第一章「死神の館」

第十二話『反抗期』


「あ、あの……」
「? どうしたの?」

 ごにょ、とテオフィールが微かに囁いた。カロンは彼の美しい瞳を目に映す。一つの穢れもない、潤んだその果実。カロンは彼の持つこの色が、出会った時からいっとう好きだった。じっと見つめられて、テオフィールは恥ずかしそうに視線を逸らす。あ……と少し惜しい気持ちになるカロンに、テオフィールはぱちぱちと瞼を重ねた。

「もう離して頂いて構いませんので……」
「?」
「あぁ、もう……」

 テオフィールはカロンの体を力なく押した。抱きしめていたことに関して、至って気にしていないカロンは、疑問符をぽんぽんと浮かべている。そんな彼女に、テオフィールは表情を隠すよう帽子を深く被った。

「……肩の傷、痛みますよね」

 白のシャツに滲む赤に、テオフィールは苦しげに顔を歪める。自分のせいでこんな傷を負わせてしまったことに、酷く悔悟しているようだった。けれど、この傷は彼のせいではない。小さな少年を縛った、悍ましい呪いのせいだ。簡単な治癒魔法を唱えながら、肩に魔力を注ぐテオフィールに、カロンはへっちゃらだとにっこりと微笑む。それを見て、テオフィールは困ったみたいに眉を下げた。

「何故、私に笑いかけてくれるんですか。私は貴方を、最初から騙していたというのに」

 彼はカロンに嘘をついて、この館にまで連れてきた。それは、テオフィールがレドナーに向けた発言が理由だと思うのだが、まだ完全な理解には及んでいない。世界を壊すために、レドナーの元にカロンたちが連れてこられた。カロンに分かるのは、精々このくらいだ。
 確かに、テオフィールはカロンを騙していた。今まで贈ってくれた言葉も、笑顔も、全部偽りのものだったかもしれない。けれど、これだけは断言できた。

「だって貴方は、私をこの街に連れ出してくれたもの」

 初めての世界の中で、優しく手を引いて、自分を連れ出してくれたのは彼だった。カロンの旅の一ページを刻んでくれたのは、誰でもない、テオフィールだ。彼は世界を壊したい、だなんて言っていたけれど、それは違うはず。
 カロンの手を引いてくれたあの時、テオフィールは心から嬉しそうだったから。シュテルンタウンについて語る彼は、どんな場面を比べても、楽しげに景色を見渡していた。彼はきっと、この街を、この世界を愛している。街を映した瞳の輝きは、間違いなく本物だった。だから、カロンは彼を信じている。テオフィールを、アプフェルを。

「あ……」

 彼の名前は、二つある。両方とも彼の名ということに違いはないのだが、どちらで呼ぶべきか、とカロンは頭を悩ませた。

「お好きな方で構いません、と言いたいところなのですが……」

 会話の詰まったカロンの内心を察したのか、テオフィールがカロンに話しかける。少々不安げに松葉色を傾かせた。

「また、テオと呼んでいただけませんか」

 愛する人から貰った、自分の愛称。呼ばれる度に、胸が張り裂けてしまいそうだった。でも、今は違う。誰かに名前を呼ばれることが、どれだけかけがえのないものだったのかを、思い出せたから。もう聞けないと思っていたこの愛称を、宝物のように呼んでくれる人と巡り会えた。彼女にあんな言葉を吐いたというのに、自分はなんて傲慢なのだろうか。

「えぇ、えぇ! テオ、これからも沢山呼ばせてちょうだい!」

 明るい声色が、テオフィールの思考を晴らす。ぱん! と両手を合わせて、カロンは喜悦を表情に巡らせていた。
 どうして彼女の笑顔は、こんなに眩しいのだろう。こんな自分にもそれを向けてくれるのだから、やっぱり馬鹿みたいだなぁ、だなんて。テオフィールはくすりと、肩を揺すって笑う。少年みたいに無邪気な、彼の本物の笑顔だった。

「!!」

 地面がどしりと、浮き立つようにその場を揺らがせた。不安定になったカロンの体を、テオフィールは守るように支える。ガタガタと絵画たちは自我を持ったように動き出し、ライトが灯りを点滅させた。壁の軋んだ音が耳に届いて、テオフィールは即座に、この後起きるであろう事態を予測して、カロンを抱きしめる。ふわりとカロンに防衛魔法をかけると、勢いよく窓に突進して身を乗り出した。この階から落ちるとなれば、怪我は免れないというのに、彼はカロンが地面に衝突するのを防ぐために、自分が地面側に当たるようカロンをぎゅっと包み込む。真っ逆さまに、落ちていった。


 ぽふんっ!

