第一章「死神の館」
第十三話『ベールにも触れられないで』
レドナーと名を与えられ、由緒あるブレット家の長男として、レドナーは育てられた。
彼の父親は、次期当主になるレドナーに英才教育を厳しく叩き込んだ。それらは、我が子を想って接するような、親としての愛情とは異なっている。更にブレット家の権力を拡大して、高潔な血筋を絶やさないため。ただそれだけの理由だ。
夏の国こと「レイベクト」出身の父親は、国柄もあってか不当な差別を正当化するような人だった。身分の低い者を同等の生き物として扱わず、小蝿を叩くようにその命を容易に転がしていく。家に住まう使用人たちも、彼が買い取った奴隷たちがほとんどで、少しの不手際でも起こせば彼らの明日は無かった。父親はその中でも特に女性差別が激しく、レドナーの母親に対しても、妻として彼女を愛することは無かった。ブレット家の侯爵夫人である母親は、誰にも弱みを見せない女性だったが、彼女も同様女性には嫌悪を示すかのようにあしらった。その態度が顕著となったのは、レドナーに妹が生まれてからのことだった。
秋の国「チェルクバルト」に家を移した一家は、間も無く子供に恵まれる。レドナーが三歳の頃だった。
小さく脆い、自分の妹を見た時に、レドナーは感じたことのない感動を経験した。とても可愛らしくて、愛らしい。泣き声をあげるその子に、レドナーは触れようとする。だが、母親は赤ん坊を腕から離すと、まるで憎悪が籠ったような瞳でその子を睨んだ。彼女からその子に触れることはもう無かった。使用人は慌てたように、赤子をあやす。そういえば、父親の姿が見当たらない、とレドナーは気がついた。出産の立ち会いに来ない父親、我が子を抱こうとしない母親。幼いレドナーにも、分かってしまった。
この子は、望まれて生まれた子ではないことを。
レドナーは使用人に近寄り、自分の妹を見つめる。あたたかくて柔い肌が、不純物のない声が、こんなにも愛おしいだなんて。
「ジェシー。おれが、お前のお兄ちゃんだよ」
レドナーは、誰も呼ばなかったその子の名前を呼んでやると、そっと頬を撫でた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。おれの妹になってくれて、ありがとう」
彼女の誕生を心から喜んで、祝福の言葉を向けた。まだ会話の意味も分からないだろうに、ジェシーはレドナーの指をきゅっと小さな手で握ると、嬉しそうに微笑んだ。
◆◆◆
「お兄様、ごめんなさい……! 私のせいで……」
「お前のせいじゃない。だからそんな顔をするな」
赤く腫れた兄の頬に、ジェシーは顔を真っ青にして、どうすればいいか分からず動揺していた。
「子供に躾だと言って、手を出すあいつらがおかしい」
「で、でも、私がお母様の機嫌を損ねるようなことしちゃったから……それで、お兄様が庇って、こんなことに……」
「自分の機嫌も直せないような大人なんだよ、良い歳して恥ずかしい奴らだ」
それに、とレドナーは自分の頬に指を突く。
「こんなのお兄ちゃんはへっちゃらだよ」
ジェシーが安心出来るようにと、レドナーは明朗に微笑む。そんな兄を見て、ジェシーはほっと、控えめに綻ぶ。自分とお揃いの黒髪を撫でてやると、ジェシーは丸い茶色の瞳を嬉しそうに輝かせた。もう夜半も遅い時間帯であったので、レドナーはジェシーを寝室にまで連れて行くと、彼女をベッドに乗せてやる。そばに腰をかけて、ぼんやりと微睡むジェシーを、レドナーは優しく見守っていた。静かな寝息を確認すると、彼女の額にふんわりと唇を触れ合わせる。
「おやすみ、ジェシー」
たった一人の、可愛い妹。
「神様。この子が健やかに、幸せに生きられますよう、どうか、どうか……」
ジェシーの幼い手を包みながら、夜空に祈りを捧げる。レドナーがこれを怠った日は、一度だって無かった。たかが十四歳。子供である自分には、ただひたすら、大切な妹の幸せを祈ることしか出来なかったのだから。
「……痛いな」
ぴり、と痺れる頬を指先で撫でる。ジェシーにあんな大口を叩いたが、痛いものは痛い。父親のと比べれば幾らかマシではあるものの、母親も容赦がないようだ。こんなことを、ジェシーにしようとしていただなんて。母親は、父親の容姿を鏡写しのように継いだレドナーにも、ブレットの名を繋ぐことの出来ないジェシーにも、常に不快を隠そうとはしない。暴力を受けたのが自分で良かったと、レドナーは憂鬱にため息を吐いた。
「……なんの音だ?」
館の長く続く廊下を、一人で歩いていたレドナーは、不自然な物音が耳に入った。ガンガン、と叩くように打ち付ける音。足が止まって、ぞわりと背中に悪寒が走った。レドナーはこう見えて、オカルトなどの類が苦手なのだ。話を聞けば最後、夜中に眠れなくなってしまうから、極力そういった話題からは距離を取っていたのだが。対処しようのない心霊現象には、どうすることも出来ない。
「お、俺は、幽霊なんぞ信じていない……」
ガクガクと、子鹿みたいに震える脚を手の甲で叩いて喝を入れると、レドナーは音の正体を探った。
「ここだな……?」
忍び足で、レドナーはとある部屋の前に辿り着く。先程と変わらず、叩きつける音は止まない。ごくりと、唾液を飲み込む。こんなことで怖がっているようでは、お兄ちゃん失格だ。ジェシーに格好悪いところを見せるわけにはいかないのだから。呼吸が漏れないよう息を止めて、恐る恐る扉を開けた。
「くそくそ! あのおじさん、本っ当に腹が立つ!」
僅かな隙間から、レドナーは部屋を覗き込んだ。暗闇の中ではよく見えなかったが、一人の女性が壁を蹴りながら、何かをぶつくさと呟いているように伺える。
「……まさか、本当に幽霊……?」
いや、それは有り得ない話でもない。あの父親は、気に食わない者がいれば、あの手で容易く人を殺すような男だ。彼のやり方はいつも決まっていて、存分に痛めつけた後に、海に放り投げて、そのまま放置する。どれだけの人に恨まれているかだなんて、考えるだけでも気分が悪くなる。レドナーはせめてもの償いだと、彼らの亡骸を海から拾い上げては、自分の可能な範囲で埋葬してやってあげてはいた。だが、これ如きで成仏なんてするはずもない。
こんな薄気味悪い館に、霊がいたとしても疑えない。そう思ってしまったのだ。それはつまり、レドナーには目の前の女性が、既に幽霊であるとしか考えられないわけで。
ひ、と恐怖から小声が零れて、レドナーは慌てて口を手で押さえる。けれども、その些細な失態ですら、部屋にいた彼女には届いていた。ぐるりと首をこちらに回して、片手に握られた鋏がきらりと、レドナーを射止めるみたいに煌めいた。
「いやあああああ!!!!!」
「うわあああああ!!!!!」
真夜中に、二人分の叫び声が館内を走った。甲高く乙女のように泣き叫んだ前者がレドナーである。女っ気もなく腹の底から叫んだ女性は、レドナーの存在を認知すると、全力で駆け寄り、レドナーを部屋の中へと引き摺り入れた。部屋の鍵を閉めて、レドナーを扉の壁へと迫り詰める。
「聞いたね!? 見たね!? どこから!?」
「ひ、ひぃ……」
「いいやこの際どこからとかどうでもいい!! 人生はサバイバル、生きるか死ぬかだぜ少年!! ってことでしゃーなし、ごめんよ恨まないでねさようなら!!」
怯えるレドナーに、女性は容赦なく手に持っていた鋏を突き刺した。理不尽な攻撃に、レドナーは奇跡的な回避に成功する。してしまった、の方が正しいのかもしれない。女性の馬鹿力によって、扉には穴が空いていたのが視界に入って、レドナーは愕然とした。完全に殺す気だ。
「あぁっ避けないでよ!? ってちょ、抜けねぇ~!!」
じたばたと、女性は慌てふためきながら、足で踏ん張っては鋏を抜こうとしている。そう、彼女には足があった。混乱していたレドナーは、意識を落ち着かせて、目の前の女性をよく熟視する。腰下まで伸びた桃色の髪には、ロイヤルブルーの大きなリボンが飾られており、メイド服を纏っている。この館で働くメイドだったのだろう。見たところ、見習いメイドのように思える。う~! と顔を赤くして踏ん張る彼女に、レドナーは声をかけた。
「おい、お前が先程話していた内容なんだが……」
「聞こえてた!? ですよね分かってたよ!! やっぱり生かしてはおけない……!!」
「少し待て……俺はお父様への陰口を、告げ口しようだなんて思っていない」
再び刃を差し向けようと意気込む女性に、極めて敵意がないことを表明するように、レドナーは伝える。
「恐らく、俺もお前と同意見だよ」
呆れたように告げるレドナーに、女性は桃色の瞳をころっと転がした。
「でっすよね!? あのおじさ~ゴホンッあらやだ失礼、旦那さまって滅茶苦茶やな奴ですよ!!」
ばんっと机を両手の拳で叩きながら、メイドは酒でも入ったかのように饒舌に口を動かす。月明かりのよく差すこの部屋で、レドナーとメイドは席を共にしていた。彼女の名前はシーニャ、というらしい。可愛いでしょう? と問う彼女に、レドナーはどんな反応が正解なのか分からずに、微妙な対応を取ってしまったが。
シーニャはレドナーが当主の息子であることに気がつかなかったようで、さらりと何事もなかったみたいに、話し方を敬語にすり替えている。だとしても、使用人が主に喋るには馴れ馴れしいのだけれど。面倒なのでレドナーは変に口を出さなかった。
「旦那さま、私を売り場で見たときになんて言ったと思います? このマシなのを……って、適当に指を指してきたんですよ! 私は最強に可愛いでしょうが! 今思い出してもムカムカする~っ!」
シーニャはわざと低い声を出して、鋭い顔つきをしてみせた。父親の真似だろうか。だとしたら彼女は、物真似があまり上手な方ではないようだ。
