第一章「死神の館」


 忙しない三人分の足音が、口を閉して閑静な夜の街を駆け巡った。行き先は決まっている。足先に馴染んだ道を、曲がって、曲がって、ただ走り抜けていく。はぁ、と激しい息づかいに気がついて、レドナーはジェシーをおぶってやると、真っ直ぐに力走した。隣には、桃色を煌めかせる彼女がいる。シーニャはこちらを一瞥すると、屈託のない笑顔を見せた。いつだって、彼女は己に光を与えてくれる。

 ぱっと視界が開けて、反射する輝きに瞳を掠めた。満遍なく満ちたマリンブルーが、宵の紺に姿を変える。水面をゆらゆらと、黄金色の小魚が泳ぐように、月明かりが浮かんでいた。
 母なる海につい見惚れていたレドナーは、ある人物が目に入った。海に腰まで体を浸からせて、長く白いコートを、羽のように広げている。穏やかな潮風が吹くのと一緒に、こちらをゆったりと振り返った。

「準備は出来たみたいだね」

 長いまつ毛に隠された、マリンブルーの瞳をゆらめかせて、男は妖艶に微笑む。人間とは思えぬほどに、悍ましく美しい。船場に寄り添う小舟に誘導するよう、男は指を指した。


 心地よく波が打つ。思いの外しっかりとした船に、レドナーは体重を預ける。船乗り……かはさておき、櫂を漕いでいた男は、暫くするとその動作を終えたように止めた。船はただ浮かんでいるだけなのに、不思議と海面を滑らせていく。
 レドナーは代金を渡そうとしたのだが、男はそれを必要ないと断る。何度言っても結果は同じであったので、彼の親切心に甘えることにした。一息つきたい気持ちは山々だが、まだ油断は出来ない。いつ父親が追いかけてきても、おかしくない。警戒して、少し遠くなった街を見返った。

「誰も来やしないよ。安心して」

 白の混じった金髪に、海や瞳とよく似た雫型のピアスを靡かせて、男はレドナーに声をかける。

「もし来たとしても、大丈夫」

 ふわりと、端麗な唇に弧を描く。男は、透き通る海原の如く、何もかもを見通したように囁いた。海底から波が押し上げて、船を僅かに揺らす。果てなく広がる海が、男に答えるみたいにザブン、と音を立てた。

「駆け落ちだなんて、ロマンチックだね」

 嫌味じゃないよ、と男は背後を見やる。改めてそう言われ、レドナーは表情を苦くしてしまう。すぐそばで、眠りにつくジェシーの背を摩っていたシーニャは、レドナーと違って、男の発言にからっと笑い声を出した。

「そっかぁ、これって駆け落ちになりますね。いや〜思い切りましたよ」

 るんるんと音符を弾ませて、シーニャは愉快に体を揺らす。
 愛する人の夢を叶えてあげたい。その一心で、レドナーはシーニャを連れ出した。この選択が、本当に彼女の為になったのか、自信が無かった。けれど、彼女がこんな風に笑顔でいてくれるのなら……

「坊っちゃん、これからどうします?」

 シーニャは、さほど思い詰めた様子もなく、レドナーに問いかける。ひとまず国境を越えて、他国へ逃げるために船に乗り込んだは良いものの、これといった当てがある訳でもない。深く思考するレドナーを見ると、男が口を出した。

「せっかくだし、色んな国を回ってみるのはどう?」

 水平線の遥か先を眺めながら、男が提案する。一定の場所に留まるのも、リスクが高いことには違いない。ならば、男の言う通り、他国を渡り歩く方が英明だ。

「なんなら、俺が船を出してあげるよ」
「いや、そこまでしてもらう義理がないだろう」
「俺が良いと言っているのに、遠慮なんてするんだ。どうせずっと暇だから、丁度良いんだけどな」
「お兄さんもこう言ってくれてるんだし、良いじゃないですか!」