 陽気な効果音が、二人の体を弾ませた。甘くて苦い、焦がしたカラメルの香りと共に、桜が舞い散る。その次に、懐かしいあの甘酸っぱい香りが己を包んだ。パチリと目を開けて、カロンには若紫色が、テオフィールには蒲公英色が映った。

「もう……カロン、貴方って本当にお転婆な子」
「良かった、無事間に合ったみたいですね。テオフィールさん、お怪我はございませんか」

 優美に三つ編みを揺らす男性と、シトリンの宝石眼を煌めかせる男性が、それぞれ二人を抱き上げる。

「師匠!」
「ジョジュアさん……」

 はぁ、とため息を溢すクラウンベリーに、上品に微笑するジョジュアが、館に到着したようだった。クラウンベリーは出現させたプリンの魔法を解くと、カロンをそっと地面に下ろす。

「カロン……貴方がもう、立派な女性であることを承知の上で聞かせて」

 少し乱れた髪を整える。きゅ、と涙を堪えるみたいに、クラウンベリーは瞳を深めた。

「今すぐ、貴方を抱きしめても構わない?」

 そうでもしないと、安心できそうにないんだもの。

 クラウンベリーが呟くのも束の間、カロンは彼に飛びついた。我が家のように懐かしさで満ちた、彼のクランベリーの香りが身に纏う。クラウンベリーは呆れたみたいに、けれどもほっとしたように、カロンを抱き返した。随分心配させてしまったのだな、と彼の背中に触れながら、カロンは感じ取る。

「……ふふ。ちょっぴり苦しいわ、師匠」
「少しの辛抱よ、我慢してちょうだい……」

 ただ二人は、温度を伝え合った。
 カロンは大好きな師匠と、三年ぶりの再会を果たしたのだった。

「私たちもしますか?」
「えっいやいいです。大人二人、ましてや男同士がやっても苦しいだけなので……」
「ふふ、冗談です」

 何をするか、ともあえて言わなければ、冗談だと仄めかすのも、自分の上司らしかった。この人には相変わらず一生勝てないな、とテオフィールは苦笑した。軽い手つきでテオフィールを下ろしてやると、ジョジュアはテオフィールを見つめて、ゆるりと微笑む。

「私ではなく、彼らがいますから」

 ジョジュアの言葉に首を傾げるテオフィールだったが、その謎は一瞬のうちに拭えた。

「テーオーぴー!!!」

 甲高く叫ぶ声が響き渡って、その方角に目線を変えようとしたテオフィールは、気がつけば空を見上げていた。ずしりと重みのかかった体には、二人の人物がしがみついている。

「もーっっこんなとこにいたの~!? おれら、頑張ってテオぴのこと探してたんだよぉ!?」
「え、何故泣いて……」
「何も言わずに消えるとかマジありえない。ありえなさ過ぎてキレそう」
「こ、こっちは怒ってる……」

 ぐしゃぐしゃなアンリーの泣き顔と、ムカムカなソソの怒り顔を反復しながら、テオフィールはしどろもどろと視線を泳がせる。彼らがこんなにも感情を露わにしている訳が分からなかった。思い倦ねるテオフィールに、ソソは鬱陶しそうに眉を顰める。

「泣くし怒るよ。友達が突然連絡もなしにいなくなったら、当然なんじゃない?」

 適当に言い捨てるソソに、テオフィールは瞳を大きく広げた。

「俺らさ、別にアンタが話したくないなら、無理に話を聞き出そうだなんて思ってなかった。全部知らなくても、関係なく俺らは友達だから」

 でも、とソソは加える。

「俺らはテオフィールのこと、もっと知らなくちゃ駄目だった。嫌われたとしても、踏み込むべきだったんだよね」

 難しいや、とソソは薄い黒髪でターコイズブルーを悔やむように隠す。

「ねぇテオぴ。おれらじゃ頼りないかもしれないし、テオぴの悩み事とか色々を、解決してあげられる力もないんだと思う……」

 彼は昔から大人びていて、何でも一人で抱え込んでしまうのだろう。それが生まれ育った環境によるものなのか、元々の性質なのか、それすらも分からない。彼の繊細な秘密に触れることが、果たして正しいことだったのか。かえって逆効果になって、壊してしまうのではないか。だなんて悩んでいるうちに、彼は一人で壊れかけてしまっていたというのに。
 知らなくてもいいことだって、きっとある。けれど、彼は、自分たちは、違ったのだ。彼は助けてと言いたくても言えなかった。ずっとずっと、狭い蛹に閉じこもっていたんだ。

「でもねっテオぴがしんどいなぁとか、悲しいなぁとか……些細な気持ちを聞くことは出来るよ! そんなことしか出来ないのかぁって、残念に思わせちゃったらごめんね……」

 にへら、と申し訳なさそうに、けれども懸命に、アンリーたちは想いを伝える。

「おれらさ、こう見えてきみのことが大好きなんだ。だから……欲を言えば、もっとテオぴのことを知りたいなぁって」

 例えば、今日の朝ご飯は何を食べて、どんな味だったのか。もしそれが美味しかったのなら、一緒に食べたりするのもアリなんじゃない? 街ですれ違う住民の中で、好みの人がいたりしたかだとか。恋バナって絶対に盛り上がるし、いつかきみが恋をしたのなら、全力で応援してあげたいな! 帰り道に寄っていきたいお店があるなら、その時は教えてよ。寄り道ってワクワクするし、アンタの買い物に付き合うのは飽きなさそう。眠れない夜があったりしたら、何時でも呼んでね。深夜までお喋りしたり、お菓子を食べたりして、たまにははっちゃけちゃおうよ。
 本当に、少しずつでいいんだ。日々積もっていく感情を、俺らに教えてくれたら、おれらはきみの感情に共感したりしたいんだ。くだらない話も、憂鬱な話も、なんだってしよう。生きていても足りないくらい、会話を重ねていこう。貴方を知りたい時間は、沢山用意しているんだ。