売り場、という言葉を聞いて、レドナーははっと彼女に目をやった。遠い記憶を呼び起こすようにして、光景が浮かんでくる。夏の国から秋の国に引っ越す際に、父親が奴隷売り場で引き連れていた内の一人に、シーニャもいたことを。歳上のように見えても、自分と年齢差はそこまで無いだろうに、幼い頃からこんな境遇で生きてきたなんて。両親からぞんざいな扱いを受けていたとしても、レドナーは毎日ご飯が食べられていたし、寝る場所だって当然のようにある。けれど、目の前の少女は違うのだ。
「は~まさかあの坊っちゃんと、旦那さまの愚痴で盛り上がれるだなんて」
ケラケラと肩を揺らして笑うシーニャに、レドナーは疑問を向ける。
「……俺のことを何だと思っていたんだ?」
「え? そりゃ、旦那さまと瓜二つの顰めっ面が子供と思えないくらい怖くて、勉強も運動もなんでもござれな文武両道、そしてボンボンの手本のような生意気少年! といったところですかね?」
大袈裟にジェスチャーをしながら、シーニャはレドナーの真似も披露する。誇張した表現に、誰だよ、とレドナーは内心で呟いた。確かに顰めっ面は癖だが、まさかそんな風に怖がられていたとは。文武両道だなんて、毎日寝る時間も満足に取れないような、才能を持たない自分に使う言葉ではないし。生意気……はどうなのだろう。使用人と話す機会は少ないから、自分の態度をよく振り返られない。邪険に接したつもりはないが、あの父親の息子というレッテルがあるだけでも、そう言われてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「でも、結局他人から聞いた話なんてアテになりませんよね~」
信じられるのは自分だけですね、とシーニャは笑いながら華奢な手を左右に振る。
「顰めっ面は顰めっ面ですけど、旦那さまとは似ても似つかないですし! 完璧だと持ち上げられてても、あーんな可愛い悲鳴を私は聞いちゃいましたからねぇ」
「あれはお前が悪いだろう……」
「あら~坊っちゃん、自慢の顰めっ面が強まっちゃって……お顔が戻らなくなったら大変ですよ~?」
子供に意地悪するみたいに、シーニャはレドナーで遊んでいる。眉を顰めてため息をつくレドナーに、むふふ、とシーニャはご満悦なようだ。
「……ま、私もみんなが口を揃えてたから、同じように偏見抱いてたってのも事実なんですけど」
シーニャはどこか面目なさそうに、夜空に微笑む月を見上げた。
「坊っちゃんはぜーんぜん、旦那さまと似てないですよ」
月から目を離すと、シーニャはこちらに目線を映して、にしし、と歯を見せた。
彼女の裏表ない言葉が、レドナーの身に染みていく。なんだか慣れない気持ちに、レドナーはひっそりと瞳を伏せた。
「そういえば、お前はここで何をしていたんだ?」
「あぁ。さっきお皿割っちゃって、指を切ったのでその治療に」
いえい、とピースをして、人差し指に巻かれた包帯がレドナーにぺこりと挨拶をしてきた。だから鋏を持っていたのか……とレドナーは納得する。不器用に施された包帯や、皿を割ったなどの発言から、彼女に優れたメイドとしてのスキルはないようだ。それでも彼女なら、なんとなく生きていけそうではあるが。何せ初対面の人間に鋏で襲いかかるような女性だ。並大抵のことでは倒れないだろう。その活力ある性格が、羨ましくもあった。
「うぅん? 坊っちゃん、ほっぺた腫れてません?」
「……これは問題ない」
「いやいや問題しかないですから。待って、隈も酷いじゃないですか!? 寝てます!?」
「……あまり」
「も~だめだめ~! 睡眠不足は美貌の敵なのに~~」
聞いて呆れ果てたように首を振るシーニャは、席を立つと棚から救急箱を取り出した。ふわりとスカートを広げてレドナーの前に跪く。
「じっとしてて下さいねー」
「っい! 痛っ、痛い……」
「あーちょ、だから動かないで下さいってば」
「自分でやる……! お前のは下手すぎて逆に傷が増えそうだ」
「ガーン!! これでも一生懸命なんですけど!? 美少女からの施しなんですから、黙って有難く受け取って下さい!!」
「おいやめろ、っ痛!」
綿に消毒液を含ませて、シーニャはレドナーの頬に当ててやるが、如何せん下手くそなのだ。綿に染みた消毒液の量は限度を知らないのか、ひたひたと滴って綿が息をしていないし、シーニャはそれをレドナーの頬に押し付けるように当ててくる。傷口へとダイレクトに液が染み込んできて、痛みが倍増しているのではないか。そもそも皿を割り鋏で扉に穴を開けるような彼女に、こんなことを任せていること自体が間違いなのだろう。自分でやると主張しても、シーニャは一向に譲ろうとはせず、おらおらと綿を押し付けてくる。痛すぎて抵抗する気も失せた。
「おーし、ミッションコンプリート……」
「何故誇らしげなんだ……」
レドナーは頬につけられたガーゼを触りながら、やり切ったと一汗流すシーニャを横目で流した。
「あとは……坊っちゃん、少し目を瞑ってくれますか?」
「……?」
「変なことしませんから、ほら早く」
急かすシーニャに言われるがまま、レドナーは瞳を閉ざした。じんわりと黒で埋め尽くされた視界が、夜の静けさが、レドナーの心を落ち着かせていく。呼吸の整ったレドナーを確認すると、シーニャは胸元に手を添えた。
「――♩」
穏やかで優しい歌声が、レドナーの耳によく通った。赤子が安心して眠りにつけるような、そんなララバイを、シーニャは口遊む。
身体が宙に浮かんで、宇宙に包まれるような、そんな心地だった。不安定なはずなのに、何処からか感じる妙な安心感。レドナーはそれに、自然と身を委ねた。石が詰め込まれたように重たかった頭は、雲のように軽くなっていき、しばしばと霞んでいた視界も、霧が晴れるように鮮明だ。こくり、と首が落ちそうになって、レドナーはびっくりして目を開ける。
「どうです? 少しは元気になったんじゃないかと」
「……あぁ」
「ふふーん、でしょう?」
腰に手を当てて、えっへんと自慢げなシーニャは、先程よりも幾分かスッキリした様子のレドナーに、密やかに微笑む。
「このララバイは、私の母親からの受け売りみたいなものです」
懐かしむように、シーニャは過去の情景に想いを巡らせる。彼女が幼い頃に、母親はよくこのララバイを歌ってくれたという。シーニャは母親のことが大好きだった。優しくて強かな、憧れの女性。
「どんなことがあっても、あの歌声を聞けば、不思議と心が和やかになったんです。だから、母さんが私にしてくれたみたいに、私も坊っちゃんに少しでも元気を与えられたらなって」
にっこりと彼女は笑顔を彩る。母親のことを懐古するように話すシーニャを見て、レドナーは薄々心づいた。母親に愛されて育った彼女が、奴隷売り場にいたことこそが、揺るぎない証明になるだろう。
レドナーはジェシー以外にだと、上手く言葉が紡げない。ましてや慰めの言葉なんて以ての外だ。口ごもるレドナーは、居た堪れなくて目を逸らす。けれど、シーニャは何も気にしていない様子で、彼女は声色も顔色も、明るいものだった。
「ねぇ坊っちゃん。またこうして集まって、愚痴大会しませんか?」
名案じゃないです? と人差し指を立てるシーニャは、幼気に頬を緩める。彼女の晴れ晴れしいほどの快活さに、レドナーは困ったみたいに眉を下げた。
「……こんなこと、他に言える奴もいないしな」
遠回しに了承したレドナーに、シーニャはやった! と素直に喜んだ。ご機嫌にその場をくるくる回る彼女の、長い桃色とスカートと、窓にかけられた純白なカーテンが優美に靡く。
月光に愛されるように照らされる彼女は、いつ思い出しても強かで美しかった。
◆◆◆
思いがけない出会いから始まった二人の交流は、その後も緩やかに続いていった。シーニャは所謂お喋りさんで、無口なレドナーと相性が良く、父親への愚痴にジョークを混じえたりしながら、ぺらぺらと楽しそうに話す。そんなシーニャの話を、紅茶を嗜みながら聞くことが、レドナーの楽しみとなっていた。本来ならシーニャが用意するべきなのだが、彼女の淹れる紅茶は水のように質素な味へと生まれ変わるので、レドナーが準備する羽目になったのだ。シーニャは悪びれもなく、お気に入りのピーチティーを飲んでいる。少し幼い彼女の好みに、レドナーはダージリンを嗜みながら、微かに綻んだ。
最初は悪口大会だった二人の会話は、いつの日か他愛もないような話題も持ち出すようになっていた。その日にあった嬉しい出来事や、驚いた出来事など、内容は些細なものばかりだ。時にはシーニャがララバイを歌ってくれて、その旋律に乗せるように、レドナーがヴァイオリンを奏でたり。彼女が自分に会いたいと思って、この部屋に訪れてくれることが、窮屈な生活を送るレドナーにとっては、きっと嬉しいことだった。
「何回言えば分かる、この能無しが」
勢いよく、けれども感情を灯さずに、父親はレドナーの頬を殴る。何回言えば、だなんてよく言うものだ。この問題を間違えたことは、今が初めてだというのに。そんなことは、彼には関係ないのだろう。ブレット家の人間として、彼の定めたレートから少しでも外れたのなら、その時点で間違いになるのだから。謝罪の言葉を聞く余地も残さない彼に、レドナーは端から謝る気なんてさらさらない。父親はレドナーを見捨てるように、ずかずかと部屋を出ていった。扉を閉める音が、煩く鳴り響く。
「はぁ……」
嫌気と安心を含んだ息が、体内から吐き出される。鬱々とした気分で、レドナーは机に散らばった本を整頓しようと手を伸ばした。
「……なんだこれは……?」
ふと、ある資料がレドナーの目に入った。隙間からこちらを覗くそれを、周りの物を掻き分けて手に取る。やけに古びた資料のようで、文字も上手く解読できない。じっと凝視するレドナーは、右上に大きく描かれた絵に注目してみる。
白い髪に、ぞっとするような赤色の瞳の、美しい女性だった。満月を背景にして、彼女は黒い服を身に纏い、背丈を越すほどの大鎌を持っている。女性の横には、達筆な文字で『死神』と記されていた。
「死神……」