 ね〜? と絡むシーニャに、男は変わらず静かに微笑むだけだ。無駄に頭を動かしても、意味がないのかもしれない。あの家を抜け出した時点で、行動を成り行きに任せることは決まっているようなものなのだから。降参するみたいにため息を落とす。シーニャはレドナーの眉間をちょんちょんと突いては、満足げに歯を見せた。そんな二人の様子を、男は黙って見守る。水面にそっと指先を沈めながら、世界を包み込むような大洋を凝望した。


 レドナーたちは、様々な国へと訪れた。
 まずは秋の国に隣接する、冬の国に足を運んだ。街全体が白い雪で埋め尽くされたそこは、厳かで美しい。夏生まれのレドナーやシーニャには、環境が合わずに慣れるための時間を有したが。ジェシーが自分たちと比べて、平気そうだったことが何よりだった。路上で売られていたシチューがこれまた美味しくて、レドナーはよくそれを頼んでは体を温めたものだ。
 ここでは年に一度、冬の王が国中の子供達にプレゼントを贈る日があるらしく、住民でないジェシーにも彼は平等に欲しいもの与えてくれた。レドナーも一緒に貰ったのだが、子供扱いをされることはどうも歯痒い。そんなレドナーにも、王は優しく頭を撫でた。
 
 春の国では、和やかな空気に舞い散る桜が印象的だった。その花は、落ちるたびに層を重ねて、地面に絨毯を作るのだ。シーニャとジェシーは、服が汚れることも厭わずに、大の字で寝転ぶ。シーニャに引っ張られて、レドナーも道連れになったが。この国には農村も多く広がり、豊かな草原がそよ風を呼んでいる。レドナーは初めて畑を耕したり、牧場で牛と触れ合ったりもした。力仕事が多く、良いとこ育ちのレドナーやジェシーには大変な作業だったが、シーニャは軽々とこなしていたのが頼もしかった。
 また、この国では、初代の王の子供が女性であったという昔話がある。我が子を穢れから守り、健康を祈る。その為に、王は子供の不幸を肩代わりしてもらうよう人形を作って、厄払いを行うという伝統的な文化が存在した。その日には、住民はみんなで人形を作っては、特に女の子への平穏を願うのだ。レドナーは妹に向けて人形を製作すると、ジェシーは嬉しそうにその人形を眺めていた。シーニャはというと、菱形の餅や海鮮と酢飯が合わさった料理を、大量に平らげている。よく食べるな、とレドナーも彼女に負けず劣らず食したのだが。
 
 最後は、レドナーとシーニャの故郷でもある夏の国だ。燦々と照り輝く太陽が、眩く懐かしい。人々が華々しく賑わう中華街には、色んな店が立ち並んでいる。出来立ての中華まんの香りがよく漂っていて、シーニャは白黒の個性的な熊の顔がついたものを頬張っていた。レドナーはなんとなく可哀想な気がして、無難なものを選ぶ。だが、ジェシーもあまり気にせずに齧り付いていたので、そういうものなのか……と切なげに崩壊してゆく熊を見つめた。他にも、色鮮やかに飾られた和傘の専門店や、何やら怪しいオーラが渦巻く占い屋など、幼少期に見覚えのある店が連なる。
 ふと、レドナーの視界に、あるものが映る。きらきらと透明な体から光を放つそれは、天然石を扱う小さな売店からだった。

「……おや、お客さん。見る目があるねぇ」

 店の奥から、背を丸めた小さい老婆が、杖をつきながら姿を現した。

「これは希少なものなのさ。春の純魔法使いさまが生み出されるものと同じくらい、純粋で綺麗な石なんだよ」

 老婆はレドナーに、その宝石を手渡してやる。濁りも曇りもない、澄んだ色。レドナーは割れないように両手に乗せると、つい見入ってしまった。宝石なんて、レドナーからすれば高価なものでも、珍しいものでもない。けれど、本物がこんなに美しいものだったなんて知らなかった。