「きみのこと、おれらにいーっぱい教えてよ。何でも、どんなことでも、全部聞きたいからさ」

 アンリーとソソは、肩を並べてテオフィールに笑いかける。たとえ跳ね除けられたとしても、テオフィールのことが知りたかったから。

「……話せば、恐らく長くなります。それに、二人を失望させてしまう、かもしれません……」

 それでも、いいの?

 不安げに問いかけるテオフィールに、二人はきょとんとお互いを見つめ合う。ぷ、と可笑しな音を奏でて、ソソとアンリーは二人して笑い声をあげた。

「おれらマブダチトリオの友情が簡単に覆るわけないじゃ~ん!!」
「長話聞くのは得意。受けて立つ、かかってこいや」

 ケラケラと愉快に笑う二人は、テオフィールにわざと体重をかけて、一斉に抱きついた。ちょ、と慌てるテオフィールなんて無視して、子供をあやすみたいに絡みつく。なんだか馬鹿らしくなって、テオフィールも二人と一緒に笑い声を漏らした。

 どうして気づけなかったのだろう。ずっとそばで見守ってくれて、話を聞いてくれて、本当の自分を受け入れてくれる、そんな友人がいたんだ。自分は、一人なんかじゃなかった。

「……あのね」
「わ〜っやっと追いついたぁ! ジェシーちゃん、もうへとへとだぜ〜?」
「あ……皆様お揃いみたいですよ」

 は〜と大きく深呼吸をしながら、ジェシーとノエルもやってくる。彼女たちはこちらに駆け寄ろうとしたが、その刹那、きらりと星のような輝きが目の前を通った。

「見つけたぞ案内人‼︎」

 星屑をころりと宙に浮かしながら、ルシアスが箒に乗って現れた。わっと驚くジェシーたちに目もくれず、ルシアスは箒から降りる。ズカズカと足音を立てて、腕を勢いよく振りながら、名指ししたテオフィールの近くにまで歩む。炎のように癖毛を逆立たせながら、ルシアスはオッドアイを鋭く突き刺した。

「おい、僕は今から君を殴るぞ。事前に言ったからなよし覚悟しろ」
「え?」
「とりゃ!!!!」

 起き上がろうとしたのも虚しく、がつん! とテオフィールの頬に、骨をも響かせるかのような音が刺激を与える。強烈な力ではないものの、至近距離で喰らうには十分に威力を発したルシアスの鉄槌が、テオフィールにお見舞いされた。隣でソソに抱きつきながら叫び声を上げるアンリーに、ソソも声こそ出てはいないが、テオフィールの安否を心配して様子を伺っているようだ。

「あ、貴方……いきなりなにするんですか⁉︎」
「これはさっきのお返しだ! そんなことも分からないのかい!」

 愕然としていたテオフィールは、殴られたことを今し方理解し始めると、怒り混じりにルシアスに声を張る。だがルシアスは彼よりもうんと声を張り上げた。お返し、というのは、蹴られたことに対してだろう。目には目を、なんとかにはなんとかを……とか言うだろ! と未熟な知識を引け散らかすルシアスに、テオフィールは目をジトっと下げる。馬鹿の公開処刑だろうか。

「はぁ……よくお聞き」

 うんざりしながら、ルシアスは話を切り出す。

「僕はね、君のことが大っ嫌いだ」

 もうお分かりだろうけど、とルシアスは隠すことなく嫌悪を伝える。それはテオフィールも同じなので、特にといって傷つくことでもないのだが。

「でもさ、なんで嫌いなのかなって、考えてみたんだよ。生理的な問題だったらどうしようもないけれど。そういうのじゃなかったから、尚更ね」

 怪訝に顔を顰めるテオフィールに、ルシアスも嫌々顔を顰める。己とて好きでこんな奴のことを考えているわけない。なかなか気持ちの悪い話をしていることなんて呑み込んだ上だ。

「……特に君が呪術を使った時、確信した」

 整えるようにため息を出して、ルシアスは腰に手をかける。テオフィールを見つめると、彼目掛けてびしっと人差し指を向けた。

「君、餓鬼っぽいんだよ」
「……はい?」
「チッ!」

 はてなを浮かべるテオフィールに、ルシアスは軽快に舌を鳴らすと、堪忍袋の緒が切れたように地面を足で叩いた。

「お分かりでないようだから僕が分からせてやるけれどね、君の繕うような大人ぶった態度がまず気に入らない! そのくせ、自分の感情のコントロールもままならなくて、子供の癇癪みたいに暴れやがって!」

