエルは不思議に思いながらも了承する。さんきゅ、と手短に感謝を告げるロミッツは、手紙を素早く認めると白衣のポケットに突っ込んだ。


「どしたの」

 ノエルが去った部屋で、ソソはロミッツに問いかける。彼は常に、主に他人のせいで騒がしい男だが、あのような対応を曝け出すのはそうないことだった。

「なんもねぇよ」

 無愛想に弾き飛ばすのは、いつもの彼らしかった。まぁいいか、と深入りしないソソは、気怠げに黒のニーハイを下ろす。ロミッツはソソの前にしゃがむと、義足を器用に動かして、不備がないかと細かく調べているようだった。

「あの子、お前のガールフレンド? ソソが女連れてくるなんてな」

 ソソの脚に触りながら、少し浮ついた声色で話しかけた。
 ソソは頗る女嫌いを拗らせている。仕事柄故に言い寄られることが多いのが一つ。そしてもう一つは、自分の顔にそっくりな兄もまた、随分女性から熱烈なアプローチを受けていたようで。彼は兄に滅法懐いていたから、そんな兄に迷惑をかける存在でしかなかった女を嫌いになるのもまぁ仕方がないだろう。肝心の兄はルスチェナにゾッコンだったのだが。

「……」
「……え?」

 返事もなく押し黙るソソに、ロミッツは気の抜けた声が出た。期待していたような彼の悪ノリは顔を出すことなく、診察室には静寂が垂れ込める。

「おま、嘘、お前が? ちょ……出会いは? キッカケは? 告ったのどっち?」

 ぽかんと放心状態だったロミッツは、徐々に意識を取り戻すと、興奮気味に質問を大量に放った。だって、あのソソに彼女が出来ただなんて、誰が予想出来ただろうか。この嬉しさは兄心に近しいものだった。疲労の滲んだ顔面を煌めかせるロミッツに、ソソは鬱陶しさを隠すことなく眉を顰める。

「そんなんじゃない」
「じゃ片想いかぁ? どこに惚れた?」
「……特別な理由とかもないよ」

 長いまつ毛を伏せて、ソソは素っ気なく零す。

「しんどいときに、まぁそばにいてくれたっていうか。それで話してるうちに、なんかいいなって思うところがいっぱい見つかって。本当にそれだけ。つまんないでしょ」

 戦いが終わってシュテルンタウンで過ごしていた時期は、良い意味で穏やか、悪い意味で無気力だった。ソソは周りほど強靭な精神力はなくて、自分の犯した罪を思い出しては、気が病んでいく日々。けど、そんなときに出会ったのがノエルだった。彼女は下心もなく自分と関わってくれて、いつも楽しそうにレドナー様? という人の話をしてくれる。ノエルが彼について語る姿を見ていると、空虚に沈んだ心がほわほわと浄化されていったのだ。大したキッカケなんてない。

「でもまぁ、所詮負け戦なんで。俺の気持ちとかどうでもいいよ」

 ノエルさんが幸せなら、なんでも。

 形の整った唇でほんのり弧を描く。悲しみとか妬みだとかを含まない、本心からの笑みだった。ロミッツはソソを見つめると、にしっと子供みたいに歯を見せる。

「まだ諦めんのは早えーだろ。若いんだからこれからだって、ほら頑張れ」
「はぁ……」

 ぽんと肩を叩いて慰めるロミッツに、ソソはため息を落とす。ターコイズブルーの瞳で、目の前に跪くロミッツを見下ろした。

「ロミッツさんもすっかりおっさんだね。ノリがこう、鬱陶しい」
「あぁ!? んだとテメーこちとらまだ二十七歳なんだよ!! 同じことジョシュにも言えんのか!?」
「俺は誰が相手でも変わんないけど、ジョジュアさんは言う気にもならないよ。この気持ち、分かるでしょ」
「クッソ……アイツの方が一個歳上なのに……」

 老け顔だからか? とぺたぺた顔を触る。あっ気にしてるんだ……とソソは若干申し訳なさが芽生えた。ロミッツの顔面がというよりも、ジョジュアが年齢を感じさせないというだけなのだが。フォローを入れるのもソソにとっては面倒なので、落ち込む彼をぼうっと眺めた。

「おら、終わりだ終わり。今回も異常はなし」
「あざます。あ、このことは秘密で。ジョジュアさんにはどうせバレてるからいいけど」
「あいあい。次は絶ッッ対予定通りに来いよ分かったな?」
「うす」

