第一章「死神の館」
些か駆け足で、混み合う中華街を通り過ぎていく。レドナーの両手には、幾つもの紙袋がぶら下がっている。走るたびにガサゴソと音を鳴らすそれらをお構いなく振りながら、ようやく目当ての店にまで辿り着いた。
「おや、来たかい。そろそろだと思ったよ」
「すまない、買うものが思いの外多くて……」
「良いんだよ。ほら、ご注文のモンさ」
老婆は気にする素振りもなく、レドナーに品を手渡す。袋の中には、丁重に包装された小箱がちょこっと置かれている。覗くように箱を確認したレドナーは、透明の煌めくリングに瞳を細めた。そっとポッケにしまうと、老婆に向き合う。
「ありがとう、長らく待たせてしまったのに」
「いちいち謙虚だねぇあんた」
枯れた大声をあげる老婆は、レドナーの背中をバシッと叩く。
「おめでとう。幸せにおなり」
「……あぁ」
朗らかに、祝福を贈る。老婆はレドナーの背を、そっと押してやった。しわくちゃの手が、何より心強い。行ってくるよ、と塞がった手を振るように感謝を伝えて、レドナーは再び街を走っていった。
今日、レドナーとシーニャは結婚式を挙げる。
当然、式場なんて大層なものは用意できなかったが。自分たちには、皆で過ごしたあの家で十分だ。
シーニャに想いを伝えてからというものの、レドナーは彼女への好意を一切隠すことなく、人前だとしても彼にとっては関係のないことだった。彼女が綻べば、口からは勝手に可愛いと零れていくし、変な男や女が寄りつけば、彼女の腰を抱いて牽制を怠らない。ジェシーに対してもそうだが、レドナーは身内にはとことん甘い性分だ。周囲の者が恥ずかしくて、見ていられないくらいには。そしてシーニャにも何回か殴られた。一体何が嫌なのかと尋ねてみれば、素直で直球すぎる、と言われてしまった。少しばかり、己は発言を慎んだ方が良いのかもしれない。
式はシーニャの要望で、夜に行われることになった。レドナーと出会ったあの夜が大切なのだと、彼女は鈴を転がすみたいに笑う。
式のために必要なものを街に買いに来ていたレドナーは、少々距離のある森まで急足で向かっている。シーニャも誘ったが、ドレスの準備があるやらで珍しく断られた。ドレスといっても、カーテンをベール代わりにしただけなのだが。通りがかりに見えた遠方に広がる海を眺めながら、彼にも来て欲しかったな、とほんのり船乗りの男を過らせた。
生い茂る木々を掻き分けて、土を踏み締める。すっかり辺りは暗くなって、まあるく月が輪郭を描く。やけに今日は大きいな、とレドナーは夜空を見上げながら、足を進めた。
ざかざかと、足音がこだまする。重たい荷物が汚れないよう、拳に力を込めながら、先をぼうっと見つめた。正直、あまりぴんと来ていない。自分が誰かと、将来を誓い合っていくことに。ずっとあの家に縛られていた自分が幸せになるビジョンなんて、これっぽっちも浮かばなかったからだ。こんな名前を、喜んで貰ってくれる人がいる。感謝してもしきれなかった。意を決して、また一歩と前を歩んだ。
「ッ、レド、ナー、さん……!」
暗闇から、誰かが自分を呼ぶ声がした。聞き覚えのある幼い声色に、レドナーは駆け寄る。じんわりと視界が闇に馴染んで、目の前の人物がよく映った。
「……! おい、どうしたその傷は……!」
ぐったりとして、地に這いつくばる少年が、彼の背後から続く血痕を滴らせている。首に焼印を持つあの子だった。あらゆる箇所に、無造作な刺し傷が目立って、そこからはとめどなく血が溢れ出る。
「大丈夫だよ、すぐに痛くなくなる、今治すから……」