聞き馴染みのない単語に、レドナーは女性を指すその名を零した。死の神……口に出すだけでも、不吉な目に遭ってしまいそうだ。そもそも、どうしてこんな資料が父親の書斎にあったのだろうか。
「……俺に分かるはずもない、か」
レドナーは資料から目線を外すと、元の位置に戻した。父親の行動は碌でもないことばかりだが、自分が知ったところで、どうにもならないだろう。それに、死神という種族がこの世界に存在するとは、レドナーには到底思えなかった。本をトントンと揃えると、レドナーは部屋を後にした。
「坊っちゃん遅~い、この私を待たせるだなんて何事で……ってえぇ!? またほっぺた腫れてる!?」
退屈そうに机に肘をついて待っていたシーニャは、レドナーの変色した頬を見ると、バタバタと慌ただしく駆け寄ってきた。
「……大丈夫、じゃないに決まってるか……旦那さまですよね、これ」
「……」
「もう。どうして自分の子供にこんなこと出来るの」
レドナーより少し高い背を屈めて、シーニャはレドナーの頬を、ふんわりと手で包む。痛ましいその腫れに、顔を苦く歪めた。
「坊っちゃん、任せて下さい。こんな傷、一瞬で治してやりますよ」
キリッと、シーニャは真剣な瞳でレドナーを見つめた。何やらやる気な彼女に、レドナーは不信感を覚える。もしや、とレドナーはあることが脳内に過った。
「待て。まさかまたあの時みたいにやるつもりじゃ……」
「ふっふっふ、私だって成長したんです! 今やってあげますから、しかとその目に焼き付けてくださいね」
シーニャはレドナーの肩をがしっと、逃がすまいと捉える。彼女の馬鹿力を忘れていたレドナーは、身動きも取れずにひたすら冷や汗を流した。いつの間にかシーニャの手には、びちゃびちゃの綿を挟んだピンセットが握られており、こちらにどんどんと押し寄せてくる。何が成長したというんだ、とレドナーは必死に抗う。だが、その努力も虚しい。にこにこと笑顔で迫りくるシーニャと綿に、レドナーは泣き叫んだ。
「いっっったい!!!」
「ふぅ……これで完治間違いなしです! ご安心あれ~」
「~っ……はぁ……もういい……」
流石に文句の一つでもぶつけてやろうと思った。けれど、彼女があまりにも陽気に笑うから、その気力はほとほとと消え去っていく。いつ解雇されてもおかしくないポンコツメイドに、レドナーはまたため息を吐いた。
「相変わらずお疲れみたいですねぇ」
「誰のせいだと思っている」
「あ! そういえば、最近疲れを癒す方法を小耳に挟んだんですけど」
レドナーの小言なんて聞こえてもいないシーニャは、あっと思い出したように話題を投げた。
「ハグをすると、疲れがぶっ飛ぶらしいです」
「ハ、ハグ?」
「はい。理屈はよく知りませんけど、試してみます?」
シーニャは腕を広げると、早速レドナーを待っているようで。こいつは何をしているんだ、とレドナーは呆気に取られた。
けれども、レドナーは誰かに抱き締めてもらったことは、これまでに一度もない。当然、父親にも、母親にも。ジェシーも人目を気にしているのか、自らスキンシップを求めたりはしてこない。兄としては少々心寂しいのだが。
レドナーは僅かに思考すると、シーニャと向き合った。実際、この時は大分疲弊していたし、上手く脳が回っていなかったと思う。だから、あんなことを口走ったのだろうか。
「分かった、試してみよう」
「……はい? 今なんと?」
「だから、やると言ったんだ」
きょとんと瞳を丸くするシーニャは、身体を固めてはレドナーの返答を咀嚼しきれずにいるようだった。そんな彼女をよそにして、レドナーは同じように腕を広げて、シーニャに近寄る。
「ちょちょちょちょタンマ!!」
「は?」
「冗談ですって、ジョークジョーク!!」
あたふたと腕でばってんマークを掲げるシーニャに、レドナーは機嫌を損ねたように顔を顰めた。
「お前が言い出したんだろう」
「いやだって、本気にするとは思わないじゃないですか!?」
「はぁ……」
レドナーはジト目でシーニャを眺めた。彼女の楽観的なところは、長所でもあるのだが。レドナーにも許容範囲というものが存在していて、このように遊ばれては、レドナーだって人並みに苛立つ。シーニャの言葉をわざと無視して、レドナーは歩みを止めなかった。
自分が触れられる距離に、彼女がいる。そっと、手を差し伸べた。
「う、うわあああ!!! おらあああ!!!」
「おえっ!!!」
ごつん、と大きな音が響く。シーニャの力強く振り上げた拳が、レドナーの顎に見事命中した。突然の衝撃に、レドナーはそのまま倒れ込む。顎の骨が折れたのではないかと、疑わずにはいられない威力であった。
「坊っちゃんのすけべ! 変態! 色男ー!!!」
シーニャは数々の罵声を、レドナーにこれでもかと浴びせる。ぷるぷると抑えるように震えていたシーニャであったが、堰を切ったようにドタバタと、騒がしい足取りで部屋から逃げていった。その最中に三回は転けかけてしまうくらい、酷く動揺した様子で。
顎の痺れと共に、ぽつんと部屋に残されたレドナーは、暫く茫然自失となって、ぼんやりと天井を見つめた。仄かに照らされる豪華なシャンデリアなんて、レドナーの視界には入らない。殴られた後に、レドナーはシーニャの顔色を確かめた。
お湯に茶葉の色が染みていくみたいに、じんわりと頬を赤くして、己を見つめる表情が、何故だか忘れられない。彼女のあんな顔を見たのが初めてだったから? 分からない、分からなかった。ただ、自分が彼女にしてしまったことが、明らかな誤ちであったことは分かってしまう。レドナーは、シーニャの顔をいち早く忘れられるようにと、目を腕で覆う。自分の頬に広がっていく熱が、嫌でも伝わってきて、心臓がやけに五月蝿かった。
レドナーは、自分の失態を振り返ってもなお、彼女のあの表情を忘れられずにいる。だって己は、シーニャに対して"可愛い"だなんて、思ってしまったのだから。はぁ、と大きくため息をついて、腕を額に乗せては、無意味に天井を見つめ直した。
ジェシーはこっそりと、恋愛小説を好んでは読んでいた。たまにその内容を語る妹からしか、レドナーは恋愛という事象についての知識は蓄えられていない。けれども、レドナーは特別鈍いような少年ではなかった。このもやつくような不快感の名前を、知っている。
自分は彼女に、恋をしてしまった。
◆◆◆
あれからというものの、シーニャが部屋を訪れることは滅多になくなった。館内で顔を合わせたとしても、まるで己を避けるように走り去ってしまう。レドナーはなんとか対話の機会を設けるために、何度も彼女を引き留めたが、お得意の全力疾走で毎度の如く撒かれては、タイミングを逃し続けていた。
今日も今日とて、シーニャはレドナーを発見しては、せかせかと業務をこなしてその場を立ち去ろうとする。彼女の後ろ姿を、レドナーは追いかけた。
「シーニャ、待て」
「あらら〜聞こえませんわね〜おっほっほっほ……」
「……」
はぐらかして、レドナーの言葉に聞く耳を持たないシーニャに、レドナーはむすっと眉根を寄せる。ブンブンと腕を振りながら早歩きするシーニャの手を、ほんの少し強引に引っ張った。
「わーっ!!! 痴漢!!!」
「そんなんじゃない」
どぎまぎして跳び上がったシーニャに、レドナーは淡々と否定する。気まずそうに目線を逸らすシーニャの瞳を、レドナーは離さなかった。
「お前と話したいことがある」
「い、いやぁ、こう見えて私忙しくってぇ……」
「ほざけ、ポンコツメイド」
「ひっどいな‼︎ 放っておいて下さいよ‼︎」
シーニャはむきー! と頬を膨らませる。そんな彼女の様子を、レドナーは呆れたように目に映した。一つ呼吸を落として、レドナーはシーニャと改めて会話を進める。
「話したいのは俺じゃない、妹だ」
「……お嬢さまが、私と?」
「あぁ」
自然に頷くレドナーに、シーニャは拍子抜けしているようだった。レドナーの意外な頼みに、シーニャもまた同じように頷いた。
「ひゃ〜〜〜!! なんて可愛いの……⁉︎ この世界に天使がいたなんて〜〜〜!!」
歓喜の声をあげるシーニャは、ジェシーをぎゅーっと抱きしめる。
レドナーはいつもの部屋に、ジェシーを連れてきた。おどおどと、慣れない様子で訪れたジェシーに、シーニャは心臓を射抜かれたのだ。ジェシーを丸っと包み込むと、それっきり離そうとしない。ひたすら愛でるみたいに、ジェシーの頬にうりうりと自分の頬を擦り付ける。突然のことにジェシーは困惑していたが、どうやら嫌ではないようで、じっと身を縮こませては照れ臭そうだ。レドナーもそうだが、ジェシーもあんな直球に好意を伝えられたことはないので、さぞこそばゆい気持ちだろう。
「ほんとに坊っちゃんと血が繋がってるのか疑うくらい可愛い……」
「そ、そんな……お兄様も可愛いよ……」
「いやまぁ、可愛いのジャンル違いっていうかぁ〜私が求めてた可愛さはこっち〜!」
「わ……!」
シーニャはご機嫌に、ジェシーを抱き締める力を強める。されるがままのジェシーに、レドナーは苦笑する。
「でも、どうして私なんかをお呼びで?」
「あ、え、えっとね……」
シーニャの質問に、ジェシーはスリッパの爪先をつんつんと触れ合わせる。ちらりとシーニャを見て、ジェシーは恥ずかしそうに答えた。
「私、お友達がいなくって……お兄様からシーニャさんのお話を聞いて、それで、その……お喋り、してみたいなって……」
もじもじしながらも、熱心に本音を伝えるジェシーは、はっと不安そうに俯いた。けれど、レドナーはただ見守るだけだ。だって、ジェシーの気掛かりは、すぐに解消されるだろうから。
「……い」
「ご、ごめんなさいっ迷惑だった、よね……」
「可愛いーっ!!!」
「へ?」
きゅーん! とポップな効果音がシーニャの心臓から奏でられる。シーニャは思考停止したように驚いて固まるジェシーに、飛び付いて押し倒した。
「わぁっ……!? えっと、シ、シーニャさん……??」
