第一章「死神の館」


「では、私たちはもう一度街に戻ります」

 案内人は森へ来る前に、住民への避難は事前に済ましているようだった。念の為に再度街を徘徊するため、ジョジュアたちは別れを告げる。

「お役に立てなくて申し訳ございません……皆様、どうかご無事で。レドナー様を、お願いします」
「カロン、本当に大丈夫なの? 出来れば貴方にも、一緒に来て欲しいのだけれど……」

 クラウンベリーにノエルも、安全のため案内人について行くことになった。深くお辞儀をすると、ソソとアンリーに手を引かれて先を進んだノエルであったが、クラウンベリーはここに残ることを決めたカロンが気掛かりで仕方がない様子だ。

「えぇ、大丈夫よ! 何度も心配させてしまってごめんなさい。けれど、どうしてもやらなければならないことがあるの」
「……そう」
「おいカロン! そろそろ始めるぞ!」
「今行くわ! じゃあまたあとでね」

 カロンは踵を返して、クラウンベリーに元気よく手を振りながら走って行く。彼女の後ろ姿に、クラウンベリーは手を伸ばしかけた。ふわりと、甘酸っぱい香りが華やいで、ゆっくりと隣に顔を向ける。

「彼女たちなら、きっと大丈夫ですよ」

 ジョジュアはにこりと、クラウンベリーに微笑んだ。ルシアスと何かしら言い合いを繰り広げているテオフィールを見ながら、ジョジュアは優しく呟く。

「彼らはあっという間に、純粋な植物のように成長していきます。私たち大人が思っているよりも遥かに、子供たちは強いですから」

 心から嬉しそうに、ジョジュアは蒲公英色の髪を揺らした。普段はどこか侮れない彼の、偽りない優美な笑顔に、クラウンベリーは少々面を食らう。楽しそうな笑い声が耳に通って、クラウンベリーはカロンたちを見つめた。

「……僕ってば駄目な師匠ね、呆れちゃうわ。僕があの子を信じてあげないでどうするの」

 ジト目を愛しく細めて、クラウンベリーは愛弟子に気づかれないように笑いかける。ハンバーグを焦がして落ち込んでいた彼女は、もういない。安堵したように瞼を閉じると、春色の艶めいた唇を動かした。

「カロン! お転婆はほどほどに……けれど、やると決めたことはやりきってきなさい」

「行ってらっしゃい。僕は貴方の帰りを待っているわ」

 慣れない大きな声量で、カロンに想いを届けた。初めてでなくても、我が子を送り出すというのは、やはりもの寂しい。だが、空が澄んだように誇らしくもあった。桜色の二つ結びをひらりと流して、こちらを振り返った彼女の笑顔が眩しい。

 行ってらっしゃい。自慢で愛おしい、僕のカロン。

 今度はクラウンベリーがカロンに背を向けて、後ろを見ることなく歩み出した。

「テオフィールさん」

 クラウンベリーの背中を追いながら、ジョジュアがテオフィールに声をかける。シトリンを輝かせて、彼の真っ赤な林檎色を照らした。

「私たちは、貴方を信じています」

 ジョジュアは手短にそう伝えると、帽子のつばをくいっと下げて、ぶわりと桜吹雪を可憐に舞い散らさせる。テオフィールの背中を押すように舞う花々が、どこまでも長閑で綺麗だった。すっかり集まっていた人々は姿を消して、残ったカロンとルシアスとテオフィールは、合図を送るように視線を合わせた。時間稼ぎをしてくれているジェシーを見上げながら、ルシアスは声を高らかに響かせる。

「よし、作戦開始だ!」

 星の子を自信げに纏わせるルシアスに、カロンとテオフィールも意を決して、力強く頷いた。


◆◆◆


 少しばかり距離は空いているというのに、ひしひしと背筋が震え立つ感覚がジェシーに押し寄せる。どす黒く濁った呪いに包まれたレドナーに、ジェシーは真っ向から相反した。カロンたちの準備のための時間稼ぎもとい、初めての兄弟喧嘩を吹っかけたジェシーは、レドナーに話を展開させる。