 言葉として並べるだけで、腹の底が熱くなっていく。そうだ。自分が彼のことをこんなに気にかけて、嫌う理由が見事に揃ってしまった。これらを形容するなら、これしかないのだ。ギリ、と歯を噛み締めて、ルシアスはテオフィールに言い放った。


「同族嫌悪だ、クソ!」

 テオフィールは、自分と似ていたのだ。子供のくせに大人ぶろうとしているところも、感情の吐露が下手くそなところも、何もかもが嘘みたいに。発したくなかった単語を伝えると、ルシアスはがっくりと肩を落として、疲弊したようにその場に胡座を組んだ。思いがけない結論に驚くテオフィールに、ルシアスは会話を続ける。

「……けれど、君と僕には明確に違ったところがある」

 似たもの同士であった二人の違い。それは、ルシアスがテオフィールに一番伝えたかったことだ。

「僕には、悩み事とか苛立ちとか反発心とか……所謂、反抗期のようなものを受け入れてくれる人がいた。でも、君にはいなかった。違うかい」

 ルシアスは、脳裏に己の師範をほんのりと過ぎらせる。彼はルシアスが幼い頃、親代わりのように育ててくれた存在だ。我儘で意地っ張りで、幼稚な感情を露わにしていたルシアスを、真っ向面から受け止めてくれた。
 ルシアスは幼少期の然るべき時に、気持ちをぶつけられる人がいたのだ。自分は師匠のおかげで、誰かを傷つけたりすることはなかった。だが、目の前の青年はどうだっただろうか。彼は適切な時期に、自分の感情をぶつけられる相手なんて、いなかったんじゃないのか。子供でいられる時間が、足りなかったのではないか。

「僕は君の過去だとか生い立ちだとか、興味もないし知る気もないよ。けれどね、どんな理由があっても、君がつけられた傷を、同じように誰かにつけてはならないんだ」

 ――負の連鎖。誰に言われた訳でもないのに、自然とその言葉が浮かんだ。

 呪いが繰り返されていくことは、何としても避けなければならない。その呪縛を解き放つことが出来るのは、自分自身だけだ。孤独の中の戦いは、きっと時間を大量に必要とするだろう。

「簡単なことじゃないね、分かってる。けれど……」

 ルシアスは、テオフィールの周りにいる皆に目を配る。どこか落ち着いたように、表情を和らげた。

「君の本来の子供らしさを、受け止めてくれる人はいるみたいだね」

 こんなに沢山、おまけに美人だらけだ、と不愉快そうにルシアスは呟いた。
 テオフィールは辺りを見渡す。ソソに抱きつきながら、愛嬌のある笑みを綻ばせるアンリー。抱きつかれて鬱陶しそうにしながらも、ふんわりと頬を緩めるソソ。そして、こちらを優しく、慈しみで満ちた瞳で見つめるジョジュア。皆が、テオフィールに笑いかけている。彼の全てを肯定するような、そんなぬくもりで。
 ジョジュアはテオフィールに、大きな手を差し伸べる。掴んだ彼の指先は、あの頃と変わらないあたたかさが篭っていた。すっかり縮んだ身長差を比べて、ジョジュアは嬉しそうに、けれどもなんだか寂しそうに、目尻を下げる。

「先程、貴方は自分を大人だと仰いましたが……」

 まだまだ、私にとっては小さな子供のままなんですよ。

 ジョジュアはくすりと肩を上げて、桜が舞い散るみたいに笑顔を彩った。テオフィールの肩にそっと手を乗せて、視線を照らし合わせる。

「どれだけ時間がかかっても良いんです。遅れてしまった分を取り戻すお手伝いを、どうか一緒にさせて頂けませんか」

 大人ぶる必要なんてない。だって彼は、六年もの間、あの夕焼けに閉じ込められていたのだから。十二歳から時が止まったように動けなかった少年が、やっと羽ばたいて、本当の自分を歩んでいくのだ。

「……ジョジュアさ……うぇっ」

 隙だらけの背中に、突然圧迫感が強まった。間抜けな声を出したテオフィールは、後ろを振り向く。ニコニコと、無邪気に口角を上げるソソとアンリーが抱きついてきた。

「遠慮なく甘えてねぇ~!! アンリー兄貴、たっくさん甘やかしちゃうよ!!」
「ほーれほれ、ソソ兄ちゃんがよしよししてあげる」
「うわ、ちょっと! やめてください! 恥ずかしい!」
「ジョジュアお兄様も来て来て~!」
「ジョジュアお兄様はいいです!!!」
「あら……兄様、振られちゃいました」