「もっちろんですよー! 私でよければ、沢山お喋りしましょう!」
「‼︎」
ジェシーのお願いに、シーニャは心から喜んで了承する。その返事を聞いて、ジェシーはほわほわと周りに花を咲かせるみたいにはにかんだ。
妹は両親から受ける扱いのせいで、人一倍臆病で自虐的だ。そんな彼女が、初めて自分に頼み事をしてきた時は、これまた一驚を喫したが。ジェシーが楽しそうに笑う姿を見て、レドナーは瞳を細める。
「俺は外でお母様たちが来ないか見張っておくから、楽しんでおいで」
「えっそんな……」
「流石坊っちゃん! お言葉に甘えて、ガールズトークしちゃいましょう〜!」
「う、うん……! へへ……」
最後に手を握り合う二人を視界に捉えて、なるべく音を立てぬよう扉を閉めた。意気揚々としたジェシーの幼い表情に、レドナーも似たような表情を浮かべる。扉にもたれながら、背中越しに聞こえてくる賑やかな会話に、くすりと小さな笑みを零した。
最初は二人で集まっていたこの部屋には、ジェシーも交わるようになった。勉強などを済ましてこっそりやってくるジェシーを、シーニャはいつだって歓迎しては、本物の妹のように可愛がっている。最近では心を開き始めたのか、ジェシーも彼女によく懐いているようだった。そんな二人の絡みを、レドナーは相変わらず紅茶の香りを漂わせながら眺める。
「むふふ、ジェシーちゃんの寝顔可愛い〜……はぁぁ、お嫁さんに来てくれないですかねぇ……」
「俺という壁を簡単に乗り越えられると思わないことだな。お前だとしても、俺は手を緩めない」
「ぐーっ手厳しい! そこを何とかお願いしますよぉ!」
「お前の努力次第だ」
「く、くそ……惨、敗……」
絶望で顔色を染め上げて、シーニャは分かりやすく落ち込んだ。ベッドに腰を下ろすシーニャの膝に頭を預けて、すっかり眠りこけたジェシーの頭を撫でながら、シーニャはとほほ……と肩を落とす。それを隣で見ていたレドナーは、どこか誇らしげに口角をあげた。世界一可愛い妹を簡単に渡すと思ったのなら大間違いだ。
「……ねぇ坊っちゃん」
ふと、シーニャがこちらに呼びかける。すやすやと寝息を立てるジェシーを撫でながら、レドナーに目線は合わせないままで。
「そのぉ……露骨に避けたりして、すみませんでした」
「……自覚はあったんだな」
「そりゃ……というか、坊っちゃんが破廉恥なのが悪いんですからね!?」
びしっとレドナーに指を向けながら、シーニャはすけべ! 変態! 色男! と聞き覚えのある単語を言い放つ。万が一ジェシーに聞かれて、あらぬ誤解を受けられては困るので、やめてほしいのだが。むすっと不貞腐れるシーニャの顔を、レドナーはゆっくりと覗き込む。
「軽率な行動を取るつもりはない。……だが」
声を発した先に目を配るシーニャに、レドナーは真剣な眼差しを送る。彼女の空いた手を、ふわりと己の手で覆った。
「俺はお前に、何をするかは分からないよ」
だからあまり、俺で遊ぶようなことはするな。そう加えると、レドナーは忠告するように、シーニャの手を握る。息が止まるみたいに、仰天して焦りを隠さない彼女に、レドナーは不敵に微笑んでみせた。
「わっわっ私は超絶美少女なので⁉︎ そんじょそこらの人が手に入れられないくらい、お高くつきますけどぉ⁉︎」
「お前、俺の家柄を忘れているのか?」
「うぅ……っ‼︎」
レドナーのごもっともな正論が、シーニャにぐさっと突き刺さる。くそ〜! と悔しそうに頭を抱えるシーニャを眺めては、レドナーは楽しそうに己の髪をくるくると弄った。余裕綽々といった具合で意地悪をしてくるレドナーに、シーニャは不機嫌に唇を尖らせる。
レドナーの一線を揺るがす警告に、シーニャは拒絶を示さなかった。それがきっと、彼女の答えなのだろう。青白い月の色が、部屋中に満ちていく。シーニャの柔い手が、なんだか泣きそうなくらいにあたたかかった。そっと、時間をかけて、彼女の指に自分の指を絡ませる。シーニャは身体を弾ませて、顔を一気に熱くした。けれども、レドナーの気持ちに応答するように、忍びやかに指先に力を込める。恥ずかしそうに破顔する彼女の、鈴のように無邪気な笑い声が、慎ましい夜に輝いた。
こんな夜が、ずっと続けばいい。だなんて願ってしまうほどに、レドナーは幸福だった。
◆◆◆
バチン。
けたたましく、音が鳴り響いた。醜さを誤魔化すように、光沢にありったけの宝石を飾った手が、一人のメイドの頬を叩く。ジェシーを背後に置いて、庇うように立ちはだかったシーニャは、母親をキッと鋭く睨みつけた。
どたばたと、柄にもなく息を乱して、レドナーは廊下を走り抜ける。
穏やかな暮夜に自室で勉学に浸っていたレドナーに、ジェシーが泣きつくようにしてやってきたのだ。彼女はひくひくと噦を上げながら、シーニャの名を出した。母親から、自分を庇ってくれたと。いや、正しくは、庇ってしまったのだと。レドナーは先を急ぐ思いで、シーニャの姿を探した。
此処にも、彼処にも、何処にも見当たらない。自分の忌まわしいこの瞳の色に、優しく溶ける桃色が。レドナーは膝に手をつけて、背を丸くしながら息を切らす。無駄にだだっ広いこの家が、心底鬱陶しい。ぐっと顔を上げて、足を踏み出そうとした。
「……!」
微かに、物音がした。心許なく、助けを求めるような、そんな音が。ばっと振り返って、レドナーは一つの扉に手をかけた。釘の刺さったような痕の残る、あの扉に。勢いよく押し開けると、彼女はそこにいた。
「シーニャ……!」
彼女はきゅっと、身を守るようにして、小さく三角座りをしている。シーニャは扉が開いたことに気づいて、警戒するように視線をこちらに移す。だが、やってきたのがレドナーだと分かると、安心したように緊張を解いた。レドナーはすぐさまシーニャの元に駆け寄ると、耐えきれずに彼女を抱き寄せた。
「遅れてすまない……」
吹雪に凍えたように震える彼女の身体が、胸を痛ましく締め付ける。シーニャは力なく揺れる腕で、レドナーを抱き返す。
「はは……やらかしたなぁ……」
枯れたような笑い声を出すシーニャは、無理に明るく繕った。
「でも、あんなの黙ってられない。部外者の私が関わっちゃ駄目だって分かってても、ジェシーちゃんに手を上げるのは、どうしても許せなくって」
か細い声で、シーニャは憤りを紡ぐ。
「奥さまが、ジェシーちゃんにあんな態度を取る理由は、私にも分かるんです」
いつだって父親の言いなりで、自由もなくて、女性としての全てを否定されてきた母親。彼女はきっと、何も出来ない女性としての自分自身が、コンプレックスなのだ。だからこそ、望まれずに女性として生まれたジェシーにも、同じように傷を与える。自分がされたことを、繰り返すように。だって、ジェシーを見ていると、もう一人の自分がそこにいるみたいで、母親は居た堪れないのだから。そんな母親の内情を、シーニャは理解している。
「でも、それでも、あんなことをしちゃいけないんです。私は、奥さまにこそ、ジェシーちゃんを愛してあげて欲しかった……」
どうして繰り返しちゃうのかなぁ、と嘆いて、シーニャは悔しそうに、レドナーの背中をぎゅっと掴む。彼女たちの想いに、レドナーは何も言えなかった。
「この事は、もう旦那さまに伝わっているはずです」
「……っ!!」
分かりきったように断言するシーニャに、レドナーははっと息を呑む。使用人が少しでも余計な手出しをしたと知れば、父親はいち早く処理にあたるだろう。故に、今まで誰もレドナーやジェシーを助けようとしなかったのだ。もし関与してしまったら、自分の命が失われるも同然なのだから。シーニャとてそんなことは分かっている。ずっとずっと、我慢をしていた。
「もしかしたら、もう此処には来れないのかもしれませんね」
私の明日が、なくなっちゃうのかな。
気丈に振る舞っていても、シーニャの声色は怯えている。彼女の冷えた温度から、それがより濃く伝わってきた。
「っ悔しいなぁ、悔しい。あんな奴に、私は勝てる手段が何一つない。立ち向かいたいのに、怖くてしょうがないんですよ」
歯を食いしばって、けれどどこか諦めたように、シーニャは項垂れる。ゆったりと、シーニャはそばで輝き渡る月を見上げた。紺の中心に浮かんでは、ただこちらを見守り佇むそれに、焦がれるように微笑む。
「こんなところ抜け出して、いつもみたいなあの夜が、続けばいいのになぁ」
叶うはずもない願望を、ひっそりと囁いた。
「なんて、冗談です」
夢を語ることは好きだが、夢を見ることは嫌いだった。だってそれが、どれだけ残酷なものかと、自分に知らしめるだけだったから。無垢なロマンチストと、聡明なリアリスト。生きるためには、どちらが正しかったのか。現実で生きる自分たちに、そもそも夢なんてものは、触れられない次元のお話なのかもしれない。それでも、許されるならば、前者でありたかった。
自分自身を嘲るように、シーニャは鼻で笑う。もうこうやって、大好きなレドナーやジェシーと、会えなくなってしまう。自分の選んだ行動に後悔はない。けれど、やっぱり怖かった。ふんわりとしかイメージのなかった「死」が、すぐそばにまで蔓延ってきている、そんな状況が。
レドナーはシーニャを抱き締めるだけで、言葉を発することはない。彼は自分と違って、きっと賢くて現実的だから、馬鹿な女だと呆れられてしまっただろうか。でも、そう思って突き放してくれた方が、きっといいはずだ。そのはずなのだ。
レドナーは、ゆっくりとシーニャから身体を離した。顔を俯けていて、よく表情が見えない。だが、伸びた黒髪の間で、レドナーの唇が、小さく動いた。
「……いいよ」
「……え……?」
そう呟くと、レドナーは顔を上げて、シーニャを見つめる。彼が一体何に対して肯定したのか、理解が追いつかなかった。レドナーは、瞳を誰よりも優しく深めて、シーニャのしなやかな手を選び取る。
「一緒にここから、逃げ出してしまおうか」