「お兄ちゃんってさ。人一倍無口なくせして自己完結しちゃうし、伝えようとする力が足りないよねぇ」

 ジェシーはわざとらしくため息を零す。

「そのおかげで何回もすれ違ったし、ご覧の通り私たち拗れまくりのドロドロだぜ? 私、口下手な人って好みじゃない。なーんも可愛くないから」

 ジェシーの会話に、レドナーは分かりやすい反応は示さない。だが、森の枯死の進行は、先ほどより心なしか遅くなっているようにも思える。彼はこの声が聞こえていないわけではなさそうだ。チャンスを逃さまいとジェシーは言葉を広げる。

「不機嫌な時の舌打ちがうるさくて怖いし、足癖はうんざりするくらい悪いし、身長小さいからって誤魔化すためにハイヒールなんか履いちゃってさぁ〜見栄張ってる方がよっぽどカッコ悪いと思いますけどぉ?」
「……」
「いくらカロリー高いもの食べても太んないし、猫派みたいな顔して犬派だし、実は怖いものとか高いとことか、あと激辛料理も苦手でしょ? ジェシーちゃんにはお見通しなんだから」
「……」
「……あ、あとはっ……む、無駄に料理が得意で謎に家庭力がある、し、昔から頭も良くて、教え方も上手くて、ヴァイオリンがプロみたいに綺麗で、笑顔が可愛くて、それで……それで……」

 徐々に声が小さくなって、言葉を詰まらせるジェシーを、レドナーは何も言わず、抜け殻のような瞳で見つめてくるだけだった。

「……なんで、何も言い返してくれないの」

 こんなに酷いことを沢山ぶつけているのに、どうして?

 いつもみたいな仏頂面で、舌打ちしてよ。眉を顰めた後に、仕方がないなってため息ついてよ。

「っこれじゃ喧嘩じゃなくて、私が一方的に難癖付けてるだけじゃねぇか‼︎」

 ジェシーは破竹の勢いで、レドナー目掛けて大鎌を振るった。鎌に飾られたリボンが、強引に靡く。レドナーはジェシーの攻撃を、いとも簡単に受け止めてみせる。二つの刃物が重なって、頭の割れるような音が共鳴した。

「お兄ちゃんのばかばかばかばか!」

 小柄な体格を全力で動かして、両手で大鎌を振り回す。だがそれらをすらりと躱すレドナーは、ジェシーの隙をついては体を切り刻もうと、身軽に片手で鎌を扱う。ジェシーはすれすれのところで回避したり、力量の差をなんとか踏ん張って攻撃を弾くことしか出来ない。


「――♩」

 ゆったりとした歌声を、レドナーが口遊む。赤子を眠りに誘うみたいに穏やかなそれは、ジェシーの脳に激しい衝動を与え、ぐらりと吐き気を催す眩暈が襲いかかった。これは、彼の魔法……いや、呪術だ。彼の紡ぐララバイが聞こえないようにと、大きな耳を掴んでなんとか意識を保つ。ジェシーは対抗する手段も尽くして、心許なく声を漏らした。

「……っお兄ちゃんなんて、だ、大、大きら……」

 下に俯きながら、ジェシーは肩を震わせる。鎌をぎゅっと握りしめるが、次第にその力は弱まっていった。

「……冗談でも、言えないよ……大嫌いだなんて、一度も思ったことないの……」

「私はお兄ちゃんが、世界一大好きなの……」


 ぼろぼろと、涙とともに心の内を零した。
 例え喧嘩だとしても、大嫌いだなんて、言えなかった。彼は、自分のたった一人の、大好きなお兄ちゃんだったから。

「……!」

 ジェシーに抜かりなく攻撃を仕向けていたレドナーであったが、彼女の泣く姿が目に映った途端、手元が狂ったように攻勢を崩した。急所を狙った刃の先は、彼女の腕に一つかすり傷を与える。ぐっと痛みを堪えるジェシーに、レドナーは完全に動きを止めた。