 残念です、と思ってもいなさそうににこにこしているジョジュアを、撫でくりまわされて抵抗する気も失ったテオフィールは恨めしく眺めた。
 嫌というわけではないが、マブダチたちにされるのと、ジョジュアにそういう扱いを受けるのとではわけが違った。単純に、恥ずかしすぎるのだ。幼い頃に甘えられる唯一の存在であった彼だからこそ、今更改めて甘えさせてくださいなんて言いたくなかった。こんなことを考えたとて、ジョジュアにはきっと何もかもお見通しなのだろうが。テオフィールは皆からの子供扱いに、慣れない照れくささと、じんわりと溶けるような幸せを、しかと身に染み渡らせたのだった。


「美人って、戯れているだけで絵になるわね……」

 未だカロンを己の胸に収めながら、クラウンベリーは案内人の絡みを慎ましく傍観していた。

「あ……そうよ。僕、カロンに謝らなくてはならないことがあるの」

 クラウンベリーはやっとカロンをそばから離すと、面目なさそうにズボンのポケットから、綺麗に折り畳まれた紙を手渡した。

「地図よ。届け損ねていたみたいで……困ったでしょう。ごめんなさい」
「? 地図ならちゃんと届いていたわよ?」
「……え?」

 ほら、とカロンは少しくしゃついた地図をクラウンベリーに見せる。まじまじと、端から端まで目を通したクラウンベリーは、訝しい表情を曇らせた。

「これは僕のものではないわ」

 今とは異なった道順や、古く掠れた文字……どこを取っても、現代で流通している地図でないことは明白だった。それに、地図はこの森のみに印が付けられている。恰も、カロンをレドナーの館に誘導するように。

「……ねぇ、マナはどこ?」

 ふと、親友である男が思い浮かんだ。何故だかは分からない。けれど、口は自然と彼の名を呼んだのだ。視線の当てもなく、しんみりとした夜を見上げた。


「みんな‼︎ ライムントくんを知らない⁉︎」

 クラウンベリーの薄らとした呟きは、ジェシーの声で掻き消された。
 カロンにルシアスにテオフィール、ノエルにクラウンベリーに案内人、そして自分。ジェシーは足りない人物をあたふたと探すが、その姿は見当たらない。ジェシーが信頼を託した、ライムントだ。

「館の中にはもういなかったはずだけれど」

 ルシアスは親指と人差し指で輪を作ると、その中を覗き込むようにして館を凝視した。魔力の扱いに長けたルシアスは、人の魔力を探知することが可能らしく、ライムントから発されるパワーを探る。

「やっぱりいないね。尻尾でも巻いて逃げたんじゃないのかい?」
「そんなことないよっ! ライムントくんに限ってそれはない!」
「まぁないだろうね、あの男に限っては。けれど、僕が探知できたのは一つだけ……」

 ルシアスは円の中心を見つめながら、ひやりと冷たい汗を落とした。
 大きな館を支配するかのごとく埋め尽くされた、絶大なエネルギー。凡そ一人の生き物から放出されるとは思えない強烈な魔力に、ルシアスは遠目ながらも気圧されるように唾を飲み込んだ。

「……崩れる」

 淡々とルシアスが述べる。ばっと館に目線を向けると、それと共に耳が千切れてしまうくらいの、大きな音が劈く。館は下の階を潰して、徐々に形が崩れていった。崩壊した衝撃で飛んできた破片が当たらないように、ジョジュアが桜吹雪で壁を作ると、補助するように案内人は俊敏に防衛魔法を繰り出す。桜が舞い散って視界が広がると、一同はぎょっと肝を抜かれる。

 崩れ落ちてぼろぼろと砕けた館を背景に、真っ黒な炎のようなものを纏った少年が浮かんでいた。魔力探知が出来なくとも、よく伝わってくる。彼からは、甚大な魔力が溢れていた。薄縹色を重ねた白髪が靡いて、おどろおどろしく朱色の瞳が暴かれる。ジェシーは少年を瞠目すると、心臓が止まるように息を呑んだ。

「お兄ちゃん……」

 紛れもなく、己の兄であった。レドナーは片手に掴んだ大鎌を一振する。そうすると、忽ち辺りを囲む木々たちが、命を奪われるようにしおしおと枯れていったのだ。レドナーは表情一つ変えずに、ただその光景を見下している。魂を抜き取られて、まるで人間であった部分を奪われているように感じられるその姿。

「本物の、死神みたい」
「……本物?」

 ジェシーの言葉に、テオフィールは疑問を聞き返した。彼女の言い方だと、如何にも自分たちが死神ではないという風に捉えられたからだ。

「……黙っててごめんね。もう薄々分かってるかもしれないけど、私とお兄ちゃんは人間じゃない。死神なの」

 ジェシーは伸びた前下がりの髪をさらりと耳にかける。長い髪によって上手い具合に隠されていた、尖った耳がよく目立った。

「でも、私たちは純血の死神でもない。元々はきみたちと同じ、人間だったんだ。死神と契約を交わして、自ら人の理を外れたの」

 どこか憂いを含ませて、ジェシーは微笑む。

「……お兄ちゃんがね、ずっと私に言い聞かせてくれてたことがあるんだ」

 ――決して、人間である自分を忘れてはならない。

 レドナーは、自分たちが持っている人としての部分を、何があっても手放してはならないと、ジェシーに用心深く忠告したという。無口な彼が、あんなにもしつこくジェシーに伝えたのはこれくらいだ。