「いるかい?」
「いいや、生憎今は手持ちがないんだ。期待させるような素振りを見せてすまない」
「なら、取り置きをしておいてあげるよ」
「……良いのか?」

 予期せぬ提言に、レドナーは少々驚く。老婆はにっこりと、皺を深く刻んだ。

「お客さんみたいな人に貰ってほしいんだよ。あたしもその子も、嬉しいモンさ」
「……ありがとう。少し先にはなるが……また必ず伺うよ」

 手の中で耀う宝石を老婆に返すと、レドナーは遠くから自分を呼ぶ声が聞こえて、丁寧に会釈をして店主に別れを告げた。


 無限大に浮かび上がる星々を、贅沢に天井にしてレドナーたちは夜空を仰ぐ。
 今日は、夏の都にとって大事な日だ。天に流れる光の帯、住民はこれを天の川と呼んでいる。雨が降り注ぐこの国で、皆が一丸となって晴れを祈る今日という日は、この天の川を見るためでもあった。

 民に知れ渡る話が一つ。とある男と女は、一年に一度だけ会うことを許される。離れ離れとなった彼らは、巡り会うために天の川を渡らなければならない。しかし、雨が落ちれば、川を渡ることが出来ないのだ。そんな二人の再会を願い、人々は短冊に願い事を記して、笹竹に飾っていく。

 今となってはおとぎの昔話に基づいた、お祭りごとのようなものである。きっと誰も、男と女のことなんて考えてはいない。でもまぁ、祭りなんてそのくらいで良いんじゃないか、とレドナーも自分の願望を考え込んだ。
 暮らしはまちまちといったところで、やはり肩の力を抜いたりは難しい。金だっていつ底をつくか分からないので、出来れば安定した仕事がしたい……などと思考しているうちに、筆に墨をつけていたのもすっかり忘れて、固まった筆先を慌ててほぐした。

「お二人はなんて書きましたか?」
「えっと……みんなの健康、かな」
「ジェシー、もっと自分のしたいことを書いて良いんだよ。俺とシーニャは丈夫だから、心配は不要だ」
「そうですよぉ! 私なんて大金持ちですよ?」
「お前……」

 お世辞にも綺麗とは言えない文字で、シーニャは大きく夢を掲げた。大きければ大きいほど叶うとでも思っているのだろうか。彼女にはつくづく振り回されっぱなしだ。

「無計画にこんなこと願ってませんからね? 叶えるために書いたんです」
「……というと」
「パン屋、やりません?」

 シーニャは至って真面目に、レドナーに持ち出した。

「……パンにこだわる理由は?」
「いやぁ、名案なんですけどね? ブレットさんがブレッド作ってたら面白いと思うんですよ。ブレットさんのブレット屋……滅茶苦茶良いのでは?」

 聞いて損をした。ふざけたようなシーニャに、またしても頭を抱えさせられる。何の根拠もない思いつきじゃないか。呆れて元気も失ったレドナーだったが、シーニャは彼女なりの真面目な姿勢を崩さなかった。

「坊っちゃんは料理上手ですし、絶対いけますって! 夏の方じゃ、秋で売られていたような料理は見かけませんし」

 それに、とシーニャは言葉を足す。

「ブレットって名前だって、こんな風に面白くしちゃえるんですよ」

 子供が親に自慢するみたいに、シーニャはレドナーに笑いかけた。レドナーは、持っていた筆を微かに震えさせる。はっとして彼女の方に顔をあげたが、シーニャはジェシーの手を引いて、短冊を飾りに行ってしまった。二人の後ろ姿を見つめながら、レドナーは白紙の短冊と向き合う。
 一体、何を悩んでいたのだろうか。自分はあの二人が幸せなら、何もいらないというのに。彼女たちの幸せが、己の幸せなのだから。一つ瞬きをして、墨汁の滴った筆を滑らかに動かす。完成した紙を軽く見返すと、レドナーもシーニャたちの元へと向かおうとした。

「……雨、か」

 ぽつりと、頬に細やかな雨粒が落っこちてきた。短冊に色づいた墨は、雨に濡れてじんわりと滲んでいく。早いところ飾るべきだな、とレドナーは早足で歩を移した。


◆◆◆


「シーニャちゃん、これを一つ頼めるかい?」
「レドナーくんは今日も男前だねぇ。あぁ、いつものをお願いするわ」
「ジェシーちゃん、慌てなくても大丈夫よ。ありがとうね」