彼のそばにしゃがみ込んで、傷口を抑える。小さなこの子が、痛みを理解する前にと、レドナーは必死に止血しようとした。
「ぼく、のことはい、い、です」
「何を言って……!」
だが、少年はここで足を止めようとするレドナーに、苦痛な表情を強めて、拒否を示した。
「早く、行って、くださいっ……! シーニャ、さんと、ジェシーちゃんが、危ない、んです……! もう、他の人たち、は……」
なんとかチグハグな言葉を並べて、少年はレドナーに伝える。けれど、彼の口が最後まで動くことはなかった。ごぽり、と血が大量に吐き出て、そのまま体温が冷たくなっていく。
死んだ。確認なんてせずとも、分かってしまう。まだ未来への可能性を秘めていた、幼い子供なのに。
「っ……!」
俊敏に体を起こして、地を蹴り上げる。少年は最後に、彼女たちの名をわざわざ自分に知らせた。二人が危ない、と。嫌な予感だとか、それどころじゃなかった。既に、起こってしまっている。彼の亡骸を置き去りにすることを、心の中で何度も悔やんでは振り切った。荷物も捨て去って、全速力で森を駆ける。
目の前に広がる景色が、どんなものであろうとも。
「……どこにいたのかと思えば、こんな見窄らしいことを」
自分はそれを、受け止めなければならないから。
「お父、様」
長くまとめられた黒髪が艶めく。不相応にも優しく釣り上がった茶色の瞳が、こちらをギロリと捕らえた。
「卑賤なモノとつるむだなんて、馬鹿らしいにも程がある。お前は俺から何を学んだんだ?」
不快を顔に貼り付けて、父親は地面を見渡した。
そこらじゅうに散らばる、多数の人間たち。彼らは揃って、身体中から赤色を広げている。ころりと乱雑に捨てられたような死体が、父親を囲んでいた。片手に握られたナイフを一振りして、適当に血を払う。彼はもう片方の手で、座り込む小さな少女の腕を強引に吊り上げていた。
「ジェシー!!」
レドナーの叫び声に、ジェシーはぴくりと反応して、ゆっくりと顔を上げた。頭から真っ赤に流れる色が、彼女の愛らしい表情の邪魔をする。虚ろとした顔色が、ほんのりと明るくなって、嬉しそうに微笑んだ。
「おにいちゃ」
「誰がお前みたいな奴に、今話しても良いだなんて言ったんだ?」
父親は、ジェシーの微かな音色を逃さなかった。心底鬱陶しそうに見下すと、一つため息を吐き出して、彼女の腕目掛けてナイフを突き刺す。
「きゃぁ"あぁ"っっ‼︎」
「愚鈍のくせによく喚く……」
ジェシーの悲痛な叫び声なんて、この男にとっては雑音に等しかった。苦しみ悶える彼女を無視して、何度も何度も、ぐさぐさぐさぐさ、深く刃を刺し込んでいくのだ。次第に叫喚も虫の息に変わって、ジェシーはがっくりと首を落とす。
「やめろーッ!!!」
竦んでいた足が、憤怒と共に走り出した。寝転がる死骸を何とか避けながら、己の妹を守ろうと手を伸ばす。
けれど、時が止まったかのように、その手は静止した。近づいてから、漸く気がつく。ジェシーがいたから、見えなかった。
妹の後ろで、倒れ込む女性が、いるじゃないか。柔らかい桃色で満たされたその子の顔は、ベールに覆われてはっきりと確認出来ない。あぁ、だけど、分かるんだ。
もうその色が、自分に笑いかけてくれることはないんだって。
彼女を象徴する可憐な彩りが、赤く滲んでいく。その姿を、ただ見つめていた。
「どうして、こんなこと」
立つ力も無くして、膝をがっくりと地面に落とす。漏れ出たレドナーの縋るみたいな問いかけに、父親ははて、と首を傾けた。
「元々こいつらはこうあるべきだ。こうなっても仕方がないような、俺たちとは違う生き物じゃないか」
――そうだろう?
