第一章「死神の館」

第十一話『おかえり、ただいま』


「……! ……オ!」

 揺さぶられる感覚と共に、猛然と叫ぶ声が聞こえる気がした。暗闇へと徐々に光を差し込むよう、瞼を開ける。

「テオ……! しっかりして!」

 じんわりとあたたかな温度がテオフィールを包み込んでいる。月の光を背負ったカロンは、己の開いた瞳を見ると嬉しそうに手を握った。小さくて軽やかで、何にも染まらない無垢なそれに触れる、己の手が視界に入ってしまう。
 どろりと、真っ赤に塗りたくられた液が垂れて、カロンの純真な手に今にも移ってしまいそうだった。

「!! だめ、離してっ!!」

 血相を変えて、テオフィールはカロンの手を払う。すぐさまカロンの傍から離れて、テオフィールは己の手を何度も何度も拭った。ぐちゃぐちゃと音を立てて、こちらに付き纏う赤色が、手のひらに広がる。

「落ち着いて、よく聞いて!」

 距離を取っていたテオフィールに、カロンは何かを急かすように駆け寄ろうとしていた。その光景が、テオフィールの記憶と重なる。
 燃え盛る故郷、木組みの家の前。からんと拳銃が落っこちて、傷だらけの女が己に這いつくばってくるのだ。でもそれは、確かに自分の大切な人で、忘れてはならない人で。そう必死に言い聞かせているのに、テオフィールの耳元で、甘美の満ち足りた声がこう囁いてくる。

『敵が来るぞ、‪✕‬‪✕』

 男に後ろから抱きしめられて、身動きが許されない。息をしたくても、上から注がれる蜂蜜のような甘い声で、喉を埋め尽くされる。黒い手袋が己の手に弓矢を手渡してきて、テオフィールはそれをされるがまま受け取るしか無かった。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 震えて軸の整わない手を、男はあの時と同じように封じ込める。
 そして己に、こう命令するのだ。

『撃て、‪✕‬‪✕‬』


「きゃっ……!」
「……!!!」

 気づけば、テオフィールは矢を放っていた。
 その刃は、カロンの右肩をかすり、破けた服からとくとくと血が滲んだ。肩を押さえて体勢を崩すカロンに、テオフィールはわなわなと林檎色の瞳を揺らがせて、掠れた悲鳴を漏らす。

 また、また、自分は、同じことを?

 正常に働かず、支配されたように役に立たない脳みそでも、目の前に映る赤だけははっきりと焼き付いた。ぼとりと血が床に滴っていって、それを見た途端にテオフィールは小刻みに後退りしながら、踵を返して脚を走らせた。
 早く離れなければならない。自分が、彼女を殺してしまう前に!

 どれだけ自分を食い止めようとしても、あの男に全てを掻き消されてしまう。熱を帯びた夕焼けの景色が脳内に、精神に、己にこびりつくのだ。発砲の余韻で痛む手も、踏み潰して砕けた蝶々も、倒れ込んで動かなくなった父親も、地べたを這ってこちらに恨み言を零した母親の瞳も、全部全部!

 朝に洗面所の鏡を見るだけで、あるはずもない、自身の顔や手に張り付いた血液が落ちなくて、荒れるくらいに肌を擦る。昼に街中で親子と会話を交わすだけで、吐き気を催す罪悪感で、口内を噛み締めて鉄の味を増やす。夕方に、日の落ちかけた橙色を目に入れて、何処にもない帰り道に足を竦ませる。夜に、一日中巡らせた懺悔や後悔を、自分に戒めるよう言い聞かせる。夢の中では、いつだってあの光景が繰り返されるのだ。

『貴方なんて、帰ってこなければよかったのに』

 呪いのように反復するその言葉に、幾度となく傷を抉られる。眠りたくなんて無かったけれど、人は寝なければまともに生きていけなどしないから、夜の時間がいつだって恐ろしかった。
 テオフィールは、どんな時でさえも、あの夕焼けの中に閉じ込められたままだった。あたたかい家も失って、帰る場所をずっと探して、でもそんなものは無くて。両親の死体を見つめて、そこから動けない。地獄のように炎が踊るあの夕暮れを、テオフィールは永遠と駆け抜ける。ゴールなんて、見つけたこともないのに。

「待って、テオ!」

 ぐい、と手を引っ張られる。右肩からの出血が酷いというのに、それに構わずカロンはテオフィールを追いかけてきた。傷が痛むのを堪えながら、カロンはテオフィールの手を掴む。
 どうして、そうやって追いかけてこようとするんだ。あの時の母親だってそうだ。銃を向ける己に、ボロボロの身体で近寄ってきたじゃないか。自分は、この手で殺そうとしていたというのに!