 昼間の路上に、人だかりが生まれる。その中心で、三人の子供たちが何かを配っていた。

「はーい! 毎度あり〜」
「そんなことないよ、おばあちゃん。いつもありがとう」
「わっわっ……! ご、ごめんなさい……へへ、お待たせしました」

 三人は沢山の人に囲まれて、休む暇もなく接客に追われていた。
 シーニャが真剣に提案してきたパン屋を、レドナーは試してみる価値はあるかもしれない、と早々に実践してみることに。元々レドナーは料理をすることが好きだったので、作る際にそう困ることは無く、何度か試作を重ねていった。お坊ちゃんのくせに? と突っ込まれるかもしれないが、趣味の一環としてたまに作っていたレベルだ。大したものじゃない、と謙遜するレドナーであったが、あまりの手際の良さに、シーニャとジェシーは開いた口が塞がらない。趣味を徹底的に追い求められる性格には憧れるなぁ、とシーニャは遠い目をした。
 問題は、商品が売れるか、という点であったが、これもすんなりと解決する。シーニャの持ち前の積極性や親しみやすさが発揮されて、客は簡単に集まっていった。夏の国の住民は、揃ってフレンドリーな者が多かった、というのも大きいだろう。この国では基本的に米穀が主食とされていたのもあって、小麦で作られたパンは珍しい食べ物なのだ。手軽で美味しい、とレドナーたちのパンはあっという間に人気になって、今では大盛況だ。ジェシーもシーニャを見習って、拙いながら勤しんでいるようだった。

 今日もパンは、住民たちの手に渡って、広い籠を空にした。最近だと、シンプルに耳のついたパンが人気らしい。レドナーはメモを取りながら、次の案の構想を練る。その隣で、シーニャとジェシーはわいわいと喋りながら、クッキー生地に覆われたパンを仲良く半分こしあっていた。

「……あら? あの子、あんなところでなにしてんだろ」

 シーニャは、饒舌に動かしていた口をぴたりと止めると、道の端に目線を送る。
 木の棒みたいに枯れて、今にも折れてしまいそうなほどに痩せこけた子供が、体を丸めてがくがくと震えている。その子供の首に、焦げついた印が見えて、レドナーとシーニャはぎょっと目を大きくした。

「焼印……!」

 夏の都には、人身売買が盛んな闇市が存在する。彼らは攫った子供たちを奴隷として、高値で貴族に売りつけたり、過酷な労働を強いた。
 その中でも、売れ残ってしまった子供達には、とある行き場がある。奴隷商人は、そこを闘技場と呼んでいた。下劣な大人たちは、退屈潰しとして、自分の所有する子供たちを闘技場で競わせる。それはただのお遊びなんかじゃない。命を懸けた、殺し合いだ。子供たちは、売れ残りの証、そして闘技場送りの証として、焼印を体に刻まれる。視力の弱まった老人でも気づくくらいに、傷は大きく目立つ。
 あそこにいる子供も、いずれ闘技場に連れて行かれるのだろう。シーニャとて、レドナーの父親に買われることがなければ、今頃そうなっていたはずだ。きっと子供も主人の元から逃げ出してきたのだろう。けれど、そんなことをしたとしても、あの子の結末は決まっている。レドナーは何かしてやれないかと、胸を苦しく痛めた。

「おーい! そこの少年!」

 ばっと席を立って、シーニャはあろうことか子供に大声で話しかけた。びっくりして言葉も出ないレドナーに目もくれず、シーニャは軽快に走り出す。顔を埋める子供に、シーニャは覗き込むようにして目の前に屈んだ。

「ひっ……! ご、ごめんなさいっ!」
「いやいや、君はなんにも悪くないから大丈夫。それよりほれ、これでもいかが?」

 反射的に身構えては、怯えて顔色を蒼白にする子供に、シーニャは明るく声をかける。いつもの調子で、彼女は食べかけのパンを差し出した。

「……え……?」
「腹ペコでしょう?」
「で、でも……ぼくは、ご飯を食べていいような、人間じゃないから……」
「んなわけあるかーい! つべこべ言わずお腹に突っ込んじゃいな!」

