第一章「死神の館」
第十四話『夢の果て』
あの頃と変わらぬ姿の、彼女がいた。子供みたいにはにかんで、柔らかな桃色を持つあの子。
「シーニャ……」
「……レン」
名を呼ぶと、彼女も答えるようにレドナーを呼んだ。シーニャは小さく微笑む。そして……彼女の右手からピキ、と関節の鳴る音が聞こえた。ん? と不可解なその音に、レドナーは疑問を浮かべる。そんな彼に、シーニャは笑顔のまま、額にムカッと怒りマークを描いた。
「まずは一発殴ってやりたいところなんだけど? まぁ私はお淑やかな美少女なので? 一旦お預けね?」
「は、はぁ……」
怒っている。数百年ぶりの再会早々に。あの感動の雰囲気を返して欲しいのだが。引き気味に困惑するレドナーに、シーニャは彼の真似でもするかの如くため息を吐いた。
「君って、呆れちゃうくらい優しいよね。そんなところが大好きで、大嫌いだよ」
勝手に記憶を奪って自分の前から消え去っていったことも、一人で何度も死のうとしていたことも、笑顔を無くしていったのも、レドナーの優しさ故に引き起こされたこと。それをシーニャは、許せなかった。
「その優しさが、誰かを傷つけることだってあるわけだ」
それはシーニャ自身や、ジェシーやノエルにだって言えることだった。レドナーは何も言えずに、シーニャの話を聞いている。
「レンを失った私の人生は、まるで空っぽだったよ」
レドナーの記憶を無くしたあの後、シーニャは運良く優しい老夫婦に拾われて、彼らの家に住まわせてもらったと言う。元々奴隷であった自分の身分も、父親の分からない子供にも、二人は関係ないと愛してくれた。それでも、ずっと心のピースが埋まらない。そんな気持ちを抱えて、人生を過ごした。
だが、シーニャは今際の際に、全てを思い出した。奪われていたものが、帰ってくるように。神様からの贈り物なのだと思った。
「君の呪いを断ち切ってあげられなくて、ごめんなさい」
最後に見た記憶は、レドナーが泣いている姿であった。血まみれになりながら、己に別れを告げる彼。あの時、手を伸ばせていたら、声をかけてあげられていたら……そんな後悔が重なって、どうしても先に逝けなかった。だから、レドナーの指輪に留まって、彼を見守っていたのだ。こうして話せるのを待っていた。全く〜と呆れる彼女に、レドナーは目を伏せる。
「……お前のせいじゃない。俺が俺である限り、叶わないことだった」
そう。自分はレドナー・ブレットとして生まれてきた。仕方のないことだったんだ。
「……違う。そんなことないよって、証明してあげたかったの」
謝罪を受け入れないレドナーに、シーニャはバッサリと彼の言葉を裁つ。レドナーと目線が交わることはない。シーニャは一度、静かに瞬きを落とす。
「ねぇ、レン」
「……なんだ、シーニャ」
「君に会わせたい人がいるんだ」
机に俯きながら、レドナーはシーニャの会話を耳に入れる。会わせたい人、と彼女が発した。その途端、机の上にあったティーカップが増えていたことに気がつく。爽やかなダージリンが一つ、甘いピーチティーが二つ、香りを混ぜ合わせていた。
「ここには来なかったから、先にいっちゃったと思うんだけどさ」
シーニャはくるくるとティースプーンを回しながら、水面を眺める。もう一つの小さめのカップに息を吹きかけて、用心深く冷ます彼女に、レドナーは瞳を見開いた。
「無事あちらにいけたのなら、良かった。だが、もしそうなら会うことなんて……」
「えー? 何言ってんのさ」
あはは、と不思議そうに彼女は笑う。
「夢は願えば、なんだって叶うでしょう?」
君が教えてくれたじゃない。
「ほら、名前を呼んであげて」
急かすように、シーニャはとんとん、と机を人差し指で鳴らす。
彼女と一度、話したことがあった。もし自分たちが家族となって、一段と家が賑やかになったら、その子をなんと呼んであげようかと。女の子ならカレン、もしくはクロエだったか。そして、男の子だったのなら……
「……アッシュ?」
口が自然と動いて、その名前を選んだ。
「はーい、パパ!」
耳ざわりの良い、明るく陽気な声が聞こえた。はっと息を呑んで、レドナーは視界を下へと移す。
「アッシュくんをお呼びかなっ?」
机の下から現れた少年が、むぎゅっとレドナーに勢いよく抱きついた。小さな子の容姿を凝視して、レドナーは震えた声色を漏らす。
「あっああ……は、はは、俺にそっくり、じゃないか」
艶やかな黒髪に、優しく釣った目の形、そして彼女と揃った、桃色の瞳を持つ少年。アッシュと名付けられた彼は、鈴みたいに声を転がしては、レドナーを包んだ。
