第一章「死神の館」


 あれから、レドナーはまた館へと戻った。母親が死んでいたことから、レドナーの呪術は本当に発動していたようだ。使用人たちは、誰一人としてここに残っていない。原因不明の事件に恐れ慄いたのか、あの父親が不在だったというのもあったのだろう。広い館は粛々と、孤独を語っている。

 レドナーは館を、夏の国から中央の余った領地の奥深い森へと移して、更に人目を避けた。この地では、長年に渡る領土紛争が続いており、そこらじゅうが荒れ果てている。周辺には館が見えないよう結界を張っているため、こちらに被害は及ばないが、森から出ればごろごろと死体が転がっていた。彼らは望んでもいないのに、人を殺させられて、罪を背負って、辿り着く先は地獄なのだろう。せめて、せめて魂が縛られないようにと、レドナーは死んだ兵士たちを見つけては、その灯火を浄化してやる。彼らと己の終着点が同じだなんて、あんまりじゃないか。自分は相応の罪を自ら犯したが、この兵士たちは違う。神はこの子らをお見捨てになるのかと、レドナーは心を痛めた。

 そこから何十年、何百年。レドナーの身体は、契約を交わしたあの時のまんまで時を止めてしまった。成長しないこの身体は、背丈も伸びず、切ってしまえば髪も生えることはない。十五歳の姿で、長い年月を生きた。
 ジェシーは何度も、レドナーに話しかけてきた。けれど、レドナーは彼女と関わることを良しとしなかった。もう以前のように、この子にとっての兄である自分は、人間でなくなったと同時に死んでしまったから。己の選択した因果に、愛する妹を巻き込んでしまった。レドナーは臍を噛む思いが積もるばかりだった。


 ある日。冬の都にて、レドナーは村へと訪れていた。レドナーは時に、戦いを終えた地に足を運んでは、兵士の魂を少しでもと浄化してやる。そして戦禍に巻き込まれた住民たちの無垢なる魂を喰らって、彼らを楽園へと送り届けていた。何百年と世界が巡っても、対して変わらなかった。人々は争いを繰り返し、呪いを植え付けていく。彼らも自分も、愚かだった。誰もこの連鎖を、断ち切れやしない。
 辺りの魂を粗方片づけて、レドナーは森に進んでいく。その道中で、小さな子供が倒れていたのを発見した。大切そうに銃を抱えるその子には、まだ脈がある。先ほどの村の生き残りだろうか。あそこは綺麗さっぱりと焼き尽くされていて、住民は皆死んでいたはずなのだが。

「……一人に、なってしまったのか」

 ロイヤルブルーを毛先に染める黒髪の少女を、そっと抱き上げる。こんなことしてはならないと、自分が一番分かっていた。何人、いやもしかしたら何百人もの人を殺した己が、あの時のように人助けをするなんて。思い倦ねるレドナーに、少女はぎゅっと縋り付く。意識を落としているというのに、寂しい泣き声が届いた。

「……すまない」

 あぁ。この子を置いていくだなんて、自分には出来ない。聞こえない謝罪を伝えると、レドナーは幼い少女を連れ去った。
 ジェシーはその少女を見ると、大層驚いていたが、何故だかとても嬉しそうに、その子を歓迎した。少女の名前は、ノエルというらしい。レドナーはそれ以上、ノエルから情報を引き出さない。彼女の心の傷を無理矢理掘り返すようなことはしたくなかったからだ。ただ一言、いつまでもここにいてもいいと言えば、ノエルはわんわんと泣きじゃくった。そんな彼女の手を、覆ってやることくらいしか出来なかった。

 みるみると成長していくノエルは、ジェシーに勧められてメイド服を身につけると、初々しくも気に入ったようにスカートを広げた。あどけない彼女を見て、もし我が子がいればこんな気持ちだったのかもしれない。だなんて思ってしまうことに、罪悪感が増していく。
 ジェシーは昔とは打って変わって、明るくハキハキとした子になった。ノエルを妹のように可愛がる様子に、よく覚えがある。きっと、無理をさせてしまっているのだと、兄だからすぐに気がついた。シーニャの真似なんてしなくても、あの子はあの子のままで良いのに。そう言ってやりたかった。けれど、いつの間にか引かれた二人の境界線を越えることは、もう簡単な話ではない。だから、見て見ぬふりをし続けた。自分から話しかけることすら、許されないことなのだから。