 おろおろと視線を泳がせる子供に有無を言わせることなく、シーニャはその口にパンを突っ込んだ。

「……! おいしい!」
「むふふ、そうでしょう~」

 子供はきらきらと幼気に瞳を輝かせる。もう長らく、しっかりとした食事も摂れていなかったのだろう。粗めに振りかけられた砂糖とクッキーの生地が、ざくざくとハーモニーを奏でる。シーニャはそれを見て、口角を上げてはドヤ顔を決めていた。

「ねぇ少年。美少女お姉さんからの提案なんだけどさ」
「……?」
「毎日美味しいご飯が三食ついてきて、寝る時は身を寄せあってあたたかく夢に飛び込める。その代わりに、君には仕事の手伝いをしてもらう」

 どうでしょう? とシーニャは破顔する。子供は、忽ち表情を朗らかにして、シーニャに抱きついた。彼女の近くに歩んできたレドナーに、シーニャはにししとピースを向ける。

「仕事仲間ゲット! 人数不足だなぁと感じていたところです!」
「……ははっ俺もだよ」

 つい砕けた笑みが零れた。同じような境遇の子供に、見て見ぬふりを無意識にしてしまっていた己が恥ずかしい。
 生きるためにはお金が必要で、稼いでいかなければならない。だけれど、自分たちがするべきことは、こういうことなのかもしれないと思った。

 足りない人たちに、与えていく。善人ヅラをした綺麗事となんら変わりない。それでも、無償の愛を与えられた子たちは、それらを繋ぐようにまた愛を与えることが出来るはずだから。この子供だって、きっとそうだろう。ボサついた頭を柔らかく撫でてやると、少年は嬉しそうに綻んだ。


 少年を迎え入れてからというものの、レドナーらは行先で出会った、行き場をなくした人々に手を差し伸べていった。少年と同じように奴隷として生きてきた者。戦争で家族を失った者。何処からか逃げ出してきた者。皆理由は異なるが、どんな人であれ、レドナーたちは対価を求めずに焼きたてのパンを与えては、仕事仲間として歓迎した。
 そのお陰か、みるみると人数は増えていき、店の運用ももスムーズになって、不安の種であった収入も安定した。今までは街を渡り歩いて販売していたが、心機一転して森に店を構えることになり、レドナーたちはそこで新たに生活を始めたのだった。一筋縄ではいかないことだらけだが、店も緩やかに繁盛していき、みんなで支え合って日々を過ごしている。


「うん、これ美味しい。塩とバター? が合わさると、こんな味になるんだ」

 船乗りの男は一口パンを齧ると、おぉ、と驚いては賞賛を称える。船場に腰をかけながら、レドナーは片手にパンを拵えて、夕日も沈んだ時間に男と雑談をしていた。

「ジェシーが作ったんだ。形は歪だけど、味は悪くない」
「あぁ、妹の方か。おどおどしていたけれど、少しは自信がついてきたみたいだね」

 最初は接客もままならなくて、何度も失敗をして落ち込んでいた妹を思い返す。そんな彼女も、シーニャに続いて頼り甲斐のある子になった。まだ消極的な部分はあれど、可愛い妹の成長を兄として心から喜んでいる。家にいた頃のジェシーの姿では、想像もつかなかったから。

「そういう君も……背丈が伸びたように見えるね」
「そうか? 自分ではあまり実感がないんだが」
「そんなものだよ、あれから一年は経ったのだし。人間の子供なんて、あっという間に大きくなるから」

 十四歳だったレドナーも、十五歳になった。身長を気にする余裕がなかったのだが、確かにシーニャの背丈に近づいていたような覚えもある。彼女は懸命に背伸びをしていたから、そのうち追い越すのかもしれない。