「だからね、私はお兄ちゃんが望んであんな姿になってる、だなんて思えない……」

 むしろレドナーは、そうなることを防ぐために、今まで過ごしてきたようにも思える。静かにひっそりと、誰も傷つけてしまわないように。
 ……そうだ。兄はずっと、館で人目を避けるように暮らしていた。会話こそ減ったものの、食事は共にしていたし、顔を合わせる機会がぱったり消えてしまった、というわけでもなかった。

「ノエル、お兄ちゃんがご飯を食べなくなったのって、いつ頃だったか分かる?」
「えぇっと……僕の記憶が正しければ、三年前くらいだったでしょうか……」

 三年前。そのワードにジェシーは思考を働かせる。

「……国滅事件が起こった時期と重なってる?」

 全人類を脅かした、大事件。それと兄に繋がりがあるようには思えないが、不自然に重なる点は揺るぎなく存在している。確かに、あの事件が起こった後からだった。兄が自分たちを異様に避けるようになったのは。今の己にはその要因を掴むことは出来ないだろう。けれど、決定的に分かることはあった。

「うん。やっぱりお兄ちゃんは、こんなことしたくないに決まってる。これは、お兄ちゃんの意思なんかじゃない」

 不器用だけれど、誰よりも優しい、自分の実の兄。そんな彼が、絶対にこのようなことを願うはずがない。何百年と日々を歩んできた妹だからこそ分かるのだ。

「……レドナーさんは、直前まで何かを耐えて、意識を保っていたように伺えました」

 テオフィールがそっと、囁く程度の声量で話し出す。

「死神は生と死を司る一族だと、トウカ様から聞いたことがあります」

 トウカはテオフィールに様々なことを、御伽噺のように語ってくれた。その中で、死神の話を教えてもらったことがある。
 死神とは古来より生きる神の一種であり、生き物の魂の生と死を司るということ。それは生き物の魂を正しい場所に送り、成仏への循環を巡らせる、生への豊かさを象徴するもの。そして、生き物の魂を吸い取り喰らって、不条理な死を与えることも出来る、死への恐ろしさを象徴するものだと。

 トウカが暗殺されて、悲しみに暮れたテオフィールは、憎ったらしい世界を壊してしまおうと目論んだ。だが、たかが何の能力も持たない自分にそんなことが実現出来るはずもない。そんな時に、あの死神の話が過ぎったのだ。彼らが司る「死」の能力。これさえあれば、瞬く間に世界の終焉は目の前だと、何年もかけてテオフィールは死神を探していた。元より死神の一族は、大昔に滅びかけているらしく、テオフィールが知っていたのは、トウカの口から話題に出た館に住まう死神だけだった。
 テオフィールは長年その館を探ったが、森の何処をさ迷っても見つけることは叶わない。ただの迷信に過ぎないのかもしれないと諦めかけていた。だが、カロンの地図を見た時に、テオフィールはすぐさまそこが死神の館であることに確信を覚えたのだ。そうして、彼はここまでやって来た。この世界を、壊して貰うために。

「私は世界を消し去って頂くために、レドナーさんに頼みました。……ですが」

 テオフィールは、帽子のつばをぐっと掴んで、下に引っ張った。

「契約に関してもそうですが……彼が元々人間であったということは、存じていませんでした」

 テオフィールは、死神の持つ能力の恐ろしさを逆手にとって、世界を滅ぼそうとしていた。死神は魂を喰らうことが、生きることと同義なのだと思って、レドナーにそれを勧めるように詰め寄った。あの時は、彼が何故あそこまで抵抗しているのかが理解出来なかった。でも、今なら痛いほど分かる。
 レドナーは、人間である自分を失わないように、そして死神の持つ能力の恐ろしさを知っていたからこそ、必死に抗っていたのだ。彼は能力を使うことなんて、これっぽっちも望んでなんていなかった。テオフィールにも、自分自身を奪われていくということが、どれだけ辛いことか分かっていたのに。

「……あの時、レドナーさんは私と同じ目をしていたんです」

 酷く窶れて、隈の刻まれた彼の瞳。テオフィールは、レドナーの朱色を見た時、自分と同じだと思った。この世界を恨んでいて、壊したくて仕方がないのだと。けれど、違ったのだ。