◆◆◆
 

 椅子にもたれながら、窓の向こうに目を据える。話し相手もいないのに、机にはティーカップが二つ。いつものことだ。湯気を立てる紅茶を、数回息を吹いては冷ましたが、まだ飲むには早かった。紅茶に映る、草臥れた自分を見つめる。はぁ、とため息が出て、水面が揺らいだ。

 ガタリ。

 ふと、窓辺から不自然な音が鳴って、視線をそちらに変える。今日は風も吹かず、極めて穏やかな夜だ。何か動物が衝突でもしたのかと、心配に思って窓に近づいた。

「……何もいないな」
「おーい、ここにいるよ」

 ほっとして、席に戻ろうとしたレドナーに、呼びかける声が一つ。それは間違いなく、人間の発する音だった。ここはある程度、高い階に属する部屋なのに? ガクガクと、震える脚をなんとか動かして、レドナーは背後を振り向いた。
 宙ぶらりん、と頭を吊り下げて、笑顔でレドナーを覗く少年がそこにいた。レドナーは彼を認識すると、だらだらと汗を滴らせて、顔を恐怖で染め上げた。

「いやあああああ!!!!!」

 乙女の喚声、再びだった。


「美味しい! この茶はお前のお気に入り?」
「……」
「アップルパイと相性抜群だ、ほらお前もお食べ」
「……」
「食事は静かに嗜むんだね、お前は育ちが良いな。けれど僕はどうも退屈みたいでね、少々庶民のお喋りに付き合ってくれるかい?」

 空席に少年が一人、ペラペラと勝手に会話を繰り広げながら居座っている。紅茶を飲んでは、大袈裟なくらいに美味しいと絶賛して、いらないと断っているのに、やけに食べ物を推し進めてくる。初対面の少年に、レドナーは気圧されていた。彼の言葉に返事をすることなく、ただ眉を顰めて怪訝に睨む。

「……本題は」

 熱い紅茶を冷ますことなく、難なく喉に通す彼に、レドナーから話を切り出す。空になったティーカップを傾けながら、少年はこてんと首を傾げた。

「特にはないけれど」
「……は?」

 つい間抜けな声が漏れた。少年はカップをソーサーに戻すと、アイボリーの髪をさらりと靡かせる。

「お前と話してみたかった、それだけ」

 机に肘をついて、両手の甲に顎を乗せる。サファイアの瞳がレドナーを捕らえて、しなやかに細まった。本当に何でもないように、少年は答えた。彼の言葉には、偽りも濁りもない。レドナーは思わず、彼から目を逸らした。

「……俺は死神だ」

 見掛けは己の容姿と対して変わらない年齢であろう少年に、レドナーは忠言を寄せる。彼から見れば、自分が同い年程度の少年に見えているのかもしれない。だが、彼は人間で、己は死神だ。自分が少年に何をしてしまうかなんて分からない。最悪、傷つけてしまうことだって、十二分にありえる。冷然とした態度で、少年に拒否を訴えた。けれど少年は、レドナーの素っ気ない様子を見るやいなや、ふ、と笑みを零した。

「お前なんて、僕からしたら幼な子同然さ。安心をし」

 何を怖がっているんだか、と鮮やかな笑い声をあげる。包容感に溢れて、まるで父親のような少年に、なんだが大恥をかかされた気持ちに陥れられた。大きく舌を鳴らして、がばっと紅茶を流し込む。

「う……」

 じわっと、淹れたて特有の熱さが口内に染み渡る。いつもなら念入りに冷ますというのに、どうにも調子が狂っていた。舌が痺れて不愉快だ。

「猫舌なんだ。お前って結構可愛らしいね」
「黙れ」

 口籠るレドナーに、少年はお茶目に褒める。悪意がなさそうだから、尚のことイラついた。腹立ち紛れにハイヒールの踵で少年の足を踏みつけようと振り下ろす。

「おや、口と足癖は悪いんだ」

 ひょい、と軽々その攻撃を回避する。カツン、と響いたハイヒールの音に、レドナーは不機嫌に顔を顰めた。あははと喜悦で綻びを堪能させる少年は、ひとしきり肩を揺らした後に、ある部分に目線を注ぐ。