さも当たり前のように、正しいとでも信じるみたいに、何の疑問もなく彼は述べた。俺たち。まさかそこに、自分も含まれているというのか。
「あぁ、けれど、絶好の機会のようだ」
鮮やかな声を、血腥い空間に響かせる。この男から奏でられる声ですら、自分と瓜二つだ。父親は、頭を垂れさせてはボロボロのジェシーに、捨て物みたく目をやった。
「この役立たずを使う予定だったが、これだけあれば更に力が強まる」
そう言って、死にかけの我が子に続いて、転がる生き物を眺望すると、上品に口角を釣り上げる。
「何を、言っているんですか」
訳が分からなかった。彼の発したことも、今まで見せたこともないくらいの、機嫌良い笑みを飾るのも。父親はどこか楽しげに、説明を始めた。
「我がブレット家の高潔な血を絶やさないよう繋げていくには、より確固たる権力が求められる」
代々受け継がれてきたこの血が途絶えるなど、あってはならない。首を左右に振りながら、まるで民衆に演説でも行うみたいに、彼は声を張った。
「女を孕んだと聞いた時は失意に沈んだが……全ては順調に進んでいるのだと、俺は理解した」
父親は、とても我が子に向けてもいいとは言えないような視線を、ジェシーだけに送る。そこにレドナーはいない。反抗することも無く、呼吸を浅くするジェシーに、彼は呆れたみたいに目線を外した。ぐいっと無理矢理彼女の腕を上に掲げて、レドナーに見せつけてやる。
「願いには代償が付き物だろう? 贄が必要だ。そう、この愚図のようにな」
「は……?」
この男は最初から、ジェシーの出産に立ち合うこともしない。けれど、レドナーには長年謎めいた考えがあった。彼は不必要だと判断すれば、使用人たちを海に投げつけて殺していく。そもそも産まれてくるのが男でないと知った時点で、彼なら我が子だろうとも、迷いなく殺すだろう。
なら何故、そんな父親が、ジェシーを生かしておいたのか。ずっと疑問だった。でも今、その回答を、父親は出した。レドナーは彼とそっくりで、非常に聡明で、頭がよく回る。だから、あの男の思考回路を、嫌でも理解していくのだ。
どのような手段かはまだ分からない。けれど、彼がジェシーを生かしておいたのは、何かしら利用価値があると断定したからだ。言葉の通り、己の私利私欲のためだけに。
「良かったじゃないか。価値もなく死ぬ前に、生まれた意味が出来て」
俺とお前のおかげだな。
身体に刻み込むように、父親はレドナーに言い放った。ばっとジェシーの腕を乱暴に振りほどく。その衝撃で、ジェシーは重たい音を立てて、シーニャに覆い被さるように崩れ落ちる。
「さぁ、生贄はたんまりと用意した」
父親は上質なスーツの裏側から、紐に括られた紙を取り出す。月光を仰ぎながら、ナイフを放り投げて、高らかに歓声をあげる。するりと紐が解けて、古びた契約書が広がった。紅く刻まれた父親の名前が、月を見上げる。
「今その姿を我に現せ、死神 ハンナ よ!」
父親が呪文と共に、偉大なる名を呼ぶ。死の神だなんて禍々しい種族に到底相応しくない、神に愛された慈しみある名前を。契約書に記された父親の名前は、どろりと形を変えて滴っていく。汚らしい血液が、一粒落っこちた。