「見た目はレン! 中身は私! みたいな子だよ。私の遺伝子のおかげで、見事な美少年に育ったんだから〜」
誇らしげに自慢する彼女に、アッシュも同じようにふふんと顔に自信をたっぷり溢れさせる。表情作りや、変に自己肯定感の高いところがシーニャにそっくりで、つい安心してしまう。
「可愛い、可愛いね、アッシュ……」
込み上げてくる唾液を飲んで、レドナーはアッシュを抱き締め返した。
あの時、図らずとも自分が殺してしまった我が子に、触れることが出来るだなんて。駄目だと分かっていると言うのに、どうにも歯止めが効かなかった。アッシュを胸に包みながら、感極まって涙に噎ぶ。
「ありゃま、パパ泣いてるの……!?」
「アッシュ、ごめんね……不甲斐ない父親ですまなかった……」
「お、およよ~……ママ、どうしよ~?」
「泣かせてあげな~アッシュが美少年すぎて涙が止まらないんだってさ」
「わーおそれは仕方ないかも! パパ、沢山泣いていいよ!」
「うぅ……」
よしよし! とアッシュはレドナーの背を叩く。純粋な子供らしさが、あまりにも愛おしい。自分はこの子を殺したのに、そんなことは知らないのだと、朗らかに綻ぶ。レドナーは、アッシュを更に強く引き寄せると、彼の耳元で密やかに呟いた。
「俺たちの可愛いアッシュ。生まれてきてくれて、本当にありがとう……」
感謝を、祝福を、愛情を。お前は望まれて生まれてきたと、自分の息子であってくれたことが最も幸いなのだと伝える。絶えず慈しみの言葉を零す父親に、アッシュはぽぽぽと頬を赤らめた。
「えぇっ! いきなりなになに、俺照れちゃうよ~?」
照れ隠しをするみたいに、アッシュはおどける。あぁ、こういうところはシーニャに似てしまったみたいだ。わしゃわしゃと頭を撫でてやると、アッシュは楽しそうに声を上げる。
「というかさ……パパとママがいてくれたから、俺は生まれてきたんだよ?」
父のあたたかな胸から離れると、アッシュはシーニャに目線を配った後に、レドナーをまっすぐに見つめる。彼は心底嬉しそうに、笑みを輝かせた。
「だから、パパも生まれてきてくれてありがとう!」
桃色の瞳がふんわりと細まって、黒髪が優しく揺れる。ほんのりと控えめに口角を上げる笑い方は、本当に自分そっくりで。
「うん、そうだな。パパ、生まれてきて、よかった……」
この子がそう言ってくれるのなら、そうなのかもしれないって思った。この子が生まれた。それだけで、自分は生まれてよかったって。レドナー・ブレットでよかったって、初めて思えたんだ。レドナーはお揃いの笑みを、不器用ながらに見せてやる。アッシュは満足したみたいに、また笑顔を彩った。
するりと小さな体が離れて、アッシュはシーニャの膝にちょこんと乗っかる。すっかり冷えたピーチティーを、チョコビスケットをつまみながら堪能しているようだった。アッシュの頬についた食べかすを拭ってやると、シーニャはレドナーに向き合う。
「君と私は、違うところへ行くだろうね」
人を殺したレドナーは、彼女たちと違って楽園には行けない。覆すことの出来ない事実だった。
「でもね、レンと一緒に地獄に行ってあげることが、私たちの為になるとは思わない」
レドナーの為なら、地獄の業火に魂を焼かれようが、痛くも痒くもない。彼と家を抜け出したあの日から、そんな覚悟なんてとっくにしてきた。
けれど、離れ離れになってしまう彼のために、自分たちがするべきこと。それは一緒に地獄の道を歩んであげることなんかじゃない。
「私たちは、ずっとレンを待ってる」
そう。自分たちに出来ることは、ただ待つこと。それだけだ。きっとシーニャとレドナーは、もう永遠に隣合って生きてはいけない。それは決まってしまった。
でも、それでも。
いつの日かまた巡り会って、共に生きていける日を、ずっとずっと待つんだ。紅茶を飲みながらお喋りをしたり、パン作り大会をしたり、やりたいことなんて数え切れないくらいある。今度はアッシュも一緒に、勿論ジェシーも呼んで四人で。そんな夢を、未来を、待ち望んでいる。
「……もう夜明けが来るみたい」
シーニャは物寂しく、窓の景色を眺める。深い闇の空には、一筋の光が乗せられていた。
「ねぇ。最後に一つだけ、我儘を言ってもいい?」
じんわりと広がっていく明かりに瞼を重くさせながら、シーニャはレドナーに問いかけた。彼女はゆったりとこちらに顔を向けると、ちょっぴり申し訳なさそうに、目線を落とす。
「この先も、君が愛するのは……私だけであって欲しいんだ」