「……お兄ちゃん……?」

 じんわりと浮き出て流れゆく妹の血液を、レドナーは生気の無くした瞳で、ただじっと焼き付けていた。呆然とするレドナーに、ジェシーは不審の念を抱く。ふと、彼の利き手とは逆の手が微かに揺れているのが分かって、そちらに視線を変えてみた。

「!!」

 レドナーは、片手からぼとぼとと、容赦なく血を垂れ流していた。必死に抗うように、死に物狂いで耐えるように。
 人間としての彼は、まだ生きている。その確信を教えてくれる、鮮明な赤色だ。
 手の甲に爪をぐっと更に食い込ませて、レドナーは糸で縫われたように閉ざされた口先を、おぼつかなく、それでも懸命にこじ開けた。

「ジェ、シ」
「にげ、ろ」

 抜け落ちたはずの自我が、僅かに見えた。レドナーは苦しそうに、朱色の瞳をぐらぐらと怯えさせる。
 あの時も、彼は家から出ていけだなんて、自分を突き放して。自分自身が危機に晒された今でさえ、他人の心配をする。妹想いなのは大いに結構だが、その自己犠牲はありがた迷惑だ。ジェシーは鼻で彼を笑って、手を横に伸ばすと大鎌をすらりと離した。地面に落ちていくそれに見向きもせず、ジェシーはレドナーを見つめた。

「逃げない」

 私はお兄ちゃんの、たった一人の妹だから。

 呪いにまたしても取り込まれて、支配されるようにジェシーの元へと攻め入るレドナーに、ジェシーはその場から逃げることなく、めいいっぱいに両腕を広げた。彼の全てを、受け止めるように。

 刃が、彼女の首先に触れた。


「おいっ! ふざけんじゃねぇぞ!!!」

 闇が焼け落ちるように、鮮やかな声が叫ぶ。金色のライムイエローが見えて、ジェシーは瞳を見開いた。

「ライムントくん……!?」

 薄汚れて額から血を垂れ流すライムントが、恰も捨て身で、レドナーにしがみついていた。唐突に重みがのしかかって、レドナーは動作を封じ込められる。重力に負けじと、ライムントはレドナーをぐっと縛った。

「お前、お兄ちゃんだろうが! 可愛い妹に傷つけて、ましてや泣かせるなんて、同じ兄として黙ってられねぇ!」

 ライムントは、怒り心頭に発する。普段はフラットで陽気な彼の憤る姿に、ジェシーは唖然とした。

「こんなことして、お前はお兄ちゃん失格だ!」

 腕に爪を突き立てて歯向かうレドナーに、ライムントはキツく釣った瞳を厳しく睨みつける。

「いい加減、これでも喰らって目を覚ませ!」

 私憤を溢れさせて、声を荒らげた。まるで何かのサインのように叫んだライムントに、レドナーは振り返ろうとした。

 こてん!

「……ッ!!」

 レドナーの脳天に、眩い大きな星型の光が命中する。きらきらとこちらに笑いかけるみたいに、身体を輝かせる星の子は、軽快に弾けて消えていく。レドナーはぐるぐると頭上に星を回らせるように、脳への衝撃に襲われた。
 だが、この程度では彼の隙は奪えない。早々に痛みを振り払って、ライムントから離れようと体を動かした、その時だった。

 辺り一面が、丸い円を描いたような影に覆われる。あまりにも規格外な大きさに、レドナーははっと上を見上げた。光沢の目立った、黒の鉄の塊がこちらに押し寄せる。その隙間で、桃色と空色を重ねた少女が見えた。少女はそれを両手でがっちりと握って、パワー全開に叩きつけた。