心の底から幸せそうに、レドナーは笑顔を向けた。
レドナーと名を与えられ、由緒あるブレット家の長男として、レドナーは育てられた。
彼の父親は、次期当主になるレドナーに英才教育を厳しく叩き込んだ。それらは、我が子を想って接するような、親としての愛情とは異なっている。更にブレット家の権力を拡大して、高潔な血筋を絶やさないため。ただそれだけの理由だ。
夏の国こと「レイベクト」出身の父親は、国柄もあってか不当な差別を正当化するような人だった。身分の低い者を同等の生き物として扱わず、小蝿を叩くようにその命を容易に転がしていく。家に住まう使用人たちも、彼が買い取った奴隷たちがほとんどで、少しの不手際でも起こせば彼らの明日は無かった。父親はその中でも特に女性差別が激しく、レドナーの母親に対しても、妻として彼女を愛することは無かった。ブレット家の侯爵夫人である母親は、誰にも弱みを見せない女性だったが、彼女も同様女性には嫌悪を示すかのようにあしらった。その態度が顕著となったのは、レドナーに妹が生まれてからのことだった。
秋の国「チェルクバルト」に家を移した一家は、間も無く子供に恵まれる。レドナーが三歳の頃だった。
小さく脆い、自分の妹を見た時に、レドナーは感じたことのない感動を経験した。とても可愛らしくて、愛らしい。泣き声をあげるその子に、レドナーは触れようとする。だが、母親は赤ん坊を腕から離すと、まるで憎悪が籠ったような瞳でその子を睨んだ。彼女からその子に触れることはもう無かった。使用人は慌てたように、赤子をあやす。そういえば、父親の姿が見当たらない、とレドナーは気がついた。出産の立ち会いに来ない父親、我が子を抱こうとしない母親。幼いレドナーにも、分かってしまった。
この子は、望まれて生まれた子ではないことを。
レドナーは使用人に近寄り、自分の妹を見つめる。あたたかくて柔い肌が、不純物のない声が、こんなにも愛おしいだなんて。
「ジェシー。おれが、お前のお兄ちゃんだよ」
レドナーは、誰も呼ばなかったその子の名前を呼んでやると、そっと頬を撫でた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。おれの妹になってくれて、ありがとう」
彼女の誕生を心から喜んで、祝福の言葉を向けた。まだ会話の意味も分からないだろうに、ジェシーはレドナーの指をきゅっと小さな手で握ると、嬉しそうに微笑んだ。
◆◆◆
「お兄様、ごめんなさい……! 私のせいで……」
「お前のせいじゃない。だからそんな顔をするな」
赤く腫れた兄の頬に、ジェシーは顔を真っ青にして、どうすればいいか分からず動揺していた。
「子供に躾だと言って、手を出すあいつらがおかしい」
「で、でも、私がお母様の機嫌を損ねるようなことしちゃったから……それで、お兄様が庇って、こんなことに……」
「自分の機嫌も直せないような大人なんだよ、良い歳して恥ずかしい奴らだ」
それに、とレドナーは自分の頬に指を突く。
「こんなのお兄ちゃんはへっちゃらだよ」
ジェシーが安心出来るようにと、レドナーは明朗に微笑む。そんな兄を見て、ジェシーはほっと、控えめに綻ぶ。自分とお揃いの黒髪を撫でてやると、ジェシーは丸い茶色の瞳を嬉しそうに輝かせた。もう夜半も遅い時間帯であったので、レドナーはジェシーを寝室にまで連れて行くと、彼女をベッドに乗せてやる。そばに腰をかけて、ぼんやりと微睡むジェシーを、レドナーは優しく見守っていた。静かな寝息を確認すると、彼女の額にふんわりと唇を触れ合わせる。
「おやすみ、ジェシー」
たった一人の、可愛い妹。
「神様。この子が健やかに、幸せに生きられますよう、どうか、どうか……」
ジェシーの幼い手を包みながら、夜空に祈りを捧げる。レドナーがこれを怠った日は、一度だって無かった。たかが十四歳。子供である自分には、ただひたすら、大切な妹の幸せを祈ることしか出来なかったのだから。
「……痛いな」
ぴり、と痺れる頬を指先で撫でる。ジェシーにあんな大口を叩いたが、痛いものは痛い。父親のと比べれば幾らかマシではあるものの、母親も容赦がないようだ。こんなことを、ジェシーにしようとしていただなんて。母親は、父親の容姿を鏡写しのように継いだレドナーにも、ブレットの名を繋ぐことの出来ないジェシーにも、常に不快を隠そうとはしない。暴力を受けたのが自分で良かったと、レドナーは憂鬱にため息を吐いた。
「……なんの音だ?」
館の長く続く廊下を、一人で歩いていたレドナーは、不自然な物音が耳に入った。ガンガン、と叩くように打ち付ける音。足が止まって、ぞわりと背中に悪寒が走った。レドナーはこう見えて、オカルトなどの類が苦手なのだ。話を聞けば最後、夜中に眠れなくなってしまうから、極力そういった話題からは距離を取っていたのだが。対処しようのない心霊現象には、どうすることも出来ない。
「お、俺は、幽霊なんぞ信じていない……」
ガクガクと、子鹿みたいに震える脚を手の甲で叩いて喝を入れると、レドナーは音の正体を探った。
「ここだな……?」
忍び足で、レドナーはとある部屋の前に辿り着く。先程と変わらず、叩きつける音は止まない。ごくりと、唾液を飲み込む。こんなことで怖がっているようでは、お兄ちゃん失格だ。ジェシーに格好悪いところを見せるわけにはいかないのだから。呼吸が漏れないよう息を止めて、恐る恐る扉を開けた。
「くそくそ! あのおじさん、本っ当に腹が立つ!」
僅かな隙間から、レドナーは部屋を覗き込んだ。暗闇の中ではよく見えなかったが、一人の女性が壁を蹴りながら、何かをぶつくさと呟いているように伺える。
「……まさか、本当に幽霊……?」
いや、それは有り得ない話でもない。あの父親は、気に食わない者がいれば、あの手で容易く人を殺すような男だ。彼のやり方はいつも決まっていて、存分に痛めつけた後に、海に放り投げて、そのまま放置する。どれだけの人に恨まれているかだなんて、考えるだけでも気分が悪くなる。レドナーはせめてもの償いだと、彼らの亡骸を海から拾い上げては、自分の可能な範囲で埋葬してやってあげてはいた。だが、これ如きで成仏なんてするはずもない。
こんな薄気味悪い館に、霊がいたとしても疑えない。そう思ってしまったのだ。それはつまり、レドナーには目の前の女性が、既に幽霊であるとしか考えられないわけで。
ひ、と恐怖から小声が零れて、レドナーは慌てて口を手で押さえる。けれども、その些細な失態ですら、部屋にいた彼女には届いていた。ぐるりと首をこちらに回して、片手に握られた鋏がきらりと、レドナーを射止めるみたいに煌めいた。
「いやあああああ!!!!!」
「うわあああああ!!!!!」
真夜中に、二人分の叫び声が館内を走った。甲高く乙女のように泣き叫んだ前者がレドナーである。女っ気もなく腹の底から叫んだ女性は、レドナーの存在を認知すると、全力で駆け寄り、レドナーを部屋の中へと引き摺り入れた。部屋の鍵を閉めて、レドナーを扉の壁へと迫り詰める。
「聞いたね!? 見たね!? どこから!?」
「ひ、ひぃ……」
「いいやこの際どこからとかどうでもいい!! 人生はサバイバル、生きるか死ぬかだぜ少年!! ってことでしゃーなし、ごめんよ恨まないでねさようなら!!」
怯えるレドナーに、女性は容赦なく手に持っていた鋏を突き刺した。理不尽な攻撃に、レドナーは奇跡的な回避に成功する。してしまった、の方が正しいのかもしれない。女性の馬鹿力によって、扉には穴が空いていたのが視界に入って、レドナーは愕然とした。完全に殺す気だ。
「あぁっ避けないでよ!? ってちょ、抜けねぇ~!!」
じたばたと、女性は慌てふためきながら、足で踏ん張っては鋏を抜こうとしている。そう、彼女には足があった。混乱していたレドナーは、意識を落ち着かせて、目の前の女性をよく熟視する。腰下まで伸びた桃色の髪には、ロイヤルブルーの大きなリボンが飾られており、メイド服を纏っている。この館で働くメイドだったのだろう。見たところ、見習いメイドのように思える。う~! と顔を赤くして踏ん張る彼女に、レドナーは声をかけた。
「おい、お前が先程話していた内容なんだが……」
「聞こえてた!? ですよね分かってたよ!! やっぱり生かしてはおけない……!!」
「少し待て……俺はお父様への陰口を、告げ口しようだなんて思っていない」
再び刃を差し向けようと意気込む女性に、極めて敵意がないことを表明するように、レドナーは伝える。
「恐らく、俺もお前と同意見だよ」
呆れたように告げるレドナーに、女性は桃色の瞳をころっと転がした。
「でっすよね!? あのおじさ~ゴホンッあらやだ失礼、旦那さまって滅茶苦茶やな奴ですよ!!」
ばんっと机を両手の拳で叩きながら、メイドは酒でも入ったかのように饒舌に口を動かす。月明かりのよく差すこの部屋で、レドナーとメイドは席を共にしていた。彼女の名前はシーニャ、というらしい。可愛いでしょう? と問う彼女に、レドナーはどんな反応が正解なのか分からずに、微妙な対応を取ってしまったが。
シーニャはレドナーが当主の息子であることに気がつかなかったようで、さらりと何事もなかったみたいに、話し方を敬語にすり替えている。だとしても、使用人が主に喋るには馴れ馴れしいのだけれど。面倒なのでレドナーは変に口を出さなかった。
「旦那さま、私を売り場で見たときになんて言ったと思います? このマシなのを……って、適当に指を指してきたんですよ! 私は最強に可愛いでしょうが! 今思い出してもムカムカする~っ!」
シーニャはわざと低い声を出して、鋭い顔つきをしてみせた。父親の真似だろうか。だとしたら彼女は、物真似があまり上手な方ではないようだ。