小さく弱気な声で、本音を吐露する。いつもならもっと、腹の底から出せるはずの音が、上手く出てきてくれなかった。
「君の幸せも願えない、面倒臭い女だって呆れた?」
自分が情けなくて、濁すようにふざけて笑ってみせる。絶対に、もっと気の利いたことを言うべきなのに。私よりとびきり可愛い人を見つけて幸せになってね、だとか。
けれど、言えなかったんだ。彼のことが好きで、大好きで、愛している。他の人のものになってしまうのが、どうしても辛くて。最後くらい、我儘を抑えた、賢くて可愛い女の子でありたかったのに。
「……ふっ……」
きゅ、と唇を噛んで、シーニャは自分の言葉を悔やんでいた。だが、レドナーは口元を押さえては、堪えていたものが吹き出るように、息を漏らす。きょとんとするシーニャに、レドナーは可笑しいと言うみたいに、愉快に肩を揺らした。
「お前が俺の幸せだ。俺が恋をして愛したのは、シーニャだけだよ」
可愛い奴だな、お前は。
そう言って、揶揄ってやった。忽ち顔を赤く染めては、もー! と腕を全力で振る彼女に、己もアッシュも腹を抱える。シーニャは怒気を放ちながら、アッシュの頬をむにむにと伸ばす。その当人はさほど気にしておらず、腫れた頬を面白そうに見せつけてきた。流石は我が息子、将来有望だ。
力が抜けたようにシーニャは息を吐き出すと、晴れやかな笑い声をあげた。レドナーの朱色の瞳を、愛おしげに見入る。
「ずっと見守ってる。ずっと先で待ってるから」
アッシュをぎゅっと抱き締めて、シーニャは破顔した。
ふわりとカーテンが靡いて、彼女たちの桃色と黒色が交わる。ティーカップに満ちる紅茶の海が揺らめいて、優しい香りがレドナーの身を包んでいく。宵の明けを知らせる陽の光が、二人を眩しく照らす。
彼女と純白なカーテンが重なって、その姿はまるで幸せな花嫁のようだった。
これは別れなんかじゃない。再会の約束だ。だから寂しくなんてない。夢の果てには、望んだ未来があるのだから。
「またね。愛してるよ!」
大きな声で、永遠の愛を叫んだ。
閉じこもった暗い夜に、うららかな朝日が昇る。その眩しさに、ゆっくりと瞳を起こした。
「お兄ちゃん!」
「レドナー!」
二人分の声が聞こえる。彼女たちは慌てた様子で己を覗き込んでいた。あの子とよく似た少女は、にっこりと安心したように微笑んでいる。その隣でぽろぽろと涙を落とす妹に、レドナーは眉を下げて涼やかに相好を崩した。
「はは。可愛い顔が台無しじゃないか、ジェシー」
「っだ、誰のせいだと思ってんだーっ!! お兄ちゃんの、馬鹿野郎ー!!」
ぽかぽかとレドナーの腹を拳で叩きながら、ジェシーは泣き伏す。彼女も、昔と何ら変わりなかった。小さく幼い頭に手を伸ばして、少し雑に撫で回す。反抗する気もないくせに、やめてよ、と恥ずかしそうに笑うこの子が、心から大切で愛おしかった。
鮮やかな朝日が少女に微笑んで、賑やかな昼光は幼な子を照らし、独りぼっちの夕暮れと別れを告げて、月明かりの輝く夜は明けた。
旅はまた新たな一ページを刻んで、彼らの選んだかけがえのない運命を遺していく。
神様も知らない、そんな夢で溢れた物語を。
◆◆◆
明け方の近づく森の中、木々は枯れた体をみるみると生き返らせて、若々しく緑色を彩らせた。馬車の中で事の経緯を見守っていた二人のうち、運転手の女性が扉から飛び出した。
「ひぇ……一体何が……」
「あれ? 枯死が止まっちゃった」
状況を把握しきれない女性の後ろで、ケインは元の姿に戻っていく植物たちに、予想外だという風に目を丸くさせた。
「そっか……まぁ、そんなこともあるか」
口元に手を寄せて、女性に気づかれないよう小さく呟く。
「お客さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
振り返って、女性はケインにそう尋ねる。自分より歳下のケインを心配しているのだろう。彼女の思いやりある行動に、ケインは気さくに感謝を返した。
「そかそか、なら良かった」
ケインの返事にホッとして、胸を撫で下ろした。明るく微笑む女性に、ケインもにっこりと口角を上げる。
「それじゃあ、早いとこ森から出ようか。お客さんのご用事はまた今度ってことで」
突如として発生した異変に、これ以上巻き込まれては大変だ。女性はそそくさと馬車を走らせる準備に取り掛かる為、中へ入ろうとした。
「そう、大丈夫。もう怖くないよ、お姉さん」