「……本当に、行ってしまうのか?」
「うん。君たちには、帰る家があるみたいだし」

 レドナーは、男に何度か一緒に暮らさないかと誘いかけていた。けれど、男は首を横に振る。独り身のように伺えるし、何より彼にはここまで随分迷惑をかけたのだ。自分に出来る形で恩を返したかったのだが、男は出発の予定を取りやめることはしなかった。

「こんなに世話になったのに、何も返せなくてすまない」
「俺はとても有意義な時間を過ごせた。だから君が悲しむ必要は、どこにもないよ」

 パンをゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、男はレドナーの後悔を洗い流すように返答する。

「……そうか……っ! しまった……」

 物思いにふけるように、水面を見つめていたレドナーは、するりとパンを落っことしてしまう。ぷくぷくと沈んでいく小麦の塊を、申し訳なく眺めることしか出来なかった。

「そんなにこの食べ物が恋しかったの?」
「いいや……海が汚れてしまうだろう」

 はぁ、とため息をつくレドナーに、男はきょとんと首を傾げる。

「君は、なんというか……」

 雫のピアスが釣られて、波のようにゆらめいた。

「……優しい子だね」

 ふわりと、潮風が身を包むように、男は頬を緩める。金のまつ毛が瞬いて、その中に潜むマリンブルーが、愛おしげにレドナーだけを映す。慈しみを込めたみたいな、そんな彼の表情は見たことがなくて、レドナーは不思議な気持ちが芽生えた。

「ご馳走様。それじゃあ、そろそろ行くよ」

 軽やかに長身を小舟に乗り込ませて、男はレドナーにあっさりと別れの挨拶を向ける。

「あぁ、本当にありがとう。色々……感謝しきれないよ。帰路は気をつけて」
「うん、気をつけるよ。……レドナー」

 ささやかな声色で、男は初めてレドナーの名前を呼ぶ。

「人生はまだまだ長い。きっと君が思っているより、ずっとね」

 瞳を閉じながら、海に心を浸すように、男は紡ぐ。

「この先どんなことがあっても、君の選択に正しさも間違いもない。君が選んだ、ただそれだけ」

 歌を唄うみたいに音を鳴らす。男は瞼を開けると、青緑で満ちた色を、優しく細めた。

「よければ覚えておいて。俺はレドナーをずっと……は言いすぎだけれど、なんとなく見守っていてあげるよ」

 俺は君のことが、そこそこ気に入ってるみたいだから。

 男は波もさざめくラブコールを伝える。それと同時に、小舟は次第に船場から離れていった。ぽかん、と我を忘れたかのように佇んでいたレドナーは、焦って身を乗り出す。

「ありがとう! また、また会おう!」

 レドナーの呼び掛けを、男は背中越しに受け取って、後ろを向くことなく青色の道を進んでいった。


「ポントス」

 小さな声が、ぽつりと一滴落とされる。

「わたくしがいつ貴方に、人の子と関わってもよいだなんて許しを与えたのでしょう」
「そう怒らないでよ、ガイア。俺は甘やかされる方が好きなんだ」

 ポントス、そう呼ばれた船乗りの男は、目の前に座る少女の名を最も愛おしげに呼んだ。

「俺が関与したって、あの子たちの運命は揺らがない。人生という物語の結末は、彼らが最初から選択しているものだよ」

 そばで踊る海を、片手で掬い上げる。

「だから、それを見守るだけ。そうでしょう、ガイア」

 ザブンと、音色が重なっていく。ポントスが言葉を発するたび、海は彼の意思に呼応するように、身体を揺らした。

「えぇ、その通り。分かっているのなら、よろしいの」

 大地を広げたみたいに美しい黄緑色の瞳を、ガイアは静かに閉ざす。足先まで伸びた、ウェーブのかかった甘いピンクの髪を靡かせている。そんな彼女に、ポントスは惚れ惚れするよう同じく瞳を閉ざした。