売り場、という言葉を聞いて、レドナーははっと彼女に目をやった。遠い記憶を呼び起こすようにして、光景が浮かんでくる。夏の国から秋の国に引っ越す際に、父親が奴隷売り場で引き連れていた内の一人に、シーニャもいたことを。歳上のように見えても、自分と年齢差はそこまで無いだろうに、幼い頃からこんな境遇で生きてきたなんて。両親からぞんざいな扱いを受けていたとしても、レドナーは毎日ご飯が食べられていたし、寝る場所だって当然のようにある。けれど、目の前の少女は違うのだ。
「は~まさかあの坊っちゃんと、旦那さまの愚痴で盛り上がれるだなんて」
ケラケラと肩を揺らして笑うシーニャに、レドナーは疑問を向ける。
「……俺のことを何だと思っていたんだ?」
「え? そりゃ、旦那さまと瓜二つの顰めっ面が子供と思えないくらい怖くて、勉強も運動もなんでもござれな文武両道、そしてボンボンの手本のような生意気少年! といったところですかね?」
大袈裟にジェスチャーをしながら、シーニャはレドナーの真似も披露する。誇張した表現に、誰だよ、とレドナーは内心で呟いた。確かに顰めっ面は癖だが、まさかそんな風に怖がられていたとは。文武両道だなんて、毎日寝る時間も満足に取れないような、才能を持たない自分に使う言葉ではないし。生意気……はどうなのだろう。使用人と話す機会は少ないから、自分の態度をよく振り返られない。邪険に接したつもりはないが、あの父親の息子というレッテルがあるだけでも、そう言われてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
「でも、結局他人から聞いた話なんてアテになりませんよね~」
信じられるのは自分だけですね、とシーニャは笑いながら華奢な手を左右に振る。
「顰めっ面は顰めっ面ですけど、旦那さまとは似ても似つかないですし! 完璧だと持ち上げられてても、あーんな可愛い悲鳴を私は聞いちゃいましたからねぇ」
「あれはお前が悪いだろう……」
「あら~坊っちゃん、自慢の顰めっ面が強まっちゃって……お顔が戻らなくなったら大変ですよ~?」
子供に意地悪するみたいに、シーニャはレドナーで遊んでいる。眉を顰めてため息をつくレドナーに、むふふ、とシーニャはご満悦なようだ。
「……ま、私もみんなが口を揃えてたから、同じように偏見抱いてたってのも事実なんですけど」
シーニャはどこか面目なさそうに、夜空に微笑む月を見上げた。
「坊っちゃんはぜーんぜん、旦那さまと似てないですよ」
月から目を離すと、シーニャはこちらに目線を映して、にしし、と歯を見せた。
彼女の裏表ない言葉が、レドナーの身に染みていく。なんだか慣れない気持ちに、レドナーはひっそりと瞳を伏せた。
「そういえば、お前はここで何をしていたんだ?」
「あぁ。さっきお皿割っちゃって、指を切ったのでその治療に」
いえい、とピースをして、人差し指に巻かれた包帯がレドナーにぺこりと挨拶をしてきた。だから鋏を持っていたのか……とレドナーは納得する。不器用に施された包帯や、皿を割ったなどの発言から、彼女に優れたメイドとしてのスキルはないようだ。それでも彼女なら、なんとなく生きていけそうではあるが。何せ初対面の人間に鋏で襲いかかるような女性だ。並大抵のことでは倒れないだろう。その活力ある性格が、羨ましくもあった。
「うぅん? 坊っちゃん、ほっぺた腫れてません?」
「……これは問題ない」
「いやいや問題しかないですから。待って、隈も酷いじゃないですか!? 寝てます!?」
「……あまり」
「も~だめだめ~! 睡眠不足は美貌の敵なのに~~」
聞いて呆れ果てたように首を振るシーニャは、席を立つと棚から救急箱を取り出した。ふわりとスカートを広げてレドナーの前に跪く。
「じっとしてて下さいねー」
「っい! 痛っ、痛い……」
「あーちょ、だから動かないで下さいってば」
「自分でやる……! お前のは下手すぎて逆に傷が増えそうだ」
「ガーン!! これでも一生懸命なんですけど!? 美少女からの施しなんですから、黙って有難く受け取って下さい!!」
「おいやめろ、っ痛!」
綿に消毒液を含ませて、シーニャはレドナーの頬に当ててやるが、如何せん下手くそなのだ。綿に染みた消毒液の量は限度を知らないのか、ひたひたと滴って綿が息をしていないし、シーニャはそれをレドナーの頬に押し付けるように当ててくる。傷口へとダイレクトに液が染み込んできて、痛みが倍増しているのではないか。そもそも皿を割り鋏で扉に穴を開けるような彼女に、こんなことを任せていること自体が間違いなのだろう。自分でやると主張しても、シーニャは一向に譲ろうとはせず、おらおらと綿を押し付けてくる。痛すぎて抵抗する気も失せた。
「おーし、ミッションコンプリート……」
「何故誇らしげなんだ……」
レドナーは頬につけられたガーゼを触りながら、やり切ったと一汗流すシーニャを横目で流した。
「あとは……坊っちゃん、少し目を瞑ってくれますか?」
「……?」
「変なことしませんから、ほら早く」
急かすシーニャに言われるがまま、レドナーは瞳を閉ざした。じんわりと黒で埋め尽くされた視界が、夜の静けさが、レドナーの心を落ち着かせていく。呼吸の整ったレドナーを確認すると、シーニャは胸元に手を添えた。
「――♩」
穏やかで優しい歌声が、レドナーの耳によく通った。赤子が安心して眠りにつけるような、そんなララバイを、シーニャは口遊む。
身体が宙に浮かんで、宇宙に包まれるような、そんな心地だった。不安定なはずなのに、何処からか感じる妙な安心感。レドナーはそれに、自然と身を委ねた。石が詰め込まれたように重たかった頭は、雲のように軽くなっていき、しばしばと霞んでいた視界も、霧が晴れるように鮮明だ。こくり、と首が落ちそうになって、レドナーはびっくりして目を開ける。
「どうです? 少しは元気になったんじゃないかと」
「……あぁ」
「ふふーん、でしょう?」
腰に手を当てて、えっへんと自慢げなシーニャは、先程よりも幾分かスッキリした様子のレドナーに、密やかに微笑む。
「このララバイは、私の母親からの受け売りみたいなものです」
懐かしむように、シーニャは過去の情景に想いを巡らせる。彼女が幼い頃に、母親はよくこのララバイを歌ってくれたという。シーニャは母親のことが大好きだった。優しくて強かな、憧れの女性。
「どんなことがあっても、あの歌声を聞けば、不思議と心が和やかになったんです。だから、母さんが私にしてくれたみたいに、私も坊っちゃんに少しでも元気を与えられたらなって」
にっこりと彼女は笑顔を彩る。母親のことを懐古するように話すシーニャを見て、レドナーは薄々心づいた。母親に愛されて育った彼女が、奴隷売り場にいたことこそが、揺るぎない証明になるだろう。
レドナーはジェシー以外にだと、上手く言葉が紡げない。ましてや慰めの言葉なんて以ての外だ。口ごもるレドナーは、居た堪れなくて目を逸らす。けれど、シーニャは何も気にしていない様子で、彼女は声色も顔色も、明るいものだった。
「ねぇ坊っちゃん。またこうして集まって、愚痴大会しませんか?」
名案じゃないです? と人差し指を立てるシーニャは、幼気に頬を緩める。彼女の晴れ晴れしいほどの快活さに、レドナーは困ったみたいに眉を下げた。
「……こんなこと、他に言える奴もいないしな」
遠回しに了承したレドナーに、シーニャはやった! と素直に喜んだ。ご機嫌にその場をくるくる回る彼女の、長い桃色とスカートと、窓にかけられた純白なカーテンが優美に靡く。
月光に愛されるように照らされる彼女は、いつ思い出しても強かで美しかった。
◆◆◆
思いがけない出会いから始まった二人の交流は、その後も緩やかに続いていった。シーニャは所謂お喋りさんで、無口なレドナーと相性が良く、父親への愚痴にジョークを混じえたりしながら、ぺらぺらと楽しそうに話す。そんなシーニャの話を、紅茶を嗜みながら聞くことが、レドナーの楽しみとなっていた。本来ならシーニャが用意するべきなのだが、彼女の淹れる紅茶は水のように質素な味へと生まれ変わるので、レドナーが準備する羽目になったのだ。シーニャは悪びれもなく、お気に入りのピーチティーを飲んでいる。少し幼い彼女の好みに、レドナーはダージリンを嗜みながら、微かに綻んだ。
最初は悪口大会だった二人の会話は、いつの日か他愛もないような話題も持ち出すようになっていた。その日にあった嬉しい出来事や、驚いた出来事など、内容は些細なものばかりだ。時にはシーニャがララバイを歌ってくれて、その旋律に乗せるように、レドナーがヴァイオリンを奏でたり。彼女が自分に会いたいと思って、この部屋に訪れてくれることが、窮屈な生活を送るレドナーにとっては、きっと嬉しいことだった。
「何回言えば分かる、この能無しが」
勢いよく、けれども感情を灯さずに、父親はレドナーの頬を殴る。何回言えば、だなんてよく言うものだ。この問題を間違えたことは、今が初めてだというのに。そんなことは、彼には関係ないのだろう。ブレット家の人間として、彼の定めたレートから少しでも外れたのなら、その時点で間違いになるのだから。謝罪の言葉を聞く余地も残さない彼に、レドナーは端から謝る気なんてさらさらない。父親はレドナーを見捨てるように、ずかずかと部屋を出ていった。扉を閉める音が、煩く鳴り響く。
「はぁ……」
嫌気と安心を含んだ息が、体内から吐き出される。鬱々とした気分で、レドナーは机に散らばった本を整頓しようと手を伸ばした。
「……なんだこれは……?」
ふと、ある資料がレドナーの目に入った。隙間からこちらを覗くそれを、周りの物を掻き分けて手に取る。やけに古びた資料のようで、文字も上手く解読できない。じっと凝視するレドナーは、右上に大きく描かれた絵に注目してみる。
白い髪に、ぞっとするような赤色の瞳の、美しい女性だった。満月を背景にして、彼女は黒い服を身に纏い、背丈を越すほどの大鎌を持っている。女性の横には、達筆な文字で『死神』と記されていた。
「死神……」