ケインは、彼女を引き止めるみたいに、まるで脈略のない言葉を笑顔で並べている。幼い子を安心させるように、穏やかに言い聞かせる彼の声色が、何故だか恐ろしいと感じた。彼はただの少年のはずなのに、どこか成熟した大人のようで、一致しない認識に眩暈がする。女性は自然と、その場で後退りをした。
べちゃべちゃ。
生ぬるく弾く音が聞こえた。女性はそっと、視線を下に傾ける。
ごろりと、首が二つ、落ちていた。それは、先ほどまで己の隣に立っていた、馬たちのもので。さながら鋏に切り落とされたようだった。首から血を広げていく彼らに、女性は悲鳴が漏れ出る。ぎょろっと生気のない目玉が、だらしなく垂れる舌が、今にも落っこちそうで気持ち悪かった。どっと押し寄せる吐き気に胃を乱暴に掴む。女性の思考は、混濁に飲まれていた。そのせいで、彼女は目の前に人影が近寄っていることに気がつけない。ケインは一際優しく目を細めて、女性に囁いた。
「俺が貴方を、救ってあげるから」
ジョキリ。
切れ味の良い刃物が重なって、救済の音が響いた。女性の慄然で染まった顔が、ころころと石ころみたいに転がる。彼女の表情を見つめて、ケインは血のかかった頬を仄かに緩めた。
「……おい。なんだよ、これ」
「こんばんは……いや、おはよう、かな? 相変わらず、綺麗なお顔だね」
マナロイヤさん。
ケインは人当たり良く挨拶を交わす。マナロイヤはそれに対して答えなかった。そんな彼をじっと熟視したケインは、こっくりと首を傾ける。
「……でも、なんだか顔色が悪いね?」
ぐちゃぐちゃと足音を立てながら、彼は背丈よりも大きな鋏を片手で振り払って、付着した赤を辺りに散らせる。ケインは不安そうに表情を作って、マナロイヤに近づいた。
「そう落ち込まないで……人生は失敗と不幸の連続なんだ。どれだけ努力をして、善を尽くしたとて、彼らは容赦なく俺らに襲いかかる。だから貴方が気に病むことは無いよ」
ね? と長閑に笑いかける。彼から紡がれる一言一言が、異常な包容感と不気味さを齎していた。泣き暮れる子供を慰めるみたいな視線を、ケインはマナロイヤに送る。この少年の行動に、悪意なんてものは存在しない。純粋な善意だけが、きらきらと溢れていた。
マナロイヤは微かに顔を歪ませて、彼から紅玉の瞳を逸らす。ケインはマナロイヤの様子をそっと見守りながら、ひらりとフードを揺らして背中を向けた。
「最近感じるんだ。あの子の存在を」
ケインは真っ赤に埋め尽くされた手を、己の心臓に当てる。どきどきと、割れてしまいそうなくらいに奏でられる音に、ぎゅっと指を絡めるようパーカーを掴む。高揚して頬をとろけさせる彼は、はぁ、と呼吸を浅くしていた。
「顔も名前も、何もかも忘れてしまったけど、大丈夫。俺たちは……そう、まるで運命に導かれるように、この心臓が高鳴るように、惹かれ合うんだ」
胸を握り締めながら、ケインは彼は誰時の中天に手を伸ばす。まるで、誰かに焦がれるように。
「俺とあの子が再び巡り会ったとき、この世界はやっと救われる」
星を集めるみたいに拳を握る。腕を下ろして、ケインはするりと手を広げた。ちゅん、と囀る声が鳴って、黒手袋を纏った手のひらに一匹の青い鳥が現れる。小さなその子に軽いキスをしてやると、ケインは何かを伝えた。小鳥は承ったようにまた声をあげると、翼を羽ばたかせて有明に溶け込んだ。
「だから心配しないで。マナロイヤさん、貴方は正しい」
ぱっと振り返ったケインは、喜悦を込み上げさせては笑みを満面に湛えた。彼の瞳に宿されたサファイアは、美しく、そして尊く煌めく。
「あぁ、俺の大切で愛おしい片割れ。必ず迎えに行くから、だから、どうか……」
――兄さんを、待っていて。
ありったけの愛を込めて、祈りを捧げた。ケインは最後に、 マナロイヤに微笑みかけると、再び踵を巡らせる。スニーカーの弾む音と、鋏を引き摺る音が、森へと合わさって響き渡った。
口を噤んで彼の姿を眺めていたマナロイヤは、重々しく瞼を閉じる。一つ呪文を唱えると、地面から蔓が伸びて、三つの屍に絡みつく。蔓は彼らをずるずると引き寄せて、やがて吸収されるように地へと沈んでいった。残った血溜まりには花吹雪を浸らせる。すると、その場は何も無かったかの如く、すっかりと綺麗に片付いた。空になった馬車に向けて指を鳴らすと、地中から貫くように大きな宝石が飛び出す。馬車は宝石の中に閉じ込められて、マナロイヤは再度指を鳴らした。パリン、と音がして、宝石と共に馬車も粉々に砕け散っていく。降り注ぐ輝きに、魔法を使った本人は見向きもしない。
「醜いな」
誰も見てやしないのに、自嘲気味に呟く。深く息を落とすと、マナロイヤは花弁を舞い踊らせて、森から去っていった。