「綺麗だね」

 レドナーの左手の薬指に、讃美を語りかける。恰もそこに、誰かがいるみたいに。

「それはお前を守ってくれるよ。大切にしなさい」

 優しくそう告げると、少年はすらりと席を立つ。

「さて。腹も満たされたし、そろそろお暇するよ」
「は、おいちょっと……」
「また来るから、困らない程度に茶を用意しておいておくれ」

 置いてけぼりなレドナーを安心させるように、少年は濃紺のポンチョを揺らした。崇高なそのさまに、レドナーは口を閉ざす。にっこりと少年は微笑むと、じゃあねと別れを伝えて、窓から身軽に飛び降りた。わっと焦燥を露わにして、窓の下を覗き込むが、少年の姿はなかった。ひらひらとカーテンが揺れて、舞い散る青い羽が、レドナーの頬を擽る。一気にどっと荷が下りるみたいにため息を吐き出して、窓を閉めた。


 少年はトウカという名前だと自ら名乗ってきた。トウカはまた来る、と言葉通りに、レドナーに何度も会いに訪れた。毎回窓から飛び込んでくるので、レドナーの心臓は幾つあっても足りなかったし、乙女な部分を晒しまくる羽目になっていたのだが。品があるくせに、お転婆なところも目立つ男であった。

 彼はこの土地をシュテルンタウンと名付けて、新たに国として建て直したらしい。もう数百年と外に出なかったレドナーは、和平条約が結ばれていたことすら知らなかった。この少年は、やっぱり只者ではなかったようだ。そもそも外装を魔法で隠しているはずのこの館に、こうして訪れられる時点で怪しくはあったのだが。

 二人が会うのは大概深夜で、ジェシーとノエルはこのことを知らない。トウカは気まぐれに部屋にやってきては、茶とお喋りをレドナーに求める。彼は誰かに対してもてなす、だなんて考えは、頭にも無いようだった。お決まりのアップルパイを持参しては、大口でぱくつきながら、他愛もないような話をレドナーに持ってくる。短く相槌しか打たない自分に、彼は楽しそうに会話を広げていた。

「レドナー。一つ、質問をしても良いかい?」
「……なんだ」

 好き勝手話すくせに、今更改まることなんてないのに。ぶっきらぼうに返すと、トウカはありがとう、と微笑んだ。

「お前はこの世界のことをどう思っている?」

 先程までの世間話から、ガラリと変わったトウカの問いかけに、レドナーはティーカップを持ち上げる動作が途中で止まった。分かりやすく動揺したレドナーを、トウカは煌めく慈愛の宝石で見つめる。
 彼の質問の意図が掴めなかった。そして、この男が自分にどんな回答を求めているのかも。普段はなんでもお見通しだと言うみたいに笑うのに、今だけは違った。己の口から答えが出るのを、待っている。
 レドナーはカチャリとカップを置くと、窓の外へと視線を向けた。三日月が欠けた体から光を放っている。その輝きに、深く瞼を重ねた。

「理不尽で、残酷だ」

 彼にどんな反応を取られているのか、気になる以前に、知りたくなかった。トウカを視界に入れないように、レドナーは左手の指輪へと方向を変える。月のように純粋なこれだけが、レドナーの救いだった。リングに触れながら、レドナーはでも、と付け加える。

「この世界の美しさを、教えてくれた子がいた」

 だからきっと、嫌いになれない。

 とろけるように柔らかい桃色を浮かべて、レドナーは眉を下げた。

「そうかい。まぁ、分かっていたけれど……」

 お前の口から聞けて良かった。そう言って控えめに口角を上げる。やっぱり、彼は自分の出す答えなんてとっくに理解していた。それが気に食わなくて、舌打ちをしてやろうとする。だが、火傷がまだ治りきっていなくて、結局何も出来なかった。そんなレドナーに、トウカは我が子を揶揄うみたいに、くつくつと肩を揺らす。

「僕もこの世界を……そして、お前たちを一番に愛しているよ」

 トウカは、彼の中に満ちて広がる愛を溢れさせる。ふわりとサファイアを深めて、レドナーを愛おしげに見つめた。お前たちの言葉の中に、自分も入っている。そう知らしめられた。