聞き馴染みのない単語に、レドナーは女性を指すその名を零した。死の神……口に出すだけでも、不吉な目に遭ってしまいそうだ。そもそも、どうしてこんな資料が父親の書斎にあったのだろうか。
「……俺に分かるはずもない、か」
レドナーは資料から目線を外すと、元の位置に戻した。父親の行動は碌でもないことばかりだが、自分が知ったところで、どうにもならないだろう。それに、死神という種族がこの世界に存在するとは、レドナーには到底思えなかった。本をトントンと揃えると、レドナーは部屋を後にした。
「坊っちゃん遅~い、この私を待たせるだなんて何事で……ってえぇ!? またほっぺた腫れてる!?」
退屈そうに机に肘をついて待っていたシーニャは、レドナーの変色した頬を見ると、バタバタと慌ただしく駆け寄ってきた。
「……大丈夫、じゃないに決まってるか……旦那さまですよね、これ」
「……」
「もう。どうして自分の子供にこんなこと出来るの」
レドナーより少し高い背を屈めて、シーニャはレドナーの頬を、ふんわりと手で包む。痛ましいその腫れに、顔を苦く歪めた。
「坊っちゃん、任せて下さい。こんな傷、一瞬で治してやりますよ」
キリッと、シーニャは真剣な瞳でレドナーを見つめた。何やらやる気な彼女に、レドナーは不信感を覚える。もしや、とレドナーはあることが脳内に過った。
「待て。まさかまたあの時みたいにやるつもりじゃ……」
「ふっふっふ、私だって成長したんです! 今やってあげますから、しかとその目に焼き付けてくださいね」
シーニャはレドナーの肩をがしっと、逃がすまいと捉える。彼女の馬鹿力を忘れていたレドナーは、身動きも取れずにひたすら冷や汗を流した。いつの間にかシーニャの手には、びちゃびちゃの綿を挟んだピンセットが握られており、こちらにどんどんと押し寄せてくる。何が成長したというんだ、とレドナーは必死に抗う。だが、その努力も虚しい。にこにこと笑顔で迫りくるシーニャと綿に、レドナーは泣き叫んだ。
「いっっったい!!!」
「ふぅ……これで完治間違いなしです! ご安心あれ~」
「~っ……はぁ……もういい……」
流石に文句の一つでもぶつけてやろうと思った。けれど、彼女があまりにも陽気に笑うから、その気力はほとほとと消え去っていく。いつ解雇されてもおかしくないポンコツメイドに、レドナーはまたため息を吐いた。
「相変わらずお疲れみたいですねぇ」
「誰のせいだと思っている」
「あ! そういえば、最近疲れを癒す方法を小耳に挟んだんですけど」
レドナーの小言なんて聞こえてもいないシーニャは、あっと思い出したように話題を投げた。
「ハグをすると、疲れがぶっ飛ぶらしいです」
「ハ、ハグ?」
「はい。理屈はよく知りませんけど、試してみます?」
シーニャは腕を広げると、早速レドナーを待っているようで。こいつは何をしているんだ、とレドナーは呆気に取られた。
けれども、レドナーは誰かに抱き締めてもらったことは、これまでに一度もない。当然、父親にも、母親にも。ジェシーも人目を気にしているのか、自らスキンシップを求めたりはしてこない。兄としては少々心寂しいのだが。
レドナーは僅かに思考すると、シーニャと向き合った。実際、この時は大分疲弊していたし、上手く脳が回っていなかったと思う。だから、あんなことを口走ったのだろうか。
「分かった、試してみよう」
「……はい? 今なんと?」
「だから、やると言ったんだ」
きょとんと瞳を丸くするシーニャは、身体を固めてはレドナーの返答を咀嚼しきれずにいるようだった。そんな彼女をよそにして、レドナーは同じように腕を広げて、シーニャに近寄る。
「ちょちょちょちょタンマ!!」
「は?」
「冗談ですって、ジョークジョーク!!」
あたふたと腕でばってんマークを掲げるシーニャに、レドナーは機嫌を損ねたように顔を顰めた。
「お前が言い出したんだろう」
「いやだって、本気にするとは思わないじゃないですか!?」
「はぁ……」
レドナーはジト目でシーニャを眺めた。彼女の楽観的なところは、長所でもあるのだが。レドナーにも許容範囲というものが存在していて、このように遊ばれては、レドナーだって人並みに苛立つ。シーニャの言葉をわざと無視して、レドナーは歩みを止めなかった。
自分が触れられる距離に、彼女がいる。そっと、手を差し伸べた。
「う、うわあああ!!! おらあああ!!!」
「おえっ!!!」
ごつん、と大きな音が響く。シーニャの力強く振り上げた拳が、レドナーの顎に見事命中した。突然の衝撃に、レドナーはそのまま倒れ込む。顎の骨が折れたのではないかと、疑わずにはいられない威力であった。
「坊っちゃんのすけべ! 変態! 色男ー!!!」
シーニャは数々の罵声を、レドナーにこれでもかと浴びせる。ぷるぷると抑えるように震えていたシーニャであったが、堰を切ったようにドタバタと、騒がしい足取りで部屋から逃げていった。その最中に三回は転けかけてしまうくらい、酷く動揺した様子で。
顎の痺れと共に、ぽつんと部屋に残されたレドナーは、暫く茫然自失となって、ぼんやりと天井を見つめた。仄かに照らされる豪華なシャンデリアなんて、レドナーの視界には入らない。殴られた後に、レドナーはシーニャの顔色を確かめた。
お湯に茶葉の色が染みていくみたいに、じんわりと頬を赤くして、己を見つめる表情が、何故だか忘れられない。彼女のあんな顔を見たのが初めてだったから? 分からない、分からなかった。ただ、自分が彼女にしてしまったことが、明らかな誤ちであったことは分かってしまう。レドナーは、シーニャの顔をいち早く忘れられるようにと、目を腕で覆う。自分の頬に広がっていく熱が、嫌でも伝わってきて、心臓がやけに五月蝿かった。
レドナーは、自分の失態を振り返ってもなお、彼女のあの表情を忘れられずにいる。だって己は、シーニャに対して"可愛い"だなんて、思ってしまったのだから。はぁ、と大きくため息をついて、腕を額に乗せては、無意味に天井を見つめ直した。
ジェシーはこっそりと、恋愛小説を好んでは読んでいた。たまにその内容を語る妹からしか、レドナーは恋愛という事象についての知識は蓄えられていない。けれども、レドナーは特別鈍いような少年ではなかった。このもやつくような不快感の名前を、知っている。
自分は彼女に、恋をしてしまった。
◆◆◆
あれからというものの、シーニャが部屋を訪れることは滅多になくなった。館内で顔を合わせたとしても、まるで己を避けるように走り去ってしまう。レドナーはなんとか対話の機会を設けるために、何度も彼女を引き留めたが、お得意の全力疾走で毎度の如く撒かれては、タイミングを逃し続けていた。
今日も今日とて、シーニャはレドナーを発見しては、せかせかと業務をこなしてその場を立ち去ろうとする。彼女の後ろ姿を、レドナーは追いかけた。
「シーニャ、待て」
「あらら〜聞こえませんわね〜おっほっほっほ……」
「……」
はぐらかして、レドナーの言葉に聞く耳を持たないシーニャに、レドナーはむすっと眉根を寄せる。ブンブンと腕を振りながら早歩きするシーニャの手を、ほんの少し強引に引っ張った。
「わーっ!!! 痴漢!!!」
「そんなんじゃない」
どぎまぎして跳び上がったシーニャに、レドナーは淡々と否定する。気まずそうに目線を逸らすシーニャの瞳を、レドナーは離さなかった。
「お前と話したいことがある」
「い、いやぁ、こう見えて私忙しくってぇ……」
「ほざけ、ポンコツメイド」
「ひっどいな‼︎ 放っておいて下さいよ‼︎」
シーニャはむきー! と頬を膨らませる。そんな彼女の様子を、レドナーは呆れたように目に映した。一つ呼吸を落として、レドナーはシーニャと改めて会話を進める。
「話したいのは俺じゃない、妹だ」
「……お嬢さまが、私と?」
「あぁ」
自然に頷くレドナーに、シーニャは拍子抜けしているようだった。レドナーの意外な頼みに、シーニャもまた同じように頷いた。
「ひゃ〜〜〜!! なんて可愛いの……⁉︎ この世界に天使がいたなんて〜〜〜!!」
歓喜の声をあげるシーニャは、ジェシーをぎゅーっと抱きしめる。
レドナーはいつもの部屋に、ジェシーを連れてきた。おどおどと、慣れない様子で訪れたジェシーに、シーニャは心臓を射抜かれたのだ。ジェシーを丸っと包み込むと、それっきり離そうとしない。ひたすら愛でるみたいに、ジェシーの頬にうりうりと自分の頬を擦り付ける。突然のことにジェシーは困惑していたが、どうやら嫌ではないようで、じっと身を縮こませては照れ臭そうだ。レドナーもそうだが、ジェシーもあんな直球に好意を伝えられたことはないので、さぞこそばゆい気持ちだろう。
「ほんとに坊っちゃんと血が繋がってるのか疑うくらい可愛い……」
「そ、そんな……お兄様も可愛いよ……」
「いやまぁ、可愛いのジャンル違いっていうかぁ〜私が求めてた可愛さはこっち〜!」
「わ……!」
シーニャはご機嫌に、ジェシーを抱き締める力を強める。されるがままのジェシーに、レドナーは苦笑する。
「でも、どうして私なんかをお呼びで?」
「あ、え、えっとね……」
シーニャの質問に、ジェシーはスリッパの爪先をつんつんと触れ合わせる。ちらりとシーニャを見て、ジェシーは恥ずかしそうに答えた。
「私、お友達がいなくって……お兄様からシーニャさんのお話を聞いて、それで、その……お喋り、してみたいなって……」
もじもじしながらも、熱心に本音を伝えるジェシーは、はっと不安そうに俯いた。けれど、レドナーはただ見守るだけだ。だって、ジェシーの気掛かりは、すぐに解消されるだろうから。
「……い」
「ご、ごめんなさいっ迷惑だった、よね……」
「可愛いーっ!!!」
「へ?」
きゅーん! とポップな効果音がシーニャの心臓から奏でられる。シーニャは思考停止したように驚いて固まるジェシーに、飛び付いて押し倒した。
「わぁっ……!? えっと、シ、シーニャさん……??」