あの頃と変わらぬ姿の、彼女がいた。子供みたいにはにかんで、柔らかな桃色を持つあの子。
「シーニャ……」
「……レン」
名を呼ぶと、彼女も答えるようにレドナーを呼んだ。シーニャは小さく微笑む。そして……彼女の右手からピキ、と関節の鳴る音が聞こえた。ん? と不可解なその音に、レドナーは疑問を浮かべる。そんな彼に、シーニャは笑顔のまま、額にムカッと怒りマークを描いた。
「まずは一発殴ってやりたいところなんだけど? まぁ私はお淑やかな美少女なので? 一旦お預けね?」
「は、はぁ……」
怒っている。数百年ぶりの再会早々に。あの感動の雰囲気を返して欲しいのだが。引き気味に困惑するレドナーに、シーニャは彼の真似でもするかの如くため息を吐いた。
「君って、呆れちゃうくらい優しいよね。そんなところが大好きで、大嫌いだよ」
勝手に記憶を奪って自分の前から消え去っていったことも、一人で何度も死のうとしていたことも、笑顔を無くしていったのも、レドナーの優しさ故に引き起こされたこと。それをシーニャは、許せなかった。
「その優しさが、誰かを傷つけることだってあるわけだ」
それはシーニャ自身や、ジェシーやノエルにだって言えることだった。レドナーは何も言えずに、シーニャの話を聞いている。
「レンを失った私の人生は、まるで空っぽだったよ」
レドナーの記憶を無くしたあの後、シーニャは運良く優しい老夫婦に拾われて、彼らの家に住まわせてもらったと言う。元々奴隷であった自分の身分も、父親の分からない子供にも、二人は関係ないと愛してくれた。それでも、ずっと心のピースが埋まらない。そんな気持ちを抱えて、人生を過ごした。
だが、シーニャは今際の際に、全てを思い出した。奪われていたものが、帰ってくるように。神様からの贈り物なのだと思った。
「君の呪いを断ち切ってあげられなくて、ごめんなさい」
最後に見た記憶は、レドナーが泣いている姿であった。血まみれになりながら、己に別れを告げる彼。あの時、手を伸ばせていたら、声をかけてあげられていたら……そんな後悔が重なって、どうしても先に逝けなかった。だから、レドナーの指輪に留まって、彼を見守っていたのだ。こうして話せるのを待っていた。全く〜と呆れる彼女に、レドナーは目を伏せる。
「……お前のせいじゃない。俺が俺である限り、叶わないことだった」
そう。自分はレドナー・ブレットとして生まれてきた。仕方のないことだったんだ。
「……違う。そんなことないよって、証明してあげたかったの」
謝罪を受け入れないレドナーに、シーニャはバッサリと彼の言葉を裁つ。レドナーと目線が交わることはない。シーニャは一度、静かに瞬きを落とす。
「ねぇ、レン」
「……なんだ、シーニャ」
「君に会わせたい人がいるんだ」
机に俯きながら、レドナーはシーニャの会話を耳に入れる。会わせたい人、と彼女が発した。その途端、机の上にあったティーカップが増えていたことに気がつく。爽やかなダージリンが一つ、甘いピーチティーが二つ、香りを混ぜ合わせていた。
「ここには来なかったから、先にいっちゃったと思うんだけどさ」
シーニャはくるくるとティースプーンを回しながら、水面を眺める。もう一つの小さめのカップに息を吹きかけて、用心深く冷ます彼女に、レドナーは瞳を見開いた。
「無事あちらにいけたのなら、良かった。だが、もしそうなら会うことなんて……」
「えー? 何言ってんのさ」
あはは、と不思議そうに彼女は笑う。
「夢は願えば、なんだって叶うでしょう?」
君が教えてくれたじゃない。
「ほら、名前を呼んであげて」
急かすように、シーニャはとんとん、と机を人差し指で鳴らす。
彼女と一度、話したことがあった。もし自分たちが家族となって、一段と家が賑やかになったら、その子をなんと呼んであげようかと。女の子ならカレン、もしくはクロエだったか。そして、男の子だったのなら……
「……アッシュ?」
口が自然と動いて、その名前を選んだ。
「はーい、パパ!」
耳ざわりの良い、明るく陽気な声が聞こえた。はっと息を呑んで、レドナーは視界を下へと移す。
「アッシュくんをお呼びかなっ?」
机の下から現れた少年が、むぎゅっとレドナーに勢いよく抱きついた。小さな子の容姿を凝視して、レドナーは震えた声色を漏らす。
「あっああ……は、はは、俺にそっくり、じゃないか」
艶やかな黒髪に、優しく釣った目の形、そして彼女と揃った、桃色の瞳を持つ少年。アッシュと名付けられた彼は、鈴みたいに声を転がしては、レドナーを包んだ。