そうすると、契約書から瞬く間に光が渦巻いた。レドナーの身すらも、簡単に吹き飛ばしてしまいそうなその威力に、ぐっと耐えるよう地面にしがみつく。暫くして、辺りに静寂が囁いた。レドナーは恐る恐る、瞳を開ける。
「……」
満月を背景に、それは姿を現した。白百合が咲き誇るような色素の薄い肌。何にも犯されることのない、白く伸びた髪。鮮明でありくすんだ、血を宿したみたいな瞳。悪魔のように、尖った耳。宙に長身を浮かべる女性は、大方二百センチ近くある身長よりも大きな鎌を背負う。
父親の書斎で見た、あの絵の人物とは異なるものの、彼女はよく似た容姿を持っていた。
「私の名を呼んだのは、お前だな」
月明かりに照らされる女性、ハンナは、周りを観察することもなく、レドナーを見つめた。
「え……?」
「おい、ふざけるんじゃない。お前を呼んだのはこの俺だ」
彼女に選ばれて、あんぐりと口を開けるレドナーの隣で、父親は理解不能だと腹を立てて口を挟む。ハンナは、首を回すことも無く、光の灯らない瞳をぎょろりと父親に射抜いた。
「その口を閉ざせ、穢らわしい痴れ者が。身の程を知れ」
如何にも嫌悪を表すように、ハンナは父親の抗議を許さない。体験したこともない未知の恐ろしさに、父親は息を呑んだ。それを横目で流すと、ハンナは黒のマーメイドスカートを靡かせて、レドナーに近寄る。
「お前の願いを聞かせてもらおう」
困惑するレドナーに、ハンナは尋ねた。彼女はどうして、父親ではなく己に問いかける? 恰も初めから、レドナーに会いに来たみたいじゃないか。願いだなんて、何を? 何を彼女は、求めている?
「チッレドナー! 最悪お前でもいい、さっさと俺の望みを死神に伝えろ! これはお前のためでもあるんだぞ!」
舌を鳴らして、父親はレドナーにがなり立てる。やけに必死こいて訴える彼は、こちらに駆けつけようと脚を動かす。
「邪魔だ!」
ガッと、ジェシーとシーニャを跳ね除けるよう、その足で蹴った。
雑然とした脳内が、一挙に寝静まる。ぐったりと転がっていく彼女たちを見て、頭が真っ白になった。でも、そう、漠然と自分は、こう思ったんだ。
――こんな男、さっさと殺しておけば良かった。
って。
妹に暴力を振るうときも、母親を愛さない姿も、使用人を殺していくときだって。父親のことを恨まなかったことはない。でも、ちっぽけな子供一人じゃ敵わない相手だから、そんなこと考えなかった。だが、今はどうだ? 己が選択すれば、その考えは叶うんじゃないのか。あの忌まわしい男を、この手で……いいや、はは、違うか。
「……俺の願いは」
「ブレットの名を持ち、血の流れる人間を、根絶させることだ」
風が吹いて、薄らと微笑んだ。
「おまっ何たわけたことを……!!」
この醜い男だけを殺したとて、意味がない。この一族の人間が少しでも残れば、彼らはまた繰り返す。連鎖と呪いを。でも、そんなことは、もうおしまい。全員余さず根絶やしにしてやれ。父親も、己も。
狂ってるって? だろうな、知っている。あの男と同じように、自分だって生まれたときからおかしいんだ。だって、俺はレドナー・ブレットだから。なぁ、そうだろう?