「あああぁっっ離して、離して!! 僕から今すぐ逃げてっ!!」

 カロンに握られた手を必死に離そうと、テオフィールは声を荒らげる。汚れた己の赤が、彼女に広がってしまう! 自分のせいで、彼女が死んでしまう!
 錯乱してじたばたと暴れるテオフィールから、カロンは離れようとしなかった。ゆっくりとロングブーツを鳴らして、テオフィールに歩み寄ってくる。その一歩一歩が、テオフィールの心臓を突き刺していくのだ。己の元まで身体を引き摺ってきた母親が、目の前の彼女とそっくりだった。
 がくりと、テオフィールは力が抜けてその場に座り込む。背中に襲いかかるような、絶望があまりにも重たくて、立っていられない。顔を下に落として、テオフィールは林檎色をぐらぐらと潤わせる。震えた唇で、小さく呟いた。

「帰ってきて、ごめんなさい」

 生まれてきてしまって、ごめんなさい。

 自分で言い放った言葉が、そのまま返ってくるように、胸を痛めつける。ずっと言わなければならなかったのに、言えなかった。これを認めてしまえば、何もかもが終わってしまう気がするだなんて、まだ我儘を未練がましく垂れていたのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 とめどなく溢れる悔恨は、止まることを知らなかった。項垂れて同じ言葉を吐き続けるテオフィールに、カロンは手を繋いだまま、視線を合わせるように、ゆったりと屈む。そっとテオフィールの名を呼んだ。おどおどしく顔を上げたテオフィールに、カロンは彼の心に浸透するよう片手を乗せて、ふんわりと花が咲き散るみたいに抱きしめた。はっと息を呑んで、テオフィールはカロンから離れようと弱りきった身体で藻掻く。

「だからだめなんだよっ! お願いだから離れて、早く!!!」
「テオ! 違うわ!」
「え……?」
「よく思い出して! 負けないで!」

 彼女の截然たる声が脳内に響いた。その音に、何故か聞き覚えがある。どろどろに溶けた意識の中で、誰かが己を呼んでいる声がした。


「「そんなものに騙されないで!」」


 二つの言葉が、重なった。


 ぐしゃりと、地に倒れ込む母親が、そこにいる。夕焼けの世界に引きずり込まれた少年は、毎日のように見る悪夢にまただ、と怖気付いて声にならない声を出す。甘い蜜を蓄えた男が己を包んで、あの大きく黒い手で、拳銃を構えさせるのだ。母親が、口を動かす。
 もう聞きたくなんかないのに、また言われてしまう。なんで、どうして。

『貴方な――』
「…………で!」
「……え……?」

「そんなものに騙されないで!」

 ぐっと身体を踏ん張って、母親は少年に向けて、精一杯に想いを叫ぶ。少年の支配に侵された脳内に、その声はよく届いた。目を見開く少年に、母親は心底嬉しそうに、優しく微笑む。

「あぁ……身長、伸びたのね……すっかり別嬪さんで、ママそっくり……」

 ぼそぼそと、小さな声ではあったが、少年に聞こえるようにと、母親は懸命に話しかける。

「怖かったでしょう、酷いことはされていない……? あぁ、でも、ようやく帰ってきたのね……」

 一言一言を、少年の心に染み込ませるように、あたたかく紡ぐ。母親は少年を慈しむような表情で見つめて、彼と揃った林檎色の瞳を、眩しいくらいに輝かせた。

「私たちの大切なアプフェル、よく頑張ったね……帰って来てくれて、本当に嬉しい……ずぅっと待っていたのよ……」

「おかえ」
 
 バン。
 
 伸ばされた手が、ぱたりと落ちた。


「……ママ」

 腰が抜けて、倒れ込む母親の前にしゃがみこむ。届かなかった手を、腫れ物に触るように、己の手で覆った。その刹那、母親の身体が浜辺の砂のように、さらさらと崩れて去ってゆく。
 あぁ、待って、行かないで。
 力のこもらない指先で、しゃかりきに縋り付く。何も残らない自分の手のひらを、ただぼうっと眺める。独りぼっちの夕間暮れだった。