「見た目はレン! 中身は私! みたいな子だよ。私の遺伝子のおかげで、見事な美少年に育ったんだから〜」
誇らしげに自慢する彼女に、アッシュも同じようにふふんと顔に自信をたっぷり溢れさせる。表情作りや、変に自己肯定感の高いところがシーニャにそっくりで、つい安心してしまう。
「可愛い、可愛いね、アッシュ……」
込み上げてくる唾液を飲んで、レドナーはアッシュを抱き締め返した。
あの時、図らずとも自分が殺してしまった我が子に、触れることが出来るだなんて。駄目だと分かっていると言うのに、どうにも歯止めが効かなかった。アッシュを胸に包みながら、感極まって涙に噎ぶ。
「ありゃま、パパ泣いてるの……!?」
「アッシュ、ごめんね……不甲斐ない父親ですまなかった……」
「お、およよ~……ママ、どうしよ~?」
「泣かせてあげな~アッシュが美少年すぎて涙が止まらないんだってさ」
「わーおそれは仕方ないかも! パパ、沢山泣いていいよ!」
「うぅ……」
よしよし! とアッシュはレドナーの背を叩く。純粋な子供らしさが、あまりにも愛おしい。自分はこの子を殺したのに、そんなことは知らないのだと、朗らかに綻ぶ。レドナーは、アッシュを更に強く引き寄せると、彼の耳元で密やかに呟いた。
「俺たちの可愛いアッシュ。生まれてきてくれて、本当にありがとう……」
感謝を、祝福を、愛情を。お前は望まれて生まれてきたと、自分の息子であってくれたことが最も幸いなのだと伝える。絶えず慈しみの言葉を零す父親に、アッシュはぽぽぽと頬を赤らめた。
「えぇっ! いきなりなになに、俺照れちゃうよ~?」
照れ隠しをするみたいに、アッシュはおどける。あぁ、こういうところはシーニャに似てしまったみたいだ。わしゃわしゃと頭を撫でてやると、アッシュは楽しそうに声を上げる。
「というかさ……パパとママがいてくれたから、俺は生まれてきたんだよ?」
父のあたたかな胸から離れると、アッシュはシーニャに目線を配った後に、レドナーをまっすぐに見つめる。彼は心底嬉しそうに、笑みを輝かせた。
「だから、パパも生まれてきてくれてありがとう!」
桃色の瞳がふんわりと細まって、黒髪が優しく揺れる。ほんのりと控えめに口角を上げる笑い方は、本当に自分そっくりで。
「うん、そうだな。パパ、生まれてきて、よかった……」
この子がそう言ってくれるのなら、そうなのかもしれないって思った。この子が生まれた。それだけで、自分は生まれてよかったって。レドナー・ブレットでよかったって、初めて思えたんだ。レドナーはお揃いの笑みを、不器用ながらに見せてやる。アッシュは満足したみたいに、また笑顔を彩った。
するりと小さな体が離れて、アッシュはシーニャの膝にちょこんと乗っかる。すっかり冷えたピーチティーを、チョコビスケットをつまみながら堪能しているようだった。アッシュの頬についた食べかすを拭ってやると、シーニャはレドナーに向き合う。
「君と私は、違うところへ行くだろうね」
人を殺したレドナーは、彼女たちと違って楽園には行けない。覆すことの出来ない事実だった。
「でもね、レンと一緒に地獄に行ってあげることが、私たちの為になるとは思わない」
レドナーの為なら、地獄の業火に魂を焼かれようが、痛くも痒くもない。彼と家を抜け出したあの日から、そんな覚悟なんてとっくにしてきた。
けれど、離れ離れになってしまう彼のために、自分たちがするべきこと。それは一緒に地獄の道を歩んであげることなんかじゃない。
「私たちは、ずっとレンを待ってる」
そう。自分たちに出来ることは、ただ待つこと。それだけだ。きっとシーニャとレドナーは、もう永遠に隣合って生きてはいけない。それは決まってしまった。
でも、それでも。
いつの日かまた巡り会って、共に生きていける日を、ずっとずっと待つんだ。紅茶を飲みながらお喋りをしたり、パン作り大会をしたり、やりたいことなんて数え切れないくらいある。今度はアッシュも一緒に、勿論ジェシーも呼んで四人で。そんな夢を、未来を、待ち望んでいる。
「……もう夜明けが来るみたい」
シーニャは物寂しく、窓の景色を眺める。深い闇の空には、一筋の光が乗せられていた。
「ねぇ。最後に一つだけ、我儘を言ってもいい?」
じんわりと広がっていく明かりに瞼を重くさせながら、シーニャはレドナーに問いかけた。彼女はゆったりとこちらに顔を向けると、ちょっぴり申し訳なさそうに、目線を落とす。
「この先も、君が愛するのは……私だけであって欲しいんだ」