 次の瞬間、そこには誰もいなくなっていた。ぽつん、と残された小舟は、ゆらゆらと波に遊ばれて、孤独に旅へと赴くのだった。


◆◆◆


「レーンっ」

 皆が寝静まった夜に、ひょっこりと扉から桃色が覗いて、レドナーは指にかけていたティーカップを小皿に戻す。小刻みなスキップでこちらに駆け寄ってきたシーニャは、彼女のためと言わんばかりに空いた隣に着地した。ギシ、とベッドが軋む。

「慣れないなぁ〜また敬語に戻っちゃいそう」
「俺も慣れないな……違う奴と話しているみたいだ」

 シーニャは、決まってレドナーを坊っちゃんと呼びかける。だが、外で彼をそう呼ぶのも、周りから疑問の視線を集めてしまうのだ。それに、シーニャはもうレドナーのメイドではない。せっかくだし、と彼女はレドナーをあだ名で呼ぶことにした。

「いやぁ〜色々あったけどさ。なんやかんや上手くいくもんだね」

 彼女にそう言われて、レドナーはこの一年を振り返る。本当に、色々なことが起こった。シーニャと出会って、家を出て、店を建てて。予想だにしないことだらけだった。でも、一つだけ等しいものを見つけるのならば。いつも隣に彼女がいてくれたこと、それだけはかけがえのないものだ。

「私の夢を叶えてくれてありがとう」

 感謝が惜しみなく伝えられるよう、シーニャが笑顔を満開にした。天真爛漫なその微笑みが、どうにも胸を抉る。この子はいつだって、可憐で、幼くて、強かで、まっさらだった。自分とは違って。
 シーニャは、レドナーの手をきゅっと握る。けれど、その行動にレドナーは何も返すことが出来なかった。歩み寄る彼女から、遠のくように。

「……駆け落ちまでしておいて、好きじゃないなんて言わせないよ」

 逃げようとするレドナーを、シーニャは逃さない。彼女の言う通りだった。
 レドナーは、シーニャが好きだ。それはシーニャも同じで、レドナーだってとっくに分かっている。でも、二人の距離が近づくほどに、知らないフリをしてきた。彼女が一歩踏み込もうとする度に、レドナーは一歩下がる。指一本ですら、触れることを躊躇してしまう。シーニャを守るように、己を守るように。

「……すまない」

 突き放すみたいに謝って、窓に映った自分を見つめる。真っ黒く伸びた髪に、柔らかく釣った茶色の瞳。それらが揃った容姿が、妬ましい。あの男の全てを受け継いだようなこの顔が、嫌いだった。

「怖い、怖いんだ。俺は、俺が気持ち悪くて、大嫌いで、怖い」

 男の血を引いた「レドナー・ブレット」である自分が、彼女を穢してしまうことが、何よりも恐ろしい。

 共に暮らす仲間たちと交流する度に、レドナーには常に虞が付き纏う。もし自分が、彼らを傷つけることがあったらどうしようかと。父親のように、この手はあの子たちを殺めてしまうのではないかと。ずっとずっと、考えずにはいられなかった。
 無償の愛を与えて、救いの手を差し伸べて、それが彼らの愛と幸ある未来へと結ばれると信じて。この行動を、自分が、自分こそしてはならなかったんじゃないのかと。だって、己がやってしまったのなら、ただの罪滅しに違いないのに。汚くて生臭く巡る血液を、必死に隠しているだけだ。彼らのことを思って、だなんて烏滸がましい。
 潔白なあの子たちと自分では、生まれた瞬間から、生きる世界が切り離されている。何故かって、それは……

「俺が、レドナー・ブレットとして生まれたからだ」

 簡単な話だった。理由はこれだけ。簡潔で、どうしようもない、そんなこと。

「……だから、なに?」
「……?」
「それが、なんだっていうの?」

 強い語気で、シーニャは言い放つ。その満ちた気迫に、レドナーは向き直った。

「何を怖がっているのか知らないけど、私は君に触れられたくらいで、壊れるような女の子じゃない」

 シーニャは、レドナーに絡みつく不安や恐怖を一切合切吹き飛ばすように、桃色の瞳をレドナーから外さない。

 知っていた。レドナーと出会ったあの日から、彼が自分のことを嫌っていたことなんて。父親に打たれた頬を、治療もせず放置する。愚痴を話すシーニャに相槌を打ちながらも、どこか居た堪れないような表情。顰めっ面が瓜二つだと零した時の、苦しんでいるくせに諦めたみたいな笑み。それらが物語っていたのだから。