「確かに、私も彼も、この世界が憎くて堪らなかったかもしれない。でも、本当はそうじゃないんです」

「この世界を、愛しているんです……」


 喉が狭まるように、息苦しく、テオフィールは埋め尽くされていた本音を紡いだ。

「まぁ嫌いは嫌いですよ……馬鹿と阿呆と屑ばっかで、本当にやるせなかった。全員さっさと死ねば良いとも思っていました。……ですが、それでも、私は知っていたんです」

 この世界が、どれだけ美しいかを。

 それは、彼を愛してくれた家族。彼を救いあげた幸福な王子さま。彼を受け入れてくれた友人たち。そして、彼を夕暮れから連れ出してくれた、一人の少女。
 沢山の人たちが、テオフィールに教えてくれたのだ。果てしなく広がる世界の美しさを。

「壊したいだなんて、思っていませんでした。綺麗で優しいこの世界が崩れていくのが、とても怖かった。本当は、守ってあげたかった……」

 苦渋を味わうように、ぎゅっと胸元を掴んだ。
 レドナーも、きっと同じだ。己の死神の能力によって、世界が壊れてしまうことを危惧していた。等しい願いを秘めていたというのに、彼になんてことをしてしまったのだろうか。

「全て私のせいです」

 テオフィールは帽子を外すと、暗い顔を沈めるように、ジェシーに頭を下げた。
 自分が彼を唆すようなことをしていなければ、こうはならなかった。レドナーが自我を失って、人間であったところを奪ってしまったのは、間違いなく己のせいだ。

「……テオフィールくん、顔を上げてくれる?」

 ジェシーは、いつもと変わらない調子で彼を呼びかけた。震える体で見上げたテオフィールは、柔らかく笑みを向けるジェシーが目に入る。

「確かに、きみが悪いとこもあったよ。……でもね、全てじゃない。よく考えてみて欲しい」

 ジェシーは、空中に浮かぶレドナーを見つめながら、言葉を続けた。

「きみは人間である自分と、死神であるお兄ちゃんが関わったから、あぁなったって言いたいと思うんだけどさ」

 ちらりと、ジェシーは隣で密かに話を聞いていたノエルに視線をやる。

「もしそうだったのなら、既にお兄ちゃんはこうなっていたはず。だって、人間であるノエルは、ずっと前から私たちのそばで暮らしてたんだよ?」

 はっと、テオフィールは大きな瞳を凝らす。
 テオフィールは、人間の魂が彼の能力への刺激となると考えて、あのように自分の魂を喰わせようとした。そのせいで、レドナーが自我を失ったと思い込んでいた。けれども、ジェシーの発言により、その考えは覆ることになる。
 そうだ。レドナーやジェシーは人間の少女であるノエルをそばにおいて、数年間暮らしてきたはずなのだ。最初から人間の魂が起爆剤となるならば、そもそもレドナーはノエルと共に生活なんてしなかっただろう。つまり、生き物の魂が身近にあったとしても、能力が暴走することはなかったのだ。

「お兄ちゃんがノエルと私を避け始めたのは、三年前から。……憶測に過ぎないけど、こう考える方が妥当かも」

「三年前から、お兄ちゃんは何かに、もしくは誰かに、人間である部分を奪われそうになっていた。そして、いつの日か暴走してしまわないように、私たちとの関わりを絶った」

 神妙な面持ちで、ジェシーは告げる。あくまで憶測だと彼女は予防線を張ったが、この考えは的を得ていた。

 なら、一体何が、誰が、レドナーの身にこのようなことを招いたのだろうか。皆は脳内を巡らせるが、これといった原因も見つからず、頭を悩ませるばかりだった。レドナーは段々と、森の生命たちを強引に吸い取っている。自分たちが巻き込まれるのも、時間のうちであった。

「……あ……」

 ふと、カロンが声を漏らす。
 月夜のよく行き届いた一室で、レドナーと二人で会話をしたあの時。誰かが自分を、必死に呼んだ気がしたのだ。その正体は、彼の左手の薬指に輝いた、無垢で染まった宝石からだった。

「指輪! レドナーが身につけていた、あの指輪……!」
「指輪……?」

 ジェシーは首を傾げるが、あぁ、と納得すると瞳を細めた。

「あれはお兄ちゃんの大切なものでさ」

 結婚指輪なんだ。

 控えめに笑うジェシーに、カロンたちはすん……と静まり返るのも短いひと時で、皆は一斉に仰天して声をあげた。

「あらまぁ……!」
「けけけけ結婚!?!? 指輪だって!?!? 既婚者だったのか!?!?」
「レレレ、レドナーさんは随分お若く見えましたが……」
「まぁ私たち、子供のままで成長止まっちゃってるからね〜驚くもの無理ないぜ。あっ私は永遠の十二歳だけどね?」

 あはは、と衝撃の事実を軽く言い渡したジェシーに、ルシアスとテオフィールはあんぐりと口が開きっぱなしだった。

「それで、その指輪がどうかしたの?」
「えぇ。レドナーと話した時に、あの指輪が私を呼んでいたような、そんな気がしたのを思い出したの」
「へぇ。指輪が、かぁ……」

 うーん、と口元に手を添えて、ジェシーは深く考え込んでいる。その近くで、カロンの持ち出した話題を耳にしたルシアスは、目線をレドナーに移した。館を観察した時と同じように、指で弧を作ってその中をじっと覗き込む。