「えいっ!」

 ガツン、と固くて鈍い音が、レドナーに浴びさせられる。巨大な姿に変化したフライパンを、カロンは軽やかにレドナーへとお見舞いした。
 

「フハハハハ!! どうだい、どうだい! 僕の魔力を最大限にして込めた、特大の星々アタックに、カロンのフライパンアタックは!!」

 高笑いを愉快に響かせるルシアスは、興奮したようにレドナーを指さして嘲弄した。ルシアスがこっそり練習を積んでいたあの流星群ではなく、己も喰らいまくった失敗作こと星々アタック。未だ成功していない流星群を使うよりも、確実な手を取ることを選んだのだ。この魔法を使うのは実に癪であったが、己の未熟さを理解しているルシアスであったからこそ、カロンに手を貸してもらうことで、未完成を限りなく完成に近づけられた。

「見てるか人間ども! この僕の驚くべき天才っぷりを……」

 我を忘れたよう興奮気味に語るルシアスであったが、くらりと視界がぼやけて、鼻からそろそろと血が流れる。魔力切れを起こして、白目を剥きながら腰が抜けたように倒れ込んだ。

「あとは……任せたからな……」

 ルシアスは口角を上げたまま、楽しそうに肩を揺らした。


◆◆◆
 

 フライパンが見事命中すると、レドナーはがくりと首を落として、大鎌が左手から零れていった。それを確認したカロンは、遠くにいる彼の名前を、真っ直ぐ呼んだ。

「テオ!」

 カロンの澄んだ声の先に、背筋を伸ばして、弓矢を構える青年がいた。

 テオフィールは、夕暮れの呪縛を解き放ってくれたカロンに、ある頼み事をした。己の放つ矢に、彼女の魔力を注いで欲しいと。テオフィールはあの時、カロンが自分の心臓に触れた途端、まるで心の傷が浄化させるような感覚を味わった。彼女は自分の扱う魔法についてはよく理解していないらしかったが、テオフィールは一つの仮説を立てる。

 心の傷を癒す、呪いの浄化。

 もしかしたら、彼女はそれが出来るのかもしれない。長年に渡って呪術に囚われていたテオフィールだからこそ、こう考えてしまった可能性もあるのだが。けれども、己だけではなく、彼女と共になら、なけなしの勇気も振り絞れる気がしたから。
 もしこの一矢を外してしまったら、今までの努力が報われなかったら。僅かに揺らぐ気持ちが、決意に邪魔をする。かたかたと微弱に震える指先に、テオフィールは鼓動の速度が早まるのを感じ取る。動け、動け、と必死に念じた。

 そっと、震える身体に、あたたかな指先が触れる。濃紺をふわりと靡かせて、サファイアを細める彼が、己を包むようにして先導した。幼いテオフィールに弓矢を教えてくれた、あの時のように。

 テオフィールは、美しい林檎色を煌めかせると、ぐっと手元に力を入れた。夜空に浮かぶ透明の宝石を逃さないように、意識を一点に集中させる。ゆっくり息を呑むと、全身の力を抜いて、極めて静かに弓を引いた。最後の呪いを、解き放つように。
 テオフィールの矢は、華麗に直線を描いていく。ぱきり、と砕ける音が耳に届いて、テオフィールはばっと後ろを振り向いた。

「ありがとうございます、トウカ様……」

 当然のように誰もいないそこに、感謝を告げるとささやかな笑みを綻ばせた。


◆◆◆


 雷のような衝撃が頭に走って、左手にまとわりついていた黒いもやは、宝石が割れると同時に消え去った。宙に浮かんでいた身体が真っ逆さまに落ちていく。

 朧気とした視界の中、優しく柔らかい、長く伸びた桃色が己を包み込んだ。彼女は揃いの指輪を宿した左手を、己の頬にそっと乗せた。


「全く君って奴は……愛しのハニーを待たせるだなんて、とんだダーリンだね」

 ロイヤルブルーの大きなリボンが揺れて、彼女はにしし、と無邪気に微笑んだ。

「シーニャ……」

 レドナーがそう呟くと、シーニャはぎゅっと、もう二度と離さないように、レドナーを抱き締めた。穢れた呪いが、溶けるように解けていく。

 ずっとずっと会いたかった、愛おしい人。

 光を取り戻した朱色の瞳に水面を潤わせながら、レドナーは彼女を強く抱き締め返した。
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