「この世界が愛で満ちて、皆が幸福だと笑えるように、全てを愛するんだ。どうだい、素晴らしいことだとは思わないかい?」

 花畑で舞う妖精のように清純な顔を、心の底から幸福だと伝えるように破顔させた。嘘偽りない、無垢な愛情。それを彼は、世界に、そして全人類に与えることこそが幸せなのだと紡ぐ。

「……あぁ」

 トウカの考えが理解できない、なんてことはなかった。レドナーだって、昔に同じようなことを思ったからだ。彼の絶大なる博愛さが、実の所好ましくもあった。そして、そうはっきりと述べられることに、手の届かない羨ましさも存在した。

「だから、お前にはもっともっと、この美しい世界を知って欲しいのさ」

 ぱっと明るく声を弾ませて、トウカはレドナーの左手を包み込むように握る。
 感じたことのない温度だった。あぁ、これは、きっと。自分があの男や母親にして貰えなかったことだ。それを彼は、己に無償で与えてくれるというのか。痛々しく顔色を曇らせて俯くレドナーに、トウカは光が差し込むように覗き込んだ。

「レドナー。お前は自分の足で、再び世界へと踏み出せる日が来るよ」

 僕はそれを知っているから。

 そう告げて、トウカは優しく笑った。

「その時は、僕がお前の隣を歩いてあげる」

 彼は少し強引なところがあれど、その手で自分の手を引いたり、無理に背中を押すようなことはしない。レドナーが自分の力で呪いを解き放つのを、すぐそばで見守って、待ってくれているんだ。そして、いつだって彼は小さな体で、己を大きく包んで抱きしめてくれるのだろう。

「……それは、退屈しなさそうだな」

 困って呆れたみたいに、レドナーは笑みを見せる。
 でも、もしも自分がこの館から出られたその時、隣にいるのが彼なのだとしたら。きっと自分は、この世界のことをもっと好きになるんだろうって、また愛せるんだって、そう思った。


 コツン、と赤のハイヒールが、深々とした夜に鳴る。誰もいない教会で、バージンロードのように続く長い道を、ただ一人で歩んでいく。悄々と月光が降り注ぐそこに、膝をついた。重たい蓋を、ゆっくりと持ち上げる。白百合などの花々に囲まれ、穏やかに眠る彼に、届くことのない謝罪を伝えた。

「……遅れて、すまなかった」

 街へと買い物に出かけたノエルが、忙しない様子で帰って来て、いの一番にこう叫んだ。

 ――国王が、暗殺された。

 そのせいで街中は混乱を巻き起こしていると。それを聞いて、レドナーはあの少年のことだと、すぐに察する。本当は彼に今すぐ、会いに行きたかった。けれどこんな状況の中、死神である自分が姿を現せば、更に自体は悪化するだけだろう。葬儀が終わって暫くして、レドナーは教会に赴いた。トウカと二人で、また話をしたかったから。彼の白くて冷たい、雪みたいな頬を左手で撫でる。

「まだ残っていたら、俺が連れていってやりたかったんだが」

 トウカの魂は、もう此処にはいなかった。何となく分かっていたことであったが。

「お前は誰も、恨まないのだろうな」

 自分が居なくとも、彼は呪いに縛られることなく、清い魂は楽園へと向かうのだろう。例え人の手で殺められたとしても、トウカは誰かを憎んで呪うようなことはしない。そいつのことも、己と同じように愛するんだ。この世界が愛で溢れるように。祝福で満たされるように。どこまで彼は、清らかで無垢で、美しい男なことか。

「一緒に歩いてくれるって、言っただろう」

 嘘つき。

 長い前髪で、流れた哀しみの一筋を隠す。トウカの髪を痩せ細った指で分けて、そっと額に口付けを与える。餞別代わりの、レドナーから授けた精一杯の愛情だった。彼から離れると、棺に背を預ける。