 ロミッツの威圧をするりと躱して、浅くお辞儀をするとソソは部屋を出て行く。本当に分かってんのかよ、と聞こえないようにぼやいた。手のかかるヤツと呆れながらも、案外可愛がってしまっている自分もいるのは確かだが。
 一息ついて、机に置かれた銃を手に取った。「Norman」と刻まれた文字を見て、秋の国で無事仕立て屋を営む、手紙の宛名に記した友人を思い浮かべる。

「なぁ、チェナ。お前の恋人が残してくれたものがさ、こうやって子供たちにも繋がっていってんだぜ」

 呪いを断ち切って祝福を残せた俺たちの勝ちだな。

 ぐるぐると椅子を回しながら、眼鏡を外すと勝利の笑い声をあげた。


◆◆◆


「なぁ、おれら知ってんだぜ」

 肩を突き飛ばされて、地面に尻餅をつく。自分を見下す子供たちは、愉快そうに声を重ねた。

「お前の名前。魔力がないからレイって名付けられたんだろ?」

 指で零のマークを作って、その輪からレイを覗き込む。にんまりと幼い瞳を三日月みたいに細める少年に、レイはキッと上目遣いに睨みつけた。

「……なに、その目? 愛の象徴である魔法を神様から貰えなかった、はぐれ者のお前が何様のつもりなんだよ」

 スッと顔色を冷たくして、少年はレイの瞳を憎たらしく睨み返す。生意気な態度のレイに虫唾が走って、新品の綺麗な靴裏で彼の体を乱暴に蹴っていく。

「本物の母ちゃんに捨てられたくせに! 家でも同じように虐められてるくせに!」

 怒声が頭ごなしに飛び交う。服が汚れて、顔に傷をつけられても、レイは何も言わなかった。だんまりなレイに飽き飽きして、少年は動きをぱったりと停止させる。

「もういいや。おばさんに言いつけられたくなかったら、さっさと今日も鐘を鳴らしてこいよ」

 脅すように言い捨てる。脅迫だった。レイはボロボロになりながらも、なんとか身を起こす。セーラー服についた砂埃を払うと、ふらついた足取りで虐めっ子を横切っていく。ケタケタと高い声で笑う彼らは、まるで悪魔みたいだった。

 ふぅ、と息を整えて、螺旋を長く描いた階段を上っていく。
 本来なら、街の子供たちが交代制で回すこの仕事を、レイは一人で担っていた。塔の下部には魔力で動く昇降機があって、住民はこれを用いて最上階にまで飛ぶことが出来る。けれど、レイには魔法が使えない。だからこうして、果てしなく続く階段を、自力で上がるしかないのだ。それを分かっていて、彼らはレイに押し付けている。あの意地悪な継母に言いつけるぞ、だなんて脅して。
 ズキズキと、歩く度に足の指先から刺々しい痛みを感じる。小さくなってサイズの合わない靴を無理矢理履いているせいで、爪が黒く痛んでしまった。だが、おばさんに言ったとて、自分の為に物を買ってくれるわけがない。成長期だというのに、ろくな食事も与えられなくて、決まって食パンの耳の入った袋を渡されるだけだ。どう見ても余り物のそれが、レイは嫌いだった。
 痩せ細った脚じゃ、こんなところを上るだなんて、毎回無謀だと思う。でもどうしようもないんだから、堪えて堪えて進むしかない。今は何時だろうか。十二時を過ぎてしまえば、おばさんに言いつけられて、きっとお仕置きが自分を待つことになる。何度も受けたのに、まだ怖いだなんて気持ちが残っているのか。哀れな自分に、思わず笑ってしまう。ぎゅうぎゅうと悲鳴をあげる靴を無視して、先を歩もうとした。けれど、レイの耳にはある音が届いた。

 ゴーンゴーン
 
 その音色が聞こえると、レイは急いで階段を駆けていった。
 息を乱して最上部にまで到着したレイは、視界に広がった光景に息を呑んだ。可憐な桃色を靡かせて、純白なワンピースをドレスみたいにゆらめかせる少女が、鐘を鳴らしている。少女はこちらに気がつくと、嬉しそうに笑いかけた。

「レイ! 待っていたのよ」

 にっこりと綻んで自分の元へと近づいてくるカロンに、レイは多めに瞬きを繰り返す。まさか、昨日の約束を本当に守るだなんて。冗談だと言い聞かせながらも、淡く期待を抱いていたレイは、拍子が抜けたように彼女を見つめる。