「私はね、君に守られたいだとか思ったことないの」

 レドナーのことだから、自分のせいで誰かを傷つけてしまうかも、なんて馬鹿みたいな心配をしているのだろう。彼は本当に、困ってしまうくらいに優しすぎる。舐められたものだな、とシーニャは握る手の力を強めてやった。

「だってレンは、私と一緒に闘ってくれたじゃん」

 弱音と願いを無茶に込めたシーニャの夢を、彼は叶えてくれた。シーニャの手を選んで、あの狭く息苦しい館から、連れ出してくれた。
 ただ王子様を待つだなんてつまらない、とロマンスの詰まった夢物語を否定する自分でも、こう思ってしまうんだ。

 レドナーは己にとっての、たった一人の王子様だった。

 理不尽な世界の中、隣で一緒に闘ってくれる。私の選んだ、運命の人。そんな彼を縛るしがらみを、解いてあげたい。否、解くのだ。だから――


「だから、次は私が君を連れ出す番でしょう」

 今度は自分が、彼の王子様になってやるのだ。立派な白馬に乗って、勿論ドレスは着たまんまで。戸惑う彼の手を、ちょっぴり強引に引いて、こんな血溜まりの檻からはおさらばだ。自分たちには、あたたかで陽の差すような、そんな帰る場所があるから。

「断ち切っちゃおうよ、血縁も、呪いも。私は君と一緒に、この馬鹿力で闘ってやるぜ!」

 父親がだとか、血が繋がってるからだとか、関係ない。だって、私は君が、レドナー・ブレットが好きだから。
 もう大丈夫だよって、シーニャは元気いっぱいに笑みを輝かせた。

「それに、私はブレットって名前、結構好きなんだよねぇ。響きがパンみたいで可愛いし!」

 ふざけたように肩を揺らす。そんなシーニャを見つめながら、レドナーは言葉を一向に出せない。
 彼女のたった一言で、自分という存在が浄化されていくようだった。重たく忌まわしいこの名前を、シーニャは可愛いだなんて笑い飛ばす。それがどれだけ救いになったのかを、彼女は知っているのだろうか。

「……お前には敵わないな」
「私に勝つだなんて、まだまだお子ちゃまのレンには無理だよぉ~」

 にしし、と無邪気に歯を見せるシーニャに、レドナーは思わず笑みが溢れる。空いた片手を、そっと彼女の手に被せた。蓋をしていた気持ちに、答えを渡すように。

「シーニャ、お前を愛してる」

 シーニャたった一人を見つめて、レドナーは真っ直ぐな愛を告げた。

「ずっと言えなくてすまなかった」

 本当は沢山伝えたくて仕方がなかったのに、自分が臆病だったばかりに、遅れをとってしまった。それでも、今こうしてやっと、彼女に伝えることが出来た。安直な言葉だけれど、これで十分だ。

「全く、どれだけ待たせたのやら」

 意気地無しなレドナーに、シーニャはわざとらしくやれやれ、と身振りを見せる。申し訳なさそうに眉を下げるレドナーが目に入ると、ぷっと吹き出してから冗談だと揶揄う。悪戯に微笑む彼女の桃色が、楽しそうに揺れた。

「私もレンを愛してるよ、この世界で一番に!」

 ぱっと花が綻ぶみたいに、シーニャはレドナーに笑いかけた。その笑顔が可愛らしくて、レドナーはするりと手を離すと、熱の篭った手を彼女の頬に乗せる。わ! とまたまた飛び跳ねる様子に、くすくすとほくそ笑んでやる。

「もう怖くないよ」

 そう囁いて、優しい口付けを落とす。なんだか擽ったいね、と照れ臭そうにはにかむ彼女が、堪らなく愛おしかった。
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