「もっちろんですよー! 私でよければ、沢山お喋りしましょう!」
「‼︎」
ジェシーのお願いに、シーニャは心から喜んで了承する。その返事を聞いて、ジェシーはほわほわと周りに花を咲かせるみたいにはにかんだ。
妹は両親から受ける扱いのせいで、人一倍臆病で自虐的だ。そんな彼女が、初めて自分に頼み事をしてきた時は、これまた一驚を喫したが。ジェシーが楽しそうに笑う姿を見て、レドナーは瞳を細める。
「俺は外でお母様たちが来ないか見張っておくから、楽しんでおいで」
「えっそんな……」
「流石坊っちゃん! お言葉に甘えて、ガールズトークしちゃいましょう〜!」
「う、うん……! へへ……」
最後に手を握り合う二人を視界に捉えて、なるべく音を立てぬよう扉を閉めた。意気揚々としたジェシーの幼い表情に、レドナーも似たような表情を浮かべる。扉にもたれながら、背中越しに聞こえてくる賑やかな会話に、くすりと小さな笑みを零した。
最初は二人で集まっていたこの部屋には、ジェシーも交わるようになった。勉強などを済ましてこっそりやってくるジェシーを、シーニャはいつだって歓迎しては、本物の妹のように可愛がっている。最近では心を開き始めたのか、ジェシーも彼女によく懐いているようだった。そんな二人の絡みを、レドナーは相変わらず紅茶の香りを漂わせながら眺める。
「むふふ、ジェシーちゃんの寝顔可愛い〜……はぁぁ、お嫁さんに来てくれないですかねぇ……」
「俺という壁を簡単に乗り越えられると思わないことだな。お前だとしても、俺は手を緩めない」
「ぐーっ手厳しい! そこを何とかお願いしますよぉ!」
「お前の努力次第だ」
「く、くそ……惨、敗……」
絶望で顔色を染め上げて、シーニャは分かりやすく落ち込んだ。ベッドに腰を下ろすシーニャの膝に頭を預けて、すっかり眠りこけたジェシーの頭を撫でながら、シーニャはとほほ……と肩を落とす。それを隣で見ていたレドナーは、どこか誇らしげに口角をあげた。世界一可愛い妹を簡単に渡すと思ったのなら大間違いだ。
「……ねぇ坊っちゃん」
ふと、シーニャがこちらに呼びかける。すやすやと寝息を立てるジェシーを撫でながら、レドナーに目線は合わせないままで。
「そのぉ……露骨に避けたりして、すみませんでした」
「……自覚はあったんだな」
「そりゃ……というか、坊っちゃんが破廉恥なのが悪いんですからね!?」
びしっとレドナーに指を向けながら、シーニャはすけべ! 変態! 色男! と聞き覚えのある単語を言い放つ。万が一ジェシーに聞かれて、あらぬ誤解を受けられては困るので、やめてほしいのだが。むすっと不貞腐れるシーニャの顔を、レドナーはゆっくりと覗き込む。
「軽率な行動を取るつもりはない。……だが」
声を発した先に目を配るシーニャに、レドナーは真剣な眼差しを送る。彼女の空いた手を、ふわりと己の手で覆った。
「俺はお前に、何をするかは分からないよ」
だからあまり、俺で遊ぶようなことはするな。そう加えると、レドナーは忠告するように、シーニャの手を握る。息が止まるみたいに、仰天して焦りを隠さない彼女に、レドナーは不敵に微笑んでみせた。
「わっわっ私は超絶美少女なので⁉︎ そんじょそこらの人が手に入れられないくらい、お高くつきますけどぉ⁉︎」
「お前、俺の家柄を忘れているのか?」
「うぅ……っ‼︎」
レドナーのごもっともな正論が、シーニャにぐさっと突き刺さる。くそ〜! と悔しそうに頭を抱えるシーニャを眺めては、レドナーは楽しそうに己の髪をくるくると弄った。余裕綽々といった具合で意地悪をしてくるレドナーに、シーニャは不機嫌に唇を尖らせる。
レドナーの一線を揺るがす警告に、シーニャは拒絶を示さなかった。それがきっと、彼女の答えなのだろう。青白い月の色が、部屋中に満ちていく。シーニャの柔い手が、なんだか泣きそうなくらいにあたたかかった。そっと、時間をかけて、彼女の指に自分の指を絡ませる。シーニャは身体を弾ませて、顔を一気に熱くした。けれども、レドナーの気持ちに応答するように、忍びやかに指先に力を込める。恥ずかしそうに破顔する彼女の、鈴のように無邪気な笑い声が、慎ましい夜に輝いた。
こんな夜が、ずっと続けばいい。だなんて願ってしまうほどに、レドナーは幸福だった。
◆◆◆
バチン。
けたたましく、音が鳴り響いた。醜さを誤魔化すように、光沢にありったけの宝石を飾った手が、一人のメイドの頬を叩く。ジェシーを背後に置いて、庇うように立ちはだかったシーニャは、母親をキッと鋭く睨みつけた。
どたばたと、柄にもなく息を乱して、レドナーは廊下を走り抜ける。
穏やかな暮夜に自室で勉学に浸っていたレドナーに、ジェシーが泣きつくようにしてやってきたのだ。彼女はひくひくと噦を上げながら、シーニャの名を出した。母親から、自分を庇ってくれたと。いや、正しくは、庇ってしまったのだと。レドナーは先を急ぐ思いで、シーニャの姿を探した。
此処にも、彼処にも、何処にも見当たらない。自分の忌まわしいこの瞳の色に、優しく溶ける桃色が。レドナーは膝に手をつけて、背を丸くしながら息を切らす。無駄にだだっ広いこの家が、心底鬱陶しい。ぐっと顔を上げて、足を踏み出そうとした。
「……!」
微かに、物音がした。心許なく、助けを求めるような、そんな音が。ばっと振り返って、レドナーは一つの扉に手をかけた。釘の刺さったような痕の残る、あの扉に。勢いよく押し開けると、彼女はそこにいた。
「シーニャ……!」
彼女はきゅっと、身を守るようにして、小さく三角座りをしている。シーニャは扉が開いたことに気づいて、警戒するように視線をこちらに移す。だが、やってきたのがレドナーだと分かると、安心したように緊張を解いた。レドナーはすぐさまシーニャの元に駆け寄ると、耐えきれずに彼女を抱き寄せた。
「遅れてすまない……」
吹雪に凍えたように震える彼女の身体が、胸を痛ましく締め付ける。シーニャは力なく揺れる腕で、レドナーを抱き返す。
「はは……やらかしたなぁ……」
枯れたような笑い声を出すシーニャは、無理に明るく繕った。
「でも、あんなの黙ってられない。部外者の私が関わっちゃ駄目だって分かってても、ジェシーちゃんに手を上げるのは、どうしても許せなくって」
か細い声で、シーニャは憤りを紡ぐ。
「奥さまが、ジェシーちゃんにあんな態度を取る理由は、私にも分かるんです」
いつだって父親の言いなりで、自由もなくて、女性としての全てを否定されてきた母親。彼女はきっと、何も出来ない女性としての自分自身が、コンプレックスなのだ。だからこそ、望まれずに女性として生まれたジェシーにも、同じように傷を与える。自分がされたことを、繰り返すように。だって、ジェシーを見ていると、もう一人の自分がそこにいるみたいで、母親は居た堪れないのだから。そんな母親の内情を、シーニャは理解している。
「でも、それでも、あんなことをしちゃいけないんです。私は、奥さまにこそ、ジェシーちゃんを愛してあげて欲しかった……」
どうして繰り返しちゃうのかなぁ、と嘆いて、シーニャは悔しそうに、レドナーの背中をぎゅっと掴む。彼女たちの想いに、レドナーは何も言えなかった。
「この事は、もう旦那さまに伝わっているはずです」
「……っ!!」
分かりきったように断言するシーニャに、レドナーははっと息を呑む。使用人が少しでも余計な手出しをしたと知れば、父親はいち早く処理にあたるだろう。故に、今まで誰もレドナーやジェシーを助けようとしなかったのだ。もし関与してしまったら、自分の命が失われるも同然なのだから。シーニャとてそんなことは分かっている。ずっとずっと、我慢をしていた。
「もしかしたら、もう此処には来れないのかもしれませんね」
私の明日が、なくなっちゃうのかな。
気丈に振る舞っていても、シーニャの声色は怯えている。彼女の冷えた温度から、それがより濃く伝わってきた。
「っ悔しいなぁ、悔しい。あんな奴に、私は勝てる手段が何一つない。立ち向かいたいのに、怖くてしょうがないんですよ」
歯を食いしばって、けれどどこか諦めたように、シーニャは項垂れる。ゆったりと、シーニャはそばで輝き渡る月を見上げた。紺の中心に浮かんでは、ただこちらを見守り佇むそれに、焦がれるように微笑む。
「こんなところ抜け出して、いつもみたいなあの夜が、続けばいいのになぁ」
叶うはずもない願望を、ひっそりと囁いた。
「なんて、冗談です」
夢を語ることは好きだが、夢を見ることは嫌いだった。だってそれが、どれだけ残酷なものかと、自分に知らしめるだけだったから。無垢なロマンチストと、聡明なリアリスト。生きるためには、どちらが正しかったのか。現実で生きる自分たちに、そもそも夢なんてものは、触れられない次元のお話なのかもしれない。それでも、許されるならば、前者でありたかった。
自分自身を嘲るように、シーニャは鼻で笑う。もうこうやって、大好きなレドナーやジェシーと、会えなくなってしまう。自分の選んだ行動に後悔はない。けれど、やっぱり怖かった。ふんわりとしかイメージのなかった「死」が、すぐそばにまで蔓延ってきている、そんな状況が。
レドナーはシーニャを抱き締めるだけで、言葉を発することはない。彼は自分と違って、きっと賢くて現実的だから、馬鹿な女だと呆れられてしまっただろうか。でも、そう思って突き放してくれた方が、きっといいはずだ。そのはずなのだ。
レドナーは、ゆっくりとシーニャから身体を離した。顔を俯けていて、よく表情が見えない。だが、伸びた黒髪の間で、レドナーの唇が、小さく動いた。
「……いいよ」
「……え……?」
そう呟くと、レドナーは顔を上げて、シーニャを見つめる。彼が一体何に対して肯定したのか、理解が追いつかなかった。レドナーは、瞳を誰よりも優しく深めて、シーニャのしなやかな手を選び取る。
「一緒にここから、逃げ出してしまおうか」
心の底から幸せそうに、レドナーは笑顔を向けた。