「……レイ?」

 カロンはこてんと首を傾けて、己の名を呼ぶ。その声がやけに響いて、レイは憂鬱に顔を俯かせた。

「……そう。俺の名前は、レイ」

 薄汚いスニーカーが目に入って、逃げるように瞳を閉じる。

「この名前は、お母さんがくれた宝物なんだ。あいつらは何も知らないから、好き勝手言い放題で」

 そんな最愛の彼女は、もういない。まともな金もないから墓も用意出来なくて、母親の亡骸は海へと投げ捨てられてしまった。今でもあの情景が忘れられないでいる。
 生きていた頃はずっと病に伏して、一日を苦痛と共に過ごしていた彼女は、どんな時でもレイに当たることはなかった。いつだって優しく、レイの名前を呼んでくれた。この名前は母親がくれた、最初で最後の贈り物だった。

「でも、そんなやつらに構ってるだけ無駄。放った言葉は、いずれ返ってくる。だから俺は、何も言わない。言霊って凄いんだよ」

 それも知らないで、ほんと頭悪いのばっか。

 枯れた音で、ぼそぼそと呟く。これだから子供は嫌いだ。大人は純粋で羨ましいだとか言うけれど、正気じゃないと反論してやりたい。彼らの無邪気さに悪意が加えられた途端、それは凶器となり得る。その恐ろしさを訴えかけても、子供同士の喧嘩でしょって笑われるのだ。水に流して握手をしてはい仲直り。お決まりの気持ち悪い儀式だった。やっぱり、大人も嫌い。嫌い嫌い、みんな嫌い。

「名前に込められた意味なんて、知らないし聞けなかった。でも、どうでもいいじゃん。意味が必ずしも必要なの?」

 ぎゅっと小さな拳を握って、肩を震わせる。泣くのを我慢して、唇を噛み締めた。

「俺の名前を大切に呼んでくれる人がいた。これだけで、十分でしょ」

 人間は何でもかんでも特別な意味を求めたがる。魔法が使えないから、零だって? 違うに決まってる。だって、自分だけが知っているんだ。愛おしげにこの名前を呼んでくれた人が、確かに存在していたことを。このあたたかい思い出が穢されるのなら、誰も知らなくたっていい。知らないで欲しい。

「……そうね」

 俯いたまま動かないレイに、カロンはそっと歩み寄る。彼女の空色のパンプスが、レイの瞳に入り込んだ。

「私もね、レイが名前を呼んでくれたとき、とっても嬉しかったの」

 ふわりと屈んで、カロンはレイの目線に合わせる。恐る恐る顔を上げたレイに、カロンは母親のように慈愛に満ちた眼差しを向けた。

「貴方の声は、穏やかで心が安らぐわ。レイに名前を呼んでもらえたら、私は私でいていいんだって、そう思える気がするの」

 そう言って微笑むカロンに、何故だか妙な胸騒ぎを覚えた。

 ふと潮風の香りが鼻腔をくすぐって、さざめく薄暗い波が脳裏に過ぎる。小舟から星が泳ぐ海の底を、溺れるように見入ったあの日。空色のワンピースを広げて、一人で泣いていたあの子の声が、ずっと残っている。

 一体どうして、このことを思い出したのだろう。

 やっぱり自分は、この子のことを……


「あ! そうだわ!」

 違和感に囚われて言葉を発せないレイであったが、カロンはあっと思い出したように背後に振り返る。

「貴方にね、プレゼントがあるの!」

 はい! とカラフルな紙袋を差し出してくるカロンに、レイは目をころっとさせながら受け取る。袋を覗き込んで、丈夫に包装された箱を慎重に開けると、中でレイを待っていたそれらと出会う。レイはぱっとカロンに視線を飛ばした。

「これ……」
「ふふ、新しいスニーカーよ! たまたま見かけて、レイに似合うかもってピンと来たの。どうかしら?」

 目線を箱に戻すと、レイはスニーカーを一足取り出した。白い靴紐に、己の瞳とよく似た黄緑色を目立たせている。ピカピカと新しさを喜ぶように輝く靴に、レイは釘付けだった。

「履かせてあげるわ。ここに座ってくれる?」

 カロンが手のひらで示すところに、レイは言われるがまま移動する。カロンはスニーカーを宝物みたいに扱って包み込んだ。レイの小さな足に触ると、丁寧に靴を履かせてやる。すっぽりとフィットした心地に、レイは声を呑んだ。指先の痛みが和らいで、熱が冷めていく。ちょこちょことその場を歩いては確かめる姿に、カロンは笑みを零す。

「準備は万端ね! それじゃあ行きましょうか!」
「えっどこ行くつもり?」
「私の歓迎会よ! レイにもぜひ来て欲しかったの。早く向かいましょ!」
「きゅ、急すぎ……招待状くらい送ってよ」
「サプライズよ、その方が楽しいでしょう?」

 でしょうじゃないよ、と軽い愚痴を口にしながらも、レイの表情からは朗らかさが窺える。カロンはレイと一緒に昇降機に乗り込むと、魔法を込めて下へと降りていった。
21/22ページ