「……その願い、承った」
レドナーの返答を聞くと、ハンナは頷く。その仕草は、やっぱり分かっていたように見えて、なのに何故だか悲しげにも映った。
ハンナは傷つけないよう、シーニャからベールを外す。純白に哀の色が乗ったそれを、レドナーに被せた。地に足をつけると、そっと手を握って、レドナーの体を引きつける。くるりと優雅に曲線を描いて、彼女の長い髪が己を包んだ。緩やかなステップを刻んで、月夜の下で踊りを舞う。自然と靴が脱げて、裸の足で光と影を交互に叩いていく。ふわりとベールが靡いて、それと一緒に、自分の髪が揺れた。真っ黒だった色が、段々と白に変わっていくのが見えて、それでも踊りは終わらない。黄金色を輝かせていた満月は、いつしか血のように赤く熟れて、それに染まるようにレドナーの瞳も同じ色を新たに宿した。
ハンナは動きを止めると、レドナーからベールを脱がせた。大きく尖った耳を撫でて、流れるように頬に触れる。彼女のことを恐ろしい、だなんて形容したが、それは誤りだと知った。壮麗で、純潔で、名状し難いほどに神々しい。ハンナは熟とレドナーを見つめると、幼い彼の唇に唇を重ねる。じんわりと、苦い味がして、唇が離れていく。まるで恋のような、そんな味。
「これは契約だ。代償として、お前は人の理を外れた死神となる」
「その手で、願いを叶えろ」
ハンナは、レドナーの足元に指をさす。銀色の光を集めるナイフが、レドナーを呼んでいる。吸い込まれるように、手に握った。
「まっまてっ待て!! 育てられた恩を裏切るのかっ!? 俺はお前の実の父親なんだぞ!?」
狼狽えて恐慌に顔色を青ざめさせる。彼は腰を抜かして、自慢の上製なスーツにズボンを地面で汚した。後退りする父親に、レドナーは軽い足取りで近寄っていく。
この期に及んで、こいつはまだこんなことを言っている。お前が育てたからこうなったというのに。お前が死ぬ理由だなんて、はっきりしているじゃないか。
「お前が俺の父親だからだ」
有らん限りの赤色が、己に飛び散り返ってくる。もう息の根が止まっていると分かっていても、振り下ろす手は止まらない。何度生まれ変わっても殺してやると、繰り返し刃を突き刺す。
「……」
酷い有様だった。この男に相応しい、本来の姿が。
頬についた血を拭って、レドナーは己の腕にナイフを刻みつける。ぼとぼとと流れていく穢れに、呪いを込めていく。下へと落ちたそれは、自ら動きを進めて、すらすらと魔法陣を描いた。陣の中心に立つレドナーは、ふっと瞼を閉ざす。
脳裏に浮かべるのは、母親や親戚、顔も知らない親族……すなわち、ブレットの血が流るる者たちだ。レドナーは胸の前に手を伸ばすと、グッと一思いに、心臓を握りつぶすみたいに、力を強めた。
ぐちゃり。
聞こえもしないはずの不快な音が、数え切れないくらいに届いてきた。生暖かく震える自分の手で、この瞬間、大人数を殺している。同じ血を持つ者人間どもを、この手で。
ぱたりと能力が切れて、腕を力無く下げた。あぁ、これが呪術。なんて禍々しくて、己に似つかわしいんだろう。枯れた笑みを漏らしながら、左手に掴んだナイフに視線を投げた。最後の一人が、まだ残っている。安堵して、心臓に銀色を突き立てた。
「……っまって、おにいちゃ、ん」
「!!」
後ろから、か細い声が鳴る。はっとして振り返って、咄嗟に走り出した。声の主の元へ駆け寄ると、レドナーは血まみれの体で妹を抱く。
「ジェシー……!」
まだ、生きている。けれど、もう時間は迫ってきているようだった。レドナーは呪術を使う際に、ジェシーを頭数には含めていない。この子だけは、自分たちと違って綺麗で、優しくて、可愛い。そんな特別な子だったから。