「――♩」

 この世界で最も尊い少年が、楽園で幸福に過ごせるように。祈りの魔法を込めて、ララバイを歌った。


「あれ、先客か?」

 癖のなく、明るい声が教会内に響いた。歌を止めて顔を起こすと、扉の方へと目線を投げる。カツン、カツン、と陽気に靴音を弾ませて、男がこちらに進んできた。
 月明かりによって、男の姿が現れる。魔女帽に、ガーネット、エメラルド、シトリン、ラピスラズリを飾る男は、それらとは比べ物にもならないくらいの美麗な顔立ちだった。切り揃った茶髪を傾けて、バイオレットのケープコートを揺らす。

「……春の純魔法使いか」
「名前で呼べよ。俺にはマナロイヤって格好良い名前があるんだぜ、死神くん」

 台詞と行動が噛み合っていないマナロイヤは、気さくに笑いながらレドナーの目の前にやってくる。彼は春の国の純魔法使いだ。数百年は生きたレドナーより遥かに歳上の、神の手によって生まれた聖なる男。彼もトウカに別れの言葉でも告げに来たのだろうか。邪魔する気はないと、レドナーは立ち上がってマナロイヤを横切った。

「大事な友達が殺されちゃって、憎いんじゃねぇの?」

 マナロイヤはレドナーの左手を掴んで引き留めた。彼は変わらぬ笑顔で、レドナーに尋ねる。

「……友人なんかじゃない」

 彼が自分にとって、どんな存在だったのか。そう問われれば、何とも形容しずらかった。少なくとも、友人だなんて距離の近い真柄ではなかった。たまに紅茶を嗜みながら、とりとめのない話をするだけの関係。ただそれだけ。でも、そんな何でもないような彼は、大事な人だった。
 もう知ることはないと思っていたぬくもりを、この世界を踏み出すきっかけを与えてくれた。そして、この世界に広がる愛を教えてくれた。

「お前は、トウカが俺たちや世界に残したものを、理解していない」

 憎いだって? ふざけるのも大概にしろ。トウカが望んだ世界に、そんなものはない。彼の育んだ愛情は、ずっとこの先の未来が愛で満ちるように、人々が心から幸福だと笑えるように、永遠に受け継がれるために残された、彼の身を捧げた祈りだ。それを無下にするのなら、何もわかっちゃいないじゃないか。今を生きる自分たちが、呪いの連鎖を断ち切っていくのだ。彼の愛したこの世界が、いつまでも祝福で溢れるために。

「俺たちで終わらせるんだ。あいつの死を、きっかけとして」

 決意の漲った眼差しで、マナロイヤの瞳を貫く。

「……やれやれ、だな」

 ぱっとレドナーから手を離して、マナロイヤは肩を竦める。困り果てたみたいに首を振りながら、小声で呟いた。

「それが出来てたら、こんなことは起こってねぇだろ」

 呆れた口調で、そう零す。悠々とした態度の彼に、レドナーは眉をキッと寄せた。

「どの口が言っている……! 傍観者面をして、人間に深く干渉せずに戦争も止めなかった、お前たち純魔法使いがよくも……」
「はは、確かに! お前の言う通りだな」

 沸々と怒りをぶつけるレドナーに、マナロイヤはいたって普段通りの調子で笑ってみせる。

「んじゃ、もうやめちまうか」

 ――パパに言いなりの、傍観者ヅラ。

 そうレドナーの耳元で囁くと、用は済んだとくるっと背を向けた。フラフラと手を振りながら、レドナーに別れを送る。その刹那、彼の体がぱらぱらと、花びらとなって舞い散った。春の香りが辺りに漂って、彼の美しさが居残るようだった。

 その空気に見入っていたレドナーは、気づかない。左手の薬指に輝く透明が、微かに濁り始めていることを。


◆◆◆


 国滅事件は、世を轟かせた。全てを悪い方向へと、導くように。
 レドナーはトウカの残した祈りが消えてしまわぬよう、この事件の真相について探った。各国の王族も殺害され、力を持つ純魔法使いたちが動かないこの現状を、見放すわけにはいかない。彼が隣にいなくても、踏み出さなければ。この世界が、壊れる前に。

 けれど。

「……っはぁっ……うぅっ……」

 突然、自分の身体に異変が起こり始めた。
 ノエルを見ていると、何故だか異様に腹が空くのだ。ふわりと揺らめく灯火を、喰らいたくて堪らない。無垢なる魂への食欲が、過信するようになった。生き物の魂が欲しい、喰らってやりたい、この胃袋に収めてしまいたい。そんな欲望が、レドナーに襲いかかる。そう、まるで、人間であった部分が、奪われていくみたいに。