 コツコツと、軽やかな足音が近くでこだました。不思議に思い、少年は俯いた顔を起こす。茶色のロングブーツが視界にぼんやりと入って、目線を更に上へと移した。ふわりとスカートが靡いて、それと一緒に桜色の二つ結びが揺れる。大きくて澄んだ、サファイアの瞳を宿す少女が、こちらを見つめていた。少女は寄り添うように、少年の目の前にしゃがみこむ。

「ずっと、此処で待っていたのね」

 あたたかい声色だった。少女は、慈愛の込められた宝石をきゅっと細めて、少年に手を差し伸べる。

「はじめまして、テオ。私はカロン。貴方を迎えに来たのよ」

 にっこりと笑う彼女は、お菓子みたいで、何度でも呼びたくなるような名前だった。寂しくて薄暗い黄昏時にほんのりと、明かりを照らしてくれるみたいに輝かしい。穢れきった自分を、まっさらに生まれ変わらせてくれる。まるで御伽噺から現れた、純粋無垢で魔法みたいな女の子。カロンは指を伸ばして、少年に満面の笑みを向けた。

「おかえり、アプフェル。一緒にお家に帰りましょう」

 彼女の言葉が、少年のヒビだらけだった心の隙間に、流れ込むようにして伝わった。墨で染まり、腐敗した赤の果実に、きらりと光が浮かび上がる。がんじがらめになった呪いを解くように、少年は瞳から雫を落とす。身にまとった軍服が、するりと肌心地のよいシャツに変わって、翼が生えたみたいに軽かった。小さな手をぐっと伸ばして、彼女の柔らかくて、あったかい手を選び取る。ぽろぽろと涙を流しながら、少年は無邪気に破顔した。

「ただいま……!」

 カロンに手を引かれて、少年は蝶々が羽ばたくように、足を踏み出した。鮮やかな茜色が、二人を見守る。
 家に帰ったら何をしようか。お腹がすいたし、まずはご飯が食べたいな。勿論お肉たっぷりで! その後は、みんなでお風呂に入ろう。水鉄砲合戦なら負けないよ? あ、ギターの練習にも付き合って欲しいんだった。って夜だと近所迷惑だよね。それじゃあ、これはまた明日。
 僕ね、いっぱい頑張ったんだ。だから、偉いねって沢山撫でて欲しいな。ぎゅっと抱き締めて、どうか離さないでね。そうしてくれれば、僕は今日もまた楽しい夢が見られるに違いないもの。明日が待ち遠しくて、仕方ないんだ。


「……良かった、思い出せた……」

 アプフェルは、カロンをきゅっと、抱きしめ返す。肩を揺らして、幸せそうにしゃくりあげた。

「僕に、私に、おかえりをくれてありがとう……」

 小さな彼は、夕焼けの世界にはもういない。大好きで、ぬくもりに満ちた我が家に帰ることが出来たのだから。おかえりと、抱きしめてくれる人が迎えに来てくれたから。


◆◆◆


「あーっくそ!」

 ガンっと勢い任せにジェシーが叩く。館から追い出されたジェシーとノエルは、レドナーの元に戻ろうとしていた。だが彼女たちの前には、見えない透明の壁が進む道を阻害しているようだった。無駄だと分かっていても、ジェシーは小さな手で訴えるようしきりに壁を打ち付ける。

「やっぱり、僕の魔法でも突破出来ないみたいです」

 魔力を込めて銃弾を放つノエルであったが、これも意味をなさず、壁はそれを跳ね返すだけだ。

「すぐ目の前なのに~! 邪魔〜!」

 夜空を仰ぎながら地団駄を踏んだジェシーは、ふと、暗い青色にはらりと浮かぶ桃色が目に入る。ぱっと視線を変えると、優しい風と共に桜吹雪が舞う。息を吹くみたいに桜が消えて、緊張が解けるような甘酸っぱい香りがした。