ジェシーはおぼつかない手で、ぎゅっとレドナーの胸を掴む。
「わたしも、いっしょに、つれてって」
途切れ途切れに、色を失った小さな唇を動かす。なんて残酷なことを、この子は言うのだろう。
「そんなこと、出来ない……お前を殺すなんて、俺には……!」
「ちが、う、よ……」
彼女はゆっくりと首を振る。啞然とするレドナーに、ジェシーはガクガクと腕を浮かしながら、指を向ける。その方向は、己の最愛の人を示す。命の灯火を失ったはずの彼女から、ふんわりと、今にも消えそうな灯りがあった。驚いて目を凝らすレドナーだったが、それはシーニャのものではないと、死神となったレドナーには分かる。なら、一体……
「……まさか」
そんな、そんな、そんな。まさかそんな、そんな馬鹿な。
放心して呼吸も止まりかけるレドナーに、一つの解が襲いかかる。
死んだあの子の体から生まれた、もう一つの命。
どうして、知らなかったのだろう。ジェシーが自分を引き留めた時点で、あの子がこのことを把握していたことは確かなはずだ。あぁ、でも、そうだ。彼女は、ここ最近外出を控えたりしていた。己との未来のことを、よく話すようになった。ほんの少しの変化に、何故気づいてやれなかったんだ。気づいていれば、知っていれば、その子まで殺すだなんてこと、しなかったのに。紛れもなく、その子には自分と同じ血が通っている。呪術の影響を、受けてしまっている。空気に溶けるように、火が消えかかるその様子を、溢れてくる涙を零しながら見つめることしか出来なかった。
「ね、ぇ、おにい、ちゃん」
ジェシーはまろい指先で、レドナーの涙を掬い取る。ぐっと身を寄せて、聞いて聞いて、とあどけなく囁いた。
「わたしと、約束、しよ、う」
――あの子を、助けるの。
ジェシーはへへ、と無邪気に微笑んだ。
笑みを最後に、ふんわりと、彼女の手が頬から落っこちていく。体の重みがレドナーにかかってきて、ジェシーの腕がぶらんと垂れ下がる。もう、妹は話さなかった。話せなくなってしまった。
「ああぁ……っ……嫌、嫌だ、そんな、ジェシー、ジェシー……‼︎」
どれだけ揺さぶっても、ジェシーは言葉を返さない。自分の腕の中で、亡骸となった妹を、レドナーは泣き崩れながら抱きしめた。どうして、嫌だ、お願いだから目を開けて。そういくら祈っても、自分の声は届かない。
「レドナー・ブレット」
見るに耐えないほど、顔をぐちゃぐちゃにしたレドナーに、ハンナは淡々と彼の名を呼んだ。
「お前はまず、その手で願いを叶えた。私自ら手を下していない。お前に代償を与えた、それだけだ」
私はまだ、お前の願いを叶えていない。
そう告げる彼女に、レドナーははっと、瞬きをする。あたたかい雫が、頬を伝っていく。
「そして……」
ハンナは、じっとジェシーを眺める。まだ僅かに残る灯火を目に入れた。
「妹の願いも、叶えてやるんだ」
お前にもそれが出来るだろう。そう教えるように、ハンナは薄汚れたベールをレドナーに授ける。月はまだ、赤く染まっていた。
レドナーは、ジェシーにベールを被せてやる。ふわりと立ち上がって、満月を仰ぐ。己がハンナとしたように、死んだ妹を抱き上げながら、可憐な踊りを舞った。次第に変化していく髪色や耳に、レドナーは静かに落涙する。動きをやめて、ベールを剥がすと、冷たい唇を触れ合わせた。また同じように、苦い味が心にとくと広がる。微かに瞼が動いて、ジェシーの瞳が開いていく。自分と揃った、朱色が丸く輝いた。
「ジェシー。これは、お兄ちゃんとお前の約束だ」
どんなことを、お願いする?