小さく弱気な声で、本音を吐露する。いつもならもっと、腹の底から出せるはずの音が、上手く出てきてくれなかった。
「君の幸せも願えない、面倒臭い女だって呆れた?」
自分が情けなくて、濁すようにふざけて笑ってみせる。絶対に、もっと気の利いたことを言うべきなのに。私よりとびきり可愛い人を見つけて幸せになってね、だとか。
けれど、言えなかったんだ。彼のことが好きで、大好きで、愛している。他の人のものになってしまうのが、どうしても辛くて。最後くらい、我儘を抑えた、賢くて可愛い女の子でありたかったのに。
「……ふっ……」
きゅ、と唇を噛んで、シーニャは自分の言葉を悔やんでいた。だが、レドナーは口元を押さえては、堪えていたものが吹き出るように、息を漏らす。きょとんとするシーニャに、レドナーは可笑しいと言うみたいに、愉快に肩を揺らした。
「お前が俺の幸せだ。俺が恋をして愛したのは、シーニャだけだよ」
可愛い奴だな、お前は。
そう言って、揶揄ってやった。忽ち顔を赤く染めては、もー! と腕を全力で振る彼女に、己もアッシュも腹を抱える。シーニャは怒気を放ちながら、アッシュの頬をむにむにと伸ばす。その当人はさほど気にしておらず、腫れた頬を面白そうに見せつけてきた。流石は我が息子、将来有望だ。
力が抜けたようにシーニャは息を吐き出すと、晴れやかな笑い声をあげた。レドナーの朱色の瞳を、愛おしげに見入る。
「ずっと見守ってる。ずっと先で待ってるから」
アッシュをぎゅっと抱き締めて、シーニャは破顔した。
ふわりとカーテンが靡いて、彼女たちの桃色と黒色が交わる。ティーカップに満ちる紅茶の海が揺らめいて、優しい香りがレドナーの身を包んでいく。宵の明けを知らせる陽の光が、二人を眩しく照らす。
彼女と純白なカーテンが重なって、その姿はまるで幸せな花嫁のようだった。
これは別れなんかじゃない。再会の約束だ。だから寂しくなんてない。夢の果てには、望んだ未来があるのだから。
「またね。愛してるよ!」
大きな声で、永遠の愛を叫んだ。
閉じこもった暗い夜に、うららかな朝日が昇る。その眩しさに、ゆっくりと瞳を起こした。
「お兄ちゃん!」
「レドナー!」
二人分の声が聞こえる。彼女たちは慌てた様子で己を覗き込んでいた。あの子とよく似た少女は、にっこりと安心したように微笑んでいる。その隣でぽろぽろと涙を落とす妹に、レドナーは眉を下げて涼やかに相好を崩した。
「はは。可愛い顔が台無しじゃないか、ジェシー」
「っだ、誰のせいだと思ってんだーっ!! お兄ちゃんの、馬鹿野郎ー!!」
ぽかぽかとレドナーの腹を拳で叩きながら、ジェシーは泣き伏す。彼女も、昔と何ら変わりなかった。小さく幼い頭に手を伸ばして、少し雑に撫で回す。反抗する気もないくせに、やめてよ、と恥ずかしそうに笑うこの子が、心から大切で愛おしかった。
鮮やかな朝日が少女に微笑んで、賑やかな昼光は幼な子を照らし、独りぼっちの夕暮れと別れを告げて、月明かりの輝く夜は明けた。
旅はまた新たな一ページを刻んで、彼らの選んだかけがえのない運命を遺していく。
神様も知らない、そんな夢で溢れた物語を。
◆◆◆
明け方の近づく森の中、木々は枯れた体をみるみると生き返らせて、若々しく緑色を彩らせた。馬車の中で事の経緯を見守っていた二人のうち、運転手の女性が扉から飛び出した。
「ひぇ……一体何が……」
「あれ? 枯死が止まっちゃった」
状況を把握しきれない女性の後ろで、ケインは元の姿に戻っていく植物たちに、予想外だという風に目を丸くさせた。
「そっか……まぁ、そんなこともあるか」
口元に手を寄せて、女性に気づかれないよう小さく呟く。
「お客さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
振り返って、女性はケインにそう尋ねる。自分より歳下のケインを心配しているのだろう。彼女の思いやりある行動に、ケインは気さくに感謝を返した。
「そかそか、なら良かった」
ケインの返事にホッとして、胸を撫で下ろした。明るく微笑む女性に、ケインもにっこりと口角を上げる。
「それじゃあ、早いとこ森から出ようか。お客さんのご用事はまた今度ってことで」
突如として発生した異変に、これ以上巻き込まれては大変だ。女性はそそくさと馬車を走らせる準備に取り掛かる為、中へ入ろうとした。
「そう、大丈夫。もう怖くないよ、お姉さん」