「お困りですか、お嬢さん方」

 明かりが灯るように、黄金色を纏った美しい男性が声をかける。その後ろからひょこっと、二人の美青年が顔を出した。

「え、ノエルさんがいる」
「あれっほんとだ!?」
「ソソくん、アンリーくん!」

 遅い足取りでソソはノエルに歩み寄る。ゆっくりね! と陽気に話しかけるアンリーも、彼の隣で一緒にやって来た。三人が話しているのを他所に、ジェシーは桜の男性に会話を持ち出した。

「絶賛大困り中なの。きみたちが来て解決するような問題かも分かんないけど……」

 ジェシーは男性に、透明の壁のことを説明する。男性はその壁に、手袋をはめた大きな手をぴたりと合わせると、何かを確かめるように周辺の壁も触り始めた。どこか腑に落ちたように頷くと、男性はジェシーに艶麗な笑みを向ける。

「私にお任せ下さい、恐らく結界でしょう。ソソさん、アンリーさん、お嬢さん方をお願い致しますね」
「うす、ジョジュアさん」
「え? なになに、どゆこと?」

 手短に了承したソソに着いていけず、アンリーは疑問符を浮かべる。ノエルを守るように庇うソソを見て、アンリーはぎょっと目玉を転がす。ぎゃーっ! と慌ててジェシーを包んで擁護した。
 ジョジュアは数歩後ろに下がり、身体の軸を整える。たん、と靴音が鳴り、優雅に回転しながら長い脚を伸ばした。足で刈るように、ジョジュアは透明な壁を力強く蹴る。蒲公英色が揺れて、春のワルツを踊るみたいな、華やかな後ろ回し蹴りであった。
 パリン、とヒビの割れる音がすると、見えない壁は忽ちに崩れて消え去った。きらきらと壁の破片が雨のように振り落ちる。ジョジュアはそれらとは比べ物にならないくらい輝く宝石眼を細めて、深く腰を折った。

「申し訳ございません、少々手荒な手段を取ってしまいましたが……参りましょうか」

 大切な人を迎えに行かなくてはいけませんから。

 上品に微笑むジョジュアは、先程の強引な行動なんてすっかり忘れさせてしまうくらい見目麗しい。それどころか、彼が起こす行動ならどんなことでも美しい、だなんて勝手に変換されてしまうのではないだろうか。耽美な絵画の世界から飛び出してきたような、絶世の美男にジェシーは愕然とした。

「美人って強ぉ~……」

 引き気味に褒め言葉を述べて、ジェシーは彼の桜吹雪に乗り込んだ。
 

◆◆◆


 さわさわと、笑うように山吹色の花弁が揺れた。ぽつんと、太陽を一途に見つめる花たちに囲まれて、足場が草や茎に絡まっている。じんわりと額に汗が浮き出て、己を見下ろす陽の光に、異なる二色の瞳を重たくした。

「……あら、どうしたの?」

 向日葵畑に、誰かが佇んでいる。こちらを心配するように声をかけてきた女性は、大きな魔女帽を押さえながら、ふわふわと伸びた濃い橙色を風に乗せていた。

「馬鹿にされたんだ。僕の努力を、誇りを」

 ぐっと拳を握りしめて、唇を噛みながら表情を歪ませた。悔しくて堪らない。けれど、馬鹿にされることにどこか納得してしまう自分もいて、より悔しさが広がっていくばかりだった。自分にはこの誇りである、魔法しかないのに。もしこの子を奪われてしまったら、どうしよう。使い物にならない馬鹿だと、また罵られるのか。そんなの、絶対にごめんだ。

「どんな子に馬鹿にされちゃったの?」
「大嫌いな奴! 僕より歳上のくせに、大人気なくて本当に最悪!」

 すました顔に薄っぺらい笑顔を貼り付けて、腹の底を明かそうとしない、自分より少し歳上のあの男。彼の顔を思い浮かべるだけで腹立たしい。

「うーん、そうねぇ……」

 朗らかな声を悩ませる女性は、あっ! と両手を合わせて、思いついたみたいに問いかける。

「もしかしたら、貴方が羨ましかったのかも」
「えぇ? どういうこと?」

 そばで生命を漲らせる向日葵に触れながら、女性は己を見つめるとにっこりと微笑む。

「貴方の頑張る姿が、お星様みたいに眩しくて、つい酷いことを言ってしまったんじゃないのかなぁ」

 えへへ、とどこか嬉しそうに笑って、女性は言葉を続けていく。

「自分が嫌だなぁと思う人のことを考えるのは、とっても難しいけど……その人にも貴方と同じように、見えない心の傷を負っていることがあるの」
「心の傷……?」
「そう、心の傷。その人は深い傷を誰にも見せられなくて、溢れちゃったの。その溢れた分が広がって、貴方にも悲しい気持ちをさせてしまった」