顔を侘しく歪めて、それでもこの子に悟られないように、優しく問いかけた。ジェシーはそんな兄を見ると、嬉しそうに頬を緩めて、笑顔を咲かせた。
「あの子を、助けて」
細い小指を、レドナーの小指に絡める。レドナーは彼女の願いを聞くと、瞳を細めて肯定を伝える。そっとジェシーを地面に下ろして、あの子たちのところへと歩を早めた。
「……シーニャ」
彼女に、レドナーは話しかける。桃色がこれ以上汚れないように、己の膝に乗せてやると、愛おしげに頭を撫でた。
「俺はお前とは、生きていけない」
眠る彼女の腹部に、魔力を込めて手を置いた。じわじわと巡っていく生のエネルギーは、小さなその子の細胞や臓器を再生させてゆく。
人の理を外れて死神となり、父親や母親に限らず、関係のない人々を呪術で皆殺しにした。そして、我が子をこの手で殺めた。そんな己は、この子たちとは歩んでいけない。
「すまなかった、断ち切れなかった。俺も結局、お父様と何もかもが同じだったんだ」
そろそろと涙を流しながら、赦されることのない罪を嘆く。
彼女は、己に絡みつく呪いを解き放ってくれた。けれども、それでも、駄目だった。自分が レドナー・ブレット である限り、この呪いを解くことは出来ない。穢れ切った今の姿が、その証明だった。
レドナーは、ポッケから小箱を出して、中に眠っていたリングを外す。己の指に嵌めたあと、華奢な彼女の薬指にも、同じものを宿した。きらきらと無垢に煌めくそれは、まるでこの子のようだった。
「ハンナ、彼女を生き返らせてくれ。それが俺の願いだ。後、もう一つ……」
――シーニャから、俺の記憶を消してくれ。
きっとそれが、彼女のためだから。自分とこの子が出会ったことは、間違いだったから。
明るくて、幼くて、どこまでも純粋な愛する人。この子は自分なんか忘れて、誰よりももっと幸せになるべき人なんだ。
「……分かった」
端的に言葉を返すと、ハンナはシーニャの心臓に手を乗せる。ふわりと光が溢れ出て、それらはシーニャの身体へと吸収される。少しずつ温度が戻っていくのが、レドナーにも伝わった。
ふと、桃色の瞳が開いて、彼女が生き返ったことを確認する。シーニャは忽ち焦ったように、レドナーへ何かを伝えようとした。そんな彼女に、レドナーは目尻を下げて、柔らかく微笑む。すらりとシーニャの目を左手で覆って、穏やかに囁いた。
「ずっとお前を、愛してる」
最後の愛を、彼女に告げた。
するりと、力を奪われたように、シーニャは再び眠りにつく。安らかな寝息が耳に通ると、レドナーはシーニャから離れて、自分を待つ妹の元へと歩んだ。へにゃりと座り込んで咽び泣くジェシーを、ぎゅっと抱き締めてやる。そんなに泣かないでくれよって、声を裏返させては強がった。
「レドナー・ブレット、ジェシー・ブレット」
ハンナの厳かな声が、二人によく響いた。
「お前たちの死に時は、今では無い」
小さな兄妹に歩みを寄せながら、彼女は語る。ハンナは二人を、まっすぐに見つめた。
「これは預言だ」
表情一つ変えずに、彼女は神聖な髪を揺らした。
――――――。
ハンナは、彼らの遥か遠い未来を言い渡す。二人は、不思議に朱色の瞳を見開いた。
「人を殺めるな。旅を終えた無垢の魂だけを喰らえ」
そして……
「人間であったお前たちを、決して忘れるな」
ハンナは林檎色の瞳で真剣な眼差しを送った後、二人の手を掴むと、自身の胸へと押し当てる。どくどくと、なだらかな鼓動が波立っていた。彼らがその音を聞いたのを確かめると、ハンナは手を離して、ふわりと踵を返す。
「時期に人が来る。その女は助かるだろう」
眠るシーニャに視線を配りながら、彼女のこの後の安否を教える。ハンナは、もう一度レドナーたちに振り返って、念を押すように繰り返した。
「私の言葉を必ず忘れるな」
そう言い残すと、ハンナは月明かりに溶け込むように、姿を消していった。
レドナーとジェシーは、その様子をただ眺めた。満月は体を黄金色に戻して、夜空に唄うみたいに輝きを照らしている。この夜の出来事を忘れたことは、一度もなかった。