ケインは、彼女を引き止めるみたいに、まるで脈略のない言葉を笑顔で並べている。幼い子を安心させるように、穏やかに言い聞かせる彼の声色が、何故だか恐ろしいと感じた。彼はただの少年のはずなのに、どこか成熟した大人のようで、一致しない認識に眩暈がする。女性は自然と、その場で後退りをした。
べちゃべちゃ。
生ぬるく弾く音が聞こえた。女性はそっと、視線を下に傾ける。
ごろりと、首が二つ、落ちていた。それは、先ほどまで己の隣に立っていた、馬たちのもので。さながら鋏に切り落とされたようだった。首から血を広げていく彼らに、女性は悲鳴が漏れ出る。ぎょろっと生気のない目玉が、だらしなく垂れる舌が、今にも落っこちそうで気持ち悪かった。どっと押し寄せる吐き気に胃を乱暴に掴む。女性の思考は、混濁に飲まれていた。そのせいで、彼女は目の前に人影が近寄っていることに気がつけない。ケインは一際優しく目を細めて、女性に囁いた。
「俺が貴方を、救ってあげるから」
ジョキリ。
切れ味の良い刃物が重なって、救済の音が響いた。女性の慄然で染まった顔が、ころころと石ころみたいに転がる。彼女の表情を見つめて、ケインは血のかかった頬を仄かに緩めた。
「……おい。なんだよ、これ」
「こんばんは……いや、おはよう、かな? 相変わらず、綺麗なお顔だね」
マナロイヤさん。
ケインは人当たり良く挨拶を交わす。マナロイヤはそれに対して答えなかった。そんな彼をじっと熟視したケインは、こっくりと首を傾ける。
「……でも、なんだか顔色が悪いね?」
ぐちゃぐちゃと足音を立てながら、彼は背丈よりも大きな鋏を片手で振り払って、付着した赤を辺りに散らせる。ケインは不安そうに表情を作って、マナロイヤに近づいた。
「そう落ち込まないで……人生は失敗と不幸の連続なんだ。どれだけ努力をして、善を尽くしたとて、彼らは容赦なく俺らに襲いかかる。だから貴方が気に病むことは無いよ」
ね? と長閑に笑いかける。彼から紡がれる一言一言が、異常な包容感と不気味さを齎していた。泣き暮れる子供を慰めるみたいな視線を、ケインはマナロイヤに送る。この少年の行動に、悪意なんてものは存在しない。純粋な善意だけが、きらきらと溢れていた。
マナロイヤは微かに顔を歪ませて、彼から紅玉の瞳を逸らす。ケインはマナロイヤの様子をそっと見守りながら、ひらりとフードを揺らして背中を向けた。
「最近感じるんだ。あの子の存在を」
ケインは真っ赤に埋め尽くされた手を、己の心臓に当てる。どきどきと、割れてしまいそうなくらいに奏でられる音に、ぎゅっと指を絡めるようパーカーを掴む。高揚して頬をとろけさせる彼は、はぁ、と呼吸を浅くしていた。
「顔も名前も、何もかも忘れてしまったけど、大丈夫。俺たちは……そう、まるで運命に導かれるように、この心臓が高鳴るように、惹かれ合うんだ」
胸を握り締めながら、ケインは彼は誰時の中天に手を伸ばす。まるで、誰かに焦がれるように。
「俺とあの子が再び巡り会ったとき、この世界はやっと救われる」
星を集めるみたいに拳を握る。腕を下ろして、ケインはするりと手を広げた。ちゅん、と囀る声が鳴って、黒手袋を纏った手のひらに一匹の青い鳥が現れる。小さなその子に軽いキスをしてやると、ケインは何かを伝えた。小鳥は承ったようにまた声をあげると、翼を羽ばたかせて有明に溶け込んだ。
「だから心配しないで。マナロイヤさん、貴方は正しい」
ぱっと振り返ったケインは、喜悦を込み上げさせては笑みを満面に湛えた。彼の瞳に宿されたサファイアは、美しく、そして尊く煌めく。
「あぁ、俺の大切で愛おしい片割れ。必ず迎えに行くから、だから、どうか……」
――兄さんを、待っていて。
ありったけの愛を込めて、祈りを捧げた。ケインは最後に、 マナロイヤに微笑みかけると、再び踵を巡らせる。スニーカーの弾む音と、鋏を引き摺る音が、森へと合わさって響き渡った。
口を噤んで彼の姿を眺めていたマナロイヤは、重々しく瞼を閉じる。一つ呪文を唱えると、地面から蔓が伸びて、三つの屍に絡みつく。蔓は彼らをずるずると引き寄せて、やがて吸収されるように地へと沈んでいった。残った血溜まりには花吹雪を浸らせる。すると、その場は何も無かったかの如く、すっかりと綺麗に片付いた。空になった馬車に向けて指を鳴らすと、地中から貫くように大きな宝石が飛び出す。馬車は宝石の中に閉じ込められて、マナロイヤは再度指を鳴らした。パリン、と音がして、宝石と共に馬車も粉々に砕け散っていく。降り注ぐ輝きに、魔法を使った本人は見向きもしない。
「醜いな」
誰も見てやしないのに、自嘲気味に呟く。深く息を落とすと、マナロイヤは花弁を舞い踊らせて、森から去っていった。