 ふと、自分の心臓に手を重ねてみた。長閑な心音が肌に伝わってくる。
 この女性の言うことに、自分はあまり賛同出来るものではなかった。都合のいい、綺麗事ばかり並べているからだ。傷をつけてきた相手のことを、どうして考えようとするのだろう。それでは、傷つけられたこちらは一向に報われないじゃないか。あちらの事情なんて関係がないのに、一方的に刃を差し向けてくる人々に、赦しを与えろと言いたいのか?

「自分のつけられた傷を、他人にもつけたら駄目じゃないか」
「うん、そうね」

 己の考えを見越したように、女性は落ち着いた様子で返答する。

「この世界には、断ち切れないものが沢山あるわ。わたしは、そういう『負の連鎖』が無くなって欲しいと願っているの」

 ほんのりと切なさを滲ませて、女性は花から手を離した。

「だからね、もう少しだけその子のこと、考えてみて欲しいの。勿論、貴方は神様じゃないから、全部を許してあげてなんて言わないわ」

 にっかりと、燦々と煌めくお日様みたいに、女性は明るい笑顔をこちらに満遍なく照らした。彼女の顔は、太陽から零れた光でよく見えなかったが、その眩しさが己の拗れた心を溶かしていく。
 彼のことを考える、か。一度たりとも考えない、だなんてことは無かった。あの青年の行動には、何か引っかかるものがあったから。特に自分のことを馬鹿にしてきたあの時だ。心の内をひた隠しにしていたようなあいつが、こちらの意見も聞かないで言葉を責めてきて、馬鹿みたいに悲しそうな顔で呪術を発動させたあの瞬間。やけに嫌悪感を覚えていたが、段々とその理由が分かってきて、わっと声を出した。
 そうか、そういうことかもしれない。自分の要領の悪い頭でも、理解出来ることがある。よし、と喜ぶ己に、女性は穏やかに綻んだ。

「これなら、僕にでも出来る。負の連鎖とやらを、断ち切ってやれるかもしれない」
「うんうん! 流石ルシアス、天才魔法使い様ね!」
「ふふん、そうだろう、そうだろう!……ん……?」

 女性はルシアスの名前を、まるで知っていたかのように呼んだ。自分は彼女のことを、知らないはずなのに。彼女のぬくもりで満ちた橙色の髪がふわりと靡いて、向日葵の花びらがぱらぱらと小雨のように気流に連れられ舞い散った。

「君、なんで僕のことを……?」
「あら? おかしなことを聞くのね」

 くすりと、芽生えに水が弾くみたいに女性は頬を緩めた。


「だって、貴方はわたしの――」


 ぼとり。

 黄色の花弁が宙に浮いて、ひらひらと落ちてゆく。その様子をルシアスは目線で追うと、地面に力なく横たわった向日葵の頭が目の前にあった。

 ぼとぼとぼとぼとぼと。

 己を取り囲んでいた花々が、がっくりと首を落としていき、次々に頭がちぎれていった。足元に一面と染まる山吹色が、生命を吸い取られるように色褪せていく。鮮やかな新緑を伸ばした茎が、自分の足にがっちりと絡みついてきて、それに棘があることに気づいたのは、ちくりと痛みが走ってきてからだった。蛇のように巻き付く茨が、己を地の底へと吸い込もうと、引き摺る力を強めた。ルシアスは自分の身も厭わず、あの女性に忠告しなければと辺りを見渡す。けれど、彼女は何処にもいなかった。お日様みたいに、己の心を溶かしてくれる、可愛らしくて優しいあの人。