 大切な妹や娘を、絶対に傷つけてはならない。最低でも、食事を共にしていた彼女たちとの関わりを、レドナーは完全に断った。己を蝕むような欲望に耐える反動で、身体は段々と崩れていく。血反吐を吐いて、痛みを発散するよう壁に爪を立てて、それでも決して助けを求めなかった。身体だけでなく、脳内にもその呪いは流れてくる。

『この世界が憎い。愚かな人間どもが憎い。全てを壊してしまいたい』

 闇に染められたみたいな声色が、何十人と囁くのだ。こんなの、自分は望んでやしないのに。何れそれがレドナーの望みとなるようにと、彼らは刷り込むようにしつこく唱えてくる。何度も何度も、レドナーは抗った。

 だって、レドナーはこの世界を愛しているから。

 世界の美しさを教えてくれた人が、大事な人が、二人もいた。彼らの想いを、愛情を、死んだとしても忘れたくなかった。
 自分が父親たちを殺したときのように能力を使ってしまえば、また沢山の人々が死んでしまう。あの時は自らの意思で行ったが、今この瞬間は違った。己の意思なんて関係なく、暴走する。どろどろと悍ましく広がっていくこの呪いを受けているからこそ、断言出来た。

 なら、自分がするべきことは、一つだけ。タンスを引いて、中で己を待っていたであろう、実の父親を突き刺した、銀色のそれ。血のこびり付いたナイフを、レドナーは手に取る。恐らく、死に時なのだろう。もう誰も傷つかないように、世界が汚れないように。そう願って、レドナーは自殺を試みた。
 だが、その刃が心臓に届くことは、幾らナイフを振りかざしても叶わない。薬指のリングが、自分を止めるように、呼びかけるようにして、身体を引っ張ってくる。この子を見ているときだけ、レドナーの心に少しばかり、人間である部分が戻ってくるような感覚があった。どれだけ苦しくて意識が朦朧としても、指輪だけが彼を救ってくれる。呪いの影響で、レドナーは記憶が曖昧になっていた。もう、あの子がどんな子だったか、思い出せない。けれど、この指輪に触れると、不思議と穏やかな気持ちになっていく。まだ生きなければならない、そう言われているみたいだった。
 

 館にカロンたちが訪れた際に、レドナーはカロンを見て目を疑った。カロンは、あの部屋へと無許可に入ってきて、空いていた席に座っては、己に楽しそうに笑うのだ。その姿が、懐かしい記憶と重なる。カロンの髪色が、無邪気であどけないところが、大口を開けて綻ぶところが、彼女にそっくりだった。

 どうして、忘れていたのだろう。
 大切で愛おしい、最愛のあの子のことを。

 カロンのおかげで、あの子のことを思い出した。嬉しくて仕方がなくて、今にも泣き出してしまいそうで、眠れやしないと。ついカロンを部屋から追い出してしまったのだ。窓に映る醜い自分の容姿も、喉に湧き上がった血も、やるせなくて憂鬱だったけれど。それでも、やっと思い出せた。

 レドナーははっとして、指輪に視線を注いだ。

 あぁ、そうか。

 あの子は、シーニャはずっと、自分を見守っていてくれていたんだ。何回も死のうとした己を止めようとしてくれていたのは、この子だった。自分はいつもどうして、こんなに気づくのが遅いのだろうか。
 宝石が矢によって砕け散って、彼女が現れた。ぎゅっと抱き締められて、レドナーは瞳を閉じる。

 
 ふわりと、真っ白なカーテンが揺れる。気がつくと、レドナーはあの部屋で居座っていた。甘くて幼い、ピーチティーの香りがして、ふと目の前に視線を配る。カーテンは動きを落ち着かせて、向こう側を映した。
 自分を待っていたみたいに、肘をついて退屈そうにする彼女が、こちらを見つめていた。

「久しぶりだね。全く~私、結構待ったんだから」

 ねぇ、レン。

 にしし、と歯を見せて、彼女は月に照らされながら微笑んだ。
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