「……カロン。もしかしたらその予感、当たりかもしれないよ」

 レドナーから目を離すと、ルシアスはカロンたちに向き合った。

「さっきは黒いもやとか大きすぎる魔力が邪魔で気づかなかったけれど……指輪に注目して、分かったことがある」

 キッと瞳孔を尖らせて、ルシアスは真剣な表情でカロンたちに述べた。


「あいつは呪術をかけられている」

 それも、相当厄介で強大なものだ、とルシアスは悔しそうに吐いた。

「呪術は魔法を反転させた、言わば呪いだ。それを他人にかけるだなんて、タチが悪いにも程がある」

 彼の魔力のエネルギーと、指輪の宝石に宿された呪術のエネルギーが別物であることから、レドナーが何者かにその呪いをかけられたことは明々白々だと言う。ジェシーの見解にカロンの勘は的中していたのだ。

「フン……だが、そうならお話が早いな」

 パチン、とルシアスは指を鳴らして、小さな星を弾けさせた。

「あの指輪に絡みついた呪術を解いてやれば、どうにかなるということだね」

 お分かりかい? とルシアスは皆に問う。ルシアスの周りをキラキラと駆け巡る星の子が、陽気に煌めいた。
 まだ、遅くない。まだ、間に合う。レドナーを救うことが出来る、希望の証明だった。

「分かったのならさっさと作戦会議だ。全員、この天才たる僕の指揮をよくお聞き!」
「うるさいですね、ちょっと黙っていてもらえますか?」
「んだと餓鬼‼︎ 誰のおかげだと思っている‼︎」
「はいはい! こんなのはどうかしら?」
「げ……君って見かけによらず、物理で物を言わすタイプなのかい……?」

 三人は他の人たちのことなんて眼中にないのか、そそくさと作戦を練り始めている。そんな彼らを、ジェシーは佇みながら見つめた。
 まだ出会って数日しか経っていないような、実質赤の他人である自分たちを見捨てないで、当たり前のように助けようとしてくれている。彼らにだって、安全は保証できないような、そんな事柄だというのに。

 この子達が、館を訪れてくれて本当に良かった。

 じんわりと、瞳の奥から込み上げてくる熱を、ジェシーはなんとか抑え込む。勇気を振り絞るように息を吐くと、気持ちを切り替えて、凛々しく楽しげに口角を上げてみせた。

「みんな、私からお願いがあるの」


◆◆◆


 泥沼に沈むように、重たい。段々と取り戻していく意識の中で、思った通りに動かない身体をぼんやりと眺める。崩れた館の瓦礫の間で、ライムントは目を覚ました。節々に走る痛みや、切れた額から垂れる血が鬱陶しい。黒の手袋で血を拭って、立ち上がろうと腕を踏ん張った。けれども、己に圧し掛かる瓦礫がそれを許さない。ずきりと足首に襲う違和感に、やるせない憂鬱を思い知らされた。

 自分がどれだけ願っても、答えてくれることは一度だってない。ご飯が美味しくなるようなおまじないも、箒に乗って空を飛ぶことも、誰かを守るための壁だって、己にとっては全て本の中の物語となんら変わりなかった。当たり前のように存在するそれらに、触れられたことなんてないのだ。自分にとっては、皆が特別で輝いているみたいに見えて、それが美しくもあって、酷く心苦しい。

 もし、自分も皆と同じように、祝福と称された魔法を使えたのなら。凡才で何も出来ない己も、特別な何かになれたのかもしれない。

 あの子を、救ってあげられたんじゃないのか。

 だなんて、ずっと考えて生きてきた。叶うはずもない願いを抱いたとて、そこにあるのは後悔に停滞しただけの、平凡極まりない自分自身だけなのに。現に今だって、ジェシーからの頼みを果たせなかった。この程度の怪我だって、カロンたちなら簡単な治癒魔法で治せるのだと思う。実際に使えたことなんてないから、何も分からないけれど。力を抜いて、ぐったりと地面に張り付く。額から流れる赤が、なだらかに落ちていくのをただ見守った。


『兄さん!』

 懐かしくて愛おしい声が、聞こえた気がした。
 ライムントは急ぐよう顔を空に仰ぐ。月光に照らされた紺色に、少年と少女が浮かんでいる。目を擦って、ぼやけた視界をよく凝らした。

「ジェシーとレドナーか……⁉︎」

 揃った白い髪を揺らす二人は、対面するように向き合う。ジェシーは深呼吸をして、うんと声を渡らせた。

「私たちさぁ、今までしてこなかったことがあるじゃん?」

 少し震えながらも、ジェシーは決意を固めたように、レドナーから視線を外さなかった。

「しようぜ、兄妹喧嘩! 腹割って話し合おうじゃんか!」

 へへ、と歯を見せて、ジェシーは悪戯に笑った。
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