 ずるりと、身体が浮いて、深い穴に落っこちた。


「おいっ! 大丈夫かルシアス!」

 ぺちっ! と頬に容赦のない刺激が痺れを起こす。鼻腔にツンと鋭い香りが届いて、近くにマゼンタとオレンジで彩られた指先が見えた。

「んぁ……? 師匠……?」
「うおっ生きてる! はー良かったぜ……」

 くせ毛の一本も見当たらない、さらさらの茶髪がゆらめく。ルシアスの安否を確認して、ほっと息をつくマナロイヤがそこにいた。

「うわっなんでいんだよジジイ!? 気安く触るんじゃないよ!!」
「誰がジジイだとこのチビガキが!! 俺はお前が行方不明だって聞いて探しに来たんだぜ!?」
「うるさっ!! ほんと無駄に声がデカイんだよ!! そっちだってチビだろうが!!」
「こんな美声腹から出さなきゃ勿体ねぇだろ!! あと俺はどんな身長でも格好いい!! 俺は俺の全てがマジに好きだ!!」
「ウッッッザいなもう!! 黙ってく……ッ!」

 さも小型犬同士の吠え合いのようにいがみ合う二人であったが、突然ルシアスが右目を押さえて、ずきりと響く痛みに眉を顰めた。

「! その目……!」

 でろりと柘榴色の瞳から血が流れ落ちていて、それを見たマナロイヤは、美しく英俊な顔立ちに珍しく焦りを深めた。ばっとルシアスの手をどけて、暖色で染まった指先が目立つ手を右目に被せる。ふんわりと魔力が溢れて、瞳にあった痛みは吸い取られるように消えていく。頬についた血を、マナロイヤは長い指で拭ってやると、どこか冷厳な面持ちで質問をした。

「何か変なこと、思い出さなかったか」
「……? いや、特には……」
「そうか、ならいい」

 きらりと光沢の渡るルシアスの柘榴色に、マナロイヤは瞳を伏せる。

「あ!!!」
「うおいっ次はなんだよっ」

 己に劣らない声量を出して目を丸くするルシアスに、頭上に盆でも落とされたようにマナロイヤは衝撃を受ける。

「そうだった、あいつに言わなきゃならないことがある!」

 ルシアスの脳裏に、林檎色の瞳を持つ彼が浮かび上がる。ぱっと慣れた動作でカラフルな箒を出現させると、ルシアスは小柄な体を乗せて、マナロイヤが開けて入ってきたであろう窓から身を乗り出した。

「ちょーっ待てどこ行くんだよ!」
「僕の勝手だろう! じゃあな!」

 流星の如く、ルシアスは夜の世界を泳ぎ去っていった。そんな魔法使い見習いの背を、マナロイヤはやれやれと肩を竦めて見守る。

「まぁ丁度良いか」

 ぐわんと、棚やシャンデリアが傾いて、館中が揺れた。マナロイヤは体幹を崩さず、至って動じることもない。こうなることを、知っていたみたいに。

「ったく、ガキのくせにしぶといんだな」

 ――なぁ、死神くん?

 ぱちん、と指を鳴らす。マナロイヤの紅玉の瞳が、暗く色を落とした。それは、魔法の合図か、呪いの合図か。


◆◆◆


 閉ざされた扉と共に、全身の力が抜き取られるようにレドナーは座り込む。どんどんと煩く内側から叩かれて、ぐっと胸元を手のひらで握り潰す。滴る汗が瞳に滲んでいくのも厭わずに、床に這いつくばってタンスに手をかけた。銀を浮かべて、血液が錆びついた一本のナイフを掴む。どくどく鳴る鼓動の根源に近づけて、安心したように表情を柔らかくした。

 ようやく、この日が来たんだ。

 ふ、と哀愁を残した微笑みを湛えて、瞼を閉ざす。ゆっくりと、心臓にナイフを突き刺そうとした。
 けれども、左手の薬指がまたきらりと輝いて、誰かに手を引っ張られるように、ナイフが弾かれてしまう。

「……何、故……」

 指輪に問いかけても、何も返ってきやしない。はっと気を取り戻して、よろよろとナイフを拾おうとした。
 その途端、伸ばした左手に煌めく宝石がぐにゃりと光を失って、段々と黒いシミを広げていくのが見えた。やがてそのシミは、駆け上がるようにして己の腕に絡みつき、身体を支配してまとわりつく。

 あぁ、そんな。

 痩せこけた指先をじんわりと伸ばすが、視界が闇に染まっていって、心苦しく瞳を歪める。ぐわりと落ちていく腕を、桃色を溶かす誰かが掴もうとしている気がして、おぼつかない指を動かした。

 ぷつりと、糸が切れて、世界が真っ暗に堕ちた